半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

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自然の流れの中で

2022年3月14日(月)

名古屋鉄道株式会社 知多半田駅長 浜田 章裕氏


 街の顔とも言える駅にはそれぞれ歴史があり、格がある。名鉄線で主要駅の知多半田駅の駅長ともなれば、周囲から熱い視線が注が
れ、期待を一身に集める。
 「美浜町生まれの私は、知多半田駅は高校生時代に通学で慣れ親しんだ駅です。入社した時には想像もできなかった名誉をいただき、恐縮しながらも、みんなが明るく楽しく勤務出来るような環境を整えていこうと思っています。こうしよう、ああしようという確固たる目標を持つのではなく、自然の流れの中で自分の役割を果たしていこうと思っています。今までずっとそういう気持ちで働いてきました」
 高校卒業後、様々な職場で働きたいと、グループ会社を持つ名古屋鉄道に入社。河和駅に勤務し、車掌、運転士というコースを歩い
た。その先は鉄道現場で定年を迎える人がほとんどという中で、30歳前に沖縄事業部のホテル黒島マリンビレッジ勤務への辞令が下っ
た。八重山諸島の一つ黒島は牛とウミガメが有名で、人口約220人、3000頭を越える牛のいるのどかな島である。
 「その頃はスキューバダイビングに熱中していたので、いつでもダイビングができると喜びましたが、忙しくて楽しむ時間はありませんでした。前任者が退職した空席を埋めるために配属され、手探り状態からのスタートでした。名刺は支配人でしたが、営業からお客さまの送迎まで何でもやり、最初の頃の睡眠時間は3時間ほどでした。早く休みたい時もありましたが、夜になれば島の人が集まってきて酒盛りが始まりました。体はいつも疲れていましたが、とても楽しかったですね」
 全くゼロからのスタートで、ベッドメイキングなどはアルバイトの方に教わった。知らないことを教わるのは当たり前。立場に囚われることなく、新しい世界を見たい、学びたい気持ちが強く、何事にも貪欲に取り組んだ。後に本社での厚生担当(社員向けのイベント企画等)、名鉄病院での医療事務、労働組合の専従を経て、鉄道の現場に戻るという異例のコースを歩むが、どんな部署に配属されても動じることなくその職場に溶け込んできた。
 「黒島で新しい世界で学ぶ楽しさ、知る喜びを体感したことがその先の仕事の仕方になり、新しい仕事に向き合う不安より、楽しさに胸躍らせてきました。そして、入社時に教育センターの先生から教わった『ありがとうございます』という言葉を使ってきました。『ございました』ではなく、これからも続きますようにという想いを込めて、『ありがとうございます』この言葉を大切にしてきました。鉄道現場には、開設して数年後の中部国際空港駅に駅長補佐として戻ってきました。以来、私自身がお客さまから声をかけていただきやすい雰囲気づくりを心がけてきました。立ち姿ひとつにもそれは表れると考え、テレビで見るデパートやホテルマンの腕の位置や足の開き方などをお手本にしてきました。空港駅は電車をあまり利用されない不慣れなお客様や、海外のお客様が多かったですね。外国のお客さまには英単語を並べてご案内しながら、冷や汗をかいていました。通じていたのでしょうか(笑)」
 後、中部国際空港駅副駅長、常滑駅長を経て、1年前の3月に現職。人が行き交う場所である駅は、そこに働く人の笑顔が和やかな雰
囲気を醸し出す。その環境を作るため、時には黒子に徹し、後方から支援の手を差し伸べる。自身の経験から励ましの声をかけたり、厳しく指導することもあるようだ。
 「どちらかと言えば気が短い方で、すぐに怒ってしまいそうな自分のことは分かっていますから、丁寧に静かに話を聞くように自制しています。そうだからでしょうか、かつては『怖い人』という噂もあったようですが、そんなことはありません(笑)」
 様々な部署での多様な経験は知りたい、学びたいという知識欲を満たしてくれた。そして、大きな武器となり各部署で開花した。それは努力の証でもあるが、持って生まれた大きな武器は『若白髪』と笑う。今は見事な白髪となっているが、初対面の方からも覚えていてもらえて、声をかけていただけることも多いそうだ。
 「子どもが保育園でお父さんの絵を描いた時も髪の毛はグレーになっていました(笑)。この頭髪は、自然の流れの中で生きていく私そのものと思っています」

