2023年3月30日(木)
1964年名古屋市生まれ、日進市在住。87年立命館大学卒業。同年東邦ガス入社。5年間の選手生活を終えリビング営業部、東邦インベストメントサービス㈱出向(現東邦総合サービス)、人事部(硬式野球部監督)、瀬戸営業所長、東海営業所長、三重支社長付等を経て、2022年現職。当所議員。
氏を語る時、その野球人生をおいて語ることは不可能であろう。プロ野球選手のご子息は、(父君は法元英明氏/元中日ドラゴンズ選手、同2軍監督、同スカウト)生まれて間もない頃、当時後楽園球場で行われた巨人対中日戦でセンターを守っていた父英明氏が王選手の右中間の打球をフェンスへ頭部激突しながら好捕。しかし丸二日意識不明になった話を聞き(事なきを得たが)、「野球は怖いからぼくはやらない!」と幼少時言っていたようだが、近くの公園での遊びの野球に夢中になったのがきっかけで中学から本格的に始めた。
「家に飾ってあった甲子園の大観衆でプレーする父の高校時代の写真を見て、ぼくもあの聖地に行きたい!といつしか強く思うようになりました。高校は甲子園常連校よりも常連校を倒して甲子園に出たい!長い物に巻かれるのが嫌い、弱者が強い者を倒すことが私のロマン。愛知高校へ入学して甲子園に出ることを目指しました」
2学年先輩と1学年後輩(元中日の彦野利勝選手ら)は甲子園の土を踏んだが、氏の世代は出場という夢はあと一歩叶わなかった(同学年には名古屋電気高校(現愛工大名電)の工藤公康選手、大府高校の槙原寛己選手らがいた)。そして、甲子園に行けなかった悔しさから、大学野球でもうひと花咲かせたいと、立命館大学に入学した。
「3年間はBチームで鳴かず飛ばず、大学ラストイヤーにやっとレギュラー獲得。1986年の関西学生野球春季リーグ戦では、甲子園出場のスタープレーヤーが率いる他の大学を押し退け(1学年後輩には元ヤクルトの古田敦也選手がいた)大学史上初のリーグ春秋連覇を成し遂げ、大学野球の聖地である明治神宮球場に春秋連続出場しました。リーグのベストナインのタイトル受賞や関西学生選抜チームの一員として台湾遠征メンバーに選出されるなどの活躍を評価され、翌年野球で東邦ガスに入社しました」
それまで東邦ガス硬式野球部は全国大会には無縁のチーム。都市対抗は戦前から出場なし。あくまで社業重視で特別、野球に力を入れていない会社であった。5年間の選手時代は、全国舞台に出場する機会もなく達成感もないまま引退。社業専念となり3年後再びコーチ、退任後8年間社業専念後に監督就任と指導者含め計10年ほど野球に真剣に向き合ってきた。2003年、61年ぶりに都市対抗野球大会に出場時は一社員としてスタンドで選 手の活躍を見守ったが、社命により2004年の7月に監督として現場へ復帰。アマチュア野球の最高峰の大会である都市対抗野球大会に就任1年目で出場を果たし、翌年には社会人野球日本選手権大会へ創部以来の初出場へ導いた。野球と社業との間を行き来するのは苦難もあったが、与えられた場所で頑張ってきただけと振り返る。
「仕事が分かりだした時に野球に戻れということもありましたが、社業専念の経験が指導者として必ず役立つとお受けしました。チーフ、課長と責任のある役職を務めた経験を通して人の力を最大限発揮させることや、埋もれている人が考え方一つで組織の力となることなど学びました。もともとうまくいかないと弱気で悲観的思考になりがちだった私は、いつしかプラス思考が醸成されました。会社で仕事を叩き込まれ、会社が私を作り、私を変えてくれたのでしょうね。そういった職場での経験、具体的には不可能を可能にすることを求められるのは当たり前、無理と判断し逃げてしまえば、その時点でゲームセット!勝つためには失敗を恐れずに前に出続けるしかない!だめならやり返すだけだ!という強い信念を身に着けたことが監督時代、全国大会出場経験のほとんどないチームを全国の舞台へ導けたと思っています。本当は日本一を目標にしていましたから不完全燃焼ですがね。(笑)」
昨年4月1日、同社はガス事業法により分社化し、東邦ガスの一般ガス導管事業等を承継し設立され、現職に就いた。社名は導管網を意味する『ネットワーク』とし、新たな仕組み作りを担う。営業畑を歩き様々な地域の現場を熟知している氏に、その責務が任され奮闘する毎日が始まった。
「東邦ガスは昨年創立100周年を迎え、先人が築いてきたお客様や協力会社との信頼関係があります。それをより強固にするのが私の役割だと思っています。新しいことを行おうとするとスムーズに進まないことはありますが、そこからどうするか?それが仕事の基本だと考えています。できないと結論付けるのはできるだけ遅く、最善の努力をしているか?全力を出し切っていないのではないか?自身に常に問いかけ粘ってしぶとく取り組めば、多少なりとも結果は変わってくると思っています。仕事も野球と一緒で、簡単に諦めないこと。目標を目指して向かって行くことが大切だと思っています。後世に引き継げられる仕事をしていきたいと思っています」
