2021年12月9日(木)
『藤井さんいますか?』と、入店して来るお客さまが絶えない。現職に就いて2年になるが、笑顔で明るく、ウイットに富む接客は社内でトップセールスウーマンとして35年余のキャリアを誇る。
「今も私を販売担当者と思われているお客さまもいらっしゃるのではないでしょうか(笑)。売り場で直にお客さまの声を聞くことで的確なニーズを把握でき、同じ売り場に立つことで社員の気持ちも理解できる気がしています。当社は1953年に木工職人の父が、母と共に始めた家具の製造販売が原点です。時代の流れで小売業に移行し、地域の皆さまのご要望に応え、現在の業態に変化してきました。私は結婚式場でブライダルコーディネーターとして勤め、結婚直前に当社に入社しました。接客が好きで(今は天職と思っています)、両親が縁戚者に助けられ一生懸命に働いている姿を見て、私も子育てをしながら両親を支えたい一心でした。婚礼家具、輸入雑貨、寝具など、私が扱う商品も時代の要請で異なりましたが、いつも現場に立っていました。2年前に思いもしなかった代表者になり、当初はプレッシャーに押し潰されそうになりましたが、私の使命は両親が育ててきた会社を次代につないでいく橋渡し役と割り切ったら、気が楽になりました。創業当時から貫いてきた地域密着、お客さまのニーズに応える精神を受け継ぎ、しっかりつないでいきたいと思っています」
就任直後、コロナ禍が重くのしかかる中、SDGsの実現、エシカル消費(※)など、社会が企業に求めるキーワードが次々と生まれた。それを意識し、健やかな暮らしを送っていただくことで社会貢献をしたいと模索していた時に、『大高酵素浴』と出会った。
「私どもの酵素浴は正確には『おがくず酵素浴』です。酵素のパイオニアの大高酵素におがくずを混ぜて発酵させて70℃くらい(体感温度40℃前後)まで温め、その中に20分ほど埋まって温まります。化学燃料や電気などは一切使わず自然発酵で温度を上昇させるので、環境保護の観点からもとてもエコなんですよ。昨年12月に大高酵素浴『森のくまさん』としてオープンして以来、私も利用していますが、免疫力アップ、デトックス・ダイエット効果(私は5、6キロ痩せました)等、嬉しいことずくめです。お医者さまのアドバイスを受けながら、社員共々、実証していますが、健康になった、痩せた、肌がきれいになったと好評です。男性社員も美意識が高くなりました(笑)。ぜひ、ご利用ください。半田市地域振興券も使えます」
現場に立ち35年余という実体験から、『〇〇さんだから』と購入につながるような人脈作りの大切さを説く。同時に社員に対して温かい視線を向ける。
「毎日フロアを歩き回っています。スタッフの顔色を見て、体調万全?何か言いたいことがある?と、寄り添うように心掛けています。社員教育は子育てと同じで、その人の良さや得意分野を見極め、適材適
所で力を発揮してもらっています。亡き母は気配りに長けた人で、誰にでも平等であり、メーカー・社員あっての当社、お客さまあっての当社という姿勢を崩しませんでした。私も尊敬する母の教えを守り、そういう人でありたいと思っています。幸いなことに母の血を引いたのか、その人の良い所を見つけるのは得意で、今では特技となっています」
慣れ親しみ愛した職場で『生涯、販売員として働こう』と心に決めていたが、社長就任という思いもしなかった展開に戸惑いながらも、代表者としての決断を求められては『正しかったか?』と自分の判断に悩
み、眠れない日も過ごしたこともあったと言う。
「社長業も子育てと重なり、自分が周りに支えられながら親になってきたように、周りの人たちに助けられながら、社長初心者の私は社員
に育ててもらっています。あと数年経ち、還暦を迎える頃には“成長した社長”として花開きたいですね」
