2023年4月14日(金)
のびのび広場エムズ半田教室は令和5年4月に、児童発達支援をメインとして開設。
「心も身体ものびのびとその子らしさを大切に」をモットーに、感覚統合療育に取り組んでいます。また、安心できる環境の中、あそびを通して楽しく経験し、確実に積み重ねていける療育を目指しています。
現在の受入年齢は未就学で保育園や幼稚園との並行利用が可能。(利用には受給者証が必要となります)
代表者/間瀬博吉
住所/半田市船入町20
TEL/0562-57-5688
サービス提供時間/
平日10:00~15:00、
土曜日第1部10:00~11:30、第2部12:30~14:00
定休日/日・祝日
2023年4月6日(木)
半田市西部の田代町、まちの喧騒を抜けて、自然豊かな地が広がるエリア。田園や牧場もあり、半田市の農業部門を感じさせるエリアでもある。日を遮る建物も無く、ウォーキングやサイクリングでも気持ちがいい。
見渡せば、ビニールハウスも目に付き、松堀町の交差点を西へ西へと進めば、「市野園芸」の看板が出現。看板に導かれると、全国最大級の栽培面積を誇るビニールハウス群が広がる。「市野園芸」である。
同社のビジネスを先導するのは、親子鷹であるお二人。代表の市野幸治氏と、そのムスコ敦紳氏。今回は、敦紳氏にお話を伺った。
敦紳氏は、大学卒業後、同社に入社。既に15年間、いちごに身を捧げた農業玄人である。彼の朝は早く、早朝6時にはハウスで作業を開始する。自然が相手であるため、猛暑や酷暑、雨や雪も彼には関係ない。来るべき日に備え、手塩に掛けて育てるいちごは、このような彼の努力から成り立っている。だからこそ、同社のいちごは、非常に熟して香りも芳醇であり、口の中いっぱいに甘酸っぱい味が広がる逸品に仕上がっている。
しかし、そんな味とは裏腹に、農業というビジネスは甘いものではない。前述したように、自然が相手であることに加え、近年の新型コロナウイルス感染症や、原油高の煽りをまともに食らってしまっているのだ。天候不順であれば、育成不順も起きる。ここ数年は天候に泣かされることもしばしばあった。
だが、新型コロナウイルス感染症は、同社の売上を大きく支えてきたいちご狩りにとって、悪天候以上の大ダメージを与えた。外出自粛傾向の結果、いちご狩り来場者は激減。セントレアにほど近いことで、有利な立地環境だったにも関わらず、外国人観光客は皆無になった他、企業の互助会や福利厚生で利用されていたバスツアーなども激減するなど壊滅的な状況へと陥った。丹精込めて育てたいちごを廃棄する日もあった。
原油高に関しても、経営状況にはかなりの逆風となっている。全国最大級の栽培面積を誇る同社のビニールハウス群は、重油を使用して暖める仕組みになっている。いちご狩りシーズン中は、ほぼフル稼働でハウスを暖めるため、光熱費も莫大なものとなる。いちご狩りに関して価格改定を実施したが、同社にとって苦渋の決断だった。敦紳氏曰く、「非常に心苦しいことではあるが、今後もいちご狩りを楽しんでいただくためには、価格改定という判断をせざるを得なかった。その分、商品やサービスの向上に努めたい」とのこと。
そんな状況でも、あきらめずに立ちあがろうとする敦紳氏を支えたのは、半田商工会議所青年部で苦楽を共にするメンバーたちだった。少しでも力になればと、いちご狩りにリピートで訪れるほか、自社企業の社内レクなどで利用するなど、同社を盛り上げていった
異業種である青年部メンバーとの繋がりは、新事業展開に大きなヒントを与えるだけでなく、一歩踏み出す勇気も与えた。生いちごシャーベットは、同社のいちごを利用してジェラート製造企業の青年部メンバーが協力してできた逸品である他、昨今オープンしたコンテナカフェ【いちのいちごのあま~い隠れ家】も、建物の施工から外構レイアウトなどは、青年部メンバーの建設業者たちが腕を振るったものである。
