2018年12月10日(月)
文系、理系の様々な分野に興味を持っていたが、漠然と、後世に残る壮大なモノづくりの世界に関わりたいと、土木工学を学ぶ道を選択した。
「大学院時代は洪水関係の研究をしながら、研究室対抗の野球大会を楽しみ、公私ともに充実した学生生活でした。前田建設工業(株)に入社し、構造物の設計等に携わるなど、土木だけでなく様々な部署を経験して、苦悩しつつも色々なことを学んできました」
建設省(現国土交通省)の外郭団体「建設経済研究所」に出向し、社会資本整備、建設産業に関する調査・研究等に携わった。建設会社だけでなく、建設省、金融関係など異業種の人達との協働は、仕事への取り組み方を考える切っ掛けともなり、自身の大きな分岐点ともなった。
「一例として、当時日本は入札契約方式が従来の金額だけでなく、技術・提案等も含めた総合評価方式を導入しつつある時代でした。その経過を実体験し、事業本来の目的や方針を意識して向き合うことの重要性を再確認しました。この出向は当社には初めて要請されたもので、社内では経験者がいなくて、試行錯誤しながらの日々でした」
その後、『日本初』という仕事に立て続けに関わってきた。PFI法(民間が事業主体として、その資金やノウハウを活用して公共事業を行う方式)を日本が導入した際は、国内の第1号案件(千葉市消費生活センター・計量検査所複合施設)を担当し、代表企業となった。2013年、同社が『脱請負』というビジネスモデルに取り組み始め、再生可能エネルギー事業とコンセッション(公共施設などで施設の所有権を公共主体に残したまま、民間事業者が経営を行う)を2本柱に掲げた。国内第1号のコンセッション方式の仙台空港特定運営事業を、他企業とコンソーシアム(共同体)を組み獲得。その後、愛知県有料道路でも日本の道路コンセッション(日本の道路コンセッション第1号)でも運営権を得て、愛知道路コンセッション(株)を設立した。いずれもメイン担当者として多様な関係者間の調整を図り獲得へと導いた。
「様々な難題を抱えながら、多様な人々との出会いの中で、話をいかに引き出すことが出来るか、いい聞き手になることを心がけてきました。現職に就いた時、今までの集大成となると熱い思いで居を移し、日々やりがいを感じています。第1弾として、今年7月大府と阿久比のパーキングエリア(PA)のリニューアルオープンをしました。“和の大家”とも称される建築家・隈研吾氏の設計・デザイン監修の建物内には知多半島の食材を使った有名シェフ3名のコラボによる、レストランメニューやお土産品を提供しています」
季刊で発行されるリーフレット「愛知多の種」には両PAの自慢メニューや生産者の紹介、お土産もの、イベント等が満載され、情報発信のツールとして重要な役割を果たしている。
「リニューアル後の交通量は前年比で2〜3%増えていますが、周辺地域の方々と協力、連携しながら、地域の活性化、交流人口の拡大の助力になれたらと考えています。また、地元の方にも地域の魅力がプラスαになったと感じていただけたら嬉しいですね」
知多半島を知ることも大切なことと、1年くらい前から『知多四国八十八ヶ所巡り』を始めた。最寄りの駅まで公共交通機関で行き、そこからひたすらグーグルマップを頼りに歩く。人気のない山道に案内され戸惑うこともあったと苦笑する。
「平均20キロくらい歩き、あと20ヶ寺ほど残っていますが、今年中の満願を目指しています。単身生活をして2年ほどになりますが、知多の酒に舌鼓し、楽しい半田ライフを送っています」
土木技術者として入社したが、畑違いの部署、日本初の事業への取り組み、試行錯誤の中で真摯に社会人としての人生を送ってきた。苦悩や迷い、感激もあったが、どんな時にも『山よりでっかい猪(しし)は出ん』という言葉を自分に言い聞かせ、泰然自若に構えて仕事と向き合ってきた。今日からもまた、新たなチャレンジが始まる。
2018年11月16日(金)
『まるでジェットコースターのように、上昇、急降下を繰り返し、幾度も転機がありました』と振り返る。高校時代に陸上400mで並みいる強豪校の選手を抑え、第39回国民体育大会・秋季大会で愛知県代表に踊り出た。
「女子からサインを頼まれ、新聞や雑誌から取材を受け、地球は僕を中心に回っていると有頂天になってしまいました。でも怪我をしたら、スーと波が引いていくように周りから人がいなくなり、人間不信に陥り人との接触が嫌になり、それから地道な20年間が始まりました」
長男として多くを背負わされ育てられたことに反発し、親元を離れたくて東京の大学に進んだ。学生時代は北海道でスキーを存分に楽しみ、就職先も北海道に本社を置く企業の内定をもらった。その報告を受けた両親の悲しそうな顔を見た時に、名古屋に戻ることを決意した。