※エシカル消費…消費者それぞれが各自にとっての社会的課題の 解決を考慮したり、そうした課題に取り組む事業者を応援しながら消費活動を行うこと
●ちょっと一息●
父が家具を作る度におがくずが出て、まだ幼かった私は姉と一緒にそのおがくずの中に埋もれて遊んでいました。そのおがくずと出会い、大高酵素浴『森のくまさん』をオープンしたのも深いご縁を感じています。木工工場から産業廃棄物として出るおがくずは焼却処分をしていた時代もありました。そんな産廃物を酵素浴に再利用し、さらに使用したおがくずを畑の肥料として再々利用して土に還します。循環型社会の一役を担っていることも嬉しいことです。
子どもの頃から両親には「将来みんな一緒に会社をやっていってね」と言われていたので、家業に関わるのは自然な流れでした。嬉しいことに昨年の10月からは長男も両親の意を汲んで入社してくれました。金融機関からの転職で戸惑うこともあるようですが、当社には家具の修理を手掛けたり、売り場を熟知しているレジェンドがいます。そういう方々に助けていただきながら、後継者として家業発展に尽力して欲しいと願っています。
私に一番影響力を与えてくれ、決して超えることの出来ない母は残念ながら亡くなってしまいましたが、我が家の隣に住む父は今も時折会社に顔を出して私を支えてくれています。偉大な両親に感謝してもしきれません。
1965年半田市生まれ。85年愛知女子短期大学経営学科卒業。同年、高砂殿名古屋駅前店入社。86年同社入社。2019年現職。半
田市在住。当所議員。
2021年11月17日(水)
『木曽路はすべて山の中である』中津川市馬籠を故郷とする島崎藤村の名作『夜明け前』の書き出しである。氏もそんな山々に囲まれ御嶽山を臨む村(現在の木曽郡木曽町)で生まれ育った。そのため海への憧憬が強く、海を見ながら仕事がしたいと、東京、横浜、神戸等の五大港に拠点を持つ同社の国際輸送事業部に入社した。
「名古屋国際輸送支店で、輸入担当者として荷物の通関手続き等に関わりました。私たちの日常生活の必需品や玩具、考えてもいなかったようなものまで輸入され、一番驚いたのは大量の位牌と白装束でした。海が見える現場に行くのが楽しみで、いそいそと出掛けたものです(笑)。名古屋港、四日市港、豊橋港に勤務し29年ほど望み通り常に海の近くで働いてきました」
一貫して机上での仕事だったが、時間が許せば現場に出掛け、荷物の積み下ろし等を手伝った。机上で考えた通りに仕事は進まない。実際に携わることによって、より的確に仕事を理解し成果が現れることを体感した。同時に一緒に汗を流すことで、互いに親近感が生まれ信頼関係が保たれることも実感した。それは元来、体を動かすことが好きということもあったが、会社の業績を上げるための根幹である現場を尊重した姿勢でもあった。
「当社はトラック・陸上輸送、引越し、倉庫業等の関連会社があり、社内の様々な部署や関連会社への出向を通じ、会社全体の主要業務に関わる機会を得ました。海外引越業務にも携わる関連会社を経て、半田支店への赴任は昨年の10月でした。ここは引越し、陸上輸送、鉄道コンテナ、衣浦港に関わる海の仕事と多岐にわたります。今までそれぞれの仕事を少しずつ噛ませてもらい、経験してきたことを参考にして対策を考えることができ、恵まれた職歴と感じています。何にでも首を突っ込んでいくタイプで、やってみたい、見てみたい、聞いてみたいという想いが伝わり、色々な部署に回していただけたのかもしれません(笑)」
上司や同僚、部下などから困った時に手を差し伸べられ、人にも恵まれてきたと振り返る。立場上、年長者に仕事を依頼する難しさに悩んだり、その旺盛な知識欲故に熱くなりすぎることも時としてあるようだが、自分を律するように意識していると言う。
