2024年6月3日(月)
28歳で今は亡き無二の親友に請われて入社し、土木の仕事は同じ現場がなく、同じものを創っても条件はそれぞれ異なっており、工夫次第で勝者にも敗者にもなれる。その自由度の高さに魅力を感じたと振り返る。
「それまでとは畑違いの職種でしたが、『土木は経験工学』と言われているように、求められるものが明解なので、性に合っていると感じました。アウトドア派の僕は現場での夏の暑さ、冬の寒さも気にならなかったですね。当時は従業員が4・5人、創業者が病に倒れ廃業の話も出ましたが、代表のご指名を受け企業存続のため、法人成りし人事を見直すなど組織変革を図りました。厳しい判断をせざるを得ないこともあり、今思い出しても辛かったこともありました」
会社のために身を粉にして働いたのは、30歳で生死を彷徨ったことが一つの理由として挙げられる。原因も不確かで再起不能と宣告されたが、ある治療法と出会い奇跡的に回復した。その時、寝たきりになっても生きていたい。普段の生活がいかに貴重であったのか、普通に仕事をして普通の生活がしたいと渇望した。やっておけば良かったと思うことが多くあり、一歩踏み出すことの大切さが身に染みた。迷うのはそのことをやってみたいからと、以後『迷った時こそ、実行する!』と心に決めて、普通に仕事をするために、企業の健全化を図ろうと下請けから脱却し、伸ばしていく経営にシフトしていった。
「下請けが8割方だったので、新たな仕事を作っていきました。知り合いの方達に助けられながら、元請けとしての仕事はでこぼこしながら次第に増えていきました。15年ほど前、各市に直営店のリフォームショップを1店舗ずつ作りたいという募集に手を挙げ、お陰様で当社が『可能性が高い』とご縁をいただきました。期待される会社になることの必要性を実感しました」
「『LIXILリフォームショップ大進』として、新たな分野を広げ、東海南高校校舎改修工事に対し、卓越した技術と献身的な努力により優れた成績で工事を完成させた評価で、愛知県建設部より『平成28年度優良工事施工業者』として表彰された。品質・安全・利益をいかに高い次元でバランスをとるかが大切であり、競争しない仕事をしていくことが他社と闘う基礎条件と強調する。競争しないとは、選ばれる会社であり、「いい仕事をするから頼みたい」と思われるような企業を目指し尽力する日々が続く。だが想いが強すぎて動き出してしまうので、俯瞰して見ることを自身に課しているそうだ。
「若い頃は生き急いでいるとか、暴走列車と言われたこともあります(笑)。親しい方たちからは、「お前の唯一良い所は決断できる所」と言ってくれる人もいますが、何でも簡単に決めてしまうのでしょうね(笑)。ただ常に現状を変えようと、M&Aで建設会社2社、空調、メンテナンス等を業務内容とする1社を取得しました。僕は暇そうに見られてしまうことが多いのですが、結構やることはあります(笑)。変えたいという想いから、一時政治の世界にも、気づいたら走り出していました。政治は
まちの発展のためには本当に大事なものだと思いますが、社員への責任を考えたら、会社はもっと大事だったんですね」
現在は同社の顧問、前述3社の代表としての任に就く。経営の効率化や企業運営の無駄を省くために、ホールディングス化する流れがある中で、現体制の道を維持した。社員に頑張ってもらい、その中から社長に就く人の姿を見たい、人を育てていく喜びを体感したいと語る。その背景には氏も多くの人に育てられ、ある意味、次代の人材を育てることは『恩返し』なのかもしれない。半田青年会議所、名古屋の青経塾(青年経営者研究塾)、現在所属する半田ライオンズクラブなどで学びの場を積極的に求めてきた。
