2018年1月29日(月)
末永龍二社長の父である勇氏は1944(昭和19)年生まれの74歳。鹿児島県曽於市(旧曽於郡財部町)の出身で学卒とともに建設の世界に飛び込んだ。時代は1960年代に入り日本は高度成長期へ。旺盛な建設需要は数多の職人を求め、職人は多種多様な経験を積み技能の向上にいそしんだ。職の現場とともに関西から阿久比町へと拠点を移していた1969(昭和44)年に独立。間もなく50年を迎える。1988(平成元)年に法人成りし、3年前に龍二氏へ事業を承継した。
末永工務店は、工場やビル、マンション、庁舎などの大規模建築物の左官工事を主要業務としている。コンクリート打設などの基礎工事を伴う下部構造から、上部構造である建築物本体の仕上げまで、長い工期にわたりひとつの現場に携わる同社の左官業務。熟練したベテラン職人の技術、高い生産性が、「野丁場左官」と呼ばれる大規模建築のモルタル工事の現場で活かされ、元請け建設会社の信頼を絶対のものとしている。
長きにわたり積み上げてきた信頼は活躍のフィールドを広げ、愛知県を主に、ニーズに応じ全国の建築現場へと向かう。期待されているのは技術力。難しい環境下での建築構造物であるほど職人の力が活かされ、経験・技量に優れた同社に白羽の矢が立てられる。
同社が誇る熟練したベテラン職人。その基盤づくりに欠かせない存在が勇氏の夫人・ゆき子さんである。法人設立とほぼ同時期に建てられた社屋は社員の寄宿舎を兼ね備えたもの。社員の多くは寝食を共にし、朝昼夕の3食すべてにゆき子さんが腕を振るう。活力を生む食と心身を休める環境。日々の仕事に集中できる環境が職人一人ひとり、同社の源泉となり価値向上へとつながっている。
近年、建築を取り巻く環境は、施工の合理化・近代工法・工場生産の導入により、経済性や生産性の向上が重視されるようになった。それと同時に、昔ながらの工法にも注目が集まり、左官職人はそのどちらにも的確な手法・技術を使い分ける技量が必要となっている。同社は職人集団の企業として左官という伝統技術を次の世代に継承すべく、人材育成にも注力。業界他社と協力し、県内工業高校に赴き技術指導をするとともに左官の魅力を熱く伝える。
龍二氏は現在47歳。夫人、息女はそれぞれ人をつくり、人の命と向き合う仕事に携わる。大学生、高校生の二人の子息も人間形成に直結する活動に打ち込む。控えめな言葉ながら、「末永の鏝」を次世代へつなぐ将来を見据えている。
(取材者:小柳 厚)
所在地/半田市岩滑東町2-94-1
TEL/0569-24-5751
創業/昭和44年
営業時間/8:00〜17:00
定休日/日曜日
http://www.suenaga-k.com/
所在地:
代表者:
TEL:(0569)-
定休日:
営業時間:時〜時、時〜時(オーダーストップ)
2018年1月29日(月)
――エステティックと、ネイルのサロンなんですね。
この世界は奥が深く、『二兎を追う者は一兎をも得ず』になりたくないので、日々研鑽しています。私は小学校のころから絵を書くのが好きで、親や先生に誉められたのが嬉しくて書き続けていました。その絵にもつながるネイリストを目指し、母がエステティックサロンを開業していた影響で、専門学校時代に両方の資格を取得しました。エステティシャンとして勤務し、その後ネイルサロンに勤め、7年ほど前に母と交代してもらい、夢だったサロンを始めました。
――その後に結婚、出産をされたのですね。
満足な人生を送ることを目標にし、後悔しないように生きていきたいと考えています。だから仕事を持ち、子どもがいるという生き方を理想としてきました。昨年の7月に自宅の一角にサロンを構え、主人や義母の応援で再スタートしたのですが、妊娠、出産でお客さまにご迷惑をおかけしてきました。私自身、その間も技術に大差はないと思い頑張ってきたつもりですが、至らない点も多々あったかと思います。そんな私を、受け入れてくださったお客さま方には感謝しています。
――とてもお客さまに恵まれていますね。
本当にありがたいことです。ですから私に出来る恩返しは、最良の技術を提供することだと思っています。ネイルは爪への負担を最小限におさえ、健康な爪を育みながら、爪を大切にした技術をお届けしたいと思っています。免疫力を高めるようなエステは健康につながり、美にもつながってきます。そのためのお手伝いをしていきたいですね。また、気楽に来店いただける環境づくりをして、美容面で頼っていただき、必要とされる存在になりたいと思っています。子どもたちから、ほんの少し手が離れた今からが、これからの計画が立てられるのではとワクワクしています。
――お子さんは何歳ですか。
もうすぐ3歳と1歳の娘で、2人とも保育園に通っています。子ども達の成長と共に少し余裕が出来てきました。今までは毎日の生活だけで手一杯になってしまい、目の前のことだけに追われていましたが、これからはサロンにより力を注いでいこうと考えています。美容の世界は日進月歩ですので、常に勉強をしていますが、セミナーなどにも行く時間も作れそうで、今から楽しみです。趣味は仕事というほど仕事が大好きで、仕事をしていれば幸せですが、経営者は大変ですね(笑)。特に経営の勉強をしてきた訳ではないので、運営はもちろん価格設定やメニューを決定するのは難しく苦労もありました。でも自分のサロンでは、自分の納得したことだけをやっていけるので充実感もあり、ストレスもないですね。反面、自己責任で全て自分に返ってきますから、緊張もしています。
