2020年5月29日(金)
4人兄妹の長女として楽器店を経営する両親のもとに生まれました。敷かれたレールを歩くのが嫌で、中学一年には、両親への反抗で全ての習い事をやめた時期がありました。その時に好きだったピアノもやめ、周りには嫌いと言って強がっていましたが、親に聞かれないようにやめてからも内緒で弾いていた記憶があります…。
中学三年生になった頃、進学について考えるようになり、小学時代に幾つかのピアノコンクールに出場したことを思い出しました。「いい音が出せますね」「曲の持つ感情が伝わってきました」など、審査員より講評をいただいていたことや、合唱祭では伴奏を担当したクラスが優勝したこともあり、音楽への進学の方が私には向いているのではと自ら音楽への進学を決意しました。そして、その気持ちと共に早く自立したいという気持ちも高まり、両親へ「家から離れた音楽高校を受験したい」と話し、再びピアノ教室へ通わせて欲しいとお願いしました。当時のピアノの先生へも連絡をして、反抗期だった自分の事を謝り、再びレッスンをお願いしました。
中学三年生から再び音楽の勉強をし、ピアノコンクールや合唱コンクール、体育祭の応援団などで結果を残すことができたことで、学校から音楽高校への推薦を頂き、進学することができました。しかし思い描いていた華やかな高校生活とは違い、山の中にある学校で登山や下山など敷地内にバスが出ている中での寮生活、門限もあり自由が好きな私には辛かったです(笑)。
高校から大学へはエスカレート式だと思っていたのですが、実際には一般受験と同じでした。実技以外は苦手だった私でしたが勉強を応援してくれる友人がおり、無事に第一希望の器楽科ピアノ専攻へ進学できました。
関東にて7年間の学生生活を無事に得ることができ、その後社会人へ、音楽を通してメンタルヘルス分野に進出を考えていた東京のコンサルタント会社へ就職しました。とてもスパルタな会社で、自分が今までどれだけ視野が狭かったのかと思い知らされ、自尊心を傷つけられた憶えがあります(笑)。人材育成のコンサルタント会社で、企画・営業からのスタートでした。私は今までやったこともない企業に向けた企画書作り、経済も企業も知らない中だったので過酷に感じたのかもしれませんが、必死な日々を送っていた憶えがあります。企業の問題を解決に導く人材育成の会社で、全く違った分野(音楽)から就職した人材は私だけでした。周りからは一番に辞めていきそうと予測されていましたが、同期が45名いた中、女性社員は1、2年で10名皆辞め、同期の女性の中では一番長く3年半頑張れることが出来ました。その間頑張れることができたのは、自分の知らないことを知れるという面白さ、また人間味あふれる社風に魅力を感じ続けることができたからだと思います。
メンタルヘルス部発足の話が進み始め、会社からの指示で土日に音楽療法の専門学校へ通うことになりました。音楽療法を学ぶ為に行った学校でしたが、そこで幼児リトミックとも出会いました。平日は仕事、土日は専門学校と、休みもなく疲労困憊の日々でしたが、この時期があったからこそ、今の私があります。
それまでの私は型にはまった音楽教育を受けてきましたが、全身を使って音楽を学ぶ幼児リトミックと出会い、音楽の視野が広くなりました。その時に幼児の無邪気で純粋なところをみたり、おじいちゃん、おばあちゃんの今までの経験や生活の知恵などを聞くことが大好きな私は、音楽でそういう人たちと関わっていきたいと思いはじめました。その後会社の都合によりメンタルヘルス分野への発足の話が無くなってしまい、お世話になった地元で、学んできたものを活かし役に立ちたいと帰郷しました。
