半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

地域の発展あってこそ!

2022年9月28日(水)

株式会社三菱UFJ銀行 半田支店 支店長 林 義人氏

『家から通えること』という両親の要望に『長男の務め』と、大学も就職先も考慮し、関東地区勤務限定コースを設けていた東海銀行に入行した。5年後の合併により、同コース消滅のため総合職に転換、以後全国転勤可となり、2007年初めて愛知県勤務となった。
 「入行して25年、人事部での2年間以外は営業一筋。さまざまな地域で個人から大企業まで営業を経験、愛知県と名古屋市の指定金融機関の役割を担う東海公務部では次長として、まちづくり、地域の再開発等にも関わらせていただきました。名古屋駅前・栄地区の再開発、『2026年アジア競技大会』、2027年開通予定の『リニア中央新幹線』などのプロジェクトに携わった経験は、ものの見方や考え方、地域との関わり方を学んだ時期であり、貴重な経験をさせていただきました」
 現職に就いて1年半ほど。支店長一年生として地域との関わり、部下との接し方を試行錯誤しながらの日々だった。最終決定権を持つ今、今までの経験に照らし合わせながら、かつての上司ならどう判断をしてきたのかと思い起こし、慎重かつ素早い判断を心がけてきた。
 「最終的にそのリスクを負うことができることが判断基準であり、責任を取ることが役職者の仕事です。部下には伸び伸びと仕事をしてもらいたい。どうしたら働きやすいか、常に考えています。コミュニケーションを図るのもその一つと、今年から上司と部下が1対1で行う面談『1on1』ミーティングを採用しました。仕事に対してのストレス軽減、問題解決のために上司が助言するシステムですが、あえて仕事の話はせずにコミュニケーション強化を目的にしています。時には『支店長の趣味は何ですか?』『年収は?』というようなことも聞かれますが
(笑)、コミュニケーションを密にすることは信頼につながると、聞かれたことには全て答えています」
 企業としては常に成果が求められるが、目的達成のために部下を鼓舞するタイプではないと自己分析する。それは自身の経験から体得し、銀行員として貫いてきた姿勢の現れである。一勤務地3~5年の間には自ら提案をして、成約は後任に任せることも多々あったようだ。
 「結果が全てではなく、評価はお客様がされるものだと考えてきました。『あの担当者で良かった』『本当にお世話になりました』という声は必ず後から聞こえてきます。先輩たちがそういう記憶を残し、当行の礎を築いてきました。部下には記録より、記憶に残る担当者であれと常々言っています。私もお客様の役に立つことを最優先に考えてきました。だから、若い時には目標を達成できなかった苦い経験も多数あります。しかし、諸先輩たちや周りの人に恵まれ運が良かったですね。何よりもこの役職をいただいたことが強運の現れだと実感しています。
実は私は就活解禁日以後に面接を受けて入行しました(当時はそれ以前に内定をもらっているのが普通だった)。いわば補欠入行ですね(笑)。補欠でも頑張れば、こういったポジションに就くことができる。私が生きた教材となって、この点は部下を鼓舞しています(笑)」
 2度の銀行合併を経験し、不安と暗中模索の中、途中で投げ出すのは本意でない、お客様の役に立つためにやるしかない!『成せばなる』『ピンチはチャンス』と歯を食いしばり、その言葉を支えにしてきた。特に半田に来てからは地域の発展があってこそ、金融機関も発展するとの思いが強くなり、地域団体の役職を努め、社会貢献、地域貢献に注力した。支店の従業員が会社の制度を活用して、新美南吉生誕110周年記念事業、子ども食堂、半田市民管弦楽団など、10団体(今年度は15団体予定)に寄付金を贈り、そこで一緒に体を動かし汗
を流す。
 「管弦楽団にお邪魔した時は、大学の吹奏楽団でチューバを担当していたことを懐かしく思い出し、思わず一緒に練習したいと思ってしまいました(笑)。かつての東海銀行は地域と積極的に関わり、お客様との距離も近かったことを私自身も経験しています。合併によって社名も変わり、地域との接点が薄れてきたように感じています。もう一度、あの頃のように地域の中に溶け込み、深く関わっていこうと思っています。今、この立場だからこそ、それができると考えています。まずは、
色々な所に顔を出すことから始めています」
 『好奇心旺盛』な性格から新しいことに挑戦しながら、地域がより発展することを願って動く。地域の発展が仕事へのやりがいにつながり、モチベーションになる。銀行員としての一つの姿がここにある。

