

2022年12月27日(火)
30年ほど前に当所青年部会長を経験した後、議員に就任した。過去、その例はなく、『初めてづくし』は、ここから始まった。以後、副会頭(二期)を経て、今年11月からスタートした新体制の舵取りを担う第16代会頭に選任された。若干63歳。若き新会頭は今までの人生を、時には苦しみながらも、軽やかに楽しく自分らしく生きてきた。小走りにその道程を振り返ってみよう。家業を興した父君、松石正也氏からその幕は開けられた。
「ギターが大好きだった父が、常滑から半田の縁戚者の模型店に勤めたことが、今につながっています。当時の模型店は小学校に粘土細工を納めていて、そこから発想を得て楽器を小中学校に納品することを思いついたようです。常滑で店舗を持たず電話1本引いて、商いを始めたのは1952年でした。自転車で名古屋まで仕入れに行き、時には美浜まで商品(カスタネット、リコーダー等)を届ける。主な交通手段が自転車で、大変な労力だったと想像を巡らします」
知多半島で初めてピアノを受注したのは豊丘小学校で、ヤマハがある浜松駅から国鉄(現JR)半田駅に運ばれ、そこからトラックで現地まで届けた。村あげての歓待を受け、音楽を届ける楽しさ、やりがいを存分に味わったようだ。1958年に半田に進出し、奉之氏が生まれた59年に、知多半島で最初の『ヤマハ音楽教室半田会場』をスター
トさせ、以降、知多半島各地に音楽教室を開設した。
「店舗の2階が自宅で、音楽と共に育ちました。4、5歳の頃にオルガン教室に通い3回目のレッスンでやめました。その後、ピアノ、エレクトーン教室にも通いましたが、いずれも挫折しました。エレクトーンは3 年間やりましたが、私がエレクトーンの前に座ると、まずため息をつくんですね。それを見た先生から「かわいそうだからやめさせてあげてください」とクビを言い渡されました(笑)。楽器店の子どもだから、やらなければいけないというような押し付けられ感が嫌だったんですね」
自ら選んだ楽器は父君が好きだったギターだった。中学からギターにハマり、高校時代にはバンド(ベースギター担当)を組み、同社主催の『高校生バンド合戦』(1972年より始まる。以来、若者層を中心としたバンドコンサートを開催)に出場した。優勝候補だったようだが父君から「息子を優勝させる訳にはいかない」と言われ、「グレてやる!」と息巻いたと笑う。高校時代はバンカラで通し、学校祭で応援団長としてクラスを引っ張った。まさに学園ドラマを地でいくような、伸び伸びと愉快な時代だったようだ。
「勉強が大嫌いだったので、遊んでばかり。東京の大学に行こうと受験し、その時におたふく風邪に罹ってしまい、言い訳になってしまいますね、見事全部不合格。滑り止めの大学に入りました。入ってもマルクス、レーニンなんて何も分からず面白くない。またまた楽しく遊んでいました。こんなめちゃくちゃなことばかりしていたのですが、面白いことに父は私に好き放題やらせてくれていました。そんな私も就職を考える頃になり、シェフになろうと思いました。でも修業もきつそうだし、大企業への就職も難しい。父が商売をしているのだから、私だって出来るだろう。跡を継ごうと、後継者枠でヤマハに入社しました。同期は優秀な人ばかりで、気後れしながら社会人としての毎日が始まりました」
その頃には楽器購入のための積立制度も出来、その契約を取るための飛び込み営業が研修時代の日課だった。一日200件以上を回ることを課せられ、精神力を試され足を棒にした。「かわいそうだね、付き合ってあげるね」と一生懸命さに打たれて、契約を交わしてくれたこともあった。とにかく必死だった。その熱意がカタチとして表れ、全国3 位の成績を収めた。配属された横浜支店では広いフロア全体を任さ
れ、3つの教室の運営、エレクトーン販売(当時は花のエレクトーンと言われ、エレクトーンが人気だった)と多忙な日々を送った。
「部下が5、6人とアルバイトスタッフと一緒に、イベントの企画や営業をしていました。営業は凄く頑張っていて、買って欲しいがために玄関先で土下座したこともありました。買ってもらってそのお宅から出てきたら、『何で土下座しなくてはいけないのか』と悔しくて涙が出てきました。色々学んだことも多く、メーカー直営店なので、都会と田舎の商売の違いを肌で感じることが出来ました。一番良かったのは人脈が広がったことですね。今では同期が役員になる年齢になって、現在のヤマハ本体の社長は同期です。そんな様々な出来事と色々な人との出会いが、今の私を作ってくれました」