現在は、3歳の娘の子育てをしながら仕事をしています。娘がいるからこそ気づけること、学べることもあり、それが仕事につながっているようにも思います。小さい子どもがいることは、時には大変だと感じることもありますが、協力体制も万全で、楽しみながら子育てができています(笑)。最近、娘も趣味が出てきて共通することは旅行!国内、海外旅行と毎年楽しみが作れて嬉しいです。普段は主人のお母さまが最強のサポートをしてくださり、近くに両親や兄妹もおり、幼馴染みの主人も安心する存在です。家族には感謝の言葉しかありません。
7年前にピアノと幼児リトミックの教室『ブリランテ ミュージック サロン』を開設しました。教室の準備などで応援してくれたのは祖母でした。現在はピアノ・リトミック・音楽療法で、私を含め3名の講師で、それぞれ得意なことを武器としてチームを組んでいます。そのチーム力の大切さも、関東で学んだことです。子どもの最初の環境を作るのは親、その場を快適にするためには周りの力も必要になってくるのではないでしょうか。立派な花が開花するために肥料や水、太陽が必要になってくるように、私たちは音楽やリトミックを通してお子さんの可能性を見いだし、幸せな人生へと開花するようお手伝いが出来たらいいなと思っています。そして、生徒達が自分の夢を持った時、その夢を叶えられるまで見ていたいという思いでレッスンしています。
幸せなことに私は音楽を通して、幼児から、おじいちゃん、おばあちゃんに関わりたいという夢を叶えることが出来ました。その間辛いこともありましたが、一生懸命夢に向かって歩いていると、応援してくれる方との出会いがあり、自分なりに精いっぱい頑張っていればそれなりの道が切り開いていけると思います。夢に向かって頑張っている方たちを応援します。
■所在地/半田市大和町1-5 クインテット2階20C(知多半田教室) 半田市花園町1-15-1(花園教室)
■TEL/090-4211-6589 ■インスタグラム/brillantemusicsalon ■http://brillante.amlive.co.jp
■幼児リトミック体験レッスン開催中(1回500円(税込))
2020年5月29日(金)
「前世は欧米人だったかもしれません」と笑いながら語るように、ある意味、昭和30年代生まれの日本人の視点とは少し異なるのかもしれない。氏の職歴もその一つのように思う。
「大学卒業後は営業職として東京の商社に就職しましたが、縁あって30歳の時仕入先であった名古屋のプラントメーカーに転職しました。その後、顧客であった産業廃棄物処理業界に転職し、同業3社を経て2013年2月現職に就きました。僕は職人に憧れ、一つの仕事を突き詰める生き方は素晴らしいと思っています。でもサラリーマンからのスタートだったので、自分の可能性を見出すことが出来るかもしれないと、次なるステップを求め続けてきました。業種が変わるたびに専門書を読みあさり苦労もしましたが、どこに行っても、その道に精通する人になりたいと思ってきました。社会に出てからの学びは生きた学問です。それが今の僕の財産になっていると感じています」
同社は、1955年常滑市での創業以来一貫して環境衛生事業に取り組んで来た。2013年循環型社会形成に貢献できる新規事業の基点として半田事業所を開所し、県内浄化センターから排出される下水汚泥を発酵処理し、有機肥料を製造、農地に還元するリサイクル事業を行っている。そこの初代所長に着任1年後から、潮干会(潮干町内企業24社で結成された自治会・事務局は半田商工会議所)の運営に代表幹事として関わっている。