●ちょっと一息● 

知多半島全域の全法人取引先、ほとんどの個人取引先を半田支店で担当しているため、日中は出歩いていることが多いです。日々お話をお聞きしながら経営、地域のことなどを勉強させていただいています。先日の『第九回はんだ山車まつり実行委員会設立総会』に半田金融協会会長の立場で出席させていただきました。私も地元でお神輿を担い
でいましたが、地域への愛情がなければ、このような祭りは出来ない、半田の方たちの地域愛に感動しました。
 仕事と生活はキッチリ切り替えています。退勤時、会社を出たら何の対処もできないので仕事のことは考えないようにしています。起床した時はこれからは何とでも動ける、仕事モード全開です。オフは家族と楽しむことを大切にし、基本は家族単位で行動しています。妻と私の誕生日は3人の子どもたちが祝ってくれて、感謝の言葉が書かれた色紙をもらいました。気恥ずかしい気もしますが、もらうと嬉しいものですね。子どもに教えるつもりで始めた野菜作り、子どもは興味を示さず、いつの間にか家庭菜園は私の趣味になりました。

1975年東京都江戸川区生まれ。97年千葉大学法経学部経済学科卒業。同年(株)東海銀行入行、新中野支店に配属。新宿新都心、板橋支店、2007年柳橋支店(名古屋市)に転勤。名古屋営業本部、春日井支店、東海公務部、人事部(東京)を経て、21年現職。半田ロータリークラブ会員。半田防犯協会連合会副会長。名古屋市在住。当所常議員・地域力創造委員会副委員長。





知識を豊富に!お客様のために!

2022年8月10日(水)

ピアゴラフーズコア半田清城店 店長  祖父江 陽一氏

大学4年間は、地元の小さなスーパーでアルバイトをした。母親ほどの年齢の人たちの中で、サラダを作ったり、寿司を巻いたり…人手が足らない時に呼び出しがあれば、快く応じた。
 「断ることが苦手で(笑)。何でもやってみたい方で、『やる?』と聞かれれば『やります!』と即決していました。年上の人の話を聞いていると『なるほど』と思うことが多く、貴重な経験をさせてもらいました。そんな人との関わりが楽しくて、食品スーパーで仕事をしようとユニーに入社し、アピタ稲沢店で精肉部門に配属されました。それまでは買い物をしたこともなく、精肉のことなど気にもしていなかったのですが、知らないことを知ることが楽しくて、仕事に夢中になっていきました。入社13年目で12店舗ほどに勤務し、その間ずっと精肉担当でした」
 1店舗に1年ほど勤務という短期決戦の中で、行動力と的確な判断力が求められた。アピタ伊賀上野店では、ハレの日のみ販売していた伊賀牛を日常的に取り扱おうと奔走した。販売する段取りをつけた時に、転勤となり後進に道を譲った。幾度となくそんな経験を重ねた。時には「ハイヒールはありますか?」というお客様の問いに、靴売り場を案内し「そんなことも知らないのか」と叱られたことは、今では笑い話になっている。ハイヒールとは豚足のことであるようだが、その土地の風習に馴染みながら、お客様との会話を常に楽しんだ。ハイヒールの件から、突拍子もないことを言われた時には、額面通りではなく多方面から考えるようになり、真のお客様の声に的確にスピード感をもって応える努力をするようになった。失敗や達成感、全てがプロの接客のためのプロローグであった。
 「会社から本社か店舗勤務かの希望を聞かれます。僕はお客様と接したいからと店舗勤務を選択し、精肉担当者として年々より大きな規模の店、特色ある店を希望してきました。いつかは店舗全体を把握する役職に就きたいと思っていた矢先、昨年の7月に副店長というポジションを飛び越えて、店長に登用され、店全体の責任を負う立ち位置に不安しかありませんでした」
 『若手店長を誕生させよう!』と部門勤務から店長にという、思い切った同社の試みが昨年度からスタートし、4人の仲間と共に、その第一号としての抜擢だった。現職について1年。不安でしかないスタートだったが、持ち前の飾らない人柄から、その不安も少しずつ解消されてきたようだ。 
「なんとかこなしているのは、店のメンバーのお陰です。僕は入社以来、周りの人に恵まれていると常に感謝しています。メンバーに対しての発信力が乏しい面もあると感じていますが、店の方向性も決めながら、意見を聞いていく立場の今は、そのバランスをとりながら日々、仕事と向き合っています。店舗運営側として責任は重くなり、運営当事者としての意識に変わりましたが、メンバーと話し合いながら、一緒にやっていくスタイルは変わることはありません」 
 お客様目線で考えることは、どの業界についても言えることである。だがどうしても店サイドは売りたいという意志が出がちであるので、時には『知らない方が武器になることもあるのでは』と考える。これとこれはどう違うか?この食材はどう料理をしたら良いか?知らなければ単純に疑問を持つ、お客様もそうかもしれない。だからより親切に調理法や商品の特徴を表記し、イメージをしやすくすることがお客様に寄り添う第一歩ではないかと語る。そのきめ細やかな対応からか、常連のお客
様も増え、店での会話も弾む。
 「この間もお客様から煮豚を柔らかく作る方法を教えていただき、『それいいですね』とお話ししていたら、『作ってきました』と持ってきていただきました。独身の30代男性では分からないことも多く(笑)お客様やメンバーから教えてもらうことばかりです」
 幾度となく繰り返してきた転勤で、その土地の魅了をキャッチする力も養われた。そして地産地消の良さも再確認したと言う。調味料、お菓子、練り物・ここ地元ならではの店舗展開をしたい。それに加えて、地域に拘らず『その土地ならではのもの』を取り扱い、良質な物、珍しい物があるような、一味違った店舗づくりをしたいと語る。
 なぜ、売れるか?自分の足で動き、見て感じるために、美味しい、珍しいと言う噂を聞けば、その店を訪れ購入する。知識豊富であり、お客様のために・・・常に意識をしているプロとしての視点である。