代表の幸治氏が基盤を固めて、拡大させた農業ビジネス。青年部という異業種交流を通じて得た仲間たちと新たな事業展開を進める敦紳氏。一皮むけた敦紳氏の手腕で、同社の舵は取られていく。
SKE48との競演時に披露した、敦紳氏の好きな歌を引用するならば、『カッコつけてないで やれるもんだけで 毎日何かを頑張っていりゃ』で、今後も田園の中に広がるビニールハウスで、同社の挑戦は続く。(取材:榊原鉄平)
【住所】半田市田代町156-1 【代表】市野幸治
【創業】平成4年12月
【定休日】年中無休 ※コンテナカフェは不定休
【営業時間】 9:00~15:00
【TEL】 27-7586
※いちご狩りは予約制、販売は随時ですが、
詳細は同店にお問い合わせください。
2023年4月6日(木)
時には自由に、時には自らを律して、そして時には使命感を課して日々を送ってきた。その姿は多様であるが、悩み戸惑いながらも、『外柔内剛』の精神で歩みはブレることはなかった。
「大学3年生になる時に、海外で住みたいと外国語学部に転部希望の僕と、その流れを阻止したい母との間で軋轢があり退学。その後
はアパレル関係でアルバイトをし就職しました。多くの部下を抱える立場も経験しましたが、人間関係の構築が上手く出来ず退職しました。その頃の僕は尖っていて言葉もキツかったと反省し、それからは物腰を柔らかく敬語で話すように心がけました。その後は自由に、目的もなく過ごし、突如26歳で働いている人が眩しく見え、早く社会に戻りたい、人間になりたいと(笑)その生活からキッパリ足を洗いました。この自由にあるがままに生きた6年間に自我が芽生え、僕にとって貴重な時間だと感じています」
『他人の釜の飯を食いたい』と地元企業でアルバイトをし、1年後に入社。同社は製缶・旋盤加工・機械メンテナンス・機械据付調整
等を社業とし、設計から製作までの一貫生産は、その技術力、丁寧な仕事に定評が高い。一人息子(姉2人)だが、後継者という意識は全くなく、職人さんの下で働くことが楽しく、父親には一生社長でいて欲しいと願った。その思いが一変したのは青年部の存在だった。家業に就き、中学時代の親友から『青年部に入らない?』と年に1回誘われ続けた。最初は町工場のような規模の企業が入る団体ではない!2年目には、面白い団体かもしれない・と、心境が変化し、3代目として継ぐことを決意した35歳で入会した。最初の誘いから8年後のことだった。会合等の出欠の返事は誰よりも速く、頼まれた仕事はより短時間で仕上げることを決心し、自らを律してきた。
「怠け者で、忘れやすいので、そう決めました。そんな僕を使いやすい奴と思われたようで、2年目に委員長をやらないかという話が飛び込んできました。『挑戦しない経営者は魅力がない』という言葉に背中を押されて、委員長を受けました。委員長の明確な自覚もなく経験もない僕は、委員会を上手く回せず迷惑をかけっぱなしでしたので、失敗は2度としない、依頼された役を全て引き受けようと決意しました。そのような気持ちになったのは『認められたい』と言う気持ちが強かったように感じています。職人気質の父は口数も少なく、僕は父と意志の疎通が上手く出来なかった、でも青年部では認めてくれる。それが嬉しかったですね。僕にも色々なチャンスをくれて、上手く育てていただいた。そういう先輩やメンバーとの出会いがありました。今度は次代にその想いを届けようと会長に就くことを決心しました」
会長を支える専務理事を2度経験し、得た課題も、『基本方針』に反映させた。専務理事の仕事は多岐に亘り、メンバー・会議所本体とのパイプ役、青年部内の改革等であり、その改革の一つが令和3年度から採用された会員の50歳定年だった。役職の重要性や労力の
