2023年1月30日(月)
地元で愛されている花屋さんがネット販売に方向転換し全国にバルーンアートギフトを発送している。販売方法やギフト内容が変わったもののお客様の気持ちに寄り添いながら丁寧にお応えしているのは当初から変わらない。DCM半田店の北側に店舗を構え50年となる。生花や鉢物販売や冠婚葬祭用のアドバイザーとして長年、慕われる存在であった。
5年程前から店頭販売からネット販売へシフトし主流であった生花からバルーンを取り入れ見た目のインパクトや可愛さ、更には日持ちの改善に繋げていった。お客様の選択の幅を広げイメージが形になっていく楽しさや想いをお客様と一緒に作り上げている。
顔が見えない分、安心して注文できるよう努めている。「よくある質問」を設けお客様の不安を取り除くことや、注文内容に疑問があった場合、電話かメールでフォローを必ず行う。中には1時間程話すこともある。結果、「お客様が喜んでくれれば嬉しい」と言う。幅広い期待に応えられるようにチームプレーで行う。志が一緒の人、信頼できる人が周りにいることが大きい。それぞれのセクションには頼もしい人材がいて皆で協力しあう。ただ、ミスをして気が付かないことが一番怖い。流れ作業ではなく一点一点気を配りながら注意を払うことを心掛けている。「何でも言ってほしい」とスタッフに言いコミュニケーションにも努めている。
広告を出していない。お客様と向き合ってきたことを積み重ねセンスを磨いてきた。その結果がレビューの口コミの評価やリピーターに繋がっている。「花模様」としてネットから簡単に検索できる。
今、長女の山本陽江さんを中心に動いている。何事にも熱心な人で人が好き、そして人の笑顔が見たい気持ちが一杯あふれている。そんな人柄であるためお客様の要望に応え
られるよう努力を惜しまない。美容師経験や子ども好きが高じてアイデアが湧き出てくる。流行を取り入れ、たとえ世間が受 け入れるまで時間が掛かるものでも、後出しする
よりはと自分を信じて進んでいる。
以前から白のカーネーションをレインボーカラーに染めたものを花束にして自由自在に表現している。お祝い事、法事等のご要望にお応えしている。バルーンに文字や写真を直接印刷できオリジナル商品でよりお客様にとって特別感を与えられお喜びいただけている。また、インスタグラムで近況を常に更新、微妙な配色やバランスを考えた構図でこだわりのある方からも評価を得ている。
「作業場として使っているスペースを新たな見せ方としての活用を考えています。一つ一つの積み重ねがより多くの方へ喜びや感動を与えられるようこれからも頑張っていきます」
(取材:中村真由美)
【住所】半田市旭町5-28-1ビーイングビル1F
【代表】山田幸典
【創業】昭和47年9月
【営業時間】9:00~18:00 【休日】年中無休
【TEL】 21-0691
2023年1月17日(火)
代表の伊藤瑞恵氏は、10代の頃、テレビ番組で観た精神対話士の特集で、震災で家族を亡くし一人になったおばあさんが「周りの人たちも同じだから、辛いなんて言えなかった。あなたが話を聴いてくれて心が軽くなった。ありがとう」と涙する姿に感動し、いつか人を支える仕事をしようと考えていた。30代になり、自身が人間関係のトラブルで仕事上や私生活でも悩み絶望の淵に立った時、ある友人の言葉に救われた。「たった一人でも味方がいれば、最悪の方向に行こうとは思わないでしょ」この言葉をきっかけに10代の頃の決意を思い出し、仕事をしながら、カウンセラー養成学校に通った。交流分析を学びながら様々な人の悩みと向き合う中で、想いを言葉にできない人もいると気付き、箱庭療法を学び始めた。
