半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

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今、シナジーを!!~得意を活かし合って、多様な豊かさを生み出そう~

2022年5月17日(火)

スタジオ・ヨガの華株式会社 代表取締役 令和4年度・5年度半田商工会議所女性会会長 竹内 華奈子氏

 父の勧めで幼いころに始めた競泳(背泳ぎ)を長く続けた。中学時代は知多地区で1位をとる。進んだ県大会ではボロ負けをする(笑)。
「体は資本。体を使うことはとても楽しいこと」をモットーに、それを体現したいと常に行動した。スポーツインストラクター、ボディーワークの指導者を経て、健康志向が色濃くなりつつあった時代の流れに乗って、起業へ挑戦しよう!!と一念発起。ヨガスタジオを創立する。
 女性会設立10周年にあたる2015年に入会。女性会には地域で長くご商売を続けてみえる事業所のメンバーが多く、入会当初は自身
のような起業10年に満たないメンバーや40代のメンバーはわずか。会の中では若かったこともあって、若さを源に行動力を発揮することを期待してもらっているように感じた。自身もその期待に応えようと努めた。入会間もなくのタイミングで、本業で培った人前で話をするという得意を活かし、周年事業の司会という貴重な経験を積めるお役目をいただく。その後の所属先となった研修交流委員会では、健康イベントを企画。健康理論の学びに実技を盛り込んだアクティブな研修会を受け持つことになった。「体を使う」という能動的で今までにないスタイルの設営は、参加したみなさんに喜んでいただけた。よく知らないまま、気楽な気持ちで足を踏み入れたこの女性会には、人生の先輩方との素敵な出会いがたくさんあった。人との関わり方、人としての在り方など、先輩方から見習うべきことがとても多く、刺激と経験をいただき続けている。
 奇しくもコロナ禍がもたらすこととなった、さまざまな分野での変化。リモートワークをはじめとしたDXが爆速で進み、企業の存在の仕方や意識は激変している。そんな時代の大きな潮目にある今、会長の職に就く。このことの意味を何度も何度も考えている。今までがあるから今があり、今があるからこれからがある。イメージはシームレス。時代の変化に適応し新しい価値観を迎えながらも、先人の想いをしっかりと継ぎ、いつかは自分も1つの想いを築いた先人となりたい。継承に心を寄せながら、確実にやってきている新しい時代の波や風に無理することなくみんなで軽やかに乗っていけたら幸せだなと感じている。
 多種多様な職に就き、多彩な才能の見本市のような魅力あふれる女性会。素晴らしいモノやコトが生まれる肥沃な土壌はすでにある。
変化を楽しんで、やりたいことがやれる場であることを大切にして、メンバーそれぞれの参加意欲につなげたい。事業を通して、学びや楽しさを見つけてもらえたらうれしい。そして何より大切なのは、会員事業所の繁栄。商いの芽が出て豊かな実りとなってこその女性会であることを忘れずにいたい。事業所の繁栄が地域社会への貢献にもつながると信じている。
 創立16年を迎えた女性会は、年齢層も会員数も厚くなり勢いを増している。過日、会員同士が自然体で向き合いましょうとの呼びかけで意見交換会が開かれた。積極的な意見や熱い想いが飛び出し『そこにいるだけでなく、伝えることが参加』と考える新会長にとって、その想いに沿った第一歩を踏み出した光景を間近に見た瞬間だった。創立を支えた大先輩が今も会を温かく見守ってくれている安心感。地域文化に焦点を当てた知多木綿のスカーフ事業は会の歴史に輝いている。未来を担う子どもたちを応援したい!と心を込めて取り組む地域への貢献事業は新たな展開を迎えて大きく派生する。ワクワクを形にするものづくり事業もおもしろい流れとなりそうだ。会のPR事業も熱を帯び始めた。女性会が今、大きく動き出そうとしている。
 女性会という名の組織。ジェンダーレスな在り方が真ん中にあるこの時代、男性らしさ、女性らしさというたった2つのくくりではなく、誰もが自分らしさを発揮できるよう、それぞれの得意を活かし合っていきたい。
そのシナジー(相乗効果)で、多様な豊かさが生み出されれば、メンバーの幸せ実感が増す。『女性会に入っていて本当に良かった』と思ってもらえたらうれしい。どんなことが起こっても柔軟に行動し、みんなで
笑って乗り越えよう!と、今決意を新たにする。