「人の話を聞くのが大好きです。食べること、飲むことが好きな僕は、食べ物に例えるなら『体のためには何でも食べよう』と言うのと同じで、貪欲にどんな分野の話を聞くようにしています。むしろ興味の持てないような分野の話を聞く時の方が得るものが多いように感じています。この間も市内のファッション講座に行ったのですが、学ぶことが多かったですね。学びも成長につながってくると思っていて、人間の成長は出会った人数×距離だと考えています。だから僕は距離は関係なく動くよう意識しています。そして忙しいから止めようと思いがちですが、却って忙しい方が時間を有益に使えるような気がしています」
今年、還暦を迎え『やることリスト』を新たに見直した。誘われて始めたマラソンは名古屋・大阪・京都・松阪などで走り、最終目標はニューヨークシティマラソン出場であり、ウルトラマラソンへのチャレンジも視野に入れている。そして今年4月から、学びたいと法政大学経済学部の通信制教育課程に入学した。大学生としての顔も持ち充足感を得ながら、さらに多忙を極めることになりそうだ。
「一度は終わった人生と思い、いただいた残りの人生を全力で過ごしているだけです。マラソンは自分の体力と時間配分を計算しながら走らないと完走はできません。仕事や人生もそれと同じで、闇雲に走り続けても素晴らしいゴールには辿り着けませ
ん。『失敗した時こそ学びがある』と思い、失敗を恐れず学び続ける人生でありたいと思っています。『迷った時こそ、実行!』です」
●ちょっと一息●
長年、半田国際交流協会に関わり、昨年末に松石会頭から会長を引き継ぎました。かつては姉妹都市(アメリカ・ミッドランド市、オーストラリア・ポートマッコーリ市、中国・徐州市)との交流が主事業でしたが、半田市に外国籍の方が5%近く在住する今は『多文化共生』をテーマに活動しています。外国の方も働きやすいまちづくりをすることは企業の発展につながっていきます。そのお手伝いができればと思っています。
地元、上半田地区の住吉ちんとろ祭委員会の事務局長を務めています。今年はキッチンカー、テント、テキ屋さんとそれぞれの良さを活かし、祭りの雰囲気を盛り上げていただきました。地域の方々から協賛をいただき開催している祭りなので、大人の都合だけでなく、子どもさんも楽しめる祭りになるようにしていきたいと考えています。
1964年半田市生まれ。83年半田工業高校(現・半田工科高校)機械科卒業。サラリーマン生活を経て、92年同社入社。98年代表取締役社長。2007年現職。半田国際交流協会会長。住吉ちんとろ祭委員会事務局長。その他要職多数。半田市在住。当所議員。
2024年6月3日(月)
技術者である父は地域のために働きながら、常に新しいことに挑戦し、当時としては珍しかった大型自動車の整備工場を営んでいました。そんな父には逆立ちしても勝てないと自覚していましたが、両親から「長男だから継ぐんだよ」と洗脳され(笑)、自然と後継者の道を歩み始めました。技術を身につけるために専門学校を経てトヨタビスタ愛知(現・愛知トヨタ)に入社し、整備と営業を学び、家業に戻ったのは23歳の時でした。
当時、将来に希望が持てず、ゴルフをしている時だけが心休まる時間でしたが、半田青年会議所(JC)に入会し、仲間に触発され、「何かやらなければ」と感じるようになりました。ある日、机の上に『車検のコバック、加盟店募集』と書かれた月刊誌が置かれていました。それを見た瞬間、「これからの車業界はこれだ!」と確信し、説明会に参加し、全国でFC加盟1号店として契約しました。大きな冒険でしたが、母からの「父と同じ世界で競うのではなく、自分の武器を見つけなさい」という言葉に
強く背中を押されました。また、本音で話し合うJC仲間との出会い・活動を通じて、新しい情報に接する時の、アンテナの張り方も変化していたと感じます。JCに入っていなかったら、その記事を見ても何も感じなかったと思います。同時に、車屋は『3K』と言われていた時代でした。社員がみつまるのコバック車検で働いていることを自信を持って言えるような会社を作りたいという強い想いもありました。