箱庭療法とは、カウンセラーが見守る中、クライアントが自発的に、砂の入った箱の中にミニチュア玩具を置いたり、砂自体を使って自由に何かを表現したり、遊ぶことを通じて行う心理療法のことで、言語的面接と併せて行う手法である。言葉では想いを表すことができない人の心の内側に秘めたものが箱庭の中に表現され、それをカウンセラーが読み取り、共感することにより癒しの効果を得られる。
伊藤氏は、心理カウンセラーや行動心理士など資格を取得し、平成29年5月、箱庭療法カウンセラーとして『カウンセリングルームすずらん』を開業した。開業当初は、レンタルスペースや自宅で対応していたが、それではクライアントに対し十分な周知と安心したカウンセリングができないと思い、現在では独立したカウンセリングルームを構えている。業務内容として、通常のカウンセリングはもちろん、国家資格キャリアコンサルタント取得後はキャリアコンサルティングの技能を活かした就職・転職など仕事に関する悩み相談に応じている。
また、箱庭心理セラピスト養成講座を開講し、箱庭療法の基礎から実践運用までを指導しており、カウンセラーとしての起業希望者の他、スクールカウンセラーや学校関係者が受講している。
カウンセリングにおける相談内容は、人間関係や仕事関係(就職や転職、自身は何が適正であるのかわからなくて悩んでいる)が多い。人間関係の悩みには、じっくり話を聞いた上で、言葉で表すことが出来ない部分を箱庭療法により自由に表現してもらい、クライアントが前向きな気持ちを取りもどし行動できるように関わる。開業後5 年が経過し、新規のクライアントはもちろん、リピーターも増えてきた。最近ではペットロスの相談も増えている。ペットロスから立ち直りたいとの相談に箱庭療法を実施し、日常生活に支障が出るほどの悲しみを抱えていたクライアントは、ペットへの感謝の気持ちを持つことができるようになり、前向きな姿勢を取り戻した。ペットロスは正しい対処をしないと重症化し、鬱や不登校、家庭崩壊、時には最悪のケースにも繋がるという。今後は主にペットロスに苦しむ人のために、箱庭療法を活用した独自のカウンセリングに取り組んでいく。
全ては人の悩みを聞いて心を楽にしてあげたい、人を支える仕事がしたいという想いから…。自身の辛い経験を踏まえ、これからもカウンセリングに励む。(取材:竹内圭志)
【住所】半田市岩滑高山町7-42-1
【代表】伊藤瑞恵
【創業】平成29年5月
【TEL】080-4523-6567
【HP】https://suzuran-smile.amebaownd.com
2023年1月14日(土)
いちご狩りで有名な市野園芸では、施設内にカフェ「いちのいちごのあま~い隠れ家」をオープンしました。摘みたてのフレッシュないちごを使用した『いちごジャム』やカラダにじわ~っと染み込む『いちごスムージー』を販売しています。このほか、いちご狩りを楽しむためのアイテムも販売しています。是非お立ち寄りください。
代表/市野幸治
住所/半田市田代町156-1
営業時間/10:00~
不定期営業
HP/https://www.ichino-15.com
2022年12月27日(火)
楽しいは、美味しい!