いつも一生懸命で、真剣に課題に向き合い常に業績を残した。その裏には何の秘策があるかと問うと、『人との付き合いが良くて、付き合いを大事にしてきました』とサラリとした返事が返ってきた。その生まれ持った資質は両親からの大きな贈り物であり、自らの努力に他ならないだろう。後継者枠採用者は3年という雇用期間を経て、半田に帰ってきたのは25歳の時だった。企業人としての第一歩がスタートした。
後継者として仕事を始めた頃、楽器業界は右肩下りだった。ショップ長として最初の取り組みは、『売れる』ことに慣れてしまった従業員の意識改革だった。『息子が帰ってきて、何かやり始めたらしい』という声も届いていたようだが、現状を見つめ、対策を試み、時代に適応する体制が整った。後、新店舗を任せられ、店舗設計から採算計画、組織作り等を図ったが、目標を達成することは前途多難な時代だった。
「父は病気がちで、会社も不調、経験も浅い私は八方塞がりの状況に追い込まれました。そんな時に手を差し伸べてくれたのが地元の金融機関でした。青息吐息の中で、大きな転機となったのは2年前、碧南の楽器店のM&Aでした。大きな冒険をするのか思い悩みました
が、会社を維持していくためにマーケットを広げ、経営の効率化を図ることにより利益率を上げていくことを狙いましたが、今も、もがき続けています。厭わないのは体を動かすこと。課題が山積している今、行動するしかないとお盆休み以降、1日も休んでいません」
社業と向き合いながら、当所青年部、青年会議所、ロータリークラブ、ジュニアブラスバンド、国際交流協会と様々な活動に関わってきた。2005年愛知万博時の、半田市のフレンドシップ相手国のブータンとは関わりが深く、現在もブータンの学校から障害者のためのスロ
ープを作りたいと、半田ロータリークラブに援助を求めてきている。そのお世話役として、手を尽くす毎日である。『頼まれると断れないので』と笑うが、まちのため、未来の子どもたちのために尽力し続けている。当所の青年部に入会したのは29歳。その6年後、1994年・1995年に会長を務めた。
「一番印象深い思い出は、阪神大震災時に救援物資を届けたことです。震災当日の夜にメンバーに召集をかけ、不足している品を聞くために、西宮市役所に電話し、連絡がついたのは数時間後でした。翌々日に水、トイレットペーパーを持って半田を出発しました。私は現
地に行けなかったのですが、メンバーは一日かけて神戸まで行き、大変な思いをして届けてくれたことに感謝です。当時はサンタクロース事業もあり、面白かったですね。いろいろ勉強会もさせてもらいました。青年部を卒業する頃、父が亡くなり1991年私が職務執行者に
なり、43歳で議員になりました(昨年、日本商工会議所から永年勤続議員20年表彰を受賞)」
『青年部出身者から議員を!』は、前任の東浦優至青年部会長の悲願だった。その流れを初めて作り、今では青年部出身者が議員として活躍している。その後、副会頭を経て、当所で初めての青年部出身の会頭(全国的にも珍しいケース)としてスタートを切った。
「今までは、経済界に力を持った立派な方が会頭を務めてみえました。常滑から出てきた新参者で、小さな商店の私で良いのかと悩みましたが、コロナ禍で疲弊している今の経済界には、私のような中小小規模事業所の感覚がお役に立てるならとお引き受けしました。設立発起人総代の竹内彦左衛門氏は明治26年の創設時に『知多郡は20町村あり、西東南が海、鉄道、海運に恵まれ、百貨が集まるこの半田に知多商業会議所(現・半田商工会議所)を作り、皆が共存して商いをしていく』と宣言されています。みんなで地域を盛り上げ、みんなが良くなっていく、会議所のこの原点に立ち返ることが大切ではないかと考えています」
みんなが良くなっていくことは難題であるが、今、事業所はDX推進、電子帳簿保存法、SDGs、健康経営などの課題を控えている。先ずはそれらを会員事業所に的確に落とし込み、支援をしたい。また、会員企業2,450社(10月現在)を見ているだけでなく、その先にいる人、そこで働く従業員10万人ほど全ての人が幸せになっていくような、事業の実施が重要と語る。榊原康弘前会頭が実施した職域ワクチン接種のように、そこに働く人が、安心して働くことのできる職場環境の提供が必要と言葉を添える。そして会議所で大元になる部会活動に正副会頭が関わり、理解することも大切だと語る。同時に部会運営組織の中に青年部メンバーが所属することによって、活性化の大きな力になりうるだろうと期待する。