大変さを痛感し、組織の充実を図り、メンバー同志・会議所本体とのつながりを強固にするため、専務理事を支える常務理事のポストを新設した。同時に青年部の運営基本方針と並んだ綱領に『国際人としての教養を高めよう』が謳われている。それに準じ、国際人としての視野を広げるための第一歩として、『市民交流委員会』を設立し、新たな国際交流事業への挑戦を試みる。
「楽しみ、充実した委員会活動を経験して欲しいと思っています。あの講師を呼びたいから、こういう事業ではなく、課題を解消するためには、こういうゴールがあるというストーリーを楽しんでいただきたいと思っています。青年部活動は、問題点に対して対策を講じる社業と同じです。また、今は簡単に物事を調べることが出来、忙しさにかまけて、ついつい、いつも通りでと思いがちになってしまいます。僕自身もそうで、考えたり、勉強することを止めてしまうこともあります。それでは進展がありません。学び俯瞰して見ることで頭は柔らかくなり、新しい何かが生まれると確信しています。委員会が人を育てるという青年部設立の原点に返り、全メンバーの事業所に繁栄してもらいたいと思っています。青年部、社業、地域のいずれもが発展しなければ、いずれかの発展はありません」
前述したように、青年部活動によって多様な刺激を受け成長してきた。何よりも『挑戦する』ことを大事にしてきた。入会前は面倒なことはやらない、頭ごなしに否定する、俯瞰して見ることはしない、挑戦しない、そんな自身であったと振り返る。だから今、会長としての決意は以前の自分を振り返り、かつての自分と同じような道は歩かないで欲しいという想いからの言葉である。そして会長の使命として、発足60周年を目前に控えた歴史に敬意を払いつつ、先人に負けぬ情熱を持って時代にあった形で試行錯誤と検証を繰り返し、全ての仲間と共に青年部を作り上げていくことを誓う。
「出来ることをしての成功は、意味があるでしょうか?社業であれば良いかもしれませんが、青年部では挑戦し続けて欲しいと思っています。挑戦して失敗しても、そこから生まれるものはあるはずです。その気持ちから、令和5年度スローガンは『トライアル・アンド・エラー~確かなつみ上げを次代へ~』です。余談ですか、妻の名前は『なつみ』です。遊び心と妻への愛情を盛り込んだスローガンで、僕の青年部会長とし
ての挑戦が始まりました」
●ちょっと一息●
趣味は暴飲暴食と言っても良いほど、食べて飲むのが好きでアルコールのある場所は大好きです(笑)。青年部活動後の懇親会は皆勤賞で、二次会、3次会までお付き合いしています。とは言っても酒の味がしない水のような酒が好きで、アルコール好きというより、宴席が好きですね。一時、懇親会参加のために青年部に入ったのかなと思ったほどです(笑)。
住んでいる成岩4区の祭りは幼稚園の年長さんくらいからやっています。今まで色々な人にお世話になり、今は子どもたちに楽しんでもらえるような機会を作る世代になりました。人の人生は『恩送り』と実感しています。
1980年半田市生まれ、在住。2000年名古屋学院大学経営経済学部中退。07年家業、(有)鈴木製作所に入社し19年に現職。2015年青年部入会。16年サンタクロース委員会委員長、その後副会長や専務理事を経て、令和5年度青年部会長。
2023年4月6日(木)
理想の義歯を作るため技術を追求