野球選手を引退して間もない頃、全てが思うようにならない時があり、ちらっと退職も考えたことがあった。悩んだ時、尊敬し兄とも慕う牛島和彦氏(浪商-中日-千葉ロッテ-横浜元監督)にこう言われた。『辞めたいなら辞めればいいよ。でもな、辞めますと言って、会社の偉い人に引き留められるか?問題はそこや!どうぞお辞めくださいと言われないか?引きとめられるくらい大きな仕事して辞めたら次はあるけど今の自分はすんなりどうぞ!かもしれん。それはカッコ悪いな』と。その一言で踏みとどまった。以後、しっかり足跡を残し、辞める時はカッコよくと決心した。気づいたら1年後に定年を迎え、一区切りの年となる。
ちょっと一息
東邦ガス野球部の監督を退任したあと、長男が中学硬式野球チーム『SASUKE名古屋ヤング』で野球を始め、その時から今でも休日はコーチとして指導をしています。就任当時は弱小チームでしたが、2019年夏には全国大会で優勝しました。子どもたちの将来が甲子園やその先の野球人生で活躍することはうれしいことです。しかし野球が上手ければそれでいいのではなく、野球を一生懸命に頑張ったことが将来の素晴らしい人生に繋がってくれることが最も大事だと考えています。私は野球をして来たからこそ今がありますが、野球が全てではない。野球を通じて学んだことが大事なことで人としてしっかり生きていってほしい。そのことを子どもたちには伝えています。
現役選手を引退した数十年前、暴飲暴食を繰り返し、もう引退したんだから運動なんかするのはうんざり、階段を使わず、50m先の自販機まで車で行く始末でした(笑)。その結果3年で20kg太り、30代前半で無呼吸症候群、息も途切れ死にそうになり、それをきっかけに自宅でエアロバイクを始めました。結果はてきめんで1年で13kg減量成功。あの時エアロバイクを始めてなければ今頃生きていたかどうかもわかりません(笑)飲み食いが大好きなので油断すれば直ぐに増量してしまいます。今もエアロバイクで体重維持と老化防止に努めています。余談ですが、今年明け早々、娘が出産しおじいちゃん1年生になりました。もう少し長生きしないといけませんので(笑)。
2023年1月30日(月)
金融機関は午後3時で閉店する、早く帰れるだろうと入庫した。その期待は当たり前のように外れ、当時は残業続きで大晦日まで仕事という激務の連続だった。入庫して38年、昨年6月の知多信用金庫総代会で理事長に就任した。同金庫のトップ交代は5年ぶり、齋藤前理事長(現会長)は氏を10人の役員の中から選任した折り『当金庫をよくしてくれる、職員のためによく動いてくれるだろう、そういう思いが伝わって来た人』と述べている。この38年は自分を磨き、同金庫のために尽力した年月だった。
「入庫後は本店営業課(場所は現栄町支店)に配属され、定期積金の集金をするのが主な仕事でした。毎日コツコツとやれば結果は出る、積み重ねが大切と信じていますので、他の人がお客様を1回訪問すれば、私は2回、3回と足で稼いできました」
まさに努力の人だった。入庫志望からは想像出来ない激変を遂げたのは、大きな二つの出来事から体得したことだった。入庫早々、某事業所オーナーに『期限の利益について述べよ』と問われた。何を言っているか分からず、勉強しなければ答えられないと感じ、自宅で机に向かう日々が始まった。今でもその姿勢を貫き、書物と向き合う。二つ目は結婚してすぐ、緒川支(東浦町)時代にそれを体験した。
「年が明けての初出勤日、1月4日のことでした。体調を崩した出産間近の妻と連絡が取れず、胸騒ぎがして帰宅すると妻が倒れていて、その日から1ヶ月半くらい看病のため欠勤しました。その事情を知ったお客様は「間瀬くんが可愛そう」と、私が働く支店に定期預金を移して下さるなどして預金額が全店で1番になったほど。多くの方から温かいお気持ちをいただきました。その時から家族は一番大切、家族のために働こう、仕事を頑張ろうと決心しました」
同僚も氏の担当地区の集金を助け、当時の支店長も休むことを快諾し、周囲の思いやりに包まれての期間だった。職場のチームワークが良く、支店長(榊原康弘当所前会頭)の下、『全店1番の店』を目指して、全職員が前を向いた。夜中の11時にもお客様の家を訪問することも当たり前で、誰もが一心に働いた。その当時の同僚たちは今では同金庫の役員に何人かはなり、現職となった氏の相談相手でもあり、良き仲間でもあるようだ。
「辛いことが沢山あったと思いますが、それを忘れてしまうほど楽しいことがいっぱいありました。正月には榊原支店長の家に行き、酒を飲みながら麻雀をし、仕事も楽しかったですね。資格取得を奨励されていましたので、銀行業務検定試験、ファイナンシャルプランナー等は取得しましたが、金庫のためと昇進思考はなく無欲で働きました。支店長時代は、部下が将来を描けるような金庫にするために、部下との会話を大切にし、汗をかき、知恵を絞ってきました」
同時に『あなた』と呼ぶより『名前』で呼ぶことが大切と、常務時代までは全職員630名の名前を把握していた。それも部下を思う気持ちの表れであろう。理事長就任は60歳を迎えた時だった。県内15信用金庫中で同い年の理事長は3名。若き理事長としての期待は大きい。同金庫が目指す『全員営業体制』の実現に取り組んだ。顧客先を回る営業マンだけでなく、店頭、後ろに控える事務職、全職員がお客様を気持ちよくお迎えし、お帰りいただくことが一番の営業であると語る。そのために挨拶の励行を図り、同時に報告、連絡、相談の重要性も説く。そして公序良俗に反する行動はせず、人格を高め爽やかであれと職員に望む。昨年10月には5年後に迎える創立100周年に向けて委員会を立ち上げ、地元になくてはならない信用金庫となる5年間とすることを誓った。