「そんなに気が長い方ではないので、出来るだけ冷静になりカリカリしないようにしています(笑)。仕事は一人では出来ませんし、助けてもらうことが多い中で、人間関係がキーポイントです。特に半田支店は少ない人数(40人ほど)で仕事を回していますので、みんなが輪になって協力し合っていくことが重要です。そして、何といっても一番大切にしたいことは安全です。就任時にも『安全第一』を謳いましたが、社員が元気に出社して笑顔で帰る職場が一番と考えていますので、怪我がなく毎日の仕事に向き合って欲しいと願っています。職場が上手く回っていけば、楽しく仕事ができ、コミュニケーションも密になり、業績は付いて来ると信じています。私自身、みんなと同じ目線で話し合うことを信条とし、ここで1年生の私は不安な時にはアドバイスをもらって
います」
『仕事は楽しく』は、上司からの言葉『仕事は楽しく、遊びは真剣に』に起因する。それには先ず自分が楽しく仕事をすること。そうすれば自ずとして周りの人も楽しいのではないか(その反対もあるのかなと苦笑するが)と、その言葉を心に刻み、今まで仕事に向き合ってきたと言う。
「私自身、辛いと感じた仕事もありましたが、捉え方ひとつでどうにでもなるのではないでしょうか。辛くても終わった時には満足感や達成感を得ることが出来るかもしれないし、辛い中にも何か楽しいことを見つければ、仕事の仕方も変わってくるのではないでしょうか。難しいですが、ポジティブに考えるようにしています。私の座右の銘は『日日是好日』です。このような気持ちで毎日を送りたいと思っています」
念願であった海を眺めての仕事。多忙な中で、生まれ育った山々に囲まれた風景に想いを馳せ、有り余る自然の中で育った心豊かな日々を懐かしむ。『ふるさとは遠きにありて思ふもの』のようだ。
●ちょっと一息●
当社はグループ統一のブランドアイデンティティを決定し、持株会社「NIPPONEXPRESSホールディングス」として来年1月4日から新経営体制に移行します。それに伴い140年前から親しまれてきたマル通マークと別れを告げ、新しいロゴマークが誕生します。(新ロゴマークは英文社名NipponExpressの短縮形である“NX”をデザイン化し、フレッシュグリ
ーンとネイビーブルーの2色)子どもの頃から慣れ親しんできたマル通マークが見られなくなるのは寂しい気もしますが、今後とも既成概念に囚われることなく、新しい時代の流れに沿った意識を持って仕事に向き合い
たいと思っています。
個人的には、趣味はこれといってないのですが、釣りと登山、ゴルフと体を動かすことが好きです。故郷で暮らす母親を思い、帰れそうな時には帰省し、噴火前には御嶽山に登っていました。
1968年長野県木曽郡木曽町生まれ。92年名古屋学院大学経済学部卒業。同年日本通運(株)名古屋国際輸送事業部入社。名古屋港、四日市港、豊橋港に勤務し、日通名港運輸(株)代表取締役を経て、2020年現職。名古屋市在住。当所議員。
2021年10月18日(月)
1979年5月5日、半田のまちは祭一色に染まった。半田青年会議所(JC)創立15周年の記念行事『はんだ山車まつり』を迎えた日だった。その興奮は映像として、まつり会場に足を運べない人々(病院や老人施設等)にも届けられた。JCメンバーで、アンテナの設置工事、電波障害対策工事等の会社経営の先代、金澤憲二氏(現会長)も会場から施設にケーブルを敷設し、その日に備えた。
「あの日から41年、当時奔走した人たちの熱い想いを残そうと、昨年にドラマ『1979はじまりの物語~はんだ山車まつり誕生秘話~』を制作し、劇場版として今年11月に公開します。今や半田を挙げて行われる勇壮な山車まつりが起因となり、3年後にCATV愛知として設立した当社は、山車まつりと共に歩んできました。まつりが形を変えてきたように、当社もより地域の方々のためのケーブルテレビ局として、時代の要請に応じた取り組みをしてきました」