●ちょっと一息●

 仕事一辺倒で、家庭生活が見えない人だと言われることがありますが、料理が好きで、家でくつろぐのが大好きです。小中学校の同級生である主人とは、家事も育児も協力し合える関係。頼りがいがあり、パートナーとして最高の人です。惚気てしまいすみませ(笑)。働く母親に対して2人の娘たちは、「お母さんってすごいね!」と口にしてくれます。これは私が仕向けた感は否めませんが(笑)。ありがたいことに、家族に支えてもらい、とても仕事をしやすい環境にいます。ここにたどり着くまでは、主人ともいろいろありました(笑)。
 そんな主人との毎晩の晩酌では、仕事や子どものことから社会情勢の話にいたるまで、話題がつきません。最近は弱かったお酒もめっぽう強くなった主人です。きっと私の影響だと思います(笑)。”晩酌をしないと1日が終わらない!”晩酌タイムは毎日をがんばれる原動力です。「ママと一緒に何かやれると楽しいなっ」との主人の提案で、主人が趣味とするギターと歌のお付き合いをしています。私がボーカル、主人がギターの演奏を担当してコンビを組み、ライブハウスに出ることもあります。ライブ前には2人で猛練習。そんな私たちをニコニコと見ている娘たち。家族に感謝の毎日です。

1969年半田市生まれ。89年名古屋女子大学短期大学部卒業。同年スポーツインストラクター、ボディーワーク指導者を経て、2007年スタジオ・ヨガの華創立。15年設立。女性会入会。研修交流委員長、副会長を経て22年会長。半田市在住。



『絆田維新』~自由と個性を武器に新たなる幕開けへ~

2022年4月25日(月)