「face to faceの接点を充分に活かしながら、時代に応じた機械化・IT化で生産性・効率性を上げるために昨年9月にデジタルチームを新設し、相続対応も視野に入れました。また知多半島においても重要課題であるカーボンニュートラルの勉強会を始めました。課題山積の中でのスタートですが、色々な方との出会いを楽しみながら情報収集をしていこうと思っています。出来ることがあれば何でも手がけていこうと思います。また、私は地元亀崎で生まれ育ち、地元への熱い想いがあります。地元の皆さんと一緒に歴史・文化等を含めた『地産地消』を考えながら、地元発展に貢献したいと考えています。当金庫建設時も全て地元の方々にお世話になってきました」
この38年間、『お・い・あ・く・ま』を戒めとして心に記してきた。『世界の盗塁王』と称された元プロ野球選手の福本豊氏の人生訓であり、『おこるな、いばるな、あせるな、くさるな、まけるな』の頭文字から抜粋した言葉である。楽しいことがいっぱいで、辛いことは忘れてしまったと
語るが、『おいあくま』を密かに心に刻むほど、様々な場面を経験し克服して、楽しさに変えてきたのかもしれない。まさに努力の人であり、決心した道を歩み続ける人である。
●ちょっと一息●
半田商工会議所副会頭の話をいただいたのは、当金庫の理事長に就任してすぐのことでした。荷の重さに躊躇しましたが、他の役員と相談の上、その重責をお引き受けすることにしました。中埜・水野両副会頭にお教えいただきながら、松石会頭の黒子となり務めていきたいと考えています。地元金融機関の使命として、半田発展のための雇用創出、新
規事業者の起業を応援していきたいと思っています。
私が生きていく上で家族の存在は絶対です。理解ある夫、子煩悩な父親として過ごしてきたつもりです。行動は家族単位、土曜日は妻のお供で買い物、娘3人からは除け者にされることなく(笑)、いつも誘われていました。スポンサー目的かもしれませんね(笑)。妻の誕生日は忘れても、私には娘たちからプレゼントが届いていました。それは自慢です(笑)。今は孫と一緒に過ごすのが1番の楽しみで、半月に満たない孫をお風呂に入れるのも上手になりました(笑)。
1961年半田市亀崎生まれ、在住。84年愛知学院大学商学部商学科卒業。同年知多信用金庫入庫。本店営業課でスタートを切り、横須賀支店長、本店営業部長、営業統括部長、常務理事、専務理事等を経て2022年現職。2019年当所金融部会長、22年当所副会頭就任。
2022年12月27日(火)
30年ほど前に当所青年部会長を経験した後、議員に就任した。過去、その例はなく、『初めてづくし』は、ここから始まった。以後、副会頭(二期)を経て、今年11月からスタートした新体制の舵取りを担う第16代会頭に選任された。若干63歳。若き新会頭は今までの人生を、時には苦しみながらも、軽やかに楽しく自分らしく生きてきた。小走りにその道程を振り返ってみよう。家業を興した父君、松石正也氏からその幕は開けられた。
「ギターが大好きだった父が、常滑から半田の縁戚者の模型店に勤めたことが、今につながっています。当時の模型店は小学校に粘土細工を納めていて、そこから発想を得て楽器を小中学校に納品することを思いついたようです。常滑で店舗を持たず電話1本引いて、商いを始めたのは1952年でした。自転車で名古屋まで仕入れに行き、時には美浜まで商品(カスタネット、リコーダー等)を届ける。主な交通手段が自転車で、大変な労力だったと想像を巡らします」
知多半島で初めてピアノを受注したのは豊丘小学校で、ヤマハがある浜松駅から国鉄(現JR)半田駅に運ばれ、そこからトラックで現地まで届けた。村あげての歓待を受け、音楽を届ける楽しさ、やりがいを存分に味わったようだ。1958年に半田に進出し、奉之氏が生まれた59年に、知多半島で最初の『ヤマハ音楽教室半田会場』をスター
トさせ、以降、知多半島各地に音楽教室を開設した。
「店舗の2階が自宅で、音楽と共に育ちました。4、5歳の頃にオルガン教室に通い3回目のレッスンでやめました。その後、ピアノ、エレクトーン教室にも通いましたが、いずれも挫折しました。エレクトーンは3 年間やりましたが、私がエレクトーンの前に座ると、まずため息をつくんですね。それを見た先生から「かわいそうだからやめさせてあげてください」とクビを言い渡されました(笑)。楽器店の子どもだから、やらなければいけないというような押し付けられ感が嫌だったんですね」
自ら選んだ楽器は父君が好きだったギターだった。中学からギターにハマり、高校時代にはバンド(ベースギター担当)を組み、同社主催の『高校生バンド合戦』(1972年より始まる。以来、若者層を中心としたバンドコンサートを開催)に出場した。優勝候補だったようだが父君から「息子を優勝させる訳にはいかない」と言われ、「グレてやる!」と息巻いたと笑う。高校時代はバンカラで通し、学校祭で応援団長としてクラスを引っ張った。まさに学園ドラマを地でいくような、伸び伸びと愉快な時代だったようだ。