「私自身も体感したことですが、青年部の人たちは、若さ故に失敗もあるかもしれませんが、怖いもの知らずで取り組んでいくパワーを持っています。でも、年を重ねると経験値で発言しがちで、決めつけてしまうことも往々で、そこに新しい発想は生まれません。青年部の若い力を活用したいと思案しています。また、榊原前会頭時代はコロナ禍によって後半は殆ど事業を実施出来ませんでしたが、コロナ禍以前に会頭がなさろうとしていらっしゃった実効性のある事業をぜひ引き継いで
いこうと思っています。例えば地域別会員懇談会や行政や市議会議員との意見交換会など、開催できたらと思っています。文書のやりとりだけではお互いの想いは通じません。膝を付き合わせて、話し合うことが大切だと考えています。私が青年部時代、会頭は遠い存在で雲の上の人でした。でも私は歴代の会頭とはキャラクターが違う、身近な存在です。そういう意味では初めてのタイプかもしれませんね(笑)。積極的に話し合いの場を設けたいと思っています」
家業に関わる音楽は、時として人々に勇気と希望を与えてきた。東日本大震災時にも、被災後で開かれた慰問コンサートに涙を流し、生きる勇気をもらったという人々の話が、巷で言われていたこともあった。
コロナ禍の中でもしかりである。
「文化・教養は時として重要なポジションを担うことがあるように感じています。外に目を向ければ、このままいけば日本の経済力は間違いなく低下し、国際社会の中で物を言える日本ではなくなっていく傾向にあると考えています。しかし、日本人が文化・教養を身につけるという方向に向かえば、諸外国の人々も日本の立ち位置をきちんと理解してくれるのではないでしょうか?それは地域も同じことが言え、半田も一定の経済力を維持・拡大しながら、ここに住む人たちの文化・教養度を高く、明るく心豊かに生活できる地域づくりを目指すことも大事にしていきたいと思っています。モノだけではなく、人の心の問題も重要で、音楽や芸術に触れることで癒され、勇気をもらうことは人間が享受できる感覚であると思っています。『心に音楽を まちに文化を』を忘れないようにしたいと思います。音楽に携わる者として、そういう側面からお手伝いできれば嬉しいですね」
いつの世も時代に即した対応が必要で、現在は企業に変化が求められるように、会議所こそ変化の先頭に立って、様々な意識改革を進めていくことが重要な時代に到来したようだ。それにはそこで働く、会議所職員のモチベーションを向上させ、もっと働きやすい職場環境に整えることが大切であり、会議所は中小小規模事業所を引っ張っていく体質に変わっていかなければならないと言う。
「例えば、就業規則一つとっても一般企業より遅れていないか。働き方という部分では、サービス業的な感覚を持っているかなど、内部からの変革が第一歩と思っています。私たち役員がああしたい、こうしたいと提案しても実際に動くのは職員の皆さんです。私が副会頭になった6年くらい前から、経済力が段々と低下し、加えてコロナ禍となり、特に地域の飲食業は業績が悪化し、このまま手をこまねいていたら廃業に追い込まれます。そういう人たちが元気を取り戻して、商売が出来るような環境づくりを考えていくことが必要なことと思っています。会議所が、地域の商工業者の意見を集約し、政策提言、経営支援、地域振興等の本来の役割を果たしていかないと、中小小規模事業者は頼る所がなくなってしまいます。職員の皆さんのポジションはこれからますます重要になってきます」
職員が会員と顔を付き合わせて話をする場面を持つことの重要性を説く。例えば『ゲッポウ』配布時に「持続化給付金の申請はできましたか?」「家賃支援給付金に該当しませんか?」等、声をかけ、その人にとって、必要な情報を必要なタイミングで届けるようなシステムを作るべきである。榊原前会頭に倣って、会員が何を求めていて、どうして欲しいのか、生の声を聞く機会が必要と言葉を重ねる。
「永年議員20年表彰をいただいたことはとても嬉しいことでした。それにも増して嬉しかったことは、榊原前会頭と6年間、同じ空間で過ごしたことです。会頭の思考、決断力など間近に拝見し、経営者とはこうあるべきかと学ばせていただきました。会頭と時間を共にしてから、私自身、仕事に取り組む姿勢が変わったように感じ、過去の自分の仕事の仕方は浅はかだったと感じる点もあります。
不安だらけの中でのスタートですが、榊原前会頭から学んだことを、会頭として会員さんや職員の皆さんに発信していこうと思っています。今回、私は役割として会頭職をお受けしました。最後の決断、方向性は私の役割になります。皆さんのご協力をよろしくお願いします」
半田商工会議所は来年創立130周年を迎える。新会頭の下、 11月1日から新たな歴史に向けてスタートを切った。