長男として生を受け、テレビ受信機器等を扱うマスプロ電工を経て、家業に入社。ケーブルテレビ局(ひまわりネットワーク・豊田市)に出向し、後継者としてのノウハウを学んだ。営業と番組制作に関わり、営業担当者として新規加入者の勧誘と料金滞納者の回収業務に携わり、想像すらしなかった人間模様にも直面した。
「お客さまから金銭をいただくことの難しさを存分に味わいました。企業としてはお支払いいただき成り立ちますが、人は色々な事情の中で生きています。そこをどう解決するか。そのつど提案させていただきましたが、あの時の対処で正しかったのか、今も思い出すことがあります。様々な場面に心が塞ぐようなこともありましたが、人として貴重な経験をさせていただきました」
28歳で自社に戻り、様々な取り組みを始めた。入社当時は、社内では誰もが全般の業務に当たり、分野によってより深い知識を持つ社員は限られていた。打開策として会社の組織化を図り全社員のスキルを上げ、より深い専門性を追求し、社名も変更した。CATVはケーブルテレビの略語であり、今後は有線だけでなく、無線のインターネットの時代である。そして愛知というエリアを限定するのではなく、ニーズに応じた展開をするためにCommunity And Creativeの頭文字を取りCACとし、『地域と創造』を経営理念とした。
「行動指針は『CHANGE AFTER CHANCE』です。新たな挑戦には何かしらの変化が求められます。変わることには時としてタブーも必要ですが、それをタイミングよく取り除くことで、『CHANGE』は『CHANCE』へと変わります。(『CHANGE』のGの一部【T】を取り除けば『C』となり『CHANCE』になります。『変化からの機会』行動指針の頭文字もCACになり、そんな言葉遊びも楽しんでいます)社員には物事を変えていくことに、恐れを持たずに取り組んで欲しいと思っています」
その言葉が示すように、電気・ガス、インターネット、モバイルサービス等、生活が合理的になり豊かになるサービスを提供している。令和元年には知多信用金庫、半田中央印刷と共同でクラウドファンディングを立ち上げるなど企業支援や、地域活性化につながる事業の支援にも尽力し、様々な時代の要請に応え、今年度の当所の創立記念行事『優良会員事業所表彰』を受賞。さらに、昨年はある意味、対局の立場にあるとも考えられるYouTubeチャンネルを開設した。
「YouTubeは主に若者世代が情報を得ているスマホで見ることが可能です。そこでは番組宣伝を流し、気に入ればケーブルテレビを見ていただく流れを想定しています。また、現在は半田、阿久比、武豊(一部)のエリア限定のテレビ局ですが、スマホは日本中で見ることが出来ます。半田で生まれた当社が半田をご紹介でき、今まで育てていただいた恩返しも出来るツールだと思っています」
2代目社長として8年、試みは正解かと自問自答する日々。先代から『経営者は孤独だ』と言われた言葉をしみじみと感じていると言う。
「責任は全て私、だから面白味はあり、追い込まれていく自分を楽しむ余裕も生まれました。ただ誰もがこのような経験をできる訳ではありません。重責であり、苦労はつきものですが、この機会を与えてくれた先代に感謝しています。山車まつりが誕生し半田が変わっていったように、当社も半田がより住みやすいまちになっていくようなお手伝いをしていきたいと思っています」
●ちょっと一息●
地域の方々が登場するドラマを創りたいと構想を考えていた時、半田JCが上梓した『その時、半田の歴史が動いた:三十一台の「はんだ山車まつり」はこうして始まった』と出会いました。当時の最年長メンバーは40歳。41年経った今では生の声が聞ける歳月はそれほど残されていない。『時代を変えていけ』という想いを映像で残したいとドラマ化を決めました。主軸となるキャストは公開オーデションを経た知多半島の人、半田市内でのオールロケをし当局で配信してきました。