●ちょっと一息●
例え、病気をして明日から動けなくなってしまっても『こういう運命だった』と思うようにしています。あるがままを受け入れていく覚悟をいつも持ち合わせています。妙に悟ってしまったような考え方をしてしまうのも、自然体で生きてきた母の影響と、中学時代の出来事が深層にあるからでしょうか。
 中学3年生で部活中(野球部)に頭をうち、頭痛との闘いの日々が続き入退院の繰り返し。高校時代には運動禁止に。体を動かすことが大好きだった私には過酷な日々でしたが『あるがままを受け入れていく』『自然の流れの中で生きていく』と思うようになった時期でした。その反動か、社会人になってからは弾けるように野球、スキー、スキューバダイビングなどに熱中しました。
 社会人として大きく成長させてくれた黒島へは離れてからも何度か訪れていますが、父が遺してくれた田畑で米やみかんの栽培をするために、この数年間は島民のみんなに会いに行けない状況が続いています。仕事と農作業、暇なく動いていますが、体を動かすことが好きな私でも年齢とともに少しきついなと感じることが多くなりました(笑)。
 そんな時に慰めてくれるのが愛犬です。足の悪いトイプードルを引き取って、『クララ』と名付けました。今では家族の中心はクララです。服の中にクララを入れて一緒にテレビを見る。そのひと時が一番の幸せです。

1963年美浜町生まれ。82年愛知県立半田工業高等学校卒業。
同年名古屋鉄道(株)入社。知多半田幹事駅、神宮前乗務区、沖縄事業部、厚生担当(本社)、
名鉄病院を経て鉄道現場に。中部国際空港駅、常滑駅、2021年現職。美浜町在住。当所議員。



至誠一貫

2022年2月10日(木)

株式会社誠電社 代表取締役 小川 洋之氏

末っ子の長男(姉2人)として生を受け、両親から後継者として期待された。だが心中は穏やかではなかったと言う。家業だから、長男だからその道を歩くことは腑に落ちなかったと振り返る。
「自然の流れで家業に入社し、年齢を重ねるうちに後継者としての意識が芽生えてきました。入社当時はパチンコ屋の電気設備や照明の施工などが多く、早朝から深夜まで激務の連続でした。工場等の稼働時間外の仕事もあり、休日やお盆も関係なく働いていました。仕事は厳しくて辛いこともありましたが、現場は自分だけの世界で仕事に没頭でき、気楽でした。その時の僕にあっていた仕事だったと思います」  
30歳半ばで、仕事も営業やお客さまとの調整など現場から徐々に距離を置き始め、取締役に就任した。その頃から少しずつ仕事に対し
ての意識も変わり始めたようだ。  
 「役をいただき、僕自身が変わったかなと自覚をしているのはお客さまとの接し方ですね。言葉遣いを気にして、ちょっと緊張しています(笑)。同時に仕事に対する姿勢も変わったかもしれません。亡き父は仕事が趣味のような人で、仕事漬けの毎日でした。僕はまだそこまでの域には達してはいませんが(笑)。現職に就いてちょうど1年になります(2021年2月就任)コロナ禍の真っ只中で、不安しかない中でスタートしました」  
 3代目社長として、責任や英断を求められ、社員を守る立場になった今、立ち位置を認識しながら考動する。新入社員として入社した時は社内で一番の若手だった。取締役に就いた時もそうだったが、現職になった今は、かつて教えを乞うた諸先輩たちに陣頭指揮を執る中で、自問自答する。  
 「僕の性格から仕事はお願いするという気持ちでしたが、今は指示し、後々は命令するような立場にならなければと思っています。遠い道のりです。現在はコロナ禍の中で、部品等の入荷に時間がかかり納期遅延が多く頭の痛い日が続くなど、色々な課題がありますが、ストレスはたまりません。基本的に悩まないんですね。頑固なこだわりはないのですが、僕には僕の道がある、そう思っています。ストレスに強いのか、能天気なのか(笑)。そこが僕の長所であり、自慢できる点だと思っています。よく3代目云々と言われます(笑)、お客さまの新規開拓、安全第一に職場環境を整えて従業員が働きやすい職場作りに尽力し、さらなる会社発展を目指します」  
 新たな目標に向かって挑戦する日々だが、同社には創業以来変わらぬ精神が息づいている。社名に使われた『誠』に由来する『至誠一
貫』は経営理念にもなり、その姿勢で仕事に向き合う。先代たちがそうであったように頼まれたら断れないのは血脈のようで、電気が止まったなどの緊急事態の対応も度々のようだ。  
 「即日対応を心がけています。その日に対処できなくても、一旦は顔を出し状況を把握するようにしています。突然の連絡に休日の予定を立てることもできませんが、そういう仕事と覚悟しています。若干ボランティア的な気もしますが、先々代、先代の『地元に感謝』という想いを引き継いでいきます。その延長線とも言えるかと思いますが、恩を受けたら恩を返す、無理をきいてもらったら、たとえ忙しくても無理をきくなど、ちょっとイメージが悪いのですが、僕流に言えば、『やられたらやり返す』(笑)ことが大切だと思っています。キレイな言葉で表現できませんが、そこに至誠一貫の精神が息づいていると思っています」
 人情に厚いことも受け継いだ血脈の一つなのだろう。家業だから、長男だから後継者になる。それも先代たち、地元に感謝した自然の
道だったようだ。