「勉強が大嫌いだったので、遊んでばかり。東京の大学に行こうと受験し、その時におたふく風邪に罹ってしまい、言い訳になってしまいますね、見事全部不合格。滑り止めの大学に入りました。入ってもマルクス、レーニンなんて何も分からず面白くない。またまた楽しく遊んでいました。こんなめちゃくちゃなことばかりしていたのですが、面白いことに父は私に好き放題やらせてくれていました。そんな私も就職を考える頃になり、シェフになろうと思いました。でも修業もきつそうだし、大企業への就職も難しい。父が商売をしているのだから、私だって出来るだろう。跡を継ごうと、後継者枠でヤマハに入社しました。同期は優秀な人ばかりで、気後れしながら社会人としての毎日が始まりました」
その頃には楽器購入のための積立制度も出来、その契約を取るための飛び込み営業が研修時代の日課だった。一日200件以上を回ることを課せられ、精神力を試され足を棒にした。「かわいそうだね、付き合ってあげるね」と一生懸命さに打たれて、契約を交わしてくれたこともあった。とにかく必死だった。その熱意がカタチとして表れ、全国3 位の成績を収めた。配属された横浜支店では広いフロア全体を任さ
れ、3つの教室の運営、エレクトーン販売(当時は花のエレクトーンと言われ、エレクトーンが人気だった)と多忙な日々を送った。
「部下が5、6人とアルバイトスタッフと一緒に、イベントの企画や営業をしていました。営業は凄く頑張っていて、買って欲しいがために玄関先で土下座したこともありました。買ってもらってそのお宅から出てきたら、『何で土下座しなくてはいけないのか』と悔しくて涙が出てきました。色々学んだことも多く、メーカー直営店なので、都会と田舎の商売の違いを肌で感じることが出来ました。一番良かったのは人脈が広がったことですね。今では同期が役員になる年齢になって、現在のヤマハ本体の社長は同期です。そんな様々な出来事と色々な人との出会いが、今の私を作ってくれました」
いつも一生懸命で、真剣に課題に向き合い常に業績を残した。その裏には何の秘策があるかと問うと、『人との付き合いが良くて、付き合いを大事にしてきました』とサラリとした返事が返ってきた。その生まれ持った資質は両親からの大きな贈り物であり、自らの努力に他ならないだろう。後継者枠採用者は3年という雇用期間を経て、半田に帰ってきたのは25歳の時だった。企業人としての第一歩がスタートした。
後継者として仕事を始めた頃、楽器業界は右肩下りだった。ショップ長として最初の取り組みは、『売れる』ことに慣れてしまった従業員の意識改革だった。『息子が帰ってきて、何かやり始めたらしい』という声も届いていたようだが、現状を見つめ、対策を試み、時代に適応する体制が整った。後、新店舗を任せられ、店舗設計から採算計画、組織作り等を図ったが、目標を達成することは前途多難な時代だった。
「父は病気がちで、会社も不調、経験も浅い私は八方塞がりの状況に追い込まれました。そんな時に手を差し伸べてくれたのが地元の金融機関でした。青息吐息の中で、大きな転機となったのは2年前、碧南の楽器店のM&Aでした。大きな冒険をするのか思い悩みました
が、会社を維持していくためにマーケットを広げ、経営の効率化を図ることにより利益率を上げていくことを狙いましたが、今も、もがき続けています。厭わないのは体を動かすこと。課題が山積している今、行動するしかないとお盆休み以降、1日も休んでいません」
社業と向き合いながら、当所青年部、青年会議所、ロータリークラブ、ジュニアブラスバンド、国際交流協会と様々な活動に関わってきた。2005年愛知万博時の、半田市のフレンドシップ相手国のブータンとは関わりが深く、現在もブータンの学校から障害者のためのスロ
ープを作りたいと、半田ロータリークラブに援助を求めてきている。そのお世話役として、手を尽くす毎日である。『頼まれると断れないので』と笑うが、まちのため、未来の子どもたちのために尽力し続けている。当所の青年部に入会したのは29歳。その6年後、1994年・1995年に会長を務めた。
「一番印象深い思い出は、阪神大震災時に救援物資を届けたことです。震災当日の夜にメンバーに召集をかけ、不足している品を聞くために、西宮市役所に電話し、連絡がついたのは数時間後でした。翌々日に水、トイレットペーパーを持って半田を出発しました。私は現
地に行けなかったのですが、メンバーは一日かけて神戸まで行き、大変な思いをして届けてくれたことに感謝です。当時はサンタクロース事業もあり、面白かったですね。いろいろ勉強会もさせてもらいました。青年部を卒業する頃、父が亡くなり1991年私が職務執行者に
なり、43歳で議員になりました(昨年、日本商工会議所から永年勤続議員20年表彰を受賞)」
『青年部出身者から議員を!』は、前任の東浦優至青年部会長の悲願だった。その流れを初めて作り、今では青年部出身者が議員として活躍している。その後、副会頭を経て、当所で初めての青年部出身の会頭(全国的にも珍しいケース)としてスタートを切った。