――ご自分の納得した経営は、サロンの色というか、個性にもなってきますね。
そうですね。やはり私は技術を第一にし、プラスαをご提供できたら思っています。サロンの特徴と言ったらいいのかも知れませんが、ありがたいことに、ご紹介でご来店されるお客さまがほとんどです。客層も幅広く(20代〜80代)、母のサロン時代からのお客さま、フリーランスのエステティシャン時代のお客さまも多く、本当に長いお付き合いをさせていただいています。私は会話も大切にしていますが、お話をお聞きしているつもりが、いつの間にか私が相談しているということも多々あります(笑)。子育てのことや日々の料理や洗濯などの、ちょっとしたコツなどを、人生の先輩方から学ぶことも多いですね。頼っていただける存在、必要とされる存在になりたいと思っていますが、私の方がよほどお客さまに頼っているかもしれません(笑)。そんなお客さまに恵まれ、本当に感謝しています。
2018年1月29日(月)
工業高等専門学校(高専)に入学した頃は2年間の寮生活が義務付けられ、今ではありえないほどの、『まるで軍隊のような生活』だったという。入学当初の数ヶ月は、早朝5時起床から夜の点呼まで緊張の日々を送った。
「寮生活は厳しかったのですが、もともと高専は自由な校風でした。3年生からは私服通学で、成人した生徒のために喫煙室もありました(笑)。遊びにハマり、留年や退学をしてしまう生徒もいましたが、私は要領よく(笑)、ごく普通に卒業しました。担任の紹介で当社に入社したのですが、『絶対辞めるな』と念を押され、何かあるかなと思ったものです」
当時、その何かは、勤務時間が長かったことだった。入社した33年前は会社の売上高も100億ほど(現在は建築仕上塗材の国内最大手、売上高917億6200万円・平成29年3月期)。同規模の会社も乱立し、しのぎを削り合う毎日で、その労働環境に半数くらいの人が退社し、入社当時の社員の平均年齢が20代前半だった。
「大阪工場に配属され、寮から会社まで徒歩で40分くらい。朝は先輩と車通勤し、残業して歩いて寮まで帰ると12時の門限に間に合わず閉め出されていました。会社に行くのが辛いと感じることもありましたが、今では良い思い出です。本当によく働いていました。そういう真面目にコツコツ働く社風は、今も受け継がれています」
また、上場企業の社長在位歴で最長の日本記録を持つ創業者(在位61年、現会長)が本社工場長を兼任していたので、常に創業の精神を肌で感じてきた。オイルショック時に脱石油対策として誕生した『耐火被覆材』は「無から有を生じる」という思想を基に創業者自らが海外まで原料調達に走り回り、たまたま手近にあった砂漠の砂をヒントに開発し、今では同社の耐火断熱事業の主軸となった。ピンチをチャンスの心意気、困った時にも決してあきらめない創業精神は染み付き、現職となった今もやるしかないと日々奮闘している。
「規模は大きくなりましたが、機動力を大切にし建築仕上塗材は午後2時くらいまでの注文は当日生産・出荷をしています。多い時で100トン、小さい缶を含めて1万缶になり、現場は多忙を極めていますが、全てのオーダーを受け入れることを使命としています。毎日のミーティングは欠かせませんが、いつの間にか、社内でも努力してやれることはやろうという雰囲気が醸成されてきました。仕事に向かう自主性や意識が育ってきたことはとても嬉しいことで、やりがいを感じています。そして、工場長は工場を稼働させるだけでなく、営業活動も使命として、注文につなげるための努力は常に心がけています」
当所のにぎわい創出委員として異業種の人との出会いを大切にしているが、それも時として、仕事にとつながっていくこともあると言う。そんな出会いや仕事を通じて、社員たちに伝承したいことは山積している。
「誰もが、入社当時は自分のことだけを考えるので精一杯です。やがてチームとして、事業所としての仕事の仕方を考え、業績を上げるためにも会社全体のことを考えるようになるでしょう。期間も短期間から半年、1年、3年と長いスパンで物事を考え、先を見る目が育ってきます。全員が一丸となって仕事に取り組むことが出来たらと願っています」
前職者と入れ替わるようにして、現職に就いたのが4年前。秋頃から転勤の話が出始め、決定したのは初冬の頃で新年の初出勤から半田勤務となった。目の回るような準備期間であったが、夫人の希望で学期途中の子どもたちも説得し、入社以来慣れ親しんだ大阪から、一家そろって未知の半田の住民となった。
「出かける時、何かする時は家族一緒が基本です。半田に来て『醸す丼』のリーフレットを片手に店巡りをみんなで楽しみました。家族が元気でいてくれるだけで、仕事も頑張れます。単身で来ていたら大阪に戻っていたかもしれませんね(笑)」
幼少の頃は小児喘息気味で運動を勧められ、短距離走やマラソン、走り幅跳びに挑戦した。中学時代には県内の駅伝大会にも出場し、その時からあきらめない精神力は芽生えていたようだ。さらに高専時代、新入社員時代から現職まで、貴重な経験や人との出会いで、『機動力』の大切さを再認識し、仕事に邁進する日々を送る。