●ちょっと一息●
半田青年会議所を卒業して入った半田商工会議所青年部、いずれも誘われて入会したのですが、僕の学びの場所でした。
年齢層も色々、多様な職種の人たちと接し、仕事の配分がスムーズにできるようになり、時間の使い方が上手くなったことは大きな財産になりまし
た。僕自身、そういう団体に所属することはボランティアとか、社会貢献につながるという風には考えていませんが、人としても地元の人たちとのパイ
プは太くした方が良い、同期や同年とは何よりも得難いものだと活動を通して実感しました。
 商工会議所青年部活動での印象深いことは、メンバー全員を紹介する冊子『大縁』 を作る委員会に所属した時です。この時代が今の僕を作ってくれたと感謝しています。
 今は諸団体から卒業して自分の時間が作れるようになりました。好きなサウナと麻雀、夜の散歩を楽しんでいます。そんな時にも青年部時代のことを、ふと懐かしく思い出すことがあります。 

1974年半田市生まれ。93年東海工業高校卒業。同年入社。2021年現職。半田市在住。当所議員。



接客業は天職

2021年12月9日(木)

森田木工株式会社 代表取締役社長  藤井 国子氏

『藤井さんいますか?』と、入店して来るお客さまが絶えない。現職に就いて2年になるが、笑顔で明るく、ウイットに富む接客は社内でトップセールスウーマンとして35年余のキャリアを誇る。 
 「今も私を販売担当者と思われているお客さまもいらっしゃるのではないでしょうか(笑)。売り場で直にお客さまの声を聞くことで的確なニーズを把握でき、同じ売り場に立つことで社員の気持ちも理解できる気がしています。当社は1953年に木工職人の父が、母と共に始めた家具の製造販売が原点です。時代の流れで小売業に移行し、地域の皆さまのご要望に応え、現在の業態に変化してきました。私は結婚式場でブライダルコーディネーターとして勤め、結婚直前に当社に入社しました。接客が好きで(今は天職と思っています)、両親が縁戚者に助けられ一生懸命に働いている姿を見て、私も子育てをしながら両親を支えたい一心でした。婚礼家具、輸入雑貨、寝具など、私が扱う商品も時代の要請で異なりましたが、いつも現場に立っていました。2年前に思いもしなかった代表者になり、当初はプレッシャーに押し潰されそうになりましたが、私の使命は両親が育ててきた会社を次代につないでいく橋渡し役と割り切ったら、気が楽になりました。創業当時から貫いてきた地域密着、お客さまのニーズに応える精神を受け継ぎ、しっかりつないでいきたいと思っています」 
 就任直後、コロナ禍が重くのしかかる中、SDGsの実現、エシカル消費(※)など、社会が企業に求めるキーワードが次々と生まれた。それを意識し、健やかな暮らしを送っていただくことで社会貢献をしたいと模索していた時に、『大高酵素浴』と出会った。 
