2024年12月17日(火)
幼年期、祖父母と過ごした時間は、社会人として歩むための師となった。寺院で祖父母と一緒に仏像を眺めた。祖母の主宰する茶道教室の茶会で抹茶をいただき、掛け軸を目にした。祖父と庭の柿や桃を取り食べた。そこにはいつも祖父母の笑顔があった。青年期、地方の過疎化が問題となり、そこで生きる高齢者の寂しさを知った。
「私が嬉しいと言ったら祖父母が喜んでくれたように、例えば地方の高齢者が出荷した野菜の美味しさを、消費者がテレビ電話のようなものを通して直接伝える。そんな社会を作ることができれば、私の祖父母のように生きがいを持って笑顔で暮らせる高齢者が増えるのではないかと思いNTTを志望しました。面接試験で『全国のNTTビルにある通信ネットワークをお借りして、誰もが生き生きと暮らせる社会を作りたい』と生意気なことを訴えました(笑)」
大阪支店の法人営業部に配属され、お客様のビジネスを通した社会貢献を体感し、より一層お客様のビジネスに深く入り込むことで、ビジネスの幅を拡げていった。その想いに沿うように様々な部署に携わる機会を与えられた。従前は役職者だけが務めていた幹部の財界活動におけるサポート役に就いたのは30歳の頃だった。役職者は昇格後にその部署へ戻る例がなく、せっかく築かれた社外との人脈を持続させることが難しかった。再び同部署に戻り、得られた人脈を継続させ、更に広げることを目的として、氏が役職のない担当者の第1号として抜擢された。
「社長をはじめとする経験豊かな幹部の話題は多岐に亘り、幹部と二人きりの車中は緊張の連続でした。日本の文化を語られた時には、私が幼年期に見聞きした知識が役に立ちました。幹部に同席した財界の会合においても、これまでの経験や知識をもとに侃々諤々の議論を行うなど、学びの多い日々でした。生活は安心・安全の上で成り立っています。通信は安心を支えるものであると実感するとともに、自衛隊の方々などの想いを知ることで安心・安全の見方が変わりました。文化や風習、安全保障などを多岐に学ぶことで、物事をより深く捉えられるようになったと感じています。大阪商工会議所など、各地の商工会議所さんとのお付き合いはこの頃から始まりました」
後年、再度財界活動に携わり、培ってきた人脈をフル活用することで、地域の発展に貢献すべく自社と他業界との橋渡しに尽力した。また、関西経済同友会への出向という形で、関西経済界が英知を集結して立ち上げ、「実学重視」の人材育成、「強力な人脈形成」を推進する教育の場『グローバル適塾』の事務局長のポストに就いた。
塾生は毎年30名ほどで、会員企業から各社1名の幹部候補生を選出いただいています。業界知識や経営などは他でも学ぶことができるため、ここでは幹部に欠かせない人間的魅力や文化的素養を養うためのカリキュラムを実施しています。どんな学びが塾生の役に立つのか、多方面にアンテナを張り巡らせる日々において、祖父母や両親と一緒に訪れた寺院や伝統行事がヒントになることも多々ありました。奈良の春日大社での研修では、日本における神の概念や祝詞の意味などから始まり、座禅の仕方などの所作まで学ぶことができました。海外の要人と議論したり、経営者から経営哲学を学んだりもしました。ある時、自らの悟りのために修行し努力することと、他の人の救済のために尽くすことを意味する『自利自他』という言葉と出会いました。私は他人
のためになることが結果的には自分のためになると解釈していますが、私のNTTに対する志望動機とも似通っているので、すっと頭に入り心に響く言葉でした」
光回線を販売する代理店の企画業務、本社法人営業部での総務・人事・労務に関する業務、新設のデジタルマーケティングに関する部署など、常に新たな部署での仕事だった。「自分が何屋だか分からなくなっているが、知らない世界を知ることは面白い」と学び続けてきた。そんな中で相手にも自分にも大切な『誇りと志』を尊重して仕事と
向き合い、社員の成長に心を砕いてきた。
「人は生きてきた人生に誇りを持っています。その誇りを活かす仕事に取り組むことは自己の成長になり、より良い仕事にもつながります。同時に、仕事に対する志によって、成果は大きく異なってきます。相手のニーズにきちんと応えているだろうかと意識して行動することで、初めて継続したビジネスとして成り立ちます。相手と同じ立場に立って取り組む。サポートしながら歩みを進める。色々な形があると思いますが、その場や時代に応じて的確にスピード感をもって取り組むことが重要です。