小学生の頃から料理が好きで、フランス料理の料理人を目指しました。そのころにレストランウエディングが流行り出し、ウエディングケーキの担当となりました。今はケーキはパティシェ、料理は料理人と専門分野に分かれていますが、当時は言われるままに何でもやっていました。見よう見まねで始めたケーキ作りに魅了され、パティシェとして再スタートを切ったのは25年ほど前のことです。その後ケーキ店、レストラン、結婚式場で働き、今年5月にオープンしました。
僕は型にはまるのが好きではなく、どちらかというと自由奔放に生きてきて、勢いでオープンしたという感じです(笑)。ただ僕にとっては生涯最後の大きな決断で、やるからには全力で後戻りはできないと喜びと責任感の中でのスタートでした。オープン時がコロナ禍ということもあり、店名はひらめきで、un Calme(アンカルム)(穏やか、落ち着き)とし、ケーキを食べて、ほっこりしていただけたらという想いを込めました。
オープン当初は大勢のお客様がご来店され、嬉しい悲鳴を上げていました。作り手の僕と接客の妻、店の前で並ぶお客様の案内を中学生の息子が手伝ってくれ家族総出でてんてこ舞いでした。夏ごろには一息つき、最近はニコニコと心から楽しくケーキを作る余裕も生まれました。オープン当初は必死で、鬼の形相だったかもしれません(笑)。半田は妻の出身地とは言え、地縁もない私がオープン時から多くの方にご来店いただいているのは、今までお世話になった方々の温かい応援からです。以前『KItchen Kato』でデザートを担当していました。そのことが縁でオーナーの加藤さんからは店のPRやお客様へのご紹介もしていただき、支えてもらっています。恩返しも出来ていないのですが、周りの方々の優しさに常に感謝しています。
僕は僕の味を提供するために自分のペースで、一人で1から10まで作っています。そこは譲れないこだわりです。贅沢な仕事の仕方だと思っていますが、だから閃きも生まれると信じています。かつて先輩に「楽しく作らなければ美味しいものは出来ない」と言われたことがありますが、僕はいつもケーキ作りを楽しんでいます。季節によって、僕の気まぐれで、店頭に並ぶケーキ(13種ほど)は日々殆ど違います。その日の素材によって、これとこれを組み合わせれば美味しいし、僕も楽しいと手が動いてしまいます。今日のショーケースを Instagramのストーリーに投稿しています。クリスマスには楽しいケーキをご用意しています。(予約制)ぜひご覧ください。
ウエディングケーキはお客様の要望をお聞きし世界で一つのケーキを作るので、色々挑戦させていただき学ぶ機会も多くありました。お客様が喜んでくれれば僕も嬉しく、さらに美味しく、デザイン性に優れたものを追求していきたいと思って、自然にレベルアップしていく。そんな経験の積み重ねで、概念にとらわれない遊び心溢れるケーキを作れるようになったと感じています。
当店は青い小さな立て看板が目印で、住宅街に溶け込み、通り過ぎてしまいそうなこじんまりとしたお店です。お客様から「分からないから、もっと大きな看板にして』と言われていますが、そこも僕のこだわりで看板は小さいまま、頑固なんですよ(笑)。散歩中の方がふらりと入ってこられて1つ、2つのケーキとクッキーを買っていかれる。ご自分へのご褒美なんでしょう。とても嬉しいことです。
甘さは控えめにして、もう一つ食べてみたいと思っていただけるようなケーキ作りを目指しています。僕はよく家族に新作を試食してもらいます。家族の表情から商品化するか判断します。表情が曇っている時はそこから改良していくのではなく商品化自体をやめます。頑固なんです(笑)。最近はリピーターの方が多くなりました。「また、食べたい」そう思っていただけているなら、職人として最高の幸せをいただいています。
いつかは店を持つという夢が実現し、7ヶ月経ちました。ゆっくりコツコツと気ままに、楽しく、自分の味を届けるために贅沢な仕事の仕方をしてきました。このやり方は僕に合っているとは思っていますが、経営者としてパティシェとして、このスタイルでいいのかと模索中です。