「名鉄百貨店に就職しましたが、馴染めず2年で退社しました。当時はパソコンが珍しい時代で、ハローワークで見たマイクロコンピュータの世界に興味を持ち、名古屋に本社があるIT企業に就職をしました。ところが『大学が東京だったね』と言われ、東京支社勤務となり、その後15年ほど東京で生活をしました」
初めてインターネットという言葉を耳にし、日本でのWindows95の発売時にカウントダウンも経験し、見るもの聞くもの全てが新鮮だった。結果主義が性に合い、やりがいも生まれ充実した毎日だった。だが、人事異動での配属先は安定はしていたが、枠にはめられた仕事をこなす部署だった。やがて疲弊し、がむしゃらに仕事をしてきた人生を見つめ直すために退職し、1年半ほど気の赴くままに時を過ごした。
「仕事もなくひとり身、自暴自棄な僕を心配し、親戚一同が就職、結婚の口利きをしてくれ、JAとの関わりが生まれました。その後、知多牛の生産者が創業した『黒牛の里』に関わることになりました。周りの方々にお世話になり辿り着いた場所、失敗は許されないと覚悟して仕事と向き合いました。親戚縁者が機会を与えてくれたから、今の僕があると感謝しています。知多牛のブランド化と、この地域を農業の発信拠点として、未来永劫継続していく企業に成長させるという使命を全うするために、僕が親戚縁者が機会を与えてくれたように、周りの人達に様々な機会を与え続けていこうと思っています」
本店、CLACITY店を統括しながら、farm restaurant黒牛の里の立ち上げから関わってきた。飲食店のノウハウを学んだり書物を紐解いたが、心に響くものはなく、決定打が定まらないまま準備し始めた。だが開店を目前に控え『僕の世界観になっていない』とオープンが出来ず、眠れないほどの恐怖心と闘いながら、開店にこぎつけた。
「人材も揃い、メニューのクオリティの高さも充分でありながら、何に躊躇していたのか、今なら明解に答えることが出来ます。僕は商品を売るということだけでなく、知多牛という素材を通して人々が笑顔で楽しむ場所を作りたかったのです。『あなたのために』という思いで、足が不自由な方は入り口近くの席にご案内し、寒ければ膝掛けを用意する。だから当店にはマニュアルはありません。マニュアルは人間らしさが欠如してしまうように感じています」
農業の発信拠点としての使命を果たすために、様々な取り組みを始めた。敷地内にはバーベキューハウスや観葉植物などを扱う店舗も誕生した。また、近隣の店舗や農業生産者や団体と一緒に『(NPO)ごんのふるさとネットワーク』を立ち上げ、この地域一帯の環境を利用しながら、それぞれが経済的な基盤が確立できるような体制になればと足並みを揃えた。
「時代が変革している今こそ、常に新しい方向に向かっていくことが大切と思っています。僕もそういうタイミングの繰り返しでした。目標を明確に創造し、真摯に挑戦すれば道は開けます」
2018年11月16日(金)
今回訪問したのは、半田市昭和町にある「手打ちそば信濃路」。入口のショーケースには、毎年半田商工会議所が創立記念日に開催する「会員及び会員事業所優良従業員表彰式」で創業50年事業所へ送られる記念品「益々繁盛」が飾られている。店舗は名鉄河和線の沿線で知多半田駅と成岩駅の真ん中に位置する手打ちそば専門店である。
昭和42年、現代表の実父・千村春海氏がJR 半田駅前で開業した。先代が長野県木曽福島出身ということもあり、「信濃路」と店名をつけた。開業当初はきしめん・うどんといった名古屋文化に押され、麺の色が濃い「そば」は地元民に受け入れられず大変苦労したという。しかし先代は、地元民に親しんでいただくため気持ちを込めてそばを打ち続け、努力に努力を重ね複数の弟子を持ち、支店を設けるまでになった。 現代表の千村光弘氏は高校卒業後、乙川の浜田町にあった支店に入り修行を重ねた。氏が31歳の時、独立し清城町に店を出し17年間経営したが、平成19年、現店舗である昭和町の店を先代から引き継ぎ現在に至っている。(現在は昭和町の店舗のみ経営)
同店のこだわりは創業当時から受け継いでいる自家製粉を手打ちした香り高い田舎そば。そのそばとムロアジとサバを調合したつゆはとてもバランスが良く、お客様から評判が良い。そして品数豊富なメニューの中でも自慢の品は、独特な甘みを持った香り高いつゆに海老天・たまごなど具がたくさん入った「地ごくそば」、味噌味でまろやかで食べやすい「山ぞくそば」である。一度食べたら癖になり、リピーターになる人も多く、県外からも同店へ通うお客様もいるほどだ。また、こだわりのつゆを使って作られるカツ丼や天丼も他の店では味わうことができないオススメの逸品である。