「現職に就いて1年半ほどになり、会議所さんの隣の当社を含む、県内に8箇所ある営業所を統括する日々です。今後も通信や渉外の仕事を通じて、半田市が元気になるよう地元を積極的にサポートし、地域活性化のお手伝いをすることで社会に貢献します。それが今の最大の目標であり、入社以来の悲願です」
●ちょっと一息●
声をかけていただけるのは嬉しいことなので、誘われたら断らないことにしています。高校に入学して、誘われるがままにアイスホッケー部へ入部し、今も平日の夜や休日に楽しくプレーしています。アイスホッケーはチームワークが勝敗を決めると言っても過言ではなく、仲間とのコミュニケーションは大切な要素です。そんな所から、私のコミュ力も養われたのかもしれません。単身赴任中の今は、練習からどんなに遅く帰っても叱られません(笑)。自分の時間を楽しんでいます。
常に充実した日々を過ごせるよう、色々な趣味を持つ人たちとSNSを通して情報交換をしています。名古屋に転勤になった時にも、アイスホッケーに関するSNS仲間から今所属しているチームを紹介いただきました。「ここで楽しいことがある」という仲間からの情報で、いそいそと出かけます(笑)。知らない世界を知ることは学びがあり楽しいことです。特にその道に生きる人の話は興味深く、刺激をいただき元気をもらっています。私から積極的に声をかけていく。そのことも心掛けています。
1974年大阪府吹田市生まれ、名古屋市在住。97年関西大学経済学部卒業。日本電信電話㈱(現西日本電信電話㈱)入社、大阪支店法人営業部配属。本社総務部秘書室(財界)、広島支店代理店営業企画主査、北陸事業本部代理店営業企画課長、本社法人営業企画課長(総務、人事、労務)、本社スマートビジネス営業部課長(デジタルマーケティング)等を経て2023年現職。当所議員。
2024年11月1日(金)
布施工場(東大阪市)で、ユーザーの要望に応じて、物質同士を反応させるサンプル作成が、社会人としての第一歩だった。新たな物質を作る面白さ、合成した物質を分析し新素材や最先端の『ものづくり』に触れ、ひいては社会貢献にもつながるこの仕事は性に合い、やりがいのある日々を送り、充実したスタートを切った。
「その後、福井工場開設に向けてのプロジェクトチームの一員として移設のための実験を重ねました。3年後の1993年、同工場の操業開始に伴い製造課に配属されました。入社5、6年目の私は、上司からの指導で製品を作る毎日は、チームで取り組む仕事で、『ホウレンソウ(報告・連絡・相談)』を大切にしてきました。仕事を任せてくれた上司との出会いは私の成長にもつながり、後年部下を持つようになった時もその上司に倣い、『部下の成長は仕事の一つ』として応援してきました」
福井工場操業開始までの3年間は仲間との関わりを重んじ、生まれ持ったコミュニケーション能力を存分に発揮した。同時に聴く力を養ったのもこの時期であり、恵まれた環境にいたと感謝する。研究室と製造現場で働く日々であったが、突如として営業課長(本社)の席が回ってきた。時はバブル期、好景気で注文に生産が追いつかず販売調整に苦慮し、原材料の値上げラッシュで商品価格の高騰が続いた。
「値上げ折衝行脚が始まりました。扱い商品を製造し現場を知っている強みがありましたので、論理的に説明するようにしてきました。値上げ折衝時、妥協点のすり合わせの権限は与えられていましたが、一円の値上げでも業績に大きく反映されます。権限を与えられることは嬉しい反面、責任の重さを実感し、やりがいを感じながらも、自宅では悶々とした時間を過ごしていました。ひたすら頭を下げて値上げに納得していただくことは非常に苦労しましたが、一番の思い出として残っています。営業にも慣れ、今後の対策を立てていた2年目に組織再編により異動になり、後ろ髪を引かれる思いで、寝屋川工場に赴任しました」
後に、様々な現場を経験し、寝屋川工場・福井工場長を経て、2022年2度目の半田工場に工場長として帰ってきた。同社の全3工場長に就いた初のケースで、他工場を知り尽くしているからこそ、半田工場の取り組みや改善に的確に対応した。1975年、市内日東町への企業誘致と同時に操業開始した半田工場は臨海部に立地し、施設の老朽化が最大の課題で、10年間ほどのスパンで整備計画に沿って工事を進めている。