『幸運の女神には前髪しかない』と言われていますが、2011年9月、僕はあの時、確かに女神の前髪を掴んだと感じています。総入れ歯製作の歯科技工士の僕は、世界NO.1歯科技工士マックス・ボッシャー先生の講習を受けるために、セントレアに向かっていました。到着した僕を待っていたのは、台風で欠航という絶望的なアナウンスでした。スイスでの講習会になけなしの大金を投じ、学びたいという思いを諦めることが出来ず、必死で飛行機を探して一日遅れて参加しました。科学的根拠に基づいた最先端技術のその講義は素晴らしく、まさに目からウロコ状態でした。3ヶ月後にマックス先生から、2012年の新年早々の講習会のお誘いを受けました。直々にお声がけをいただき、全ての仕事をキャンセルして、先生の仕事場で1週間トレーニングに励みました。
帰国後に歯科医院の先生方から「今までの仕事のクオリティと全く違う、患者さんがすごく喜んでいる」と報告をいただきました。知らず知らずのうちにスキルアップしていたようです。人種、性別、年齢などによって骨格は様々ですが、常に世界標準の最新スキルをアップデートしていけば、全ての患者さんに対応可能な義歯を提供できることを確信しました。世界で通用するスキルかどうか?自分のレベルを客観的に評価したいと2015年から様々なコンテストに挑戦してきています。
世界の頂点はとてつもなく高く、惨敗に惨敗が続き、2021年にようやく『2021 IDS Candulor World Contest』(世界入れ歯コンテストドキュメント部門)で1位になりました。アジア人で初めての1位で、2年に一度開かれるこのコンテストは、個人的には義歯のオリンピックやワールドカップに匹敵するのではと思っていて、とても嬉しかったですね。今年も挑戦し『13th International CANDULOR KunstZahnWerk Competition 2023』
作品部門で5位獲得しました。3月15日、ドイツでの表彰式に出席してきました。コンテストは世界中からエントリーした歯科医・技工士100人程に患者さん情報と顔写真、石膏模型が届きます。ヨーロッパでは機能性が最優先され、審美であり、入れ歯と分からないような自然な義歯を作ろうという意識が高いようです。僕はその自然観を大切にし、歯茎の色は白からピンクのグラデーション、患者さん本来の歯並びを再現するために、すきっ歯の義歯を製作することもあります。完全なオーダーメイドですので、ピッタリ合う究極のオートクチュールですが、誤差は出てしまい常に精度との闘いです。ミクロの世界での勝負で「自分の身内が使う」という想いで作っています。
先日も僕の facebookを見られた、関西にお住まいの85歳の女性から「思い切り、食べものを美味しく食べたいから義歯を作りたい」と連絡をいただきました。私たち歯科技工士は、歯科医から患者さんの情報をいただき義歯を作るので、近隣の歯科医院を紹介させていただきました。近隣といっても岐阜の歯医者さんですが、距離感よりもご自分の理想とする義歯を作って欲しいと要望される患者さんでした。近年はしっかり噛むことで健康を保ち病を遠ざけると言われ、歯の大切さを再認識される傾向にあるようです。女性は特に審美性を求める方も多く、自然観を大切にしながら、機能性、審美性の三拍子を揃えるために試行錯誤しています。
歯科医院の先生が入れ歯を患者さんにセットした後に、その場でかた焼き煎餅とあたりめを食べていただき、その様子を動画で撮影し送信していただいています。「20年間食べていない固いものを食べられて嬉しい」と号泣された方もいらっしゃいます。僕は義歯を『人工臓器』と言っていますが、体の一部となるその臓器を装着することで「身体の歪みが治った」「背筋が伸びた」「顔の輪郭がスリムになった」などの驚きの声を頂戴しています。また、最近は若い方でも病気等で歯を失った方、ボロボロになってしまった方、身内にも入れ歯であることを隠していらっしゃる方、様々なご苦労をされているようです。僕はクロコとして、陰ながらそういう方達のお力になりたいと思っています。