●ちょっと一息●
当社で主催する子どもさんの発表会、プロの演奏会など音楽を聴く機会は多いですね。最近は17日間で700曲ほど聴きました。秋は発表会が多くあり、土・日曜日は知多半島一円、三河地域に出向いています。昨年は1年間で2,642曲聴きましたね。明日も名古屋にジャズライブに行きます。音楽が好きなこともありますが、教室で学ぶ生徒さんたちの状況把握、また、私が会場に顔を出すことによって、講師の先生方のモチベーションが上がれば、社長としての役割も果たせるのではないかと思っています。
モノづくりが好きで、独学で色々なことをして楽しんでいます。孫の節句のお祝いに粘土で金太郎さんを作ったり、箱を買ってきて粘土で模様を作りペイントしたり、コツコツと楽しみながら作っています。孫にはその都度プレゼントをしています。コロナ禍になって、外出が制限された時にエッグアートを始めました。繊細な作業ですが、こういう時間を過ごしていると頭を空っぽにできますから、リフレッシュにもなります。料理もそうで、たまにハンバーグ、とんかつなど洋食を作り家庭サービスをしています。
お酒もすごーくいけ、お付き合いは充分できます(笑)。小中学校の同級生だった女房と、晩酌は欠かしません。私のアベレージは缶ビール1/2缶、ワイン1/2本、バーボンはダブルで好きなだけ飲んでます。20年間このペースを崩したことはありません。人間ドックの前日もきちんとこの酒量を守り、いつもの私を診てもらっています(笑)。
Matsuishi Music Group(2022年) 1959年半田市生まれ。82年名古屋学院大学経済学部商学科卒業。同年ヤマハ(株)入社。85年(株)マツイシ楽器店入社。88年当所青年部入会。94・95年青年部会長。1999年(株)
マツイシ楽器店代表取締役社長。2002当所議員。16年副会頭。22年会頭。20年名曲堂楽器株式会社をM&Aにより吸収し Matsuishi Music Groupに改称。(株)花井商会の教室及び楽器部門を事業譲受。半田市在住。
2022年12月21日(水)
各種PRツール・文章制作の言葉工房トムは、10月より定期訪問サービス「コトバタントウ」をスタートしています。これまでリーフレットやHP文章制作などが中心で、単発に終わりがちだった企業との関係を、月1回訪問とすることにより、より根幹から長期的に支えていきます。
「地域の企業様の『コトバタントウ=言葉担当』として、いち外部スタッフのように気兼ねなく、かつ信頼いただけるお付き合いができたら」と田代代表は話す。
代表/田代涼子
住所/半田市桐ヶ丘
TEL/090-9181-7555
URL/https://kotobakouboutom.com/
2022年12月13日(火)
ミシン一筋50年。半田市唯一の「ミシン屋」衣浦ブラザーさんにお話を聞いた。
店頭にはブラザーやジャノメなど4社のミシンを常時30台展示している。その種類は代表的なコンピューターミシン、ロックミシンが中心だが、プロ仕様で皮が縫えるモーターの大きなミシンや、刺繍ミシン、ライブカメラ搭載で縫いやすさを追求したハイテクノロジーなミシン(最先端のコンピューターミシン) もあり、見ているだけでミシンの進化を感じる。
では、ミシン購入を希望し店頭に訪れた人にとって、この種類の豊富さはどうだろう。種類と価格帯の豊富さ故、自分が求めているミシンは何か、答えが見つからないこともある。そこで相談に乗ってくれるのがスタッフさんだ。取材時、ソーイングアドバイザーの井戸智恵さんがミシンについて無知な筆者にもわかりやすく丁寧に機種による違いを教えて下さった。「価格の幅は広いです。でもそれにはきちんと理由があって、お客さんが何を縫いたいのか、その要望に応えられる機種をオススメしています。せっかく購入していただいても作りたいものが作れない、なんてことがないように。」と、ミシンについて伝えるだけでなく、創作に対する想いも大切に接客していることがわかる。
それもそのはず、こちらでは“なんでもソーイング教室”を開催している*。着物や帯を洋服や服飾小物にリメイクしたり、時期になると幼稚園のお遊戯会で必要な衣装を製作するママもいらっしゃるそう。こちらでミシンを購入した人はもちろん、購入を検討している人
が、どんなミシンが自分には必要なのか、使ってみたい時も申込みすることができる。店内には色とりどりのミシン糸はもちろん、手芸用の材料、手作りのカバンや洋服がところせましと飾られている。教室に通う生徒さんが「これ素敵だから作りたい」とお手本にしていることだろう。