「赴任時は整備計画が始まって3年ほど、全社で施設の老朽化は大なり小なり課題になっているので、目新しいわけではありません。しかし製品が売れ続けていく中で、生産プラントを一定期間停止して整備をするためのスケジューリングが難しく、信頼できる部下と話し合いながら進めています。私は常にみんなで話し、相談しながら、全員が納得する方向で物事を進めてきました。自らの意見を発言したり、相談できる環境作りに努め、人の話を聴く『傾聴』も私の仕事と考えています」
会社生活37年の間には、新製品の誕生、予測できない事態が勃発するなど様々な場面に遭遇してきた。生産現場で互いに意見を闘わせ、みんなで力を合わせる『ものづくり』は楽しくもあり性に合う仕事だった。反面、火災・爆発等の危険と隣り合わせという宿命は化学工場では避けられない。24時間体制で土日も関係なく操業を続ける中で、製造課長時代は連日連夜、緊張の連続だった。夜遅く電話がかかってくると不安に慄き、電話恐怖症になりそうだったと振り返る。
「工場長の仕事は通算11年目を迎え、達成感を感じながら日々の仕事と向き合っています。今年度末に定年を迎えますが、この会社に入って本当に良かったと思っています。会議所さんが事務局を務め、日東町内の企業で構成する『日東会』に代表幹事としても関わらせていただき、半田をより知ることができ、様々な業種の人と交流し、色々なことを学びました。
そして、これまでつくづく上司に恵まれた会社人生だったと感謝しています。私自身、多くの人に育てていただき、一番大切に考えている
『聴く力』が育ったのも、尊敬する上司との出会いがあったからこそです。人は仕事を通して成長し、成長に終わりはなく、成長した姿を見ることは嬉しいことです。社員を大切にして人財を育てることは、立場が上になればなるほど求められてくる要素だと思い、常に心掛けています。先輩たちに育てていただいた恩を、会社を背負ってくれる次世代の人を育てることでお返しする。それが今の私にとって最大の仕事だと思っています」
●ちょっと一息●
福井で3年、半田で3年目の単身生活です。自炊はしていないので、台所は綺麗です(笑)。福井時代は外食できるところは殆どなくコンビニ弁当という日が続きましたが、半田ではその点は助かっています。栄養補給は、会社の昼食時の仕出弁当に頼っています(笑)。また、私はインドア派で休みの日も自宅でテレビやYouTubeを観たり、気ままな単身生活です。趣味は寝ることです(笑)。
当社は定年後、再雇用を希望する場合は「採用地で勤務」という規定があります。これからのことはまだ考えていませんが、働くなら奈良の自宅から通うことになるでしょう。近くには孫もいますから、それもいいでしょうね。孫の成長は楽しみが尽き
ませんね。
1965年和歌山市生まれ、半田市在住。87年立命館大学理工学部化学科卒業。同年、大八化学工業㈱入社、大阪布施工場技術センター配属、福井工場、半田工場、本社等、寝屋川・福井工場長を経て、2022年現職。当所議員。
2024年10月2日(水)
就活時、金融業界は人気企業だった。二人の兄が金融業界に身を置き、同社に在籍する次兄の友人から「日本団体生命保険(現アクサ生命保険)は、いい会社だよ」と助言を受け、入社し37年が経った。
「入社以来、春日井営業所を皮切りに、営業社員の指導や育成に携わってきました。当社は商工会議所会員企業の福利厚生制度(生命共済・退職金共済制度、リスク対策や事業承継など)をサポートしています。私は商工会議所に育てていただいたと言っても過言ではなく、現在も県内の尾張地区13商工会議所とお付き合いをさせていただいています。今まで四国、沖縄以外の営業所に勤務し、仕事内容や出会う方も様々で刺激を受けながら、充実した日々を送ってきました。赴任地では休日に付近の観光へ出かけ、北海道ではスキーやスノボ、キャンプ、銚子海岸ではサーフィンを楽しむなど、旅行が好きで何にでも挑戦したい私はそれぞれの土地を満喫し、転勤は好きでした。ただ、何度も転校した子ども達は友人との別れを繰り返し可哀想でしたね」