「今までは、経済界に力を持った立派な方が会頭を務めてみえました。常滑から出てきた新参者で、小さな商店の私で良いのかと悩みましたが、コロナ禍で疲弊している今の経済界には、私のような中小小規模事業所の感覚がお役に立てるならとお引き受けしました。設立発起人総代の竹内彦左衛門氏は明治26年の創設時に『知多郡は20町村あり、西東南が海、鉄道、海運に恵まれ、百貨が集まるこの半田に知多商業会議所(現・半田商工会議所)を作り、皆が共存して商いをしていく』と宣言されています。みんなで地域を盛り上げ、みんなが良くなっていく、会議所のこの原点に立ち返ることが大切ではないかと考えています」
みんなが良くなっていくことは難題であるが、今、事業所はDX推進、電子帳簿保存法、SDGs、健康経営などの課題を控えている。先ずはそれらを会員事業所に的確に落とし込み、支援をしたい。また、会員企業2,450社(10月現在)を見ているだけでなく、その先にいる人、そこで働く従業員10万人ほど全ての人が幸せになっていくような、事業の実施が重要と語る。榊原康弘前会頭が実施した職域ワクチン接種のように、そこに働く人が、安心して働くことのできる職場環境の提供が必要と言葉を添える。そして会議所で大元になる部会活動に正副会頭が関わり、理解することも大切だと語る。同時に部会運営組織の中に青年部メンバーが所属することによって、活性化の大きな力になりうるだろうと期待する。
「私自身も体感したことですが、青年部の人たちは、若さ故に失敗もあるかもしれませんが、怖いもの知らずで取り組んでいくパワーを持っています。でも、年を重ねると経験値で発言しがちで、決めつけてしまうことも往々で、そこに新しい発想は生まれません。青年部の若い力を活用したいと思案しています。また、榊原前会頭時代はコロナ禍によって後半は殆ど事業を実施出来ませんでしたが、コロナ禍以前に会頭がなさろうとしていらっしゃった実効性のある事業をぜひ引き継いで
いこうと思っています。例えば地域別会員懇談会や行政や市議会議員との意見交換会など、開催できたらと思っています。文書のやりとりだけではお互いの想いは通じません。膝を付き合わせて、話し合うことが大切だと考えています。私が青年部時代、会頭は遠い存在で雲の上の人でした。でも私は歴代の会頭とはキャラクターが違う、身近な存在です。そういう意味では初めてのタイプかもしれませんね(笑)。積極的に話し合いの場を設けたいと思っています」
家業に関わる音楽は、時として人々に勇気と希望を与えてきた。東日本大震災時にも、被災後で開かれた慰問コンサートに涙を流し、生きる勇気をもらったという人々の話が、巷で言われていたこともあった。
コロナ禍の中でもしかりである。
「文化・教養は時として重要なポジションを担うことがあるように感じています。外に目を向ければ、このままいけば日本の経済力は間違いなく低下し、国際社会の中で物を言える日本ではなくなっていく傾向にあると考えています。しかし、日本人が文化・教養を身につけるという方向に向かえば、諸外国の人々も日本の立ち位置をきちんと理解してくれるのではないでしょうか?それは地域も同じことが言え、半田も一定の経済力を維持・拡大しながら、ここに住む人たちの文化・教養度を高く、明るく心豊かに生活できる地域づくりを目指すことも大事にしていきたいと思っています。モノだけではなく、人の心の問題も重要で、音楽や芸術に触れることで癒され、勇気をもらうことは人間が享受できる感覚であると思っています。『心に音楽を まちに文化を』を忘れないようにしたいと思います。音楽に携わる者として、そういう側面からお手伝いできれば嬉しいですね」
いつの世も時代に即した対応が必要で、現在は企業に変化が求められるように、会議所こそ変化の先頭に立って、様々な意識改革を進めていくことが重要な時代に到来したようだ。それにはそこで働く、会議所職員のモチベーションを向上させ、もっと働きやすい職場環境に整えることが大切であり、会議所は中小小規模事業所を引っ張っていく体質に変わっていかなければならないと言う。
「例えば、就業規則一つとっても一般企業より遅れていないか。働き方という部分では、サービス業的な感覚を持っているかなど、内部からの変革が第一歩と思っています。私たち役員がああしたい、こうしたいと提案しても実際に動くのは職員の皆さんです。私が副会頭になった6年くらい前から、経済力が段々と低下し、加えてコロナ禍となり、特に地域の飲食業は業績が悪化し、このまま手をこまねいていたら廃業に追い込まれます。そういう人たちが元気を取り戻して、商売が出来るような環境づくりを考えていくことが必要なことと思っています。会議所が、地域の商工業者の意見を集約し、政策提言、経営支援、地域振興等の本来の役割を果たしていかないと、中小小規模事業者は頼る所がなくなってしまいます。職員の皆さんのポジションはこれからますます重要になってきます」
職員が会員と顔を付き合わせて話をする場面を持つことの重要性を説く。例えば『ゲッポウ』配布時に「持続化給付金の申請はできましたか?」「家賃支援給付金に該当しませんか?」等、声をかけ、その人にとって、必要な情報を必要なタイミングで届けるようなシステムを作るべきである。榊原前会頭に倣って、会員が何を求めていて、どうして欲しいのか、生の声を聞く機会が必要と言葉を重ねる。