衣浦ブラザーは今年、代表を49年務めた父から子へ事業を引き継ぎ、また令和5年には創業50年という大きな節目を迎える。栄町の店舗以外にも大型店舗での催事形態の販売を積極的に行っておりその範囲は知多半島にとどまらず県内全域と広い。
今からさかのぼる事30年。当時半田市内の大型店舗にミシン屋を構えることを決めた現会長の誘いをきっかけに、現社長の井戸龍彦さんと妻の智恵さんが入社。販売後のメンテナンスのため他店舗との連携も取っている。現会長が歩みを始めた“大型店舗での催事形態の販売”を現在も続け、ミシンの魅力を多くの人に知ってもらう機会となっている。8名のスタッフで支える、この街の「ミシン屋」は、ミシンの実力とその魅力を伝え続けるだろう。 (取材:加藤由香恵)
*開催日は月~土、午前の部午後の部の1日2回。
詳細は衣浦ブラザーHP にて
【住所】半田市栄町4-126 【代表】井戸龍彦
【創業】昭和48年 【TEL】21-4036
【H P 】http://kinubro.com
2022年11月16日(水)
創業、平成7年法人設立し、賃貸・建築事業からスタートし、27年。現在6事業を手掛けている。2022年10月に、昭和町から北二ツ坂町へと本社オフィスを自ら手掛けたデザインに優れた木造建築のテナントビル「宮池テラス」2階に本社機能を移転することで、さらなる情報発信や人材採用の強化を行っている。
同社は「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」の経営理念のもと、平均年齢29歳、従業員55名でお客様の感動と喜び、幸せと満足を第一に考え、「ありがとう」を言われることを喜びに、「住まいと暮らしのプロ」として社会に必要とされる企業になるため、 常に進化し続け、人と街をより豊かにしている。
同社が力をいれている事業であるイシンホーム(フランチャイズ加盟)では、世界情勢による物価高やエネルギー問題が深刻化している中、人気の電力を自給自足できる家を販売している。
その人気の秘密は、一生、電気・ガス・ガソリンをほとんど支払わない家。手がける家にはメーカーが40年保証する高性能な太陽光パネルが標準装備されている。このパネルは曇りや、少々の雨でも発電可能。更に安定した電力供給ができる高性能の蓄電池も標準装備。日常や災害時の電力を賄えるだけでなく、電気自動車への充電も行えるなど、電気代、ガソリン代の節約や売電にも繋がる。
玄関を入るとすぐにクローゼット、玄関横のクリーンルームで除菌、そして洗面所に行ってさらにナノバブルウォーターの水で除菌するようになっている。ウイルスなどを家の中に持ち込まないように、ウイルスと花粉をカットするようにしており、また、家の中におもしろ空間を設けるなど、巣ごもり時に家族で楽しく過ごせる工夫があり、withコロナ時代を踏まえた設計になっている。
家作りへのこだわり、それは家を設計するのではなくて良い人生設計を提供する。そのためには、『一生エネルギーをできるだけ使わない経済の設計をする』、『コロナのような健康に対しての設計をする』、それからもう一つは、『将来に向けての老後の生活等の先々のことまで考えて、エネルギーを使わずに健康でいられる』、そういった設計がテーマになっている。
また、今、力を入れていることは、職人さんとお客様の交流を通じて、一緒に家を作ること。その交流の一つとして、顧客を現場に招き、おもしろ施工体験を実施している。直接交流することで家作りへの安心感や、一緒に家を作る喜びを生み出している。
代表の三好氏は、イシンホーム事業を通じて「自給自足で売電収入がある家を当たり前にしたい」と言われる。
(取材:竹内稔晴)
【6事業部門】
・イシンホーム半田店、知多店 ・アパマンショップ半田店
・チタコー不動産販売半田店、知多店
・インテリアショップBRAINS(ブレインズ)
・チタコー管理センター ・セントラルビル
株式会社チタコーポレーション
【住所】半田市北二ツ坂町2-15-15 宮池テラス2F
【代表】三好 修 【創業】平成7年 【TEL】23-2421
2022年11月16日(水)
味わい深い自家焙煎コーヒーと楽しい会話をお届けし、すべてのお客様が「ここちよく」過ごしていただけることをコンセプトに、サイニングストア「クラシカフェ」は、今年3月にオープンしました。聞こえない人と聞こえる人が共に働くサイニングカフェが、日本で最初に誕生したのは、2020年6月でした。(スターバックスコーヒー nonowa国立店(東京))中部圏でも当店は数少ないサイニングカフェではないでしょうか?