26歳で営業所長となり、54歳で支社長に就任。今年1月に現職に就いた。人々との出会いは楽しかったが、慣れない地域性に戸惑ったり、戦場と化したようなアクシデントに遭遇したこともあった。どんな時でも相手の自主性を尊重しながら、しっかり話を聴き、話し合いながらコミュニケーションを図ることを大切にしてきた。それによって社員の心を一つにして、同じ方向を向き目標を目指してきた。
「時として自分と闘うこともありました。あれこれ失敗もありましたが、リスク管理をしながらプラス思考に捉える大切さを仕事を通じて学びました。どんな時にも判断するのは自分自身であり、諦めずそれを克服することによって、新しい世界が開けてくると信じています。私自身、こうと決めたら粘り強く挑戦し続けてきました。へビ年だからでしょうか(笑)。
色々なことにアバウトなのですが、拘ってきたことはただ一つ、『数字を達成する、成果を出すこと』だけです。体力や精神力、決断力を求められる時も多々あり、学生時代にテニスで体力、空手で精神力や集中力が養われたことが役立っていると体感しています」
拘ってきた数字の達成はその粘り強さ、精神力が形となり、今年上半期(1月~6月)は全国41支社の中で5位の成績に輝いた。また、それぞれの営業所が商工会議所と連携して実施する商工会議所共済『ベストウィズクラブキャンペーン』で半田営業所は今春、2年ぶりに目標額を達成。全国515商工会議所の中で、上位10%に入る順位を獲得した。
「社員が頑張ってくれたこと、当社の半田営業所と半田商工会議所との連携を密にしたことが最大の要因だと思っています。元々、日本団体生命は1934年に日本商工会議所が設立し、初代会長は商工会議所会頭でした。支店によっては会議所の専務や常務が支店長を兼ね、共済の推進は職員が担当というほど縁の深い会社であり、まさに商工会議所と共に歩き、成長してきました。この10月からは(11月末まで)秋のキャンペーンが始まります。会議所職員さんと、私どもアクサの担当社員が会員事業所にお伺いします。この機会にぜひご検討いただきますようお願いいたします」
入社以来、一貫して人と会うことが仕事とも言える営業の最前線で働いてきた。保険営業の中で一番困難であり、かつ大切なことは人間関係の構築であり、『営業は物を売るのではなく自分を売る』ことが本質であると、経験を重ねながら体得してきた。営業所長を統括する立場にある今はそれらの学びを活かし、次なる目標、名古屋支社と尾張地区13商工会議所のより密な連携を図り、全支社の中でナンバーワンになることを目指す。それは会員事業所福利厚生制度が充実した証でもある。また、『第一印象は視覚情報が55%』とも言われているが、健康経営を売る会社の健康経営推進シニアパートナーとして健康に拘り、自らの体型を維持し健康も保持してきた。
「自分自身の健康寿命を伸ばしたいこともありますが、週の半分くらいはお付き合いでアルコールを飲む機会があり、体調管理を心掛けています。基礎代謝を上げるために、食べ物に気をつけ、平日はジムで10キロほど走り、土・日は家の周辺をランニングしています。旅も心の健康を保っているのに役立っているかもしれません。途上国への旅行には家族は付き合ってくれないのでバックパッカーとして旅します。その国を通常3万歩ほど歩き文化に触れ、経済の流れなどを見て、個人的に視察をしている気分です(笑)。今年のお盆休みは一人でハワイでサーフィンをしてきました。そういう趣味を楽しむのも有意義な旅です」
好きな酒を飲むために走っていると苦笑するが、走ることは頭の中で物事が整理でき、気力も湧いてくる貴重な時間であり、健康維持のためにも酷暑の夏でも積雪する極寒の中でも走り続けてきた。スポーツから培った『初心貫徹』は、生きるための大きな財産となっているようだ。目標に掲げた『全社ナンバーワン』。粘り強い挑戦を続けることによって、それは近い将来、形となって現れるだろう。
●ちょっと一息●
16年ほどの単身生活中は、たまの週末に家族のもとに帰るというパターンでした。その時は家族揃って歓待してくれて(笑)、その延長線で今も家族一緒に行動することも多く、旅行も一緒に楽しんでいます。体育会系の家族で各々が「やるからには、優勝を目指す」と向き合ってきたので、みんな元気で根性は座っています(笑)。今も家族で一緒にテニスをすることもあります。運動した後の家飲みはいつものことで、息子や娘の友人も集まってくることも多く、私もその中でしっかり自分のポジションを確保して楽しんでいます。