色々なご縁が重なり、1992年に『車検のコバック』FC店としてスタートし、3年後には年間車検台数が10倍ほどになりました。今では当たり前の事前見積もり、見積もり金額がオーバーしたらお客様に確認して作業という明確なシステムが好評で、知多半島全域からお客様がいらっしゃいました。コバックは多店舗展開を基本モデルとしており、当社も東海市に出店を準備していましたが、父の反対に屈して2号店は諦めました。今思えば2号店出店を諦めた時は、1号店を出す時のような熱意がなく「そうだよね」とあっさり受け入れたことも、私に与えられた定めであるように感じています。信仰深い両親からの恩恵でしょうか、いつも見えない力に導かれていたような気がしています。
やがて整備業界自体がニューサービスと呼ばれるコバックと同じサービスを提供するようになり、当社の立地条件の悪さが仇となり、瞬く間に年間の車検台数が6割ほどに落ち込んでしまいました。そんな時にJCの先輩から「いい物件がある」という情報が飛び込み、現在地に移転し再スタートを切るという幸運に恵まれました。
私自身、新しいことにチャレンジすることが好きな父の血を受け継ぎ、1年前に先進自動車に対応できる設備工場を新設し、EV・予防安全機能・高精度車体整備が可能な設備を整え、アメリカのテスラ社の認定板金工場(*)の資格を取得しました。コバックに次いで、第二の武器を手にした瞬間でした。「過剰投資ではないか?経営が無謀すぎる!」と本気で心配してくれる仲間もいましたが、近い将来訪れる自動運転社会での安全を守ることが、当社の使命と考えています。
会社は舞台だと考えています。役者である社員がそれぞれのポジションで素晴らしい演技をすることによって、会社は成長し発展します。幸いにも、コバックには愛知県知事認定の「車検大学校」があり、そこで熟練した講師の指導を受けた社員が高度な知識と技術を習得しています。さらに、テスラ社独自の厳しいトレーニングと評価試験に合格した社
員もおり、私たちは専門知識と高度な技術・経験を持つスペシャリスト集団です。私の役割は、このような『人財』に恵まれた中で、方向性を示し、舞台を整え、集客を行うことです。同時に、今の与えられた環境の中
で自分ができることを全力で取り組み、コバックのもう一つの基本モデルである複合店舗『コバックランド』の展開を進めています。車検工場、自動車整備、板金塗装、保険代理業務、自動車販売業務を通じて、「お客様に求められ、必要とされ、喜んでいただけるサービスを創造し続ける」という経営理念のもと、地域に愛されるサービスを提案し、日々成長を目指しています。
JCに入会し、素晴らしい人々との出会いから、仕事への意欲や取り組み方など多くの有意義なことを学び、現在の私が形成されました。現在所属しているロータリークラブのメンバーからも、私の弱点や短所を指摘していただき、自己反省の機会を得ています。生涯、このようなアドバイスを素直に聞き続ける自分でいたいと思っています。
本音で忠告してくれる人は数少ないと私自身が体感しています。一緒に働く二人の娘に対して、父として当たり前なのですが、本音で忠告する一人になりたいと願っています。時間を調整し、昼食は三人で近くの喫茶店でとります。時には「娘さんと一緒で羨ましい」と言われることもありますが、「その考え方は間違っている」と厳しい言葉を投げかけることのほうが多いランチです。私の意見が必ずしも正しいわけではありませんが、選択肢の一つとして考えてもらえればうれしいと思っています。今は、その長女がJCに入会し、JC活動にどっぷりと浸かっています。彼女がどのように成長するかを楽しみに見守っています。
*板金修理に必要なテスラ車両の情報を得られる
■ 半田市吉田町1丁目33
■ 営業時間/月~土 8:00~18:00、 日曜・祝日 9:00~18:00(日曜受付のみ)