 「私どもの酵素浴は正確には『おがくず酵素浴』です。酵素のパイオニアの大高酵素におがくずを混ぜて発酵させて70℃くらい(体感温度40℃前後)まで温め、その中に20分ほど埋まって温まります。化学燃料や電気などは一切使わず自然発酵で温度を上昇させるので、環境保護の観点からもとてもエコなんですよ。昨年12月に大高酵素浴『森のくまさん』としてオープンして以来、私も利用していますが、免疫力アップ、デトックス・ダイエット効果(私は5、6キロ痩せました)等、嬉しいことずくめです。お医者さまのアドバイスを受けながら、社員共々、実証していますが、健康になった、痩せた、肌がきれいになったと好評です。男性社員も美意識が高くなりました(笑)。ぜひ、ご利用ください。半田市地域振興券も使えます」 
 現場に立ち35年余という実体験から、『〇〇さんだから』と購入につながるような人脈作りの大切さを説く。同時に社員に対して温かい視線を向ける。 
 「毎日フロアを歩き回っています。スタッフの顔色を見て、体調万全?何か言いたいことがある?と、寄り添うように心掛けています。社員教育は子育てと同じで、その人の良さや得意分野を見極め、適材適
所で力を発揮してもらっています。亡き母は気配りに長けた人で、誰にでも平等であり、メーカー・社員あっての当社、お客さまあっての当社という姿勢を崩しませんでした。私も尊敬する母の教えを守り、そういう人でありたいと思っています。幸いなことに母の血を引いたのか、その人の良い所を見つけるのは得意で、今では特技となっています」 
 慣れ親しみ愛した職場で『生涯、販売員として働こう』と心に決めていたが、社長就任という思いもしなかった展開に戸惑いながらも、代表者としての決断を求められては『正しかったか?』と自分の判断に悩
み、眠れない日も過ごしたこともあったと言う。 
 「社長業も子育てと重なり、自分が周りに支えられながら親になってきたように、周りの人たちに助けられながら、社長初心者の私は社員
に育ててもらっています。あと数年経ち、還暦を迎える頃には“成長した社長”として花開きたいですね」

※エシカル消費…消費者それぞれが各自にとっての社会的課題の 解決を考慮したり、そうした課題に取り組む事業者を応援しながら消費活動を行うこと

●ちょっと一息●
父が家具を作る度におがくずが出て、まだ幼かった私は姉と一緒にそのおがくずの中に埋もれて遊んでいました。そのおがくずと出会い、大高酵素浴『森のくまさん』をオープンしたのも深いご縁を感じています。木工工場から産業廃棄物として出るおがくずは焼却処分をしていた時代もありました。そんな産廃物を酵素浴に再利用し、さらに使用したおがくずを畑の肥料として再々利用して土に還します。循環型社会の一役を担っていることも嬉しいことです。 
 子どもの頃から両親には「将来みんな一緒に会社をやっていってね」と言われていたので、家業に関わるのは自然な流れでした。嬉しいことに昨年の10月からは長男も両親の意を汲んで入社してくれました。金融機関からの転職で戸惑うこともあるようですが、当社には家具の修理を手掛けたり、売り場を熟知しているレジェンドがいます。そういう方々に助けていただきながら、後継者として家業発展に尽力して欲しいと願っています。 
 私に一番影響力を与えてくれ、決して超えることの出来ない母は残念ながら亡くなってしまいましたが、我が家の隣に住む父は今も時折会社に顔を出して私を支えてくれています。偉大な両親に感謝してもしきれません。