●ちょっと一息●
異動のたびに2年に一度くらい引っ越しをし、引っ越し上手になりました(笑)。その土地を知るためにも店の近くに住むようにしています。色々なお店で働いてきて、そのお店で働き続ける人たちがメインになることで、未来永劫に発展していくのではないかと感じています。だから僕たち社員はフォローに回ることが重要だと思っていますが、知りたくてついつい何にでも手を出してしまってきました。少しずつ手を引いていこうかなと考えています。
 メンバーは意識が高く、自分の好みを入れながら、新商品を推薦してくれる仕事のプロが揃っています。店内に一人ひとりの店を持っている感じです。僕も経営のことだけでなく、現場に立ちたくて一角に僕のコーナーを作ってもらいました。休みの日にすることがないので(笑)、面倒くさがり屋の僕でも出来そうな梅シロップづくりに挑戦中です。

1987年愛知県小牧市生まれ。2009年名城大学経営学部卒業。同年ユニー(株)入社、アピタ稲沢店に配属。県内の店舗、大和郡山店、伊賀上野店食品担当を経て昨年7月に現職。趣味:ドライブ、犬の散歩。半田市在住。当所議員。



今、シナジーを!!~得意を活かし合って、多様な豊かさを生み出そう~

2022年5月17日(火)