夢は叶いましたが、考えること、悩むことも多く、さらなる挑戦が始まりました。ケーキ作りの好きな僕は、その悩みも楽しみたい!それこそ贅沢ですね(笑)。
■半田市乙川太田町1-18-3 乙川小学校近く
■営業時間 11:00~19:00(売り切れ次第終了)
■定休日 木曜・金曜(臨時休業有り) ■TEL.26-1158
2022年12月27日(火)
30年ほど前に当所青年部会長を経験した後、議員に就任した。過去、その例はなく、『初めてづくし』は、ここから始まった。以後、副会頭(二期)を経て、今年11月からスタートした新体制の舵取りを担う第16代会頭に選任された。若干63歳。若き新会頭は今までの人生を、時には苦しみながらも、軽やかに楽しく自分らしく生きてきた。小走りにその道程を振り返ってみよう。家業を興した父君、松石正也氏からその幕は開けられた。
「ギターが大好きだった父が、常滑から半田の縁戚者の模型店に勤めたことが、今につながっています。当時の模型店は小学校に粘土細工を納めていて、そこから発想を得て楽器を小中学校に納品することを思いついたようです。常滑で店舗を持たず電話1本引いて、商いを始めたのは1952年でした。自転車で名古屋まで仕入れに行き、時には美浜まで商品(カスタネット、リコーダー等)を届ける。主な交通手段が自転車で、大変な労力だったと想像を巡らします」
知多半島で初めてピアノを受注したのは豊丘小学校で、ヤマハがある浜松駅から国鉄(現JR)半田駅に運ばれ、そこからトラックで現地まで届けた。村あげての歓待を受け、音楽を届ける楽しさ、やりがいを存分に味わったようだ。1958年に半田に進出し、奉之氏が生まれた59年に、知多半島で最初の『ヤマハ音楽教室半田会場』をスター
トさせ、以降、知多半島各地に音楽教室を開設した。
「店舗の2階が自宅で、音楽と共に育ちました。4、5歳の頃にオルガン教室に通い3回目のレッスンでやめました。その後、ピアノ、エレクトーン教室にも通いましたが、いずれも挫折しました。エレクトーンは3 年間やりましたが、私がエレクトーンの前に座ると、まずため息をつくんですね。それを見た先生から「かわいそうだからやめさせてあげてください」とクビを言い渡されました(笑)。楽器店の子どもだから、やらなければいけないというような押し付けられ感が嫌だったんですね」
自ら選んだ楽器は父君が好きだったギターだった。中学からギターにハマり、高校時代にはバンド(ベースギター担当)を組み、同社主催の『高校生バンド合戦』(1972年より始まる。以来、若者層を中心としたバンドコンサートを開催)に出場した。優勝候補だったようだが父君から「息子を優勝させる訳にはいかない」と言われ、「グレてやる!」と息巻いたと笑う。高校時代はバンカラで通し、学校祭で応援団長としてクラスを引っ張った。まさに学園ドラマを地でいくような、伸び伸びと愉快な時代だったようだ。
「勉強が大嫌いだったので、遊んでばかり。東京の大学に行こうと受験し、その時におたふく風邪に罹ってしまい、言い訳になってしまいますね、見事全部不合格。滑り止めの大学に入りました。入ってもマルクス、レーニンなんて何も分からず面白くない。またまた楽しく遊んでいました。こんなめちゃくちゃなことばかりしていたのですが、面白いことに父は私に好き放題やらせてくれていました。そんな私も就職を考える頃になり、シェフになろうと思いました。でも修業もきつそうだし、大企業への就職も難しい。父が商売をしているのだから、私だって出来るだろう。跡を継ごうと、後継者枠でヤマハに入社しました。同期は優秀な人ばかりで、気後れしながら社会人としての毎日が始まりました」
その頃には楽器購入のための積立制度も出来、その契約を取るための飛び込み営業が研修時代の日課だった。一日200件以上を回ることを課せられ、精神力を試され足を棒にした。「かわいそうだね、付き合ってあげるね」と一生懸命さに打たれて、契約を交わしてくれたこともあった。とにかく必死だった。その熱意がカタチとして表れ、全国3 位の成績を収めた。配属された横浜支店では広いフロア全体を任さ
