半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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企業のお困り事解決に 全力でお手伝い

2023年9月1日(金)

半田重工業株式会社 常務取締役 新美 勝規 氏

創業者(祖父君)の進取の気性に富んだ血脈は、脈々と受け継がれてきた。自社に入社して20年余。既成概念にとらわれることなく、や
りたいこと、できることをやろうと、氏もまた、受け継いできた気骨を遺憾なく発揮する。
 「大学卒業後に当社の取引商社を経て、自社に入社し1年ほど豊田自動織機に出向しました。将来を見越して勉強の日々でしたが、人脈形成のために外部研修を常に受けていました。主要取引銀行の製造業対象の研修会は、20代の参加者は私ひとり。キャリアを積んだ諸先輩方の話についていけず苦労もしましたが、貴重な学びの機会になり、経営についての相談相手がいたことは心強かったですね。今もその研修会に参加していますが、同世代の参加者も増え、歳月の流れを感じています」
 知識を蓄えるため、人脈作りのために様々な研修会、海外視察に積極的に参加し仲間との絆を深めていった。後年、これらの繋がりが貴重な財産となり、多方面に亘って好影響を与えることとなる。昨年6月に製造業の困り事を解決しようと、企業と技術、企業と人材を繋ぐ、工業系特化型のオンラインマッチングサービス『FactorX』を立ち上げた。今までのご縁が繋がり登録企業者が半年も経たずに、受注者700社以上、求人情報1,000件以上という数を数えた。
 「1937年創業の当社は、10年後に豊田自動織機との取引を開始以来、フォークリフト部品と油圧シリンダーの専門メーカーとして、様々な部品・製品を製造してきました。お陰様で仕事は安定していますが、変化の激しい時代に既存の仕事を大切にし、新しい軸を作っていくことは必要不可欠なことと思っています。新規事業を始めたことにより、新しい人材、考え方、企業とのお付き合いが増えて、視野が広くなったように感じています。このことも私にとって大きな財産となっています。反面、失敗したら…という不安は常にありますが、祖父の手記に綴られている言葉『命まで取られる訳ではないから、一度の人生、やりたいこと、出来ることを頑張ろう』が私の支えとなっています」
 新規事業の課題はアイディアであり、新たなビジネスモデルは雑談から生まれて来ることを実感し、時には食べながら飲みながら『ビジネスに関する雑談』を交わし情報交換をする。また、ベンチャー企業の経営者と話したり、大学との共同研究を試み、既成概念にとらわれることなく柔軟な思考で、様々な人との繋がりを大切にしている。確かに受け継がれている。

 「当社は『ものづくりはひとづくり』『仕事の質は人から』という考えから人材育成にも積極的に取り組み、発言しやすい職場づくりに努めています。それは業務改善にも繋がり、工場内では、いつもどこかで何かが改善されています。私は人の話を聞きながら『それもいいかも』とまずは自分なりに咀嚼して考え、どちらかというとパートナーと一緒に仕事を進めていくタイプです。そういう多くの人と接する経験からも人の持つ力の偉大さ、影響力を感じています」
 前社長は御母堂が務め(現会長)、今までの経験を踏まえた視点での改革が行われた。その一つに整理整頓に重きを置き、生産現場の安全衛生の改善に取り組み、労働災害が大幅に低減し生産性も向上した。それにより昨年、地域の中で安全衛生に関わる優良事業所として『愛知労働局長表彰 奨励賞』を受賞し、同社に大きく貢献し、進むべき一つの道を拓いた。
 「当社はシステム、人、設備の中長期的な安全管理の仕組みを構築しています。これらを地域社会と共有し、地域貢献をしていきたいと思っています。祖父
の手記は幾度も読み返していますが、色々な人に助けられて会社を存続できてきたことを恩義に感じていたようです。強靭な精神力を持ち、新しいことを違和感なく受け止め人との繋がりを大切にしてきた祖父には及びませんが、その血が流れていることを誇りに思っています。新規事業を通して、私も多くの人に助けられていることを体感し、改めて地域との繋がりを深
め、地域貢献も当社の使命であることを実感しました」
 今、やりたいこと、出来ることは『 FactorX』をより軌道に乗せるため、製造業の力になるためと、営業活動に尽力する日々を送る。東海3県下はもちろん、関西、北陸、東北にも足を延ばす予定だ。
 「それぞれの土地の風土、文化、四季を感じながら、次々と新しい人、会社と出会い、新しい考え方や知識を得る機会に接することはありがたく楽しいことです。食べ歩きが好きな私は、その土地で美味しいものをいただけるという素敵なオマケの時間も大好きです(笑)」
 創業者から一貫して『新しいモノづくりの未来へ』挑戦する精神は、確かに受け継がれている。