スタジオ・ヨガの華株式会社 代表取締役 令和4年度・5年度半田商工会議所女性会会長 竹内 華奈子氏

 父の勧めで幼いころに始めた競泳(背泳ぎ)を長く続けた。中学時代は知多地区で1位をとる。進んだ県大会ではボロ負けをする(笑)。
「体は資本。体を使うことはとても楽しいこと」をモットーに、それを体現したいと常に行動した。スポーツインストラクター、ボディーワークの指導者を経て、健康志向が色濃くなりつつあった時代の流れに乗って、起業へ挑戦しよう!!と一念発起。ヨガスタジオを創立する。
 女性会設立10周年にあたる2015年に入会。女性会には地域で長くご商売を続けてみえる事業所のメンバーが多く、入会当初は自身
のような起業10年に満たないメンバーや40代のメンバーはわずか。会の中では若かったこともあって、若さを源に行動力を発揮することを期待してもらっているように感じた。自身もその期待に応えようと努めた。入会間もなくのタイミングで、本業で培った人前で話をするという得意を活かし、周年事業の司会という貴重な経験を積めるお役目をいただく。その後の所属先となった研修交流委員会では、健康イベントを企画。健康理論の学びに実技を盛り込んだアクティブな研修会を受け持つことになった。「体を使う」という能動的で今までにないスタイルの設営は、参加したみなさんに喜んでいただけた。よく知らないまま、気楽な気持ちで足を踏み入れたこの女性会には、人生の先輩方との素敵な出会いがたくさんあった。人との関わり方、人としての在り方など、先輩方から見習うべきことがとても多く、刺激と経験をいただき続けている。
 奇しくもコロナ禍がもたらすこととなった、さまざまな分野での変化。リモートワークをはじめとしたDXが爆速で進み、企業の存在の仕方や意識は激変している。そんな時代の大きな潮目にある今、会長の職に就く。このことの意味を何度も何度も考えている。今までがあるから今があり、今があるからこれからがある。イメージはシームレス。時代の変化に適応し新しい価値観を迎えながらも、先人の想いをしっかりと継ぎ、いつかは自分も1つの想いを築いた先人となりたい。継承に心を寄せながら、確実にやってきている新しい時代の波や風に無理することなくみんなで軽やかに乗っていけたら幸せだなと感じている。
 多種多様な職に就き、多彩な才能の見本市のような魅力あふれる女性会。素晴らしいモノやコトが生まれる肥沃な土壌はすでにある。
変化を楽しんで、やりたいことがやれる場であることを大切にして、メンバーそれぞれの参加意欲につなげたい。事業を通して、学びや楽しさを見つけてもらえたらうれしい。そして何より大切なのは、会員事業所の繁栄。商いの芽が出て豊かな実りとなってこその女性会であることを忘れずにいたい。事業所の繁栄が地域社会への貢献にもつながると信じている。
 創立16年を迎えた女性会は、年齢層も会員数も厚くなり勢いを増している。過日、会員同士が自然体で向き合いましょうとの呼びかけで意見交換会が開かれた。積極的な意見や熱い想いが飛び出し『そこにいるだけでなく、伝えることが参加』と考える新会長にとって、その想いに沿った第一歩を踏み出した光景を間近に見た瞬間だった。創立を支えた大先輩が今も会を温かく見守ってくれている安心感。地域文化に焦点を当てた知多木綿のスカーフ事業は会の歴史に輝いている。未来を担う子どもたちを応援したい!と心を込めて取り組む地域への貢献事業は新たな展開を迎えて大きく派生する。ワクワクを形にするものづくり事業もおもしろい流れとなりそうだ。会のPR事業も熱を帯び始めた。女性会が今、大きく動き出そうとしている。
 女性会という名の組織。ジェンダーレスな在り方が真ん中にあるこの時代、男性らしさ、女性らしさというたった2つのくくりではなく、誰もが自分らしさを発揮できるよう、それぞれの得意を活かし合っていきたい。
そのシナジー(相乗効果)で、多様な豊かさが生み出されれば、メンバーの幸せ実感が増す。『女性会に入っていて本当に良かった』と思ってもらえたらうれしい。どんなことが起こっても柔軟に行動し、みんなで
笑って乗り越えよう!と、今決意を新たにする。


●ちょっと一息●

 仕事一辺倒で、家庭生活が見えない人だと言われることがありますが、料理が好きで、家でくつろぐのが大好きです。小中学校の同級生である主人とは、家事も育児も協力し合える関係。頼りがいがあり、パートナーとして最高の人です。惚気てしまいすみませ(笑)。働く母親に対して2人の娘たちは、「お母さんってすごいね!」と口にしてくれます。これは私が仕向けた感は否めませんが(笑)。ありがたいことに、家族に支えてもらい、とても仕事をしやすい環境にいます。ここにたどり着くまでは、主人ともいろいろありました(笑)。
 そんな主人との毎晩の晩酌では、仕事や子どものことから社会情勢の話にいたるまで、話題がつきません。最近は弱かったお酒もめっぽう強くなった主人です。きっと私の影響だと思います(笑)。”晩酌をしないと1日が終わらない!”晩酌タイムは毎日をがんばれる原動力です。「ママと一緒に何かやれると楽しいなっ」との主人の提案で、主人が趣味とするギターと歌のお付き合いをしています。私がボーカル、主人がギターの演奏を担当してコンビを組み、ライブハウスに出ることもあります。ライブ前には2人で猛練習。そんな私たちをニコニコと見ている娘たち。家族に感謝の毎日です。