30年程前に独立してから、ひたすら技術を追求してきました。世界には学ぶべき技術がたくさんあります。時には今までの知識を払拭しなければならないこともありますが、患者さんの理想とする入れ歯を作ることは、僕の人生を豊かにすることにも繋がっています。入れ歯に人生をかけ、ポケトーク(通訳機)を相棒に、技術の習得に日々努めています。
Swiss Plus
貝沼貢実さん
■半田市亀崎常盤町3-12
■29-4415
2023年3月30日(木)
1964年名古屋市生まれ、日進市在住。87年立命館大学卒業。同年東邦ガス入社。5年間の選手生活を終えリビング営業部、東邦インベストメントサービス㈱出向(現東邦総合サービス)、人事部(硬式野球部監督)、瀬戸営業所長、東海営業所長、三重支社長付等を経て、2022年現職。当所議員。
氏を語る時、その野球人生をおいて語ることは不可能であろう。プロ野球選手のご子息は、(父君は法元英明氏/元中日ドラゴンズ選手、同2軍監督、同スカウト)生まれて間もない頃、当時後楽園球場で行われた巨人対中日戦でセンターを守っていた父英明氏が王選手の右中間の打球をフェンスへ頭部激突しながら好捕。しかし丸二日意識不明になった話を聞き(事なきを得たが)、「野球は怖いからぼくはやらない!」と幼少時言っていたようだが、近くの公園での遊びの野球に夢中になったのがきっかけで中学から本格的に始めた。
「家に飾ってあった甲子園の大観衆でプレーする父の高校時代の写真を見て、ぼくもあの聖地に行きたい!といつしか強く思うようになりました。高校は甲子園常連校よりも常連校を倒して甲子園に出たい!長い物に巻かれるのが嫌い、弱者が強い者を倒すことが私のロマン。愛知高校へ入学して甲子園に出ることを目指しました」
2学年先輩と1学年後輩(元中日の彦野利勝選手ら)は甲子園の土を踏んだが、氏の世代は出場という夢はあと一歩叶わなかった(同学年には名古屋電気高校(現愛工大名電)の工藤公康選手、大府高校の槙原寛己選手らがいた)。そして、甲子園に行けなかった悔しさから、大学野球でもうひと花咲かせたいと、立命館大学に入学した。
「3年間はBチームで鳴かず飛ばず、大学ラストイヤーにやっとレギュラー獲得。1986年の関西学生野球春季リーグ戦では、甲子園出場のスタープレーヤーが率いる他の大学を押し退け(1学年後輩には元ヤクルトの古田敦也選手がいた)大学史上初のリーグ春秋連覇を成し遂げ、大学野球の聖地である明治神宮球場に春秋連続出場しました。リーグのベストナインのタイトル受賞や関西学生選抜チームの一員として台湾遠征メンバーに選出されるなどの活躍を評価され、翌年野球で東邦ガスに入社しました」
それまで東邦ガス硬式野球部は全国大会には無縁のチーム。都市対抗は戦前から出場なし。あくまで社業重視で特別、野球に力を入れていない会社であった。5年間の選手時代は、全国舞台に出場する機会もなく達成感もないまま引退。社業専念となり3年後再びコーチ、退任後8年間社業専念後に監督就任と指導者含め計10年ほど野球に真剣に向き合ってきた。2003年、61年ぶりに都市対抗野球大会に出場時は一社員としてスタンドで選 手の活躍を見守ったが、社命により2004年の7月に監督として現場へ復帰。アマチュア野球の最高峰の大会である都市対抗野球大会に就任1年目で出場を果たし、翌年には社会人野球日本選手権大会へ創部以来の初出場へ導いた。野球と社業との間を行き来するのは苦難もあったが、与えられた場所で頑張ってきただけと振り返る。