●ちょっと一息●
「当社に入社するまで地域との関係性は薄く、地元のことは殆ど知りませんでした。今年度、父も務めた雁宿小学校
のPTA会長になって初めて地域との繋がりが始まりました。学校には地域を山車が練り歩くなど独自の祭り『かりやど
祭り』があって、改めて地域との繋がりが強い学校だと認識しました。母校ですが、そのお役に就いて初めて認識を新た
にしました。来年は町内会長のお役目をいただきます。新たな出会いに今からワクワクしています。
 『真面目で堅そうに見えるのに話すとフランクですね』と度々言われます。ギャップがあるようです(笑)。私自身、既成
概念は少ない方だと思っています。それは幼い頃から半田市の姉妹都市の学生さんなどをホームステイとして受け入れ
たり、私も交換留学生として訪れた機会もあったという家庭環境にもあるのではと思っています。半田市が繋いでくれた
ご縁ですね。そしてその気質もまた、祖父から受け継がれてきたものかもしれませんね」

1978年半田市生まれ、半田市在住。2001年日本大学理工学部電子電気工学科卒業。(株)東陽を経て、03年同社入社。当所常議員。




立ち位置の重要性を学ぶ

2023年7月28日(金)

株式会社大清工務店 代表取締役社長 近藤 勝美 氏

 人生は選択の連続で、あの時のこの選択があって、がある。サーフィンを一生やっていこうとオーストラリアに行くばかりになっていた時に、結婚という第二の人生を選択した。アルバイト先で出会った夫人は、建築会社のご息女で3人姉妹の長女。夫人の背景を考えつつ、出勤前に海でサーフィンを楽しみ会社で現場監督として働き仕事に邁進した。
「結婚して2年後、義父(現会長)に仕事を手伝ってくれと言われ当社に入社したのと同時に、半田青年会議所(以下JC)OBの義父
に勧められ、JCに入会しました。私は名古屋生まれの名古屋育ち、地元とは縁がなく同世代とのネットワークを構築したいと入会し、多くのことを学びました。膨大な時間を使いましたが、何ものにも代え難い貴重な経験をさせていただきました。今の考え方や生き方をしているのも、JCに入会したからこそと勧めてくれた義父に感謝しています」
 様々な貴重な経験の中には、胃が痛くなるような日々もあったと振り返る。特に2014年理事長に就いた年は半田JC発足50周年の節目の年であり、日本JCの事業(世界の約70か国のメンバーが1週間の研修プログラムに参加)を主管する一大事業が控えていた。世界のJCは4つのエリアに分かれるが、その各エリアに大会PRのために赴いた。道中スピードラーニングを聴き発音を確認しながら、与えられた3分間でPRに臨んだ。7月に国内外140名ほどのメンバーが知多半島各所に集い、9月に周年事業という息つく暇もないほどのスケジュールをこなしてきたが、その間の記憶が全くないほどと語る。
 「私はメンタルが強いと思われているようですが、そうでもないのですよ(笑)。理事長時代は私はその場に行って挨拶をするという役割でしたが、現場のメンバーは本当に大変だったと思っています。それらの経験から、どんな難題にも対処できるようになり、自分の置かれている状況を的確に把握する必要性を学びました。今、自分はどういう立ち位置にいるかと確認し、その状況の中でどう動くかと常に自問自答をしています。また、人としての礼儀や思いやりを持ち、相手の立場に立った考え、偽りのない生活をしていれば、間違った方向には行かないと確信しました。私自身が営業活動にはそんなに熱心な方ではありませんが(笑)、そういう想いから自然に営業につながったということが幾度もあります」