1969年半田市生まれ。89年名古屋女子大学短期大学部卒業。同年スポーツインストラクター、ボディーワーク指導者を経て、2007年スタジオ・ヨガの華創立。15年設立。女性会入会。研修交流委員長、副会長を経て22年会長。半田市在住。



『絆田維新』~自由と個性を武器に新たなる幕開けへ~

2022年4月25日(月)

おおはし縫製 令和4年度半田商工会議所青年部会長 大橋 孝氏

【『絆だ』古からの薫り、童話の街から新たなStoryに~友・誘・遊・and・YOU~】をテーマに平成22年(2010年)10月『第23回東海ブロック大会半田大会』が開催された。登録者は1,800名近く、ブロック大会として最多の参加者に、会場は熱気に包まれていた。
 「事業の発展、人脈を広げたいと、地元の後輩と一緒に入会して半年余り。大会で交通部会員として到着するバスの管理、交通整理をしながら余りのエネルギーに圧倒され、何なんだこの団体は?何をしているんだ?と驚くことばかりで、強烈な印象でした(笑)。通常の活動では交流委員会に所属し、半強制的に『出てこいよ!』と面倒見が良くて怖~い先輩の誘いに(笑)、スリープしようかと思ったこともありました。そんな温かい先輩たちに励まされながら活動を続けてきました」
 入会4年後に総務委員会委員長を拝命。年3回の総会準備、毎月の役員会の設営等を担い、多忙を極めながらも活動の面白さ、やり
がいに魅せられていった。委員会では議事録作成という大仕事があるが、最初は半日かかった作成時間も、大幅に短縮していった。パソ
コンに強くなったという能力を会得した。
 「県連へ3回出向しました。県内20単会から集まってくるメンバーとの出会いも楽しく、仕事につながったこともあります。家業は縫製業で母が担当するアパレルが主軸で、自分が縫製しているのは、工業用フィルターが軸でタープは出会ったメンバーから紹介され、事業発展の一助になっています。高校卒業後に入社した建設会社で現場監督をしていて、その仕事は天職と思っていました。でも父が亡くなり、仕方なく(笑)、家業に就きました。手先が特に器用ではありませんが、見て覚えろ世代ですので、ミシンの掛け方も見ていて自然に覚え、一人でミシンを踏む毎日です」
 一人で完結する仕事だから、青年部や地元消防団活動との折り合いをつけやすいようだが、時間の使い方が上手くなる。これはメンバー共通の強みのようだ。 
「自分は学校でもそうでしたが、進んで手を挙げる方ではなく控え目です(笑)。だから会長要請を受けた時は『私じゃあなくても』という思いがありました。どうも周りからは、自分が思っているほど控え目な奴と思われていないようです(笑)。受けたからには、先輩たちに最大限の敬意を払った青年部活動を目指します。私にとっては入会直後の東海ブロック大会半田大会が原点。そこに立ち戻って、スローガンは『絆田維新』~自由と個性を武器に新たなる幕開けへ~です」 
 かつての東海ブロック大会テーマ『絆だ』は『キズナダ』とか『ハンダダ』と読ませたことに倣い、追記した『維新』に今の時代に沿った新しい青年部を作りたいという決意を表した。同時に発想の自由を尊重し、ひとり一人の考え方や意見を武器にしていくという想いも込めた。
 「私は今まで先輩方からも家族からも、自由にやりたいことをやらせてもらってきました。そのことはひいては私を信用してくれていたと勝手に想像しています。私もメンバーのやりたいことを自由にやって欲しいと思っています。はちゃめちゃになるのではと思ったりしますが(笑)れはそれで楽しいかもですね。昨年11月に45歳から5年間定年延長に規約が改正され、20歳から50歳までのメンバーが在籍します。年齢層が厚くなり、可能性も広がったと期待しています」
 先に述べたように諸先輩から誘われ、叱咤激励されたから活動を続けてきた。そのことを踏まえ、入会3年未満の若手会員へのフォローアップを軸に、会員拡大も併せた『維新プロジェクト』を設置し、会員同士の連帯強化に努めていく。そして、令和6年度に迎える『半田YEG発足60周年』に向けて組織力向上を図る。
 「発足50周年を経験していないメンバーが、半数以上かと思います。ただ経験したから良い大会が出来るのではなく、その時代にあった設えをすることが大切だと思っています。まずは、2年後には節目となる事業があるということを知って欲しい、そしてそれに向けて組織として一丸となり、半田YEGの発展につなげたいと思っています。それが諸先輩たちへの自分流の敬意であり、恩返しです。