「永年議員20年表彰をいただいたことはとても嬉しいことでした。それにも増して嬉しかったことは、榊原前会頭と6年間、同じ空間で過ごしたことです。会頭の思考、決断力など間近に拝見し、経営者とはこうあるべきかと学ばせていただきました。会頭と時間を共にしてから、私自身、仕事に取り組む姿勢が変わったように感じ、過去の自分の仕事の仕方は浅はかだったと感じる点もあります。
不安だらけの中でのスタートですが、榊原前会頭から学んだことを、会頭として会員さんや職員の皆さんに発信していこうと思っています。今回、私は役割として会頭職をお受けしました。最後の決断、方向性は私の役割になります。皆さんのご協力をよろしくお願いします」
半田商工会議所は来年創立130周年を迎える。新会頭の下、 11月1日から新たな歴史に向けてスタートを切った。
●ちょっと一息●
当社で主催する子どもさんの発表会、プロの演奏会など音楽を聴く機会は多いですね。最近は17日間で700曲ほど聴きました。秋は発表会が多くあり、土・日曜日は知多半島一円、三河地域に出向いています。昨年は1年間で2,642曲聴きましたね。明日も名古屋にジャズライブに行きます。音楽が好きなこともありますが、教室で学ぶ生徒さんたちの状況把握、また、私が会場に顔を出すことによって、講師の先生方のモチベーションが上がれば、社長としての役割も果たせるのではないかと思っています。
モノづくりが好きで、独学で色々なことをして楽しんでいます。孫の節句のお祝いに粘土で金太郎さんを作ったり、箱を買ってきて粘土で模様を作りペイントしたり、コツコツと楽しみながら作っています。孫にはその都度プレゼントをしています。コロナ禍になって、外出が制限された時にエッグアートを始めました。繊細な作業ですが、こういう時間を過ごしていると頭を空っぽにできますから、リフレッシュにもなります。料理もそうで、たまにハンバーグ、とんかつなど洋食を作り家庭サービスをしています。
お酒もすごーくいけ、お付き合いは充分できます(笑)。小中学校の同級生だった女房と、晩酌は欠かしません。私のアベレージは缶ビール1/2缶、ワイン1/2本、バーボンはダブルで好きなだけ飲んでます。20年間このペースを崩したことはありません。人間ドックの前日もきちんとこの酒量を守り、いつもの私を診てもらっています(笑)。
Matsuishi Music Group(2022年) 1959年半田市生まれ。82年名古屋学院大学経済学部商学科卒業。同年ヤマハ(株)入社。85年(株)マツイシ楽器店入社。88年当所青年部入会。94・95年青年部会長。1999年(株)
マツイシ楽器店代表取締役社長。2002当所議員。16年副会頭。22年会頭。20年名曲堂楽器株式会社をM&Aにより吸収し Matsuishi Music Groupに改称。(株)花井商会の教室及び楽器部門を事業譲受。半田市在住。
2022年10月27日(木)
高校の頃『航海士はカッコいい』と夢みていたが、その手の『学校には力及ばず』同じ系統で海がすぐ裏にある大学に入学した。在学中はカッター(端艇)部に所属し、その思い出は色濃く脳裏に残っていると言う。卒業後は食品会社に就職するも水が合わず、海に関係する同社に入社し海運業への関わりがスタートした。
最初に配属されたのは『海』でなはく『空』航空課に配属。航空貨物の海外輸出入業務を担当。航空輸送は海上輸送より早いためその手続きも船に比べ簡易化されている。その為入社直後に貿易実務を覚えるには広く浅く覚える事が出来、現在もこの経験は役に立っている。その後は半田支店と本社営業部門・東京支店勤務・事業戦略室等を経て現在の半田支店は3度目の着任となる。(衣浦物流(株)社長就任は平成29年)氏曰く組織の形成において参考にしているのが新選組だそう。組織のトップ(1番手)は夢を語り、その夢を具体的な行動で叶えるのが組織の2番手である。愛知海運では社長の夢を半田支店の支店長として実現する2番手。衣浦物流では1番手として社員に夢を語る。役職でその人が偉いのではなく、その役職の役割をどこまで演じる事が出来たか?その中で自分の満足する結果がどこまで出せるか?が仕事の満足度につながるいい組織と氏は考えているようだ。
支店長としてまたは社長として行うべき課題は、意欲をもった社員を育成する事が一番の役割と思う。その為、指示命令は発信するが、『できる方法を考える』に重きを置き『トップダウン』という言葉よりは、愛知海運の社是である『考える』を大切にしている。
スタッフにお願いした仕事が100点に満たないと『何で出来へんのやー』と腹も立つが、本人が考え抜いて行動した結果なら70点でヨシとする。残りの30点は勉強代。人から言われた仕事で満足いかない結果だった場合、その指示した人のせいにしてしまう。自ら考えて行動した失敗は何が間違って何が足らなかったのか?自身がよくその原因をわかっているから次の行動につながる。指示通り指示待ちよりモチベーションUPにつながると考える。