 2017年、現職に就任した時も、先ず立ち位置を考えた。同社は初代の『大工の清治さん』が『大清工務店』を創業した。初代は現場、先代は営業畑、3代目として両方に関わる立ち位置にあると考えているが、営業的な動きの方が多いと顧みる。現場に出たい、そういう気持ちを抑えながら、業界や地域等に請われて多忙な日々を送る。
「JC時代に返事は“ハイ“イエス”と育てられましたので(笑)、頼まれごとは可能な限り引き受けてきました。『頼まれごとは試されごと』です。困っているなら協力したいと思うのは人の道だと思っています。私は長いものには巻かれてきて(笑)、体育会系なので、頭より体を使ってきました。出来る、出来ないということは別にして、先ずはそこに行って動くということを大切にしてきました」
 反面、自身が潰れないためには、時には依頼話が来ないように立ち振る舞うようにすることも必要だと思ったときもあった。だが、現実には断ることを良しとせず、今年の10月28日・29日両日に開催される『第九回はんだ山車まつり』でも重責を担っている。先輩JCが始めたはんだ山車まつりを守り伝える『半田山車祭り保存会』に事務局の一員として、当たり前のように誘われた。前回から本格的に関わり、今回の祭りでは要となる運行警備部長として運行ルートや警備計画の調整に飛び回っている。日夜あちこちの地区や保存会での話し合いが続き、それぞれの課題にぶつかることも多く、JC卒業後以来は遠ざかっていた胃痛が久しぶりに訪れたと苦笑する。
 「周りの人に支えられ、育てられてきました。今も半田ロータリークラブで、諸先輩方の教えを請いながら、週に一回の例会に出席しています。人に恵まれ、運の良い人生を歩んでいると思います。家内も一昨年、宅地建物取引士の資格を取り、グループ会社(セイワハウス)で働き、会社を育てるために二人三脚の日々を送っています。私の最大の任務は次代に繋ぐことだと肝に銘じています。『継続は力なり』と言いますが、本当にその通りで、続けることも大変なことですが、どれだけ繁栄した状況で次代に繋いでいくのか。それが重要なことだと思っています」
 自らに課した次代への継承、これまでの人生の選択の集約であり、立ち位置を自問自答した答えであるようだ。

●ちょっと一息●

「地域とつながろうと同年会に参加しました。その後、息子が地域の祭り『大獅子・小獅子の舞』で『ささら摺りの童子』をお受けしたので祭りに参加し、祭りは見るものから参加するものへと変わりました。それまでは酒が飲めない私は『祭りをやらないか?』と声がかかる度に、いつも逃げ回っていました(笑)。外から入った私は寄付集めや警備などの裏方の仕事に徹していましたが、そんな私に42歳の時に神祭長の役が回ってきました。小さい頃から祭りに親しみ祭りを熟知している同年の中で、お引き受けするのを固辞していましたが『勝ちゃんを支えるで、やってくれ!』という声に押されてその大役をお受けすることにしました。その年は長男はささら童子(長男・二男で6年間ささら童子をお受けしました)で、親子揃って祭りに参加した良い思い出です。
 一生続けていこうと思っていたサーフィンはJCに入会してから遠ざかっています。結婚記念日を刻んだサーフボードは青春の思い出と共に、今も床の間に鎮座しています」

1976年名古屋市生まれ、半田市在住。99年愛知工業大学土木工学科卒業。土木会社を経て、2007年同社に入社。17年現職。当所議員・建設部会長。



モノを売ることは人を売ること

2023年7月3日(月)