「産廃処理工場は自分の側には来てもらいたくない迷惑施設でしょう(笑)。しかし、ここで生きているのだから社会貢献をしよう、お役に立てればと思って引き受けることにしました。僕の性分から、引き受けたからにはしっかりやろうと、様々な提案をしてきました。清掃活動、献血、親睦ゴルフは定例行事でしたが、もっと多くの人が潮干会に関わって楽しめるよう、ボウリング大会をスタートしました。また、場内道路での迷惑駐車・雑草繁茂、夜には暗くなってしまう歩道等、地域が抱える問題を改善するため所轄官庁様との懇談会を実施しています。僕は行政に対しても言いたいことは言っています。でもクレーマーではなく、団体として努力出来ることをしながら、市としても会の困っていることに協力して欲しいと要望し、互いに仲良くしながら環境改善を図りたいと思っています。そして、先に進むためにはその時々で、結論を出すべきと考えています。提案させてもらいながら話し合いをし、その要件が不可能であれば、次の一手を考えることができ、前に進むことが出来ます」
時には自助努力をしながら、暗い歩道対策でソーラーセンサーライトを会で購入し幹事会メンバーで設置した。交通安全講習実施、起震体験車ナマズ号による地震体験会段取り(残念ながらコロナウイルス感染拡大防止のため中止)等、働きやすい環境づくりのために尽力してきた。有言実行を座右の銘とし、(不言実行は嫌い。失敗しても分からないでしょう(笑))ついつい、『こうしたい、ああしたい』と提案し率先して動く。自ら忙しくしているかもしれない、自己満足かもしれないと苦笑するが、これも性分のようだ。行動型の英米人、慎重型の日本人と言われることがあるように、とかく日本人は自ら積極的に発言し行動することは少ないようだ。それ故に、友人からは「欧米か?」と軽口をたたかれることもあるそうだ。
「好きでやっているんだから、やってもらったらいいんじゃないと言われながら(笑)、潮干会幹事会と関わり6年目(内4年が代表幹事)になり、あっという間の6年でした。いわゆるボランティア活動である幹事会活動を通して、金品では得られない充足感を得られたように感じています。思えば予想外に転職を重ねた40年で62歳を過ぎた今、失業期間を1回も経験することなく生業を得られたことには感謝しかありません。定年退職まであと3年になりましたが、ますます健康に留意し、サラリーマン人生の最終コーナーを元気に走り抜けたいと思います」
ちょっと一息
高校時代はサッカー部でしたが能力の限界はいかんともしがたく、大学時代はワンダーフォーゲル部に所属していました。体育会だったのでかなりしごかれ、道なき山での合宿はつらい記憶しかありませんが、手つかずの自然に対する畏敬と憧れは今でも脳裏に残っています。そのせいか、20年ほど前から源流に近い渓流域でのテンカラ釣りにはまっています。ヨーロッパ発祥のフライフィッシングの日本版と言えばわかりやすいでしょうか。テンカラは竿・ライン・毛ばりの3点のみの道具立てでアマゴ・イワナと対峙する日本特有のシンプルな釣りです。ウキ・リール・おもりは使いません。
諸説ありますが江戸時代にはその原型である職漁師の釣りとして存在していたようです。(私はキャッチ&リリースですが)シンプルが故により自然と溶け込んだ感が強く飽きることがありません。今年は外出自粛のため一度も釣行できていませんが、(昨年購入した軽キャンピングカーでの遠征もおあずけです)春から秋の漁期(それ以外は禁漁)に年10回以上は山岳渓流に足を運んでいます。もちろん大きな熊鈴をつけておっかなびっくりですが(笑)
渡辺 勝広 氏
1958年神奈川県川崎市生まれ。82年明治大学商学部卒業。商社、プラントメーカーを経て、20年前くらいから産業廃棄物処理業界に関わり、2013年(株)テクア入社、半田事業所所長に着任。名古屋市在住。
2020年5月15日(金)
マスクの需要が高まっていて、様々なマスクが出ています。
素材やサイズなど様々ですが、安ければいいだろうという商品もあり大人はもちろん、子供にとっても化学繊維を通して空気を吸うのに本当に健康にいいのだろうか?という疑問と未来へ向けて「マスクはファッションになる」という発想の元、マスク作りが始まりました。
本当にいいマスクとは?