れ、3つの教室の運営、エレクトーン販売(当時は花のエレクトーンと言われ、エレクトーンが人気だった)と多忙な日々を送った。
「部下が5、6人とアルバイトスタッフと一緒に、イベントの企画や営業をしていました。営業は凄く頑張っていて、買って欲しいがために玄関先で土下座したこともありました。買ってもらってそのお宅から出てきたら、『何で土下座しなくてはいけないのか』と悔しくて涙が出てきました。色々学んだことも多く、メーカー直営店なので、都会と田舎の商売の違いを肌で感じることが出来ました。一番良かったのは人脈が広がったことですね。今では同期が役員になる年齢になって、現在のヤマハ本体の社長は同期です。そんな様々な出来事と色々な人との出会いが、今の私を作ってくれました」
いつも一生懸命で、真剣に課題に向き合い常に業績を残した。その裏には何の秘策があるかと問うと、『人との付き合いが良くて、付き合いを大事にしてきました』とサラリとした返事が返ってきた。その生まれ持った資質は両親からの大きな贈り物であり、自らの努力に他ならないだろう。後継者枠採用者は3年という雇用期間を経て、半田に帰ってきたのは25歳の時だった。企業人としての第一歩がスタートした。
後継者として仕事を始めた頃、楽器業界は右肩下りだった。ショップ長として最初の取り組みは、『売れる』ことに慣れてしまった従業員の意識改革だった。『息子が帰ってきて、何かやり始めたらしい』という声も届いていたようだが、現状を見つめ、対策を試み、時代に適応する体制が整った。後、新店舗を任せられ、店舗設計から採算計画、組織作り等を図ったが、目標を達成することは前途多難な時代だった。
「父は病気がちで、会社も不調、経験も浅い私は八方塞がりの状況に追い込まれました。そんな時に手を差し伸べてくれたのが地元の金融機関でした。青息吐息の中で、大きな転機となったのは2年前、碧南の楽器店のM&Aでした。大きな冒険をするのか思い悩みました
が、会社を維持していくためにマーケットを広げ、経営の効率化を図ることにより利益率を上げていくことを狙いましたが、今も、もがき続けています。厭わないのは体を動かすこと。課題が山積している今、行動するしかないとお盆休み以降、1日も休んでいません」
社業と向き合いながら、当所青年部、青年会議所、ロータリークラブ、ジュニアブラスバンド、国際交流協会と様々な活動に関わってきた。2005年愛知万博時の、半田市のフレンドシップ相手国のブータンとは関わりが深く、現在もブータンの学校から障害者のためのスロ
ープを作りたいと、半田ロータリークラブに援助を求めてきている。そのお世話役として、手を尽くす毎日である。『頼まれると断れないので』と笑うが、まちのため、未来の子どもたちのために尽力し続けている。当所の青年部に入会したのは29歳。その6年後、1994年・1995年に会長を務めた。
「一番印象深い思い出は、阪神大震災時に救援物資を届けたことです。震災当日の夜にメンバーに召集をかけ、不足している品を聞くために、西宮市役所に電話し、連絡がついたのは数時間後でした。翌々日に水、トイレットペーパーを持って半田を出発しました。私は現
地に行けなかったのですが、メンバーは一日かけて神戸まで行き、大変な思いをして届けてくれたことに感謝です。当時はサンタクロース事業もあり、面白かったですね。いろいろ勉強会もさせてもらいました。青年部を卒業する頃、父が亡くなり1991年私が職務執行者に
なり、43歳で議員になりました(昨年、日本商工会議所から永年勤続議員20年表彰を受賞)」
『青年部出身者から議員を!』は、前任の東浦優至青年部会長の悲願だった。その流れを初めて作り、今では青年部出身者が議員として活躍している。その後、副会頭を経て、当所で初めての青年部出身の会頭(全国的にも珍しいケース)としてスタートを切った。