名古屋銀行半田支店 支店長   山口 秀樹 氏

 入行当初は口数は少なく、人見知りだったと、笑顔を絶やさず軽快な口調で語る。商いをしていた父君の懐に入り仲良く話す銀行員の姿に憧れ、地元に密着しながら貢献したいと同行に入行した。内勤を経て3年目に渉外担当となり、新規開拓の任務が下った。
 「訪問先のインターフォンを押したものの、どう話そうか?自信がなく立ち止まり引き返す日もあり、このまま勤めることが不安でした。最初の勤務地の瀬戸支店は『信用金庫』が地元に根付き、お客様と友達のように接する信金の方を羨ましく見ていました。時は転職率も高いバブル期、私も辞めようと上司に相談したら『楽しいこと、面白い仕事もあるから続けてみなさい』と説得されました。高校・大学時代はラグビーをやり、人とのつながりを大切にしていましたが、いつの間にか人と対等に話すイメージが描けなくなってしまって・・。鍛錬して慣れよう、やるしかないと言い聞かせ、試練の日々(笑)が始まりました」  
それぞれの勤務地で自身に叱咤激励しながら働き、2000年に精鋭陣が勤務する異色の店舗、大阪支店への異動になった。そこで働くことに躊躇したが、赴任後は見るもの聞くもの新鮮で触発されることが多く、水を得た魚のようだった。名古屋銀行という社名は所在が明確であり、訪問先に安心感を与えた。
 「大阪は名古屋と比べると何十倍もの企業があり、有名企業も多くあります。取引を始めるのは難しいかもしれないが、大阪に来た記念に(笑)、大企業の門を叩きました。企業の規模に関係なく商談するのは1対1であり、様々な業種を訪れれば広く学ぶことも出来、色々な情報もいただけました。度胸が付き、どんな会社へも飛び込みで行けるようになり、いつの間にか性格が変わったように思います。『やらされている』から、『考えてやらなければ成長はない』と実感するようになったのも、この大阪時代からです。『地位は人を作る』という言葉に納得したのも、この時期でした」  
仲間からも大いに触発された。一人一人が個人事業主のような熾烈な競争を繰り広げる職場であったが、営業成績を上げるという同じ目標に向かって進んだ。出始めたWindows95にも挑戦し、仲間の話し方、接し方を見本とした。そして営業手腕に王道はなく、自身のやり方が大切であり、『モノを売ることは人を売ること』という想いに到達した。本来持ち合わせていた『笑顔』は、初対面のお客様にも、好印象を与えたようで、大きな武器となった。
 「以後、愛知県内の色々な支店や本店に勤務し、2010年に島田支店の支店長になりました。私の入行当時は多くの行員の最終目標は支店長でした。私もそうでしたので、目標を達成した時は嬉しかったのですが、今は世の中の考え方が少しずつ変わってきているのではないかと思っています。預かり資産、相続相談、法人業務など、その道に特化したスペシャリストの道を最終目標とすることも、銀行員としての一つの生き方だと思っています」  
 2022年8月、支店長として6店舗目の半田支店に赴任した。働きやすい職場環境を作ることを第一とし、行員満足度を上げることが、ひいてはお客様のためになると断言する。業界を取り巻く環境や商品は、常に新しい時代の対応が求められている昨今である。一緒にゴルフをしたり酒を飲めばお客様の懐に入れた時代もあったようだが、今はお客様の求めている情報を的確に提供することが最たる仕事になっているようだ。以前は資格取得のための勉強、今は情報提供のための勉強と、勉強一つを取っても大きな差異が生じている。学びが仕事と直結し、気の抜けない時間を過ごさざるを得ない状況の中で、行員満足度を高めることの課題も多い。
 「電子マネーやキャッシュレス時代になり、いずれかは対面での仕事はなくなるかもしれませんが、最終的には人と人とのつながりが大切で、以前より感じている『モノを売ることは人を売ること』に尽きると思っています。ただ、若者のコミュ二ケーション手段がSNSやブログなどが主流となっているためか、顔を合わせての言葉でのやりとりは苦手かなと感じることはあります。若い行員に近づきたいと1歩歩み寄ると、2歩後退されている(笑)、と感じてしまうことはあります。世代間を埋める特効薬は見つからず、色々と模索中です」  
 若者の離職率も高い今、かつての自分が辞めようと思った時の姿を重ねる。その時に上司からかけられた言葉『名古屋銀行の仕事は楽しいよ。面白いよ』そういう想いを持ってもらえるような人材育成をすることが『最後の恩返し』であり、支店長の使命であると語る。振り返れば新入社員の頃、血気盛んだった頃、色々な悩みや苦しみ、愚痴をこぼす日もあった。だが入行36年目を迎えた今思うのは、口数は少なく、人見知りで、自信も持てなかった氏を、社会人として育ててくれた同行には感謝の念が尽きないと言う。
名古屋銀行を愛する人の真の言葉であろう。