1.抗菌性
2.ふんわり感
3.息のしやすさ
4.ファッション性
5.安心と信頼
これにプラス、本当に付加価値あるマスクを追い求めて、日本の良さを追求しました。
そこで行きついたのは、このマスクを制作するにあたって、様々な人との協力関係があったからこそです。
製糸、織物製作、ニット、裁縫、企画販売など、全て日本の英知を集結したマスクとなりました。
こんなマスクを一人でも多く、日本の良さを世界へ発信していくこと。
そんなマスクを制作して、一人でも多くの方の「人生に彩り」が生まれるマスクとなるようチャンレンジを進めていきます。
詳細はこちらから↓
URL:https://www.makuake.com/project/irodori-mask/?from=keywordsearch&keyword=%E3%82%AB%E3%83%8D%E3%83%9E%E3%82%BF&disp_order=1
2020年5月1日(金)
ユニフォームの作業服を着て、現場から現場に飛び回わる日々を送って30年近い。トヨタの関連会社、化学工場を経て、同社に入社したのは25歳の時。先代社長の娘さんと結婚し、後継者の道を歩むことになった。
「継ぐことを軽い気持ちで引き受けたのですが、畑違いの設備工事の仕事は戸惑うことばかりでした。配管工事をしていても何の配管かさえ分からず、完成してから初めてこの仕事をしていたんだと思うほどで(笑)、見よう見まねで一から覚えていきました。体力には自信があったのですが、きつかったですね。色々な苦労はありましたが、『何とかなる』と考えるようにし、楽観的な性格で乗り切ってきたことも多々ありました」
同社は1972年、先代の榊原康夫氏がプレハブ小屋を構えスタッフ4人でスタートした。当時は指定工事制度も定着し、半田市下水道指定工事店(現在は半田市・東海・知多・西尾・豊田・名古屋市等の上下水道指定工事店)として順調に滑り出した。しかし、第一次・二次オイルショックに見舞われ苦境に立たされたこともあった。そんな時も高度な技術力を追求し、現場が何を要求しているかを的確に把握し、精度の高い仕事をすることをキーポイントとし、難局を乗り越えてきた。その経営方針が同社の底力となり、1997年に名古屋支店を開設。2007年には本社を現在地に移転し、市場を拓いてきた。
「2代目として2012年に現職に就き、現場の仕事、図面の作成に忙殺されています。会長に退き、別会社を設立して仕事に臨む先代に今も多く学んでいます。仕事が好きで何事にも真摯に取り組み、常に意欲的ですね。80歳を超えてもイキイキと働く姿勢は、経営者としても人としても見習いたい点です。
この業界もここ数年で、安全に対する意識が高まってきました。書類一つとっても、入社した頃に比べるとその数も増えました。夏は炎天下のもと、冬は厳しい北風の中での仕事ですが、安全で働きやすい環境づくりを心がけています。課題の一つに職人の減少があります。3年から5年の経験で一人前になり、あとは応用次第ですので、ベテランになっても現役で働けます。ただ体力が必要ですのでスタートは若い時、30代前半までが望ましいですね。未経験者でも可能、やる気のある人を募集中です」
扱う部材も日々進化を遂げ、アンテナの張り方で仕事の効率化に格段の差が出てくる。使用器材は設計図の品番に則るが、部材は企業努力が反映されることも多いようだ。今まで困難だった作業も、使用する部材いかんで容易に作業できるようになる。日頃の材料屋との付き合いや、メーカーの新商品の発表会の参加など、いかに情報を得るかは、経営者としての重要な仕事ともなっている。
マンション、店舗、工場などのトイレや台所、厨房などの水廻り全般の給排水衛生空調設備工事や、工場内各種配管工事などに携わるモノづくりの世界での達成感は、完成した時と言う。深く埋設される配管や住宅でのその仕事は、完成後は目に触れることはないが、高度な技術力、的確なニーズの把握は、確かにそこに生きている。
「公共の建物に入ると、ついついトイレの便器に目が行ってしまいます。どんな仕事をしているか確かめてしまいます。職業病でしょうね(笑)。当社の業務内容は土木、建築工事に関連する付帯設備工事、計画、設計、施工、維持管理の請負など多岐に亘り、尾張、三河地方、及び名古屋地区を商圏としています。それは設立時に社名を考える時、富士山の優美な姿に憧れ、広範囲に知名度を高めたいと云う思いを込め、また、メンテナンスの必要性も感じ、あえて『事務所』を付けたと聞いています。その思いに恥じないよう日々精進していきたいと思っています」