「今までは、経済界に力を持った立派な方が会頭を務めてみえました。常滑から出てきた新参者で、小さな商店の私で良いのかと悩みましたが、コロナ禍で疲弊している今の経済界には、私のような中小小規模事業所の感覚がお役に立てるならとお引き受けしました。設立発起人総代の竹内彦左衛門氏は明治26年の創設時に『知多郡は20町村あり、西東南が海、鉄道、海運に恵まれ、百貨が集まるこの半田に知多商業会議所(現・半田商工会議所)を作り、皆が共存して商いをしていく』と宣言されています。みんなで地域を盛り上げ、みんなが良くなっていく、会議所のこの原点に立ち返ることが大切ではないかと考えています」
みんなが良くなっていくことは難題であるが、今、事業所はDX推進、電子帳簿保存法、SDGs、健康経営などの課題を控えている。先ずはそれらを会員事業所に的確に落とし込み、支援をしたい。また、会員企業2,450社(10月現在)を見ているだけでなく、その先にいる人、そこで働く従業員10万人ほど全ての人が幸せになっていくような、事業の実施が重要と語る。榊原康弘前会頭が実施した職域ワクチン接種のように、そこに働く人が、安心して働くことのできる職場環境の提供が必要と言葉を添える。そして会議所で大元になる部会活動に正副会頭が関わり、理解することも大切だと語る。同時に部会運営組織の中に青年部メンバーが所属することによって、活性化の大きな力になりうるだろうと期待する。
「私自身も体感したことですが、青年部の人たちは、若さ故に失敗もあるかもしれませんが、怖いもの知らずで取り組んでいくパワーを持っています。でも、年を重ねると経験値で発言しがちで、決めつけてしまうことも往々で、そこに新しい発想は生まれません。青年部の若い力を活用したいと思案しています。また、榊原前会頭時代はコロナ禍によって後半は殆ど事業を実施出来ませんでしたが、コロナ禍以前に会頭がなさろうとしていらっしゃった実効性のある事業をぜひ引き継いで
いこうと思っています。例えば地域別会員懇談会や行政や市議会議員との意見交換会など、開催できたらと思っています。文書のやりとりだけではお互いの想いは通じません。膝を付き合わせて、話し合うことが大切だと考えています。私が青年部時代、会頭は遠い存在で雲の上の人でした。でも私は歴代の会頭とはキャラクターが違う、身近な存在です。そういう意味では初めてのタイプかもしれませんね(笑)。積極的に話し合いの場を設けたいと思っています」
家業に関わる音楽は、時として人々に勇気と希望を与えてきた。東日本大震災時にも、被災後で開かれた慰問コンサートに涙を流し、生きる勇気をもらったという人々の話が、巷で言われていたこともあった。
コロナ禍の中でもしかりである。
「文化・教養は時として重要なポジションを担うことがあるように感じています。外に目を向ければ、このままいけば日本の経済力は間違いなく低下し、国際社会の中で物を言える日本ではなくなっていく傾向にあると考えています。しかし、日本人が文化・教養を身につけるという方向に向かえば、諸外国の人々も日本の立ち位置をきちんと理解してくれるのではないでしょうか?それは地域も同じことが言え、半田も一定の経済力を維持・拡大しながら、ここに住む人たちの文化・教養度を高く、明るく心豊かに生活できる地域づくりを目指すことも大事にしていきたいと思っています。モノだけではなく、人の心の問題も重要で、音楽や芸術に触れることで癒され、勇気をもらうことは人間が享受できる感覚であると思っています。『心に音楽を まちに文化を』を忘れないようにしたいと思います。音楽に携わる者として、そういう側面からお手伝いできれば嬉しいですね」
いつの世も時代に即した対応が必要で、現在は企業に変化が求められるように、会議所こそ変化の先頭に立って、様々な意識改革を進めていくことが重要な時代に到来したようだ。それにはそこで働く、会議所職員のモチベーションを向上させ、もっと働きやすい職場環境に整えることが大切であり、会議所は中小小規模事業所を引っ張っていく体質に変わっていかなければならないと言う。