●ちょっと一息●
「家内の実家、常滑市に住んでいます。最初は潮の香りが気になりましたが、今ではすっかり慣れ、町代をやらせていただき祭りの打ち上げにも参加し、住めば都という言葉を実感しています。電車での通勤時間1時間をフルに楽しんで、途中下車してはあちこちで飲み歩いていました。名古屋銀行は何かと理由を見つけて飲む文化があって(笑)、どっぷりとその中に浸かって楽しんでいました。今は飲むと翌朝は起きるのが辛いと感じることがありますが、飲んだら酔っ払わないといけないと思って(笑)、今日も頑張っています(笑)。  
 1歳になった孫がいます。男の人に懐かない子だったのですが、最近私と二人でいても泣かなくなったので、だんだん可愛くなって来ました(笑)。6月生まれの孫と私、一緒に誕生日祝いをしました。57歳違いの仲良しの二人です(笑)」

1965年名古屋市生まれ、常滑市在住。88年愛知大学経済学部卒業。同年名古屋銀行に入行し瀬戸支店勤務。93年小牧支店、2000年大阪支店、中村支店課長、守山支店副支店長、本部営業統括部、島田・蟹江・枇杷島通・刈谷・津島支店長、本部法人営業部を経て、22年現職。当所議員。



ご縁を大切に

2023年6月1日(木)