同店の客層は、昼はサラリーマン、そして夜は家族連れが多い。千村氏は「信濃路のそばを食べながら家族みんなで会話が弾み、温かいアットホームな雰囲気を感じて一人ひとりが幸せになってほしい」と想いを語る。3年ほど前から28歳になる一人息子が奥さんとともに店を手伝うようになり、信濃路の味はこれからも先へと受け継がれていく。将来は名古屋など大都市に出店し、信濃路の味を多くの人に味わっていただきたいという大きな夢を持ち、そば職人千村光弘は生涯現役でそばを打ち続けていく。
(取材:竹内圭志)
所在地/半田市昭和町2-70-1
代表者/千村光弘 創業/昭和42年
営業時間/11:30〜14:30 17:00〜21:00(20:30LO)
定休日/水曜日(祝祭日の水曜は営業)
TEL/22-5639 URL/http://www.handa-shinanoji.com/
所在地:
代表者:
TEL:(0569)-
定休日:
営業時間:時〜時、時〜時(オーダーストップ)
2018年11月16日(金)
――9月13日オープン、おめでとうございます。
お客さま、スタッフが『しあわせ』になれることを願っての店名です。今までの経験を活かしての店舗づくりで、「この店は大丈夫、イケル!」と自信があります(笑)。自分のことはネガティブに思考しがちですが、仕事に関してはポジティブに考えることが出来るんですね。今後は白髪染め・前髪カット専門店のニーズは、増えてくると感じています。特徴は低価格!きれい!スピーディ!親切・丁寧!で、必ずお客さまのご要望にお応え出来ると思っています。
――色々な経験をされてきたのですね。
いつも主人と考えながら事業展開をしてきて、この店で5店舗目になります。30年くらい前に料理店をやっていた主人から、これからは攻めの時代と、アイスクリームとクレープ販売をする、ケータリングカーを勧められました。アイスクリームブームが到来し、ケータリングカーもまだ珍しかった時代でした。半田の自宅から通った、鈴鹿サーキットでの仕事は、楽しい思い出ばかりです。
――女性起業家としてのスタートですね。
そんなこともありませんが、当時、女性はあまりいませんでしたね。通勤時間が長く辛くなり事務職に転職しましたが、みんなに喜んでいただける仕事がしたいと、ずっと考えていました。その頃、私自身も毛染めをしていて、低価格で提供できれば喜んでいただけると、高齢者の方々を対象に病院や介護施設、自宅などに伺う出張美容の仕事を始めました。8年前にスタッフ2名からスタートし、今は13名で知多半島全域、三河、名古屋南部に伺っています。私は営業を担当し、弱気になった時もスタッフに支えられ奮起してきました。スタッフあっての私と実感しています。この店もスタッフの「もっと働きたい」という声からでした。じゃあ、前々からやってみたかったカラーの店を、スタッフも揃った今なら出来るんじゃないかなと、オープンしました。
――想いや夢が詰まった店ですね。
スタッフとカラーと前髪を切ってくれるお店があったら嬉しいね、という話しから店のコンセプトを考え始めました。髪について色々な悩みがあったり、自分にどんな色が似合うのか、分からないこともあるかと思います。そんな悩みにお答えしたり、アドバイスをするカウンセリングの時間も大切にし、アレルギーで悩んでいらっしゃる方にも対応しています。全てセルフブローとなっており、今まで自分たちが困ったこと、こんな店があったらいいね、という想いをカタチにした、アットホームな店にしました。
――福祉分野にも特化した店づくりですね。
出張美容のスタッフから「利用者さんから、気分転換になるから美容院に行きたい」という要望もあると聞いています。それなら車椅子対応のお店にしようと。例えばカットするお母様に付き添って、娘さんが隣の席でカラーをする。そんな場面を想定し、障がい者・高齢者(70歳以上)カットのメニューも用意しています。
――現在、精力的に2事業所を運営されていますが、秘訣は?
趣味はゴルフと登山で、体力には自信があります。行動的で忍耐強いのが私の長所と主人から言われていますが、そんなことが経営に活かされているのではないでしょうか?私は美容師の資格を持っていないので、仕事はスタッフがやりがいを感じ、楽しく働くことが出来る職場環境づくりと思い、店をスタッフに任せていることが多いですね。話すことが苦手なので、「こうしてもらえると有り難い」というお願いをしていますが、スタッフは私の意を汲んで先回りをして取り組んでくれています。本当に感謝しています。今は試行錯誤しながらの店舗展開ですが、皆さんにしあわせをお届けできたら嬉しいですね。
2018年11月8日(木)
日時:平成30年12月8日(土)9時〜19時
12月9日(日)9時〜17時
会場:半田赤レンガ建物 企画展示室
入場料:無料
後援:半田商工会議所他
ステンドグラス・吹きガラス・サンドブラスト等々の手づくりガラスの世界をお楽しみください!!
お問い合わせ:TEL0569-29-3310