1965年岡崎市生まれ、名古屋市在住。1988年中京大学商学部卒業。同年、日本団体生命(株)入社、春日井営業所配属。小牧、尾鷲、鹿児島、栃木、新潟、長野、札幌、千葉、福島、
三重などの営業所長を勤め、旭川支社長を経て、2024年現職。健康経営推進シニアパートナー。当所議員。
2024年8月30日(金)
祖父君、父君とも社長という経営者一族の長男として(3人兄弟)生まれ、『経営者としてあるべき姿』は既に刷り込まれていたが、音楽が好きでカラオケ機械メーカーに入社した。どうしたら高得点を出せるか?気持ちよく歌えるか?を昼夜考え、機材やマイクの調整や保守のために自ら歌うことが仕事だった。
「趣味と仕事がマッチした順風満帆な8年間のサラリーマン生活でした。2010年に祖父が会長を務めていたカナマルの顧問から、後継者として戻ってきて欲しいと連絡がありました。こんなに楽しい毎日と別れるのは嫌だと思いましたが、『自分の運命』と受け入れました。全く違う業界で何も分からない上に、リーマンショックの影響で売り上げもダウンし、地を這うような状況下での入社でした。その後、病で社長が辞任、仕事も減り3日出社して4日休みという中で社員の士気も下がり、自分の無力さを痛感する日々でした。何とかしなければと「頑張って行こう!」と社員らに声がけをしても「こんな会社のためになんで頑張らんといかんのだ?お前が宇宙人に見える!」とさえ言われました。私自身も『引き継ぎもなく、赤字会社を丸投げされたか…』と憤慨しながらもやるべき事をやっていました」
2011年、中小企業家同友会に入会し、書籍『人を活かす経営』の一文『経営者はいかなる困難な状況にあっても、原因を他に求めたり諦めてはいけない』という言葉と出会った。その瞬間、全身に激震が走り、他責思考であった自分を深く恥じ、以後は全て自分事として捉えるようになった。社員と一緒に課題を解決し、経営理念や方針を掲げ、同友会の仲間にも包み隠さず悩みを打ち明け、アドバイスを受けた。現況を打破するためにやるしかないと自分を追い込み、一心不乱に働いた。
「2012年、社長就任時に会社を立て直していくことを宣言し、全社員と意を共にしました。以後、従来からの仕事、クレーンの重要部品の製造のみから業務拡大するため社員が一丸となり、今では建設機械、産業機械、各業種(輸送機械など)の溶接・機械加工・塗装・組立加工による製造業務を獲得しました。社員の結束力・技術力が花開いた結果だと感謝しています。一人では1馬力、複数では人数以上の馬力が出ることを実感しました。当社は図面1枚から材料手配-溶接-加工塗装-組立まで一連の工程をワンストップで対応できる強みがあります。その強みを実現するのに欠かせない広い工場と多様な設備を完備しています。また、得意とする厚い鉄同士の溶接は外面からはその品質は分かりません。しかしながら、当社の技術力を信頼していただけ
ているからこその仕事であり、付加価値の高い仕事に携わっている社員が誇りであり、カッコいいと思っています。夏は暑く冬は寒い工場内で、一生懸命モノづくりをしている社員たちには感謝しかありません。私自身は現場の仕事は分からないし、中途半端に関わっても邪魔になるだけなので、現場の作業は任せると決めています。自分の経験を会社の成長につなげて、社員みんなで成長していけるような、共に育つ関係でありたいと思っています。経営理念は『私たちは夢を形にするものづくりに挑戦します。私たちは笑顔で地域社会に愛される会社になります』です。「こんなものが欲しい」「あんなことに困った」など、多品種少量生産のお客様の要望(夢)も形にするために、知恵と技術と情熱でお応えするスペシャリスト集団です。主役はいつも人です」
社長に就任して12年。台風19号(2019年)の襲来により取引先の災害、コロナ禍など、時々壁にぶち当たって崩れそうになった時もあったと語るが、昨年工場を耐震補強して次代に向けて歩みを進めた。『AI時代が到来する』と言われる昨今、広大な工場や設備などを必要とするこの業界への新規参入はほぼなく、廃業する企業が増えているのが現状のようだ。技術力を誇る同社は、これからを担う人材育成に注力し、市場を拡大してきた。