中部紙工株式会社 代表取締役社長 吉田 哲 氏

ご縁を大切にしながら道を拓いてきた。就活時(1987年)、同社に勤める隣人から「これから伸びていく会社」と薦められた。同社は2代目にバトンを引き継ぐ時であり、若き社長の補佐役を求めていた。それまでは大手企業を視野に入れていたが、同社の方針や想いに触れ『歯車になるより、自らの手で事を成し遂げたい』と入社を決意した。
 「若い会社(1960年創業)で、勢いがあり楽しく仕事ができる雰囲気でした。入社1年間は岡山工場で研修し、配属予定の関西営業
所が閉鎖したため、2年目からは本社(半田)で、社長の鞄持ちとしての日々が始まりました。仕入れ先のトップの方とお会いする機会も多く、『利は元にあり』という言葉通り、仕入れの重要さを実感しました。私は元々営業志望で、営業マンは売り上げが全てと考えていましたが、仕入れの大切さを理解し、『どのような営業マンになりたいか?』と様々なタイプの営業マンと接しながら、考え続けました」
 辿り着いた先は、マニュアルに頼りきらず、相手と一緒に悩みながら課題を解決し相手の立場に立った、人間関係に重きを置く営業スタイルだった。社長にお供した4年間は、営業マンとしての心構え(相手の望むことは何か?)、仕事の楽しさなど、ビジネスの基本を学んだ貴重な時間だったと振り返る。岡山・関東営業所で営業マンとして飛び回り、岡山営業所長時代には全営業所売上1位の名古屋営業所を追い抜くことを目標として、その悲願を達成した。
 「当社は業務用大型クラフト紙袋の製造・販売を主業務としています。この業界に限ったことではありませんが、同じような製品を作ることはどこの企業でも可能です。そこに品質、価格、そして営業力が加味されてお得意様となっていただけるのではないかと感じています。八方美人的かもしれませんが(笑)、どなたとでも気軽にお付き合いをしてきました。営業マンにとって必要な要素ではないかと思っています。今も各工場に行ったり、営業所の社員に同行しお得意様回りをしますが、動き回ることは私に合っています」
 アンテナを張って磨いた会話力とその資質が味方した。生まれ持っての好奇心の旺盛さは、新しい職場、出張、出張の連続の激務もにならなかった。むしろ1ヶ所に長く勤務するより、次々と新しい土地で働くことが性に合っているようで、常に新しい出会いを求めた。知らない土地で仲間やお客様と話し、食べ、飲みながら和気藹々と過ごし、行く先々でのご縁がつながった。まさに人対人の付き合いだった。本社への2度目のご縁が始まったのは2015年。営業部長として着任し、翌年取締役営業本部長、そして昨年6月に現職に就いた。
「前任社長は若く、そのまま続行されると思っていましたので、昨年3月の突然の社長要請に戸惑いながらの就任でした。特に昨年は原材料の高騰により1年に2回の価格転嫁があり厳しい決算結果になりました。そんな中での就任でしたので、全国に挨拶回りに伺った時に、皆さんから『大変な時期に、ご愁傷さま』と言われることも多かったですね(笑)。就任後は前社長の方針を守ることが精一杯で、今振り返ってもこの1年間の記憶がないほどドタバタしていました。今、やっと気持ち的にも落ち着いたような気がしています」
 2年目を迎えた今期は営業利益の黒字を第一目標に、営業畑で培ってきた人脈や知識を活かして新規開拓しシェアアップを図る。同時にコンプライアンスの徹底、安全(労災ゼロ)厳守、人材育成、生産面でのロス率の軽減と課題は山積している。
 「営業畑を歩いてきて売ることが最優先で、経営や管理部門は門外漢でしたので、今は学ぶことばかりです。課題に追われる今、『経営者は孤独』という言葉が身に染みています。大好きなお酒を飲んでいる時も、仕事上の愚痴は言えませんからね(笑)。若い頃は飲みにいけば、仲間と一緒になって上司の愚痴を言ったりしてストレスを発散していました(笑)。楽しくいい時代でした。ただ私は、悩み続けているのではなく、やるしかないと、その辺りの切り替えは早い方だと思っています。一晩寝たら、心機一転ですね。また、一言の重みも実感しています。今までは多少の失言をしたとしても、背後の社長が支えてくれていました。でも今は私の一言は会社の言葉す。この1年間で、その責任の重さを痛感しました。話し好きの私も、少し無口になったのかもしれません(笑)」
 人対人との付き合いを重要視し、自ら働きかけてきた。それは『よそ者だったからかもしれない』と自己分析する。勤務した岡山(大阪から西日本地区)関東営業所(北関東地区)は広域をエリアとし、文化、習慣、風習がそれぞれ大きく異なり、新天地に赴いた時には戸惑いもあっただろう。だからこそ、その土地の違いを積極的に楽しんだ。
 「そこに長く住むか住まないかということではなく、その土地に住んでいる間はその時々を楽しく充実した時間にしてきました。よそ者意識を持っていたのでは何も始まりません。自ら人との出会いを求め、こちらから話しかけてきました。そうすると自然にご縁は始まり、つながっていきます。たまたま隣に座った人と仲良くなる。それもご縁だと思い、今を大切に生きていきたいと思っています」