おおはし縫製 令和4年度半田商工会議所青年部会長 大橋 孝氏

【『絆だ』古からの薫り、童話の街から新たなStoryに~友・誘・遊・and・YOU~】をテーマに平成22年(2010年)10月『第23回東海ブロック大会半田大会』が開催された。登録者は1,800名近く、ブロック大会として最多の参加者に、会場は熱気に包まれていた。
 「事業の発展、人脈を広げたいと、地元の後輩と一緒に入会して半年余り。大会で交通部会員として到着するバスの管理、交通整理をしながら余りのエネルギーに圧倒され、何なんだこの団体は?何をしているんだ?と驚くことばかりで、強烈な印象でした(笑)。通常の活動では交流委員会に所属し、半強制的に『出てこいよ!』と面倒見が良くて怖~い先輩の誘いに(笑)、スリープしようかと思ったこともありました。そんな温かい先輩たちに励まされながら活動を続けてきました」
 入会4年後に総務委員会委員長を拝命。年3回の総会準備、毎月の役員会の設営等を担い、多忙を極めながらも活動の面白さ、やり
がいに魅せられていった。委員会では議事録作成という大仕事があるが、最初は半日かかった作成時間も、大幅に短縮していった。パソ
コンに強くなったという能力を会得した。
 「県連へ3回出向しました。県内20単会から集まってくるメンバーとの出会いも楽しく、仕事につながったこともあります。家業は縫製業で母が担当するアパレルが主軸で、自分が縫製しているのは、工業用フィルターが軸でタープは出会ったメンバーから紹介され、事業発展の一助になっています。高校卒業後に入社した建設会社で現場監督をしていて、その仕事は天職と思っていました。でも父が亡くなり、仕方なく(笑)、家業に就きました。手先が特に器用ではありませんが、見て覚えろ世代ですので、ミシンの掛け方も見ていて自然に覚え、一人でミシンを踏む毎日です」
 一人で完結する仕事だから、青年部や地元消防団活動との折り合いをつけやすいようだが、時間の使い方が上手くなる。これはメンバー共通の強みのようだ。 
「自分は学校でもそうでしたが、進んで手を挙げる方ではなく控え目です(笑)。だから会長要請を受けた時は『私じゃあなくても』という思いがありました。どうも周りからは、自分が思っているほど控え目な奴と思われていないようです(笑)。受けたからには、先輩たちに最大限の敬意を払った青年部活動を目指します。私にとっては入会直後の東海ブロック大会半田大会が原点。そこに立ち戻って、スローガンは『絆田維新』~自由と個性を武器に新たなる幕開けへ~です」 
 かつての東海ブロック大会テーマ『絆だ』は『キズナダ』とか『ハンダダ』と読ませたことに倣い、追記した『維新』に今の時代に沿った新しい青年部を作りたいという決意を表した。同時に発想の自由を尊重し、ひとり一人の考え方や意見を武器にしていくという想いも込めた。
 「私は今まで先輩方からも家族からも、自由にやりたいことをやらせてもらってきました。そのことはひいては私を信用してくれていたと勝手に想像しています。私もメンバーのやりたいことを自由にやって欲しいと思っています。はちゃめちゃになるのではと思ったりしますが(笑)れはそれで楽しいかもですね。昨年11月に45歳から5年間定年延長に規約が改正され、20歳から50歳までのメンバーが在籍します。年齢層が厚くなり、可能性も広がったと期待しています」
 先に述べたように諸先輩から誘われ、叱咤激励されたから活動を続けてきた。そのことを踏まえ、入会3年未満の若手会員へのフォローアップを軸に、会員拡大も併せた『維新プロジェクト』を設置し、会員同士の連帯強化に努めていく。そして、令和6年度に迎える『半田YEG発足60周年』に向けて組織力向上を図る。
 「発足50周年を経験していないメンバーが、半数以上かと思います。ただ経験したから良い大会が出来るのではなく、その時代にあった設えをすることが大切だと思っています。まずは、2年後には節目となる事業があるということを知って欲しい、そしてそれに向けて組織として一丸となり、半田YEGの発展につなげたいと思っています。それが諸先輩たちへの自分流の敬意であり、恩返しです。

●ちょっと一息●
 12年ほど青年部活動を通して感じたことは家族の大切さです。今しみじみとそう思っています。青年部に入会してから外に出る機会も多くなるにつれ家族と過ごす時間が少なくなり、家族を愛し家庭人の私はすまない気もしています。いつも私の中では家族、仕事、青年部の順ですが、家族からは1番は青年部と思われているようです。思いはなかなか届きません。残念なことに(笑)。この1年間は1に青年部、2に青年部、3、4がなくて5に青年部の心境で過ごしたいと思っています。私の思いが家族に届く日は来るのでしょうか!?
 地元愛にも溢れ、生まれ育ち今も住んでいる岩滑が大好きです。祭りや消防団(令和4年度半田中分団副分団長)活動にも関わっています。コロナ禍以前は春の祭り、月2度の消防団の定例にも適度に参加し、地元の仲間との絆も深めてきました。消防団では団員募集中!一緒に地元のために頑張りましょう。
 最近ハマってしまったのは同級生と飲んだ日本酒です。酒愛で今日も「知多酒で乾杯」です。

1978年半田市生まれ。96年愛知県立半田工業高校卒業。同年(株)大進入社。2008年家業に入る。10年青年部入会。総務委員長、渉外委員長、副会長、専務理事、監事を経て、22年半田商工会議所青年部会長。



自然の流れの中で

2022年3月14日(月)