氏は管理者・経営者がどうあるべきか熱く語るが、三つ子の魂百までとあるように、最初に入社した食品会社から現在に至るまで、『どの立場でも一営業マンでありたい』が本音のよう。氏は愛知海運に入社時から自身の目標を定め行動したとの事。①まずは身近な先輩に追いつき追い越す。②次には新しい事業の創造(西尾市の鋳物工業から排出される廃鋳物砂のリサイクル事業 蒲郡支店に集荷・分別後セメント会社へ海上輸送の立ち上げ)③過去の先輩達が作ってくれて今の売上を追い越す売上上位3社に入るような売上の獲得。これは、半田市の協力を得て、日本最大のバイオマス発電所『サミット半田パワー』『CEPO半田バイオマス発電所』の立ち上げに関わる事で次々に自身の目標をクリアーしてきた。このバイオマス発電所の立ち上げは次の新しい物流につながる。(後述)
氏の営業に関する考え方は少し変わっている。モノを売る側買う側はあくまで対等で「お客様は神様です」という考えを持ちあわせていない。代わりに熱意と相手に対する敬意を払いながら、時にはお客様とぶつかり合っても真剣に向き合い、出来る最高のサービスの着地点をお客様と話し合う。若い頃半田支店の大手顧客とも料金交渉でかなりやり合ったようだが、その部長が大手商社に転職された10年後に『浅井ちゃん相談がある』と声をかけてくださったのが、バイオマス発電所の立ち上げ案件だった。若い頃から目の前の仕事にプライドを持ち、口先だけでなく真剣にお客様と接した結果が信頼となり次の大きな案件につながったと氏は考えている。
港湾業界は許認可制(現在は承認制)の免許でそのサービスの提供が法律でさだめられている為、他社との差別化が図りにくい業界である。貨物の保管場所や設備・技能職の人数などによって成果や収益が決まってくる装置産業に近い要素をもっている。その為『愛知海運には武器がない』と言われる事が悔しくて次の目標になった。
装置産業ではなく他社が真似できない新しい物流を生み出すその糸口はやはりお客様が不安に思っている所にあった。FIT制定後バイオマス燃料が脚光を浴び、日本の各所でバイオマス発電所が建設される事となったが、燃料の輸入国は主にマレーシア・インドネシアの東南アジアであった。現地では今まで産廃扱いとされる貨物であった為、その品質・安定した数量の確保に対して信頼がなかった。発電所は安定した貨物(燃料)の確保が優先で、発電を止めない事が重要視している。ここで新しい物流『AIL』が生まれた。『AIL』はマレーシアに拠点を構え、貨物の品質や数量の確保を現地ヤードまで行って確認、その現地情報をネット上でお客様に瞬時に提供。貨物の状況によって船を配船しお客様までお届けする一貫輸送サービスで船の滞船量や船積み数量不足などを回避することによる全体のコストミニマイズ及び安定した数量を発電所にお届けするシステム(Aikai Integrated.Logistics)の提供開始に至った。お客様優先の物流を主軸とした現地から一貫した管理システムは業界で高い評価を受けている。
氏は新しい事業を立ち上げる事が多かったが、氏曰く「新しい事業を興すときには、時代が必要とし時代が後押ししてくれたからうまくいきました。極端な事を言えば”今”にはあまり興味がなく5年後10年先のゼロから組み立てた事業が自分をワクワクさせてくれます。年齢的にカウントダウンに入ってきましたが、もう一つ形にしたいと思っています。ネタはありますが一つ立ち上げるには長い時間を要しますので間に合うか心配です」
氏は有言実行を信条とし、「誰もが想像しないようなことを語る方が楽しい(笑)」そのために今日も社是、「考える」を実践しつづけているとの事。
●ちょっと一息●
『AIL』を世界で通用するシステムにしたいと思い、人気ハンティングアクションゲーム『モンスターハンター』シリーズ内に登場する『AIROUアイルー』をイメージキャラクターとして起用し、株式会社カプコンと私用許諾契約を締結しました。AIROUはモンスターを狩猟するハンターを助ける仲間(オトモ)です。私達物流会社もお客様あってのサービス業でコンセプトは一緒、名前も『AIL』と『AIROU』と同じです。私自身がモンスターハンターのヘビーユーザーで、息子とネットを通して一緒に狩りを楽しんでいます。あわせて54歳で大型バイクの免許を取得し、今年のゴールデンウィークには愛車ハーレーとともに、富山から新潟・山形・秋田・青森・津軽からの函館と2週間の気ままな一人旅を楽しみました。今年中に四国一周か九州一周の旅を計画中。まだまだアオハル満喫中のやんちゃなジジイを目指しています。
1965年名古屋市生まれ。知立で育ち、87年三重大学水産学部卒業。食品会社を経て、90年同社入社。航空課、半田支店、本社等を経て2021年現職。名古屋市在住。当所議員。
2022年9月28日(水)
『家から通えること』という両親の要望に『長男の務め』と、大学も就職先も考慮し、関東地区勤務限定コースを設けていた東海銀行に入行した。5年後の合併により、同コース消滅のため総合職に転換、以後全国転勤可となり、2007年初めて愛知県勤務となった。
「入行して25年、人事部での2年間以外は営業一筋。さまざまな地域で個人から大企業まで営業を経験、愛知県と名古屋市の指定金融機関の役割を担う東海公務部では次長として、まちづくり、地域の再開発等にも関わらせていただきました。名古屋駅前・栄地区の再開発、『2026年アジア競技大会』、2027年開通予定の『リニア中央新幹線』などのプロジェクトに携わった経験は、ものの見方や考え方、地域との関わり方を学んだ時期であり、貴重な経験をさせていただきました」