●ちょっと一息●
「本社勤務になってからは単身生活が9年目を迎えました。一人でじっと部屋にいるのが苦手な私は、社内の単身仲間と定期的に旅行に行ったりしていた時期がありました。今はその仲間も散り散りになってしまい、家の近所で一人でブラっと行ける居酒屋を何軒か確保(?)し、飲み仲間も出来ました。『職業不詳の酒好きの親父』として通っていますが、社長就任時に、この『カイギショゲッポウ』で紹介していただき、身元がバレてしまったことがありました(笑)。
 岡山に住む家族(夫人、二人の息子さん)の元に帰るのは月に一度ほど。この4月に初孫のお宮参りで岡山に帰り、親の務めを果たしてきました。8年も子どもと離れていると実感が湧かず、おじいちゃんになったと言われても不思議な感じです」

1964年兵庫県尼崎市生まれ、半田市在住。87年関西学院大学社会学部卒業。同年中部紙工(株)に入社し、岡山工場で研修。88年本社購買業務、92年岡山営業所、97年関東営業所営業課長、2001年岡山営業所長、15年本社営業部長、16年取締役営業本部長を経て、22年現職。当所議員。



地域のため、従業員のために

2023年5月24日(水)

知多乗合株式会社 代表取締役社長 金森 隆浩 氏

 『子曰く、四十にして惑わず、五十にして天命を知る』。論語の一節に例え、56歳になった今、まだ天命を知るべくもないが、惑わずこのバス業界でお役に立とうと決意したのは12年前だったと振り返る。『電鉄はいいよ』という先輩の言葉と地元で働きたいという思いで名古屋鉄道に入社。時はバブル期、総合職の同期入社は80数名という異例の大量採用時だった。「何となく、ホワ~ンと入社しました」と笑う。  
 「入社4年後の1995年、グループの遊覧船事業である日本ライン観光に配属されました。安近短がもてはやされた時代、木曽川を下る
『日本ライン下り』の乗船料は3,400円と高額なため、集客に苦労していました。足繫く訪問しても成果が出ず、コースを組む提案型の営業をはじめました。周りから売れないと反対される中でも、上司からは理解してもらい、ヒット商品につながりました」  
 今でこそ当たり前になっている取り組みであるが、当時は全く新しい発想だった。自社の施設だけでなく、地元施設、周辺の見どころ、季節の商材等を絡ませ、地域一帯を巡る旅だった。鵜飼いもセットし季節は限定されたものの、初年度には1,000人が楽しんだ。負けず嫌いで、数字や結果にはとことんこだわり、成果を出すために常に真摯に取り組んだ。今もその姿勢は変わらない。  
 「2000年に名鉄本社の自動車企画管理部に配属となり、それ以降バス業界に関わっています。宮城交通に転勤し、運輸営業の部長として会社の再建に取り組んでいた2011年に、東日本大震災に遭いました。帰宅困難者の輸送を最優先にし、震災当日の深夜に臨時バスを出発させました。家族が行方不明の従業員、私は単身赴任で家族は安全地帯にいる、そんな後ろめたさを感じながら、震災後も欠かさずバスを走らせ続けました」
 刻々と変わる状況の中で3~4日ごとにダイヤ改正をし、バス停の時刻表入れ替えの手伝いもした。ある日、いつ来るか分からないバスをポツンと待つ高齢者と出会った。高齢者は涙ながらに『宮交さん、本当にありがとうね。こんな時にバスを走らせてくれてありがとう』と声をかけてくれた。その言葉に震撼し44歳だったその時、惑わずこの道を進もうと決意した。今までは予算を達成したとかICカードを導入したなど自己実現のための関わりだったが、バスはなくてはならない生活の足、地域社会のために、安心で便利で安価なバスを走らせ続けようと誓った。同時に従業員あっての事業、自宅の片づけも後回しにして懸命にバスを走らせる従業員への感謝を新たにした。  
 「バス業界に関わり23年、志を共にする全国の同世代の同業者の仲間との絆も深まりました。電話1本で悩みを解決し、最新情報の収集も瞬時に可能な『戦友』もいます。名鉄バス時代、訪日外国人にとって日本は安心な国であるが、便利な国にはほど遠いと、仲間たちと『JAPAN BUS LINES(全都市を結ぶ訪日外国人向けバス乗り放題パス・60数社加盟)』を立ち上げました。しかし今は全国を視野に入れるのではなく、知多半島にしっかり根を張った活動をしていきます」
 久しぶりに知多半島に縁もゆかりもない社長(13代目)として就任したのは1年ほど前。『現場を見て、現実を知ることが大切』と短パンとTシャツ、サングラス姿で週末に半島中の路線バスに乗車し、客層、路線の状況、乗務員の対応等を把握した。現実を知ることにより的確な対処ができ、地域に根付いた貢献が可能になると語る。着任後、新たに2市町のコミュニティバスも受託し、現在は7市町(美浜町・南知多町・阿久比町を除く)で運行。暮らしに密着した移動手段として地域貢献を果たしている。  
 「半田市は自治体だけでなく様々な団体や民間企業も積極的にいろいろなことに取り組み、元気がある地域だと感じています。その恩恵を受け、当社も多様な方面に伸びしろを期待でき、今年6月に創立80周年を迎え地域の皆様、従業員に感謝を込めて様々な企画をスタートしています。4月からはバスの後ろに『安全のため、左折時、交差点で一旦停止します』と記したステッカーを貼り、事故防止と乗務員に安心して停止できる背景を整え、ひいては地域の交通安全につながっていければと思っています。目標は高く掲げつつも一段ずつ登っていき、先ずは次のステージ『安全管理2.0』その次は『3.0』とバージョンアップしていきたいと思っています」
 ICカード乗車券の拡張、バス停標識のリニューアル、系統ナンバリングなど分かりやすい、利用しやすいバスを目指し、代表を兼任する名鉄知多バス旅行の『謝恩かもめツアー』を実施する。同時に従業員同志の連携・感謝のために、クラブ活動への支援、班活動の実施、担当役員制度を新設し、部下とのつながりの強化、またカタチも大切と半田営業所の建て替えを計画している。  
 「地域のため、従業員のために何をしたらいいのか?通勤中も街を歩いていても考え、会話からヒントをもらったり雑談から閃いたことも多くあります。だから従業員と一緒に喫煙所で嗜むタバコは止められません(笑)。楽しく仕事をすることがモットーですので、考え悩み続けていても、ストレスチェックでも、全くストレスなしという結果です。『やってみなはれ』の精神で、何でもやってみようと思っています」 
 惑わずこの道を進もう。その思いがカタチとなり、生活の一端となって、天命を知る日は近いだろう。