名古屋鉄道株式会社 知多半田駅長 浜田 章裕氏


 街の顔とも言える駅にはそれぞれ歴史があり、格がある。名鉄線で主要駅の知多半田駅の駅長ともなれば、周囲から熱い視線が注が
れ、期待を一身に集める。
 「美浜町生まれの私は、知多半田駅は高校生時代に通学で慣れ親しんだ駅です。入社した時には想像もできなかった名誉をいただき、恐縮しながらも、みんなが明るく楽しく勤務出来るような環境を整えていこうと思っています。こうしよう、ああしようという確固たる目標を持つのではなく、自然の流れの中で自分の役割を果たしていこうと思っています。今までずっとそういう気持ちで働いてきました」
 高校卒業後、様々な職場で働きたいと、グループ会社を持つ名古屋鉄道に入社。河和駅に勤務し、車掌、運転士というコースを歩い
た。その先は鉄道現場で定年を迎える人がほとんどという中で、30歳前に沖縄事業部のホテル黒島マリンビレッジ勤務への辞令が下っ
た。八重山諸島の一つ黒島は牛とウミガメが有名で、人口約220人、3000頭を越える牛のいるのどかな島である。
 「その頃はスキューバダイビングに熱中していたので、いつでもダイビングができると喜びましたが、忙しくて楽しむ時間はありませんでした。前任者が退職した空席を埋めるために配属され、手探り状態からのスタートでした。名刺は支配人でしたが、営業からお客さまの送迎まで何でもやり、最初の頃の睡眠時間は3時間ほどでした。早く休みたい時もありましたが、夜になれば島の人が集まってきて酒盛りが始まりました。体はいつも疲れていましたが、とても楽しかったですね」
 全くゼロからのスタートで、ベッドメイキングなどはアルバイトの方に教わった。知らないことを教わるのは当たり前。立場に囚われることなく、新しい世界を見たい、学びたい気持ちが強く、何事にも貪欲に取り組んだ。後に本社での厚生担当(社員向けのイベント企画等)、名鉄病院での医療事務、労働組合の専従を経て、鉄道の現場に戻るという異例のコースを歩むが、どんな部署に配属されても動じることなくその職場に溶け込んできた。
 「黒島で新しい世界で学ぶ楽しさ、知る喜びを体感したことがその先の仕事の仕方になり、新しい仕事に向き合う不安より、楽しさに胸躍らせてきました。そして、入社時に教育センターの先生から教わった『ありがとうございます』という言葉を使ってきました。『ございました』ではなく、これからも続きますようにという想いを込めて、『ありがとうございます』この言葉を大切にしてきました。鉄道現場には、開設して数年後の中部国際空港駅に駅長補佐として戻ってきました。以来、私自身がお客さまから声をかけていただきやすい雰囲気づくりを心がけてきました。立ち姿ひとつにもそれは表れると考え、テレビで見るデパートやホテルマンの腕の位置や足の開き方などをお手本にしてきました。空港駅は電車をあまり利用されない不慣れなお客様や、海外のお客様が多かったですね。外国のお客さまには英単語を並べてご案内しながら、冷や汗をかいていました。通じていたのでしょうか(笑)」
 後、中部国際空港駅副駅長、常滑駅長を経て、1年前の3月に現職。人が行き交う場所である駅は、そこに働く人の笑顔が和やかな雰
囲気を醸し出す。その環境を作るため、時には黒子に徹し、後方から支援の手を差し伸べる。自身の経験から励ましの声をかけたり、厳しく指導することもあるようだ。
 「どちらかと言えば気が短い方で、すぐに怒ってしまいそうな自分のことは分かっていますから、丁寧に静かに話を聞くように自制しています。そうだからでしょうか、かつては『怖い人』という噂もあったようですが、そんなことはありません(笑)」
 様々な部署での多様な経験は知りたい、学びたいという知識欲を満たしてくれた。そして、大きな武器となり各部署で開花した。それは努力の証でもあるが、持って生まれた大きな武器は『若白髪』と笑う。今は見事な白髪となっているが、初対面の方からも覚えていてもらえて、声をかけていただけることも多いそうだ。
 「子どもが保育園でお父さんの絵を描いた時も髪の毛はグレーになっていました(笑)。この頭髪は、自然の流れの中で生きていく私そのものと思っています」