好評を得てこの度、劇場版として再編集と追加撮影をし、11月26日ユナイテッドシネマ阿久比で公開することになりました。順次全国で公開し、この映画を通して、はんだ山車まつりを全国に紹介したいと考えています。
当社は来年創立40周年を迎えます。25年を迎えた年に一方が角丸の名刺を作りました。四半世紀ごとに角を丸くし、2082年の100周年を迎える年には角の取れる名刺になります(笑)。人間同様、会社も社歴を重ねて丸くなっていくのも良いのかとも考えていますが、変えていくことを恐れず『CHANGE AFTER CHANCE』の想いは不滅でありたいですね。
変えていくことを恐れず
1975年半田市生まれ。ビジネススクールを経て、95年マスプロ電工(株)入社。2000年CATV愛知(現CAC)に入社し、ひまわりネットワークに出向。03年自社に戻り、営業担当等。13年現職。日本ケーブルテレビ連盟所属。ケーブルテレビ情報センター理事。半田市在住。当所議員。株式会社CAC 代表取締役社長
2021年9月22日(水)
高校を卒業した18歳で社会に出て何が出来るのかと悩んだ。そんな時に工業高等専門学校(高専)への編入の話が舞い込み、『挑戦してみよう』と、在籍校から初の高専生となり、後輩にその道を拓いた。以後もその時々で決断を求められる場面に遭遇したり、突然の辞令交付を受けては、『やるしかない、挑戦してみよう』と、持ち前の気骨を見せてきた。同社で一番転勤(12回の海外赴任の話)を断ったことは、この限りではない。
「卒業後に外資系の医薬品メーカー(東京)に就職しましたが、会社の移転により勤務地がスムーズに決まらないことに痺れを切らし、帰郷しました。タケノコ工場に3ヶ月ほど勤め、縁あって当社の福岡工場(現九州工場)に入社しました。初日に1時間程の研修を受けて、欠員のあった生産現場で働きました。生産に追われていた時代とはいえ、以後も『ポストが空いてしまったから、行ってね』『村尾、兼任せよ』というようなことばかりでした。一貫して生産畑で設備屋として働きましたが、専門用語も分からず入門書や取扱説明書を読みあさり、全て独学でした。今も当時のトリセツを手元に置き、初心を忘れないようにしています」
何かアクシデントが起きれば声がかかり『専任だろう』と頼られる。前日に担当者になった』という言葉を呑み込みながら、メーカーに教えを乞い、根性で乗り切ったと笑う。小学生時代に正しいと信じれば大学生と言い合いをした熱血男児であり、剣道で培った忍耐力は誰にも負けなかった。そして仕事はより早く、精度はより高くを目指し、常に向上心を持ち続けた。仕事がチョコチョコ止まる『チョコ停』を嫌った。落ち込むこともあったが、常に努力を怠らなかった。その結果、気落ちしない精神力に磨きをかけ、いつの間にか愚痴の聞き役という役目を担うようになった。
「名古屋工場の稼働(1987年)に伴い、転勤となった上司の空きポストに私が入り、九州工場長となったのが15年前。そして名古屋工場での会議(各工場持ち回りで工場長会議を開催)の席上で突然、名古屋への辞令を受け現職に就いたのが昨年5月でした。入社してからずっと九州工場勤務。同僚や旧友、家族や体の弱い母を残しての転勤を拒みましたが、今度こそは断れないと観念し単身で赴任しました。九州工場で育ってきた私は九州のスタイルしか知りません。だからこそ、ここに来て見えてきたものはいっぱいあります」
開設以来の設備は旧態依然としていて、そこから手を入れた。設備の改善、部品の整理、照明機器の見直し等、課題は山積しているが、『5Sが行き届かない工場からは良品は生まれない』と会社周辺の草刈りもし、気持ちよく働ける職場づくりを始めた。
「5Sの中で一番大切なのは躾だと思っています。私は同業者、従業員とも互いに良くなることが大切と、胸を割ってきました。そうでないと本当の声は届いてこないと思っています。煩しかったら言ってねと話していますが(笑)。ただタメ口で話すのは他所に出た時に苦労するので、本人のためにはならないでしょうね。