●ちょっと一息●
「サラリーマン人生が終わるまでに趣味をいっぱい持つといい」という叔父のアドバイスに影響され、
色々なことを始めました。横浜、大阪に住む大学時代の友と『振り子の法則』で3人の住む町を拠点に年1
回、自転車旅行をしています。昨年は知多半島一周でした。雨が降ったので半分は車でしたね(笑)。折り
たたみ自転車を携え、民宿やゲストハウスに泊まる気心知れた友との気ままな旅は私の大切な時間です。
 家族との時間も大切にし、息子1人、娘2人は私がスポンサーになる時は付き合ってくれますが、私が話
し出すと鬱陶しがられ長時間一緒は持ちません(笑)。妻には年1回、ちょっと豪華な食事会をセットして感
謝を伝えています。大学時代に出会った妻には感謝の一言に尽きます。

1966年岐阜県墨俣町(現大垣市)生まれ、稲沢市在住。1991年神戸大学教育学部卒業。同
年名古屋鉄道(株)入社。95年日本ライン観光(株)、2000年名古屋鉄道(株)自動車企画管理
部、08年宮城交通(株)営業推進部長、15年名鉄バス(株)経営統括部長、17年取締役経営企
画部長、21年取締役運輸本部長を経て、22年現職。当所常議員。