●ちょっと一息●
例え、病気をして明日から動けなくなってしまっても『こういう運命だった』と思うようにしています。あるがままを受け入れていく覚悟をいつも持ち合わせています。妙に悟ってしまったような考え方をしてしまうのも、自然体で生きてきた母の影響と、中学時代の出来事が深層にあるからでしょうか。
 中学3年生で部活中(野球部)に頭をうち、頭痛との闘いの日々が続き入退院の繰り返し。高校時代には運動禁止に。体を動かすことが大好きだった私には過酷な日々でしたが『あるがままを受け入れていく』『自然の流れの中で生きていく』と思うようになった時期でした。その反動か、社会人になってからは弾けるように野球、スキー、スキューバダイビングなどに熱中しました。
 社会人として大きく成長させてくれた黒島へは離れてからも何度か訪れていますが、父が遺してくれた田畑で米やみかんの栽培をするために、この数年間は島民のみんなに会いに行けない状況が続いています。仕事と農作業、暇なく動いていますが、体を動かすことが好きな私でも年齢とともに少しきついなと感じることが多くなりました(笑)。
 そんな時に慰めてくれるのが愛犬です。足の悪いトイプードルを引き取って、『クララ』と名付けました。今では家族の中心はクララです。服の中にクララを入れて一緒にテレビを見る。そのひと時が一番の幸せです。

1963年美浜町生まれ。82年愛知県立半田工業高等学校卒業。
同年名古屋鉄道(株)入社。知多半田幹事駅、神宮前乗務区、沖縄事業部、厚生担当(本社)、
名鉄病院を経て鉄道現場に。中部国際空港駅、常滑駅、2021年現職。美浜町在住。当所議員。



至誠一貫

2022年2月10日(木)

株式会社誠電社 代表取締役 小川 洋之氏

末っ子の長男(姉2人)として生を受け、両親から後継者として期待された。だが心中は穏やかではなかったと言う。家業だから、長男だからその道を歩くことは腑に落ちなかったと振り返る。
「自然の流れで家業に入社し、年齢を重ねるうちに後継者としての意識が芽生えてきました。入社当時はパチンコ屋の電気設備や照明の施工などが多く、早朝から深夜まで激務の連続でした。工場等の稼働時間外の仕事もあり、休日やお盆も関係なく働いていました。仕事は厳しくて辛いこともありましたが、現場は自分だけの世界で仕事に没頭でき、気楽でした。その時の僕にあっていた仕事だったと思います」  
30歳半ばで、仕事も営業やお客さまとの調整など現場から徐々に距離を置き始め、取締役に就任した。その頃から少しずつ仕事に対し
ての意識も変わり始めたようだ。  
 「役をいただき、僕自身が変わったかなと自覚をしているのはお客さまとの接し方ですね。言葉遣いを気にして、ちょっと緊張しています(笑)。同時に仕事に対する姿勢も変わったかもしれません。亡き父は仕事が趣味のような人で、仕事漬けの毎日でした。僕はまだそこまでの域には達してはいませんが(笑)。現職に就いてちょうど1年になります(2021年2月就任)コロナ禍の真っ只中で、不安しかない中でスタートしました」  
 3代目社長として、責任や英断を求められ、社員を守る立場になった今、立ち位置を認識しながら考動する。新入社員として入社した時は社内で一番の若手だった。取締役に就いた時もそうだったが、現職になった今は、かつて教えを乞うた諸先輩たちに陣頭指揮を執る中で、自問自答する。  
 「僕の性格から仕事はお願いするという気持ちでしたが、今は指示し、後々は命令するような立場にならなければと思っています。遠い道のりです。現在はコロナ禍の中で、部品等の入荷に時間がかかり納期遅延が多く頭の痛い日が続くなど、色々な課題がありますが、ストレスはたまりません。基本的に悩まないんですね。頑固なこだわりはないのですが、僕には僕の道がある、そう思っています。ストレスに強いのか、能天気なのか(笑)。そこが僕の長所であり、自慢できる点だと思っています。よく3代目云々と言われます(笑)、お客さまの新規開拓、安全第一に職場環境を整えて従業員が働きやすい職場作りに尽力し、さらなる会社発展を目指します」  
 新たな目標に向かって挑戦する日々だが、同社には創業以来変わらぬ精神が息づいている。社名に使われた『誠』に由来する『至誠一
貫』は経営理念にもなり、その姿勢で仕事に向き合う。先代たちがそうであったように頼まれたら断れないのは血脈のようで、電気が止まったなどの緊急事態の対応も度々のようだ。  
 「即日対応を心がけています。その日に対処できなくても、一旦は顔を出し状況を把握するようにしています。突然の連絡に休日の予定を立てることもできませんが、そういう仕事と覚悟しています。若干ボランティア的な気もしますが、先々代、先代の『地元に感謝』という想いを引き継いでいきます。その延長線とも言えるかと思いますが、恩を受けたら恩を返す、無理をきいてもらったら、たとえ忙しくても無理をきくなど、ちょっとイメージが悪いのですが、僕流に言えば、『やられたらやり返す』(笑)ことが大切だと思っています。キレイな言葉で表現できませんが、そこに至誠一貫の精神が息づいていると思っています」
 人情に厚いことも受け継いだ血脈の一つなのだろう。家業だから、長男だから後継者になる。それも先代たち、地元に感謝した自然の
道だったようだ。