スタッフの中には就労支援事業所さんから派遣の聞こえない人も在籍し、互いに助け合いながら、熱心で温かい人柄のオーナーさんが焙煎したこだわりのコーヒーを提供しています。聞こえる人、聞こえない人がともに注文しやすいように、指さしオーダーを採用し、お客様にお願いしております。丁寧に何回も指さししていただけるお客様からは、優しさや温かさが伝わってきます。
お客様が注文する際に、覚えたばかりの手話で挨拶してくれたりして、手話が少しずつ広まって行く様子や、聞こえないスタッフが働くうちに明るく変わっていく姿を見る事は、とても嬉しいことです。聞こえない人は、コミュニケーションのできる場所が少ないので、知多半島だけでなく、ここに来て楽しい時間を過ごそうと、遠方の三河方面からも来店されています。また、駅前という利便の良さも手伝い、名古屋からもよくいらっしゃいます。顔を合わせれば、スタッフとお客様、お客様同士のおしゃべりが自然に始まっています。
また、一人暮らしの方は、家に居るのは寂しいと毎日のように来店されます。そして、コーヒーを飲みながらパソコンをしている人、お友達同士で楽しく話をされている人など沢山の笑顔や心地よさそうに過ごして
いる姿を見ると、このお店で働いていてよかったとしみじみ思います。
クラシカフェには、様々な方がいらっしゃいます。生活していく上で、困っている人を福祉につなげたこともあります。これからは、こういう街のお店が、お客様を見守りながら福祉へ橋渡しをする役目も必要になるのではないでしょうか?このクラシカフェは、様々な人がつながり、助け合い幸せになっていく、そんな場所であればと願っております。
25年ほど前に、テレビドラマの主題歌で手話を交えながら歌っている表情に感動し、私にもできるかなと思って手話講座を受けました。それがきっかけとなって、手話だけでなく、聞こえない人たちの日常生活も知りたいと思い、手話サークルに通い、聞こえない人たちが立ち上げた山の会に入会、手話カフェサロンなどのボランティアに関わってきました。その時に手話カフェサロンで、美味しいコーヒーの淹れ方を学びたいと思い、ココチヤコーヒーさんの移動販売先へ訪問しました。
そのご縁で、昨年6月に仕事を退職し、ココチヤコーヒー(*)でキッチンカーの移動販売をやる決心をしました。実は、カフェのお店を開くことは、密かな夢でした。不思議なのですが、キッチンカーと出会ったから、私の周りが動きはじめ、次々と状況が変わり出しました。そして、8ヶ月経って、好立地のクラシティ1階でのカフェスタンド出店の話をいただき、現在はクラシカフェの店長として楽しく働いております。私一人では叶わなかったことですが、今までのご縁がつながり、私はその動いている波にちょこんと乗っている感じかなと思っています。これからも、今できることをコツコツやっていこうと思っています。
私自身、ブレることもありますが、「ココチヤコーヒー心得」にあるように「目の前の人の幸せを願い、お客様、周りの人がここちよいかどうかを判断しながら、全ての人に深い愛情で接したい」と思っています。
手話をやっていくこと、聞こえない人と関わっていくことは、手話を教えてくれた亡き恩師への恩返しだと思っております。私のことを必要と求めてくださる人たちがいる限り、その想いにお応えしていきます。
*ココチヤコーヒーは、常滑市の自宅に焙煎所を置き、知多半島にて、自家焙煎コーヒーの移動販売、移動カフェを営業しています。
■ 半田市広小路町155-3 クラシティ 1F
■ 営業時間 10:00~18:00 ■ 定休日 第4水曜日
■ TEL.090‒6599‒1716
■ HP:http://kokochiya.com/