1965年半田市生まれ。85年愛知女子短期大学経営学科卒業。同年、高砂殿名古屋駅前店入社。86年同社入社。2019年現職。半
田市在住。当所議員。



仕事は楽しく!日日是好日

2021年11月17日(水)

日本通運株式会社半田支店 支店長 嶽見 典男氏

『木曽路はすべて山の中である』中津川市馬籠を故郷とする島崎藤村の名作『夜明け前』の書き出しである。氏もそんな山々に囲まれ御嶽山を臨む村(現在の木曽郡木曽町)で生まれ育った。そのため海への憧憬が強く、海を見ながら仕事がしたいと、東京、横浜、神戸等の五大港に拠点を持つ同社の国際輸送事業部に入社した。 
 「名古屋国際輸送支店で、輸入担当者として荷物の通関手続き等に関わりました。私たちの日常生活の必需品や玩具、考えてもいなかったようなものまで輸入され、一番驚いたのは大量の位牌と白装束でした。海が見える現場に行くのが楽しみで、いそいそと出掛けたものです(笑)。名古屋港、四日市港、豊橋港に勤務し29年ほど望み通り常に海の近くで働いてきました」   
 一貫して机上での仕事だったが、時間が許せば現場に出掛け、荷物の積み下ろし等を手伝った。机上で考えた通りに仕事は進まない。実際に携わることによって、より的確に仕事を理解し成果が現れることを体感した。同時に一緒に汗を流すことで、互いに親近感が生まれ信頼関係が保たれることも実感した。それは元来、体を動かすことが好きということもあったが、会社の業績を上げるための根幹である現場を尊重した姿勢でもあった。
 「当社はトラック・陸上輸送、引越し、倉庫業等の関連会社があり、社内の様々な部署や関連会社への出向を通じ、会社全体の主要業務に関わる機会を得ました。海外引越業務にも携わる関連会社を経て、半田支店への赴任は昨年の10月でした。ここは引越し、陸上輸送、鉄道コンテナ、衣浦港に関わる海の仕事と多岐にわたります。今までそれぞれの仕事を少しずつ噛ませてもらい、経験してきたことを参考にして対策を考えることができ、恵まれた職歴と感じています。何にでも首を突っ込んでいくタイプで、やってみたい、見てみたい、聞いてみたいという想いが伝わり、色々な部署に回していただけたのかもしれません(笑)」 
 上司や同僚、部下などから困った時に手を差し伸べられ、人にも恵まれてきたと振り返る。立場上、年長者に仕事を依頼する難しさに悩んだり、その旺盛な知識欲故に熱くなりすぎることも時としてあるようだが、自分を律するように意識していると言う。 
 「そんなに気が長い方ではないので、出来るだけ冷静になりカリカリしないようにしています(笑)。仕事は一人では出来ませんし、助けてもらうことが多い中で、人間関係がキーポイントです。特に半田支店は少ない人数(40人ほど)で仕事を回していますので、みんなが輪になって協力し合っていくことが重要です。そして、何といっても一番大切にしたいことは安全です。就任時にも『安全第一』を謳いましたが、社員が元気に出社して笑顔で帰る職場が一番と考えていますので、怪我がなく毎日の仕事に向き合って欲しいと願っています。職場が上手く回っていけば、楽しく仕事ができ、コミュニケーションも密になり、業績は付いて来ると信じています。私自身、みんなと同じ目線で話し合うことを信条とし、ここで1年生の私は不安な時にはアドバイスをもらって
います」  
 『仕事は楽しく』は、上司からの言葉『仕事は楽しく、遊びは真剣に』に起因する。それには先ず自分が楽しく仕事をすること。そうすれば自ずとして周りの人も楽しいのではないか(その反対もあるのかなと苦笑するが)と、その言葉を心に刻み、今まで仕事に向き合ってきたと言う。
 「私自身、辛いと感じた仕事もありましたが、捉え方ひとつでどうにでもなるのではないでしょうか。辛くても終わった時には満足感や達成感を得ることが出来るかもしれないし、辛い中にも何か楽しいことを見つければ、仕事の仕方も変わってくるのではないでしょうか。難しいですが、ポジティブに考えるようにしています。私の座右の銘は『日日是好日』です。このような気持ちで毎日を送りたいと思っています」
 念願であった海を眺めての仕事。多忙な中で、生まれ育った山々に囲まれた風景に想いを馳せ、有り余る自然の中で育った心豊かな日々を懐かしむ。『ふるさとは遠きにありて思ふもの』のようだ。