■ 休日/GW・夏季休暇・年末年始・一部不定休 ■ TEL.20-5891
2024年5月17日(金)
市内日東町の立地企業で構成する日東会(代表幹事・堀井清人/㈱サン・ビック)は5月15日、愛知県赤十字血液センターによる集団献血会を実施しました。
この献血会は企業の社会貢献を目的に始まり、昨年5月に新型コロナウイルス感染症が5類感染症となり、今回は多くの会員企業が参加をされました。
当日は初夏の陽気が感じられる快晴の中、会場である徳倉建設㈱建設センター事務所に、会員企業から従業員50名が献血に参加。合計86単位(400ml/単位)の血液を頂く事ができ、大変多くの協力を得ることができました。
2024年5月1日(水)
このたび4月に半田事業所(日東町)に、産業廃棄物処理施設、大型焼却炉が完成しました。同焼却炉は、ロータリーキルンとストーカ炉のハイブリッド型方式を採用し、多様な性状の廃棄物の処理が可能となっています。
焼却処理能力:142.1t/日
また、焼却により発生する熱から電力(発電能力1950kW)を生み出すサーマルリサイクルを推進し、同社の電気を賄う他、余剰分は売電もおこなう。6月頃から本格稼働をする予定。
代表者/栁 由美
住所/半田市日東町1-7
TEL/0569-32-5551
https://www.sanbic.co.jp/
2024年4月30日(火)
海外勤務を志望し、内定をいくつかいただいた中から海外赴任のチャンスもある日本ハムに入社。大阪本社の輸入ブロイラー部に配属となった。
「何も教えてくれない上司から、配属そうそう500万円の利益を上げろと洗礼を浴びました。得意先は自分で探すものと言われ、商品を覚えることから始め、新規開拓のため、毎日毎日電話でアポイントをとり、ひとりで営業に駆け回る毎日でした。今も自戒の念を込めて、手元に当時の新規開拓ノートが5冊あります。あの時代はどうしたら話のきっかけをつかめるかを学んだ貴重な時間でした。何とかなるでしょうと考えていましたが、常に追い込まれていて、朝の4時から深夜まで平気で働き、休日も仕事をしていました。血の気も多かったのですが、真面目だったんですね(笑)」
配属先は商社機能を併せ持ち、電話での売り・買いが主業務で、何百万円という大金が動く一瞬を逃さないため、時には灰皿が飛び交い、戦場のような職場だったと苦笑する。入社した年の12月、同期の中で最初に利益260万円という結果を出し、博多の子会社から出
向の誘いがあった。『あの上司と離れられるなら行きます』と答えたと笑うが、今は亡きその上司には感謝していると、しみじみ振り返る。出向先は九州全土が管轄エリアで、体力に任せて1日1,000kmを走行し、熱血漢溢れる上司からさえ、その無謀さをたしなめられながら、他の商社と時には協力したり闘いを繰り広げた。当時は意義ある闘いさえも楽しみ、仕事に没頭した。そんな日々に別れを告げるように、27歳で結婚を機に地元に戻ることを決意した。
「上司から『肉屋の息子だったのか?辞めるのは早い!』と止められましたが、予定通り家業に入社しました。、数年前に狂牛病が流行り、リーマン・ショックを経て、当社の売り上げも踊り場に差し掛かり、父が還暦を迎えた34歳の時に現職に就き、不安定要素がフツフツと湧き上がってきました。その上、契約更新前にテナントで入店していたスーパーから撤退させられるという憂き目に遭い、その当時は強気でしたのでそのスーパーの隣に精肉店を出しました。その無謀さは日ハム時代の教えです(笑)」
それを契機に各地に出店し、今年3月末に刈谷ハイウェイオアシスへの出店が決まり、知多半島・三河地区に13店舗を構える。最初に出店した頃は知多牛が走りで、知多牛に倣って知多豚と命名し、それを二本柱として販売した。そのネーミングもポピュラーになり始め、新しいことをやりたいという意欲がフツフツと湧き上がり、南知多町の平山牧場と提携し、『従来の価格で、ワンランク上の味を提供する』新たな取り組みを始めた。今年の夏以降、コンスタントに『平山牛』として食卓に上る量産体制が整った。