現職に就いて1年半ほど。支店長一年生として地域との関わり、部下との接し方を試行錯誤しながらの日々だった。最終決定権を持つ今、今までの経験に照らし合わせながら、かつての上司ならどう判断をしてきたのかと思い起こし、慎重かつ素早い判断を心がけてきた。
「最終的にそのリスクを負うことができることが判断基準であり、責任を取ることが役職者の仕事です。部下には伸び伸びと仕事をしてもらいたい。どうしたら働きやすいか、常に考えています。コミュニケーションを図るのもその一つと、今年から上司と部下が1対1で行う面談『1on1』ミーティングを採用しました。仕事に対してのストレス軽減、問題解決のために上司が助言するシステムですが、あえて仕事の話はせずにコミュニケーション強化を目的にしています。時には『支店長の趣味は何ですか?』『年収は?』というようなことも聞かれますが
(笑)、コミュニケーションを密にすることは信頼につながると、聞かれたことには全て答えています」
企業としては常に成果が求められるが、目的達成のために部下を鼓舞するタイプではないと自己分析する。それは自身の経験から体得し、銀行員として貫いてきた姿勢の現れである。一勤務地3~5年の間には自ら提案をして、成約は後任に任せることも多々あったようだ。
「結果が全てではなく、評価はお客様がされるものだと考えてきました。『あの担当者で良かった』『本当にお世話になりました』という声は必ず後から聞こえてきます。先輩たちがそういう記憶を残し、当行の礎を築いてきました。部下には記録より、記憶に残る担当者であれと常々言っています。私もお客様の役に立つことを最優先に考えてきました。だから、若い時には目標を達成できなかった苦い経験も多数あります。しかし、諸先輩たちや周りの人に恵まれ運が良かったですね。何よりもこの役職をいただいたことが強運の現れだと実感しています。
実は私は就活解禁日以後に面接を受けて入行しました(当時はそれ以前に内定をもらっているのが普通だった)。いわば補欠入行ですね(笑)。補欠でも頑張れば、こういったポジションに就くことができる。私が生きた教材となって、この点は部下を鼓舞しています(笑)」
2度の銀行合併を経験し、不安と暗中模索の中、途中で投げ出すのは本意でない、お客様の役に立つためにやるしかない!『成せばなる』『ピンチはチャンス』と歯を食いしばり、その言葉を支えにしてきた。特に半田に来てからは地域の発展があってこそ、金融機関も発展するとの思いが強くなり、地域団体の役職を努め、社会貢献、地域貢献に注力した。支店の従業員が会社の制度を活用して、新美南吉生誕110周年記念事業、子ども食堂、半田市民管弦楽団など、10団体(今年度は15団体予定)に寄付金を贈り、そこで一緒に体を動かし汗
を流す。
「管弦楽団にお邪魔した時は、大学の吹奏楽団でチューバを担当していたことを懐かしく思い出し、思わず一緒に練習したいと思ってしまいました(笑)。かつての東海銀行は地域と積極的に関わり、お客様との距離も近かったことを私自身も経験しています。合併によって社名も変わり、地域との接点が薄れてきたように感じています。もう一度、あの頃のように地域の中に溶け込み、深く関わっていこうと思っています。今、この立場だからこそ、それができると考えています。まずは、
色々な所に顔を出すことから始めています」
『好奇心旺盛』な性格から新しいことに挑戦しながら、地域がより発展することを願って動く。地域の発展が仕事へのやりがいにつながり、モチベーションになる。銀行員としての一つの姿がここにある。
●ちょっと一息●
知多半島全域の全法人取引先、ほとんどの個人取引先を半田支店で担当しているため、日中は出歩いていることが多いです。日々お話をお聞きしながら経営、地域のことなどを勉強させていただいています。先日の『第九回はんだ山車まつり実行委員会設立総会』に半田金融協会会長の立場で出席させていただきました。私も地元でお神輿を担い
でいましたが、地域への愛情がなければ、このような祭りは出来ない、半田の方たちの地域愛に感動しました。
仕事と生活はキッチリ切り替えています。退勤時、会社を出たら何の対処もできないので仕事のことは考えないようにしています。起床した時はこれからは何とでも動ける、仕事モード全開です。オフは家族と楽しむことを大切にし、基本は家族単位で行動しています。妻と私の誕生日は3人の子どもたちが祝ってくれて、感謝の言葉が書かれた色紙をもらいました。気恥ずかしい気もしますが、もらうと嬉しいものですね。子どもに教えるつもりで始めた野菜作り、子どもは興味を示さず、いつの間にか家庭菜園は私の趣味になりました。
1975年東京都江戸川区生まれ。97年千葉大学法経学部経済学科卒業。同年(株)東海銀行入行、新中野支店に配属。新宿新都心、板橋支店、2007年柳橋支店(名古屋市)に転勤。名古屋営業本部、春日井支店、東海公務部、人事部(東京)を経て、21年現職。半田ロータリークラブ会員。半田防犯協会連合会副会長。名古屋市在住。当所常議員・地域力創造委員会副委員長。