ちょっと一息
実は今年開催されるはずだった『東京オリンピック2020』の観戦チケットの抽選に当選しました。陸上の予選でしたが、延期になってしまって残念です。今年の夏の楽しみがお預けになってしまいました。
趣味とは言えないかもしれませんが、昨年二人目の子どもも大学で外に出て、ヨメさんと二人になりネコを飼い始めました。私が帰宅しても喜んで膝に乗ってくるわけでもなく、「帰ってきたな」という感じで淡々としています。愛猫“二コ”は室内で暴れまわるので至る所にバリケードを作り、快適に過ごしてもらいたいと猫グッズ作りに追われています。楽しく作業しています。もう少し懐いてくれると嬉しいのですが(笑)。
西川 祥司氏
1967年大阪府生まれ。小学校2年生で半田市に転居。85年半田東高校卒業。92年同社入社。2012年現職。当所議員。
2020年5月1日(金)
今月の「会員訪問」は、県内をキッチンカーで移動販売されています「アーリーカフェ」さんにお話を伺って参りました!クレープやタピオカドリンクを扱われていて、イベントに出店すれば行列ができる大人気店です。筆者も昨年11月に開催されました、はんだふれあい産業まつりにてタピオカミルクティーをいただきました。おいしかったです!写真のような素敵なキッチンカーで売られる華やかなクレープやドリンクがおいしそうで・・・並んでよかったです。そんな人気店「アーリーカフェ」さんですが、OPENしたのは昨年の7月5日。店主の有留さんはそれまで26年間、会社勤めをされていたそうです。思い切った転身までのいきさつや、今後の事業についてなど伺いました。
会社員時代は製品の設計企画に20年携わられていたそうです。その時には、転身について考えておらず、もくもくと日々働かれていたとの事。その後、製品の品質管理を3年間ほど担当されました。そしてある時に、「何でも良いので新規事業を立ち上げて」という業務命令を受けたそうです。そこから少しずつ流れが変わっていったようで・・・。立ち上げた事業は、販促ツールの制作、販売。半田市観光マスコットキャラクター「だし丸くん」のストラップを作成し、浜松市で開催されたゆるキャラグランプリ会場や半田赤レンガ建物で販売されました。販売拠点の営業めぐりの際には、キッチンカーをよく目にしていて気になっていたそうです。その後も販促グッズ制作に3年ほど携わられました。
そんな中、二人三脚で仕事をされていた役員さんが退任される事になりました。以降何となく仕事がつまらなく感じ始めたそうです。すると、ある日奥様から喝が入りました。「気になるならやってみたら?」頼もしい奥様からの後押しで、有留さんは「移動販売」での独立を決めました。
当初は青果の販売も検討していたとの事ですが、半田市では仕入れも難しく、買い手も少ない状況もあり、クレープに。元々クレープが大好きだったという事はなかったそうです。ですが「クレープ販売は始めたら楽しくて。今後もクレープで続けていく予定です!」笑顔で話されました。
商品開発、仕入れ、販売拠点の営業、仕事は幅広くあり、どの作業もうまくいかない時はあります。そんな時はクレープ屋仲間と支え合って乗り越えられています。県内のクレープ屋仲間とは、SNSなどでつながって、度々飲み会を開催されているそうです。そこではお互いにアドバイスしあいながら交友されています。また、土日にはご家族もクレープ販売のお手伝いしてくださっています。年頃の息子さんも、快く引き受けてくれるそうです。周りの方々の助けもありながら、お客様や取引先との“ご縁”を感じる事を楽しまれています。
そして、「次はどんな商品でお客様に喜んでもらおう」と試行錯誤する事も楽しみの一つと有留さんは仰います。こだわりは、地元の素材を使用する事。クレープは、イチゴや生地の卵が知多半島産です。今後のメニューは乞うご期待!5月20日(水)にはご自宅で営業されますので、皆様、一度足を運んでみてはいかがでしょうか♪
(取材:西埜仁美)
【住所】半田市冨士ケ丘6-97-5
(自宅本店で月1で営業してます!)
【代表者】有留範親 【創業】令和元年6月
【営業時間】出店場所により変動します
【連絡先】earlycafe.handa@gmail.com
インスタやってます!
「#アーリーカフェ」で検索ください
所在地:
代表者:
TEL:(0569)-
定休日:
営業時間:時〜時、時〜時(オーダーストップ)