「知多半島も若い農家の方が育ってきて楽しみが増えました。昨年地域ブランド『ちた健康豚』を手がける小栗畜産(半田市)から事業譲受し畜産業に参入し、獣医師免許を持つ牧場として(株)小栗ピッグファームを設立しました。また、取引のあったホルモン屋さんが次々に廃業していくため、自社でその作業をしようと昨年10月に豚肉の加工、脱骨や内臓処理を扱う加工センターを開設しました。これにより愛知県内で処理されている週8,000頭のうち、当社が500頭を手がけることになりました。同時に惣菜部門も強化しています」
外注に頼っていた分野を自社で賄い、『育てる・作る・売る』という、垂直統合型企業の体制が確立し、お肉の専門店石川屋からお客さまへの約束として掲げる「よい肉を毎日美味しく 食卓へ」をコンセプトにした『GOOD MEAT』という店舗への名称移行を視野に動き始めている。様々な試みや挑戦は自社に限らず、海外、社会、地域にも及んでいる。
「ミャンマーに、『OBRIGATION(恩・義理の意)CHITA』を設立しショッピングストアに食肉加工卸をし、同時にタイに牛肉を輸出しています。私自身、ミャンマーとの出会いは、日本JC(青年会議所)時代の先輩から、当社に研修生を受け入れてみないかという打診から始まったのですが、肌感が合うというか馴染みが深い国だなぁと感じています。海外の友人、JC、日ハム時代の友人と遊んでいると(笑)、自然に色々な情報が入ってきて、仕事と繋がることが多くあります。カラは重いですが、フットワークは軽く、楽しい方に流れていく習性があるようです(笑)」
また、子どもたちに肉の美味しさを知って欲しいと、提携先の知多半島の牧場で生産される『すき焼き肉』を毎年児童養護施設へ届けている。地産地消も同社の積極的な取り組みの一つである。
「将来的には、ここ半田からアメリカ・ヨーロッパ諸国に向けて牛肉の輸出が出来たら面白いと考えています。神戸牛や飛騨牛は観光とセットになっていることが多く、海外の飲食店でも味わうことが出来るでしょう。愛知県にはその機能を担う設備が整っていないので、輸出国は限られています。いずれ、あの知多牛を地元で食べたいということになれば、半田にも多くの方が訪れ観光資源の一つになってくるかも知れません。そんなことを夢見ています」
自らを慎重派と称し、勝算が見えた時しか動かないと笑うが、昭和6年(1931年)創業という歴史を紡ぎ、時流を読みながらの新たな快進撃はどこまでも続く。
●ちょっと一息●
JCから多くのことを学びました。当社の代表になった翌年、半田JCの理事長の大役を仰せつかりましたが、その年は半田JCを一般社団法人にするか公益社団法人にするかの方向性を決める重要な年であり、迷わず公益社団法人化を選択しました。理事経験はあったものの不慣れなことが多い中、我流で取り組んだことも多く、メンバーにご迷惑をおかけしながら豊富な人的ネットワークに助けられ、今の仕事に繋がっていることも多々あります。深く感謝 しています。
そのJCメンバーの先輩からの声掛けで前回に引き続き、昨年の『第九回はんだ山車まつり』の実行委員会の実行本部長を務めました。組織を立ち上げ、予算管理、祭りのテーマ『慶』を決め、当日は運営の責任者として関わらせていただきました。色々な方と出会え最高に楽しく幸せな時間を過ごさせていただきました。これもJCとの関わりがあったからでしょうね。
1973年半田市生まれ。半田高校を経て97年拓殖大学商学部卒業。同年日本ハム(株)入社、食肉事業本部輸入ブロイラー部配属。2000年(株)石川屋入社。07年4代目社長就任。半田市在住。当所議員。