「例えば、就業規則一つとっても一般企業より遅れていないか。働き方という部分では、サービス業的な感覚を持っているかなど、内部からの変革が第一歩と思っています。私たち役員がああしたい、こうしたいと提案しても実際に動くのは職員の皆さんです。私が副会頭になった6年くらい前から、経済力が段々と低下し、加えてコロナ禍となり、特に地域の飲食業は業績が悪化し、このまま手をこまねいていたら廃業に追い込まれます。そういう人たちが元気を取り戻して、商売が出来るような環境づくりを考えていくことが必要なことと思っています。会議所が、地域の商工業者の意見を集約し、政策提言、経営支援、地域振興等の本来の役割を果たしていかないと、中小小規模事業者は頼る所がなくなってしまいます。職員の皆さんのポジションはこれからますます重要になってきます」
職員が会員と顔を付き合わせて話をする場面を持つことの重要性を説く。例えば『ゲッポウ』配布時に「持続化給付金の申請はできましたか?」「家賃支援給付金に該当しませんか?」等、声をかけ、その人にとって、必要な情報を必要なタイミングで届けるようなシステムを作るべきである。榊原前会頭に倣って、会員が何を求めていて、どうして欲しいのか、生の声を聞く機会が必要と言葉を重ねる。
「永年議員20年表彰をいただいたことはとても嬉しいことでした。それにも増して嬉しかったことは、榊原前会頭と6年間、同じ空間で過ごしたことです。会頭の思考、決断力など間近に拝見し、経営者とはこうあるべきかと学ばせていただきました。会頭と時間を共にしてから、私自身、仕事に取り組む姿勢が変わったように感じ、過去の自分の仕事の仕方は浅はかだったと感じる点もあります。
不安だらけの中でのスタートですが、榊原前会頭から学んだことを、会頭として会員さんや職員の皆さんに発信していこうと思っています。今回、私は役割として会頭職をお受けしました。最後の決断、方向性は私の役割になります。皆さんのご協力をよろしくお願いします」
半田商工会議所は来年創立130周年を迎える。新会頭の下、 11月1日から新たな歴史に向けてスタートを切った。
●ちょっと一息●
当社で主催する子どもさんの発表会、プロの演奏会など音楽を聴く機会は多いですね。最近は17日間で700曲ほど聴きました。秋は発表会が多くあり、土・日曜日は知多半島一円、三河地域に出向いています。昨年は1年間で2,642曲聴きましたね。明日も名古屋にジャズライブに行きます。音楽が好きなこともありますが、教室で学ぶ生徒さんたちの状況把握、また、私が会場に顔を出すことによって、講師の先生方のモチベーションが上がれば、社長としての役割も果たせるのではないかと思っています。
モノづくりが好きで、独学で色々なことをして楽しんでいます。孫の節句のお祝いに粘土で金太郎さんを作ったり、箱を買ってきて粘土で模様を作りペイントしたり、コツコツと楽しみながら作っています。孫にはその都度プレゼントをしています。コロナ禍になって、外出が制限された時にエッグアートを始めました。繊細な作業ですが、こういう時間を過ごしていると頭を空っぽにできますから、リフレッシュにもなります。料理もそうで、たまにハンバーグ、とんかつなど洋食を作り家庭サービスをしています。
お酒もすごーくいけ、お付き合いは充分できます(笑)。小中学校の同級生だった女房と、晩酌は欠かしません。私のアベレージは缶ビール1/2缶、ワイン1/2本、バーボンはダブルで好きなだけ飲んでます。20年間このペースを崩したことはありません。人間ドックの前日もきちんとこの酒量を守り、いつもの私を診てもらっています(笑)。
Matsuishi Music Group(2022年) 1959年半田市生まれ。82年名古屋学院大学経済学部商学科卒業。同年ヤマハ(株)入社。85年(株)マツイシ楽器店入社。88年当所青年部入会。94・95年青年部会長。1999年(株)
マツイシ楽器店代表取締役社長。2002当所議員。16年副会頭。22年会頭。20年名曲堂楽器株式会社をM&Aにより吸収し Matsuishi Music Groupに改称。(株)花井商会の教室及び楽器部門を事業譲受。半田市在住。