●ちょっと一息●
 当社はグループ統一のブランドアイデンティティを決定し、持株会社「NIPPONEXPRESSホールディングス」として来年1月4日から新経営体制に移行します。それに伴い140年前から親しまれてきたマル通マークと別れを告げ、新しいロゴマークが誕生します。(新ロゴマークは英文社名NipponExpressの短縮形である“NX”をデザイン化し、フレッシュグリ
ーンとネイビーブルーの2色)子どもの頃から慣れ親しんできたマル通マークが見られなくなるのは寂しい気もしますが、今後とも既成概念に囚われることなく、新しい時代の流れに沿った意識を持って仕事に向き合い
たいと思っています。 
 個人的には、趣味はこれといってないのですが、釣りと登山、ゴルフと体を動かすことが好きです。故郷で暮らす母親を思い、帰れそうな時には帰省し、噴火前には御嶽山に登っていました。

1968年長野県木曽郡木曽町生まれ。92年名古屋学院大学経済学部卒業。同年日本通運(株)名古屋国際輸送事業部入社。名古屋港、四日市港、豊橋港に勤務し、日通名港運輸(株)代表取締役を経て、2020年現職。名古屋市在住。当所議員。





変えていくことを恐れず

2021年10月18日(月)

株式会社CAC 代表取締役社長  金澤 茂明氏

1979年5月5日、半田のまちは祭一色に染まった。半田青年会議所(JC)創立15周年の記念行事『はんだ山車まつり』を迎えた日だった。その興奮は映像として、まつり会場に足を運べない人々(病院や老人施設等)にも届けられた。JCメンバーで、アンテナの設置工事、電波障害対策工事等の会社経営の先代、金澤憲二氏(現会長)も会場から施設にケーブルを敷設し、その日に備えた。
 「あの日から41年、当時奔走した人たちの熱い想いを残そうと、昨年にドラマ『1979はじまりの物語~はんだ山車まつり誕生秘話~』を制作し、劇場版として今年11月に公開します。今や半田を挙げて行われる勇壮な山車まつりが起因となり、3年後にCATV愛知として設立した当社は、山車まつりと共に歩んできました。まつりが形を変えてきたように、当社もより地域の方々のためのケーブルテレビ局として、時代の要請に応じた取り組みをしてきました」
 長男として生を受け、テレビ受信機器等を扱うマスプロ電工を経て、家業に入社。ケーブルテレビ局(ひまわりネットワーク・豊田市)に出向し、後継者としてのノウハウを学んだ。営業と番組制作に関わり、営業担当者として新規加入者の勧誘と料金滞納者の回収業務に携わり、想像すらしなかった人間模様にも直面した。
 「お客さまから金銭をいただくことの難しさを存分に味わいました。企業としてはお支払いいただき成り立ちますが、人は色々な事情の中で生きています。そこをどう解決するか。そのつど提案させていただきましたが、あの時の対処で正しかったのか、今も思い出すことがあります。様々な場面に心が塞ぐようなこともありましたが、人として貴重な経験をさせていただきました」
 28歳で自社に戻り、様々な取り組みを始めた。入社当時は、社内では誰もが全般の業務に当たり、分野によってより深い知識を持つ社員は限られていた。打開策として会社の組織化を図り全社員のスキルを上げ、より深い専門性を追求し、社名も変更した。CATVはケーブルテレビの略語であり、今後は有線だけでなく、無線のインターネットの時代である。そして愛知というエリアを限定するのではなく、ニーズに応じた展開をするためにCommunity And Creativeの頭文字を取りCACとし、『地域と創造』を経営理念とした。