「仕事が分かりだした時に野球に戻れということもありましたが、社業専念の経験が指導者として必ず役立つとお受けしました。チーフ、課長と責任のある役職を務めた経験を通して人の力を最大限発揮させることや、埋もれている人が考え方一つで組織の力となることなど学びました。もともとうまくいかないと弱気で悲観的思考になりがちだった私は、いつしかプラス思考が醸成されました。会社で仕事を叩き込まれ、会社が私を作り、私を変えてくれたのでしょうね。そういった職場での経験、具体的には不可能を可能にすることを求められるのは当たり前、無理と判断し逃げてしまえば、その時点でゲームセット!勝つためには失敗を恐れずに前に出続けるしかない!だめならやり返すだけだ!という強い信念を身に着けたことが監督時代、全国大会出場経験のほとんどないチームを全国の舞台へ導けたと思っています。本当は日本一を目標にしていましたから不完全燃焼ですがね。(笑)」
昨年4月1日、同社はガス事業法により分社化し、東邦ガスの一般ガス導管事業等を承継し設立され、現職に就いた。社名は導管網を意味する『ネットワーク』とし、新たな仕組み作りを担う。営業畑を歩き様々な地域の現場を熟知している氏に、その責務が任され奮闘する毎日が始まった。
「東邦ガスは昨年創立100周年を迎え、先人が築いてきたお客様や協力会社との信頼関係があります。それをより強固にするのが私の役割だと思っています。新しいことを行おうとするとスムーズに進まないことはありますが、そこからどうするか?それが仕事の基本だと考えています。できないと結論付けるのはできるだけ遅く、最善の努力をしているか?全力を出し切っていないのではないか?自身に常に問いかけ粘ってしぶとく取り組めば、多少なりとも結果は変わってくると思っています。仕事も野球と一緒で、簡単に諦めないこと。目標を目指して向かって行くことが大切だと思っています。後世に引き継げられる仕事をしていきたいと思っています」
野球選手を引退して間もない頃、全てが思うようにならない時があり、ちらっと退職も考えたことがあった。悩んだ時、尊敬し兄とも慕う牛島和彦氏(浪商-中日-千葉ロッテ-横浜元監督)にこう言われた。『辞めたいなら辞めればいいよ。でもな、辞めますと言って、会社の偉い人に引き留められるか?問題はそこや!どうぞお辞めくださいと言われないか?引きとめられるくらい大きな仕事して辞めたら次はあるけど今の自分はすんなりどうぞ!かもしれん。それはカッコ悪いな』と。その一言で踏みとどまった。以後、しっかり足跡を残し、辞める時はカッコよくと決心した。気づいたら1年後に定年を迎え、一区切りの年となる。
ちょっと一息
東邦ガス野球部の監督を退任したあと、長男が中学硬式野球チーム『SASUKE名古屋ヤング』で野球を始め、その時から今でも休日はコーチとして指導をしています。就任当時は弱小チームでしたが、2019年夏には全国大会で優勝しました。子どもたちの将来が甲子園やその先の野球人生で活躍することはうれしいことです。しかし野球が上手ければそれでいいのではなく、野球を一生懸命に頑張ったことが将来の素晴らしい人生に繋がってくれることが最も大事だと考えています。私は野球をして来たからこそ今がありますが、野球が全てではない。野球を通じて学んだことが大事なことで人としてしっかり生きていってほしい。そのことを子どもたちには伝えています。
現役選手を引退した数十年前、暴飲暴食を繰り返し、もう引退したんだから運動なんかするのはうんざり、階段を使わず、50m先の自販機まで車で行く始末でした(笑)。その結果3年で20kg太り、30代前半で無呼吸症候群、息も途切れ死にそうになり、それをきっかけに自宅でエアロバイクを始めました。結果はてきめんで1年で13kg減量成功。あの時エアロバイクを始めてなければ今頃生きていたかどうかもわかりません(笑)飲み食いが大好きなので油断すれば直ぐに増量してしまいます。今もエアロバイクで体重維持と老化防止に努めています。余談ですが、今年明け早々、娘が出産しおじいちゃん1年生になりました。もう少し長生きしないといけませんので(笑)。