今も九州工場や付き合いのあった広島工場から、ことが起きれば電話がかかってきます。人には得手不得手があります。私でお役に立つことができればと、ついつい管轄外でも現場が止まるという話を聞けば、最優先はお客様だと対処法を検討してしまいます。そんなことが続くと自分の仕事に影響が出ることもあり、一番報告書の提出が遅い工場長のレッテルを貼られています(笑)」
陣取りゲームが大好きで、九州時代は担当者と協力し九州の市場シェア率80%までに成長させた。設備、人材においても最強の九州工場に負けない工場にすることが一番の目標であり、3年以内に気持ちよく働ける職場づくりを整えることを視野に入れる。趣味が仕事のような日々、目標に向かって知恵を絞り汗を流す。
「村尾が来たって何も変わらない、と思われるようでは来た価値がありません。『こう変わった!』という足跡を残すことが必須です。無限に近いほどやることはあります。『やるしかない、挑戦する!』打倒、九州工場です」
●ちょっと一息●
弱い者いじめをしている現場を見ると血が騒ぎ(笑)、小学生だった頃も中学生や大学生に向かっていく怖い者知らずでした。その喧嘩相手とは、なぜか今も親交があります。あまりのやんちゃぶりに、武道をしたら落ち着くだろうと両親から剣道を進められ、少しはその成果があったようです(笑)。高専時代はラグビー、バンド(ギター)と、青春を謳歌しました。
元気が良かったためか、声をかけられることが多く、ボランティア活動にも関わる機会がありました。重度障がい者の人たちと一緒に学園祭に行ったり、今も地元福岡の相撲協力会で子どもに手ほどきをしたり、九州場所で部屋を構える千賀ノ浦部屋の力士に子どもが教えてもらう時に手伝ったりしています。帰郷すれば九州工場の同僚や旧友、消防団の仲間と会い、家は寝に帰るだけです。
現在は、根性論は薄れていく時代になりましたが、何事にも一生懸命でいたいですね。
1964年福岡県糟谷郡篠栗町生まれ。84年有明工業高等専門学校卒業。同年医薬品メーカーに勤務し、86年同社福岡工場(現九州工場)入社。生産、品質管理、生産管理、工場長を経て、2020年現職。半田市で単身赴任中。エスケー化研株式会社 名古屋工場長
2021年8月10日(火)
地元企業で働こうと大学卒業後は名古屋鉄道に入社。同社は入社後1年間は駅務・車掌などの鉄道事業での研修があり、最初の研修配属先は知多半田駅だった。小学1年生の時に東浦町に転居し、知多半島は馴染み深い土地ではあるが、半田との関わりはここから始まった。1年後にはグループ会社への研修出向で、北海道・網走市でホテルと観光船の業務に携わった。ちょうどその頃(1991年)網走流氷観光砕氷船の運行が開始され、立ち上げ当初の業務にも携わった。
「世はバブル期でホテルには日本はもちろん、海外からもお客さまが殺到し、多忙な毎日でした。この業界での働き手は少なく、当時は自分で言うのも何ですが、結構必死に働きました(笑)。再度、網走勤務になった時、ホテルか観光船のどちらの勤務を希望するかを問われ、ホテル勤務を希望しました。大変だった仕事の方が深く脳裏に刻まれ、仲間と一緒に乗り切った達成感が得られる方が、私の性に合っていたようです。今も、あの頃の仲間たちの顔を思い出すこともあります」
人事採用、広報宣伝、文化レジャー、不動産部門と様々な職種に携わった。採用時代には求人のために長崎まで飛び、文化レジャー勤務時には、新しい遊園施設を誘致するために、岡山まで行った。
様々な土地で、色々な人々と出会い、企業人としての姿勢を学び、それは大きな財産となった。