「当社は新規受注も増え、間違いなく伸びていきます。モノづくり歴107年、積み上げた経験と実績が証です。1917年、金丸勇氏が糊付機、整経機及び織布準備機械の製造販売会社として金丸鐵工所を設立した当社は、1980年に資金的に行き詰まり倒産しました。業界にとって重要な機械製造に関わっていた当社が無くなると繊維業界に悪い影響が出るということで、当時繊維に関わっていた祖父の石川三三に白羽の矢が立ちました。負債額14億円を5年で再建しましたが、国内での繊維業界の衰退に伴い、90年(株)カナマルとして『建設機械の部品製造業』にシフトして行き、現在に至っています。今も祖父を知っている人に出会うと「偉大な人だったね」と孫である私を可愛がってくださる方も多くいます。そんな祖父を持ち光栄だと思っています」
創業者は米騒動が背景にある時代、繊維に着目して人々が少しでも豊かになることを願った。その使命感と不屈の精神が脈々と同社に受け継がれている。
「その継承は重いのですが、世の中のお役に立つためにチャレンジし続けます。それが私の使命です」
●ちょっと一息●
両親はビートルズ世代でいつも家には音楽が流れていました。父(家業の石三織布代表・当時)がギターを弾くのに影
響されエレキギターに夢中になり、だから大学は電気科に進みました(笑)。その頃からバンド活動をしてギター・ボーカルを
担当、大学を2年間休学して音楽活動に没頭していました。本当に自由に好きなことをやらせてもらって感謝しています。
そのツケが回ってきたのか(笑)、戻ってきてからは偉大な祖父のプレッシャーに押し潰されそうになりながら、娘が生まれ
た時も「会社が倒産したら育てることができるか?」と不安でしかありませんでした。その娘も今は4歳になり、私の好きな
釣りの英才教育をしています。そんな家族との時間は、日々の忙しさを忘れさせてくれるかけがえのない時間です。
1976年半田市生まれ。2002年大同工業大学電気科卒業。業務用カラオケを扱う(株)エクシング勤務を
経て、10年(株)カナマル入社。12年現職。愛知中小企業家同友会南尾張支部副支部長。当所議員。
2024年7月31日(水)
時代性、企業方針、上司や仲間、様々な出会いにより、歩む方向が左右されることがある。2度の大きな岐路に立ち、上司の強い勧めの結果、現在がある。形の見えない商品を売るからこそ、人間味あふれる企業ではないか?そこの一員となり刺激を受けながら成長したいと同社を志望。地元大阪で自宅通勤を希望し、一般職枠で入社した。
「実際に仕事をすると、事務職というイメージはなく保険代理店の事務支援をしながらの営業活動でしたが、社内業務に満たされていたので、外での仕事はそんなに積極的ではありませんでした。28歳で愛知県で働く夫と結婚する時に退職届を提出しました。その時に当社でIターン制度が導入され、上司から「制度を活用したら」と勧められ、考え抜いた結果、関西から東海エリアへ異動しました。当時は女性活躍推進の取り組みが始まり、女性の営業社員も増えてきている中で、女性が無理なく営業活動ができるかを模索するお役をいただきました」
通常、保険を販売する代理店は、商品等については営業社員、事務的なことは事務方が、担ってきた。その両方の業務経験者から指導を受けることは社員、ひいては代理店にとっても効率的でありメリットも多く営業推進の仕事は打ってつけだった。自身では営業スキルの弱さを実感しながらも、事務を経験してきた強みをどう活かせるかと思案し結果を出してきた。
第一子を授かった時に、再び岐路が訪れた。社内で産休・育休後に職場復帰するケースはあったが、勤務する名古屋自動車営業第二部ではまだその例はなくイメージも湧かず、「仕事を続けることはできない」と退職という結論に達した。その時、上司から「できないと決めて辞めるのはおかしい。できなかった時に判断すればいい」と諭された。
「周囲の方に恵まれてきました。次女の育休を終えた後も、時短勤務やサポートをしていただき、本格的に仕事に向き合うことができるようになったのは、10年ほど前からです。入社した時から与えられたことに責任を果たそう、社内の仲間、代理店さん、お客様のためになりたい、自分が担当した意味を見出したいと思い、それらが実践できる方法を考え続けてきました。ひたすら目の前のことをやっていたら、時が経っていたという感じです。色々な偶然の積み重ねに感謝しています」