●ちょっと一息●
 12年ほど青年部活動を通して感じたことは家族の大切さです。今しみじみとそう思っています。青年部に入会してから外に出る機会も多くなるにつれ家族と過ごす時間が少なくなり、家族を愛し家庭人の私はすまない気もしています。いつも私の中では家族、仕事、青年部の順ですが、家族からは1番は青年部と思われているようです。思いはなかなか届きません。残念なことに(笑)。この1年間は1に青年部、2に青年部、3、4がなくて5に青年部の心境で過ごしたいと思っています。私の思いが家族に届く日は来るのでしょうか!?
 地元愛にも溢れ、生まれ育ち今も住んでいる岩滑が大好きです。祭りや消防団(令和4年度半田中分団副分団長)活動にも関わっています。コロナ禍以前は春の祭り、月2度の消防団の定例にも適度に参加し、地元の仲間との絆も深めてきました。消防団では団員募集中!一緒に地元のために頑張りましょう。
 最近ハマってしまったのは同級生と飲んだ日本酒です。酒愛で今日も「知多酒で乾杯」です。

1978年半田市生まれ。96年愛知県立半田工業高校卒業。同年(株)大進入社。2008年家業に入る。10年青年部入会。総務委員長、渉外委員長、副会長、専務理事、監事を経て、22年半田商工会議所青年部会長。



自然の流れの中で

2022年3月14日(月)