「2007年、名鉄交通に配属以来、タクシーと関わることになりました。名古屋、半田、豊橋、岐阜などで働き、再度半田に現職として昨年の6月に着任しました。タクシー事業は究極の移動手段だと考えています。鉄道やバスは、ダイヤに合わせて駅やバス停まで自力で行かなければ利用出来ません。タクシーは24時間、自分の行動に合わせて自宅まで呼ぶことが出来ます。この事業は、常日頃からお客さまにご利用いただくことで成り立ちます。特にコロナ禍で人の動きが制限されている今、乗車いただいていたことがどれほど有難かったかということが身に染みています。『ご乗車いただけない』ことを経験した私たちは、アフターコロナ時代に向けて、次なる策を考えなくてはなりません。新しい時代に新たな挑戦を、そう考えるとワクワクしてきます」
特に現場の実績が業績に直結する業界での事業継続には、雇用確保の継続も重要な仕事であり、氏の使命でもある。方針を出し、それを達成する方法を考える。同時に事務所スタッフと一緒になって現場で働く人たちの環境を整え支え、縁の下の力持ちとなって仕事をサポートする。コロナ禍の中でも乗務員数がほぼ変わらず推移しているのは、そういう日々の努力が形になっているのだろう。
「乗務員も事務スタッフも、全ての人たちが幸せになることで、会社としても上手く回っていくと感じています。私たちは知多半島を商圏としています。そこに住み働く人々全てに喜んでいただけるような輸送体系を整えること、それも大きな使命と思っています。入社して30年ほどになりますが、社歴から見ると在籍しているのはわずかな期間です。その間に何が出来、お役に立てるにはどうしたら良いのか、常に模索しています。そんな中で、これから先100年、150年と続いていけるような状況の会社にして、次代にバトンタッチをしていくことが出来ればと思っています」
かつて先輩から『次の時代の人が、自然に業務を継続していけるような仕組みを作ること、それが仕事をしたことになる』と言われたという。その言葉が根底にあり、次代のステージ作りに尽力する。見えにくいがために地味に思われがちではあるが、礎とも言える仕組み作りをする。それが氏にとって大きな課題であり、日々思案する。
「振り返ってみますと、今、コロナという禍に見舞われ、社会人となってから一番苦しい時代を過ごしているかもしれません。少しずつ灯が見え始めることを信じて、社員一丸となって今を必死で生きています。だからこそ、この半田での勤務時代のことは、私の仕事人生の中でも印象深く残ることでしょう。やはり、半田とはご縁があるようです。
当社の旅行業はリコリスツアーと名付けています。リコリス(彼岸花)の花言葉は『また会う日を楽しみに』です。またと言わず、いつもいつも皆さまにお会いしたいですね(笑)」
●ちょっと一息●
一時、体を壊し医師からはタバコも禁止されたので、休日は家内と一緒に自宅付近を歩くようにしています。お洒落なカフェでモーニングをし、リフレッシュしています。
子どもも離れ家内との二人暮らしですが、10年ほど前に家内が猫を自転車でひき、以来その猫と同居することになりました。そのうちに近所の方から「猫がいるんだけれど・・」とか言われて、あれよあれよと言う間に、気がつけば、人間ふたりと猫10匹の大家族になってしまいました。家内とも猫の話題で盛り上がり、「最近生まれたばかりのこの子が天寿を全うする20年後くらいまでは元気でいなければね」と話しています。休日は散歩以外は猫の世話で明け暮れています。本来、猫をあまり好きではなかったのですが、今は大好きになりました。
1965年京都府舞鶴市生まれ。小学1年生で知多郡東浦町に転居。1989年中央大学法学部卒業。同年名古屋鉄道株式会社入社。北海道網走市にグループ会社への研修出向、グループ人事採用、本社(広報宣伝・文化レジャー部門)、名鉄不動産、2007年名鉄交通(株)、名鉄タクシーホールディングス(株)などを経て、2020年現職。当所常議員。名古屋市在住。