3年前、半田支社に担当課長として赴任となり、昨年4月に現職に就いた。同社は一つ上のポジションの視点で仕事をすることを課しており、半田支社に赴任以来、「支社長ならどうするか?」と自問自答しながら仕事に向き合ってきた。支社長の椅子は着任時から既定路線ではと言われることもあったが、実際にその役職に就いた時から、リーダーとしての視点で物事を見ていく自身の変化に驚いたと言う。組織として最大限の結果を生み出すための対策を講じ、地域貢献を最大目標とした。それには一人ひとりが最高のパフォーマンスをし、目指す目標に向かっていくことが大切であり、社員を知り、コミュニケーションを図るために月1回は1対1での面談を実施している。同時にそれぞれが自分の歩幅でいかに成長できるか。それをサポートしていくのが使
命であり、『寄り添う』ことがごく自然に備わってきたと振り返る。
「一般的に描くリーダー像は、営業の第一線で戦い、リーダーシップを兼ね備えている人というイメージではないでしょうか?私は事務職の期間が長かったので、そういうリーダー像とは異なっていますが、一人ひとりの想いを大切にしたいと思い『寄り添う』ことが私にできることと考えるようになりました。当支社は女性が7割を占める職場で、そんな女性たちの悩みや言い分を、同性の私なら理解できる部分が多くあります。男性リーダーではスパッと言えることも、その気持ちが分かり過ぎるために戸惑ってしまうこともあります。そこが私の弱さだと思っていますが、役割として言わなければいけないことは言うように努力しています。『女性は感情の生き物』と言われることがありますが、感情を抑えて、言い方には気をつけていますが「今の言い方で良かったかしら」と常に悩んでいます。涙もろく、嬉しい時、楽しい時には自然に感情が前に出てしまいます。最近は、組織を育てることは子育てに似通っているかもと感じています。おかしな表現かもしれませんが、メンバー全員を愛おしいと感じるようになってきました」
まだまだ男性社会の業界であり、男性部下との同行時には、対面者が最初に名刺を差し出すのは男性部下、ということもよくあるようだ。「やっぱり!」「女性だから信用されていないのか」と思い悩むこともあったが、いつしか「女性支社長として覚えてもらいやすいのが利点」と前向きに捉えられるようになった。昨今でも女性だから頼りないと印象を持たれることもあるようだが、『頼りない』からスタートし、その力量を発揮すれば『なかなかやる!』と高評価に繋がり、それも女性ならではの利点と微笑む。
『事務職に精通』という強みを携えながら、時代性、企業方針、仲間たちとの出会いで道を拓いてきた。明日からも様々な経験を積み重ねながら、いくつもの強みを築き、新しい形のリーダーとして歩み続けるだろう。
●ちょっと一息●
長女の育休中に聴講した勝間和代氏の講演会で「仕事、育児、家事の全てを70%で頑張ったら合わせて210%。満
点の100%から考えれば十分な数字、自分を誉めてあげましょう」というお話を伺い、フッと楽になれました。それからは仕
事100%にして目は子どもを見るとかバランスを取りながら生活をし、全てに完璧さを求めることは止めました。共働きです
ので子どもが小さい頃は淋しい思いをさせたことがあったと思いますが、今では娘たちから「仕事辞めないでね」と言われ
ています。ずっと私が家にいると困るようです(笑)。
趣味はテニス、アウトドア(キャンプ)、お料理も好きです。子どもたちがお弁当持ちになって、家族4人分のお弁当を作
るようになりました。手際のよい私は30分もあればパパッと作れます。少し自慢です。私の好きな時間は家族で過ごすこ
と。今年のお盆休みも家族旅行を計画しています。私専用のビールサーバーからビールを飲む時間も好きです。嗜むほど
ですが(笑)。
1975年、神奈川県横浜市で生まれ、大阪府茨木市で育つ。99年同志社女子大学生活科学部卒業。同年、東京海上火災保険(株)大阪自動車営業第二部入社。2005年名古屋自動車営業第二部に異動。21年半田支社赴任。23年現職。半田ロータリークラブ所属。東海市在住。当所議員、金融部会副部会長。