名古屋鉄道株式会社 知多半田駅長 浜田 章裕氏


 街の顔とも言える駅にはそれぞれ歴史があり、格がある。名鉄線で主要駅の知多半田駅の駅長ともなれば、周囲から熱い視線が注が
れ、期待を一身に集める。
 「美浜町生まれの私は、知多半田駅は高校生時代に通学で慣れ親しんだ駅です。入社した時には想像もできなかった名誉をいただき、恐縮しながらも、みんなが明るく楽しく勤務出来るような環境を整えていこうと思っています。こうしよう、ああしようという確固たる目標を持つのではなく、自然の流れの中で自分の役割を果たしていこうと思っています。今までずっとそういう気持ちで働いてきました」
 高校卒業後、様々な職場で働きたいと、グループ会社を持つ名古屋鉄道に入社。河和駅に勤務し、車掌、運転士というコースを歩い
た。その先は鉄道現場で定年を迎える人がほとんどという中で、30歳前に沖縄事業部のホテル黒島マリンビレッジ勤務への辞令が下っ
た。八重山諸島の一つ黒島は牛とウミガメが有名で、人口約220人、3000頭を越える牛のいるのどかな島である。
 「その頃はスキューバダイビングに熱中していたので、いつでもダイビングができると喜びましたが、忙しくて楽しむ時間はありませんでした。前任者が退職した空席を埋めるために配属され、手探り状態からのスタートでした。名刺は支配人でしたが、営業からお客さまの送迎まで何でもやり、最初の頃の睡眠時間は3時間ほどでした。早く休みたい時もありましたが、夜になれば島の人が集まってきて酒盛りが始まりました。体はいつも疲れていましたが、とても楽しかったですね」
 全くゼロからのスタートで、ベッドメイキングなどはアルバイトの方に教わった。知らないことを教わるのは当たり前。立場に囚われることなく、新しい世界を見たい、学びたい気持ちが強く、何事にも貪欲に取り組んだ。後に本社での厚生担当(社員向けのイベント企画等)、名鉄病院での医療事務、労働組合の専従を経て、鉄道の現場に戻るという異例のコースを歩むが、どんな部署に配属されても動じることなくその職場に溶け込んできた。
 「黒島で新しい世界で学ぶ楽しさ、知る喜びを体感したことがその先の仕事の仕方になり、新しい仕事に向き合う不安より、楽しさに胸躍らせてきました。そして、入社時に教育センターの先生から教わった『ありがとうございます』という言葉を使ってきました。『ございました』ではなく、これからも続きますようにという想いを込めて、『ありがとうございます』この言葉を大切にしてきました。鉄道現場には、開設して数年後の中部国際空港駅に駅長補佐として戻ってきました。以来、私自身がお客さまから声をかけていただきやすい雰囲気づくりを心がけてきました。立ち姿ひとつにもそれは表れると考え、テレビで見るデパートやホテルマンの腕の位置や足の開き方などをお手本にしてきました。空港駅は電車をあまり利用されない不慣れなお客様や、海外のお客様が多かったですね。外国のお客さまには英単語を並べてご案内しながら、冷や汗をかいていました。通じていたのでしょうか(笑)」
 後、中部国際空港駅副駅長、常滑駅長を経て、1年前の3月に現職。人が行き交う場所である駅は、そこに働く人の笑顔が和やかな雰
囲気を醸し出す。その環境を作るため、時には黒子に徹し、後方から支援の手を差し伸べる。自身の経験から励ましの声をかけたり、厳しく指導することもあるようだ。
 「どちらかと言えば気が短い方で、すぐに怒ってしまいそうな自分のことは分かっていますから、丁寧に静かに話を聞くように自制しています。そうだからでしょうか、かつては『怖い人』という噂もあったようですが、そんなことはありません(笑)」
 様々な部署での多様な経験は知りたい、学びたいという知識欲を満たしてくれた。そして、大きな武器となり各部署で開花した。それは努力の証でもあるが、持って生まれた大きな武器は『若白髪』と笑う。今は見事な白髪となっているが、初対面の方からも覚えていてもらえて、声をかけていただけることも多いそうだ。
 「子どもが保育園でお父さんの絵を描いた時も髪の毛はグレーになっていました(笑)。この頭髪は、自然の流れの中で生きていく私そのものと思っています」

●ちょっと一息●
例え、病気をして明日から動けなくなってしまっても『こういう運命だった』と思うようにしています。あるがままを受け入れていく覚悟をいつも持ち合わせています。妙に悟ってしまったような考え方をしてしまうのも、自然体で生きてきた母の影響と、中学時代の出来事が深層にあるからでしょうか。
 中学3年生で部活中(野球部)に頭をうち、頭痛との闘いの日々が続き入退院の繰り返し。高校時代には運動禁止に。体を動かすことが大好きだった私には過酷な日々でしたが『あるがままを受け入れていく』『自然の流れの中で生きていく』と思うようになった時期でした。その反動か、社会人になってからは弾けるように野球、スキー、スキューバダイビングなどに熱中しました。
 社会人として大きく成長させてくれた黒島へは離れてからも何度か訪れていますが、父が遺してくれた田畑で米やみかんの栽培をするために、この数年間は島民のみんなに会いに行けない状況が続いています。仕事と農作業、暇なく動いていますが、体を動かすことが好きな私でも年齢とともに少しきついなと感じることが多くなりました(笑)。
 そんな時に慰めてくれるのが愛犬です。足の悪いトイプードルを引き取って、『クララ』と名付けました。今では家族の中心はクララです。服の中にクララを入れて一緒にテレビを見る。そのひと時が一番の幸せです。

1963年美浜町生まれ。82年愛知県立半田工業高等学校卒業。
同年名古屋鉄道(株)入社。知多半田幹事駅、神宮前乗務区、沖縄事業部、厚生担当(本社)、
名鉄病院を経て鉄道現場に。中部国際空港駅、常滑駅、2021年現職。美浜町在住。当所議員。