 「行動指針は『CHANGE AFTER CHANCE』です。新たな挑戦には何かしらの変化が求められます。変わることには時としてタブーも必要ですが、それをタイミングよく取り除くことで、『CHANGE』は『CHANCE』へと変わります。(『CHANGE』のGの一部【T】を取り除けば『C』となり『CHANCE』になります。『変化からの機会』行動指針の頭文字もCACになり、そんな言葉遊びも楽しんでいます)社員には物事を変えていくことに、恐れを持たずに取り組んで欲しいと思っています」
 その言葉が示すように、電気・ガス、インターネット、モバイルサービス等、生活が合理的になり豊かになるサービスを提供している。令和元年には知多信用金庫、半田中央印刷と共同でクラウドファンディングを立ち上げるなど企業支援や、地域活性化につながる事業の支援にも尽力し、様々な時代の要請に応え、今年度の当所の創立記念行事『優良会員事業所表彰』を受賞。さらに、昨年はある意味、対局の立場にあるとも考えられるYouTubeチャンネルを開設した。
 「YouTubeは主に若者世代が情報を得ているスマホで見ることが可能です。そこでは番組宣伝を流し、気に入ればケーブルテレビを見ていただく流れを想定しています。また、現在は半田、阿久比、武豊(一部)のエリア限定のテレビ局ですが、スマホは日本中で見ることが出来ます。半田で生まれた当社が半田をご紹介でき、今まで育てていただいた恩返しも出来るツールだと思っています」
 2代目社長として8年、試みは正解かと自問自答する日々。先代から『経営者は孤独だ』と言われた言葉をしみじみと感じていると言う。
 「責任は全て私、だから面白味はあり、追い込まれていく自分を楽しむ余裕も生まれました。ただ誰もがこのような経験をできる訳ではありません。重責であり、苦労はつきものですが、この機会を与えてくれた先代に感謝しています。山車まつりが誕生し半田が変わっていったように、当社も半田がより住みやすいまちになっていくようなお手伝いをしていきたいと思っています」

 
●ちょっと一息●

地域の方々が登場するドラマを創りたいと構想を考えていた時、半田JCが上梓した『その時、半田の歴史が動いた:三十一台の「はんだ山車まつり」はこうして始まった』と出会いました。当時の最年長メンバーは40歳。41年経った今では生の声が聞ける歳月はそれほど残されていない。『時代を変えていけ』という想いを映像で残したいとドラマ化を決めました。主軸となるキャストは公開オーデションを経た知多半島の人、半田市内でのオールロケをし当局で配信してきました。
好評を得てこの度、劇場版として再編集と追加撮影をし、11月26日ユナイテッドシネマ阿久比で公開することになりました。順次全国で公開し、この映画を通して、はんだ山車まつりを全国に紹介したいと考えています。
 当社は来年創立40周年を迎えます。25年を迎えた年に一方が角丸の名刺を作りました。四半世紀ごとに角を丸くし、2082年の100周年を迎える年には角の取れる名刺になります(笑)。人間同様、会社も社歴を重ねて丸くなっていくのも良いのかとも考えていますが、変えていくことを恐れず『CHANGE AFTER CHANCE』の想いは不滅でありたいですね。
変えていくことを恐れず

1975年半田市生まれ。ビジネススクールを経て、95年マスプロ電工(株)入社。2000年CATV愛知(現CAC)に入社し、ひまわりネットワークに出向。03年自社に戻り、営業担当等。13年現職。日本ケーブルテレビ連盟所属。ケーブルテレビ情報センター理事。半田市在住。当所議員。株式会社CAC 代表取締役社長