●ちょっと一息●
半田青年会議所を卒業して入った半田商工会議所青年部、いずれも誘われて入会したのですが、僕の学びの場所でした。
年齢層も色々、多様な職種の人たちと接し、仕事の配分がスムーズにできるようになり、時間の使い方が上手くなったことは大きな財産になりまし
た。僕自身、そういう団体に所属することはボランティアとか、社会貢献につながるという風には考えていませんが、人としても地元の人たちとのパイ
プは太くした方が良い、同期や同年とは何よりも得難いものだと活動を通して実感しました。
 商工会議所青年部活動での印象深いことは、メンバー全員を紹介する冊子『大縁』 を作る委員会に所属した時です。この時代が今の僕を作ってくれたと感謝しています。
 今は諸団体から卒業して自分の時間が作れるようになりました。好きなサウナと麻雀、夜の散歩を楽しんでいます。そんな時にも青年部時代のことを、ふと懐かしく思い出すことがあります。 

1974年半田市生まれ。93年東海工業高校卒業。同年入社。2021年現職。半田市在住。当所議員。



接客業は天職

2021年12月9日(木)

森田木工株式会社 代表取締役社長  藤井 国子氏

『藤井さんいますか?』と、入店して来るお客さまが絶えない。現職に就いて2年になるが、笑顔で明るく、ウイットに富む接客は社内でトップセールスウーマンとして35年余のキャリアを誇る。 
 「今も私を販売担当者と思われているお客さまもいらっしゃるのではないでしょうか(笑)。売り場で直にお客さまの声を聞くことで的確なニーズを把握でき、同じ売り場に立つことで社員の気持ちも理解できる気がしています。当社は1953年に木工職人の父が、母と共に始めた家具の製造販売が原点です。時代の流れで小売業に移行し、地域の皆さまのご要望に応え、現在の業態に変化してきました。私は結婚式場でブライダルコーディネーターとして勤め、結婚直前に当社に入社しました。接客が好きで(今は天職と思っています)、両親が縁戚者に助けられ一生懸命に働いている姿を見て、私も子育てをしながら両親を支えたい一心でした。婚礼家具、輸入雑貨、寝具など、私が扱う商品も時代の要請で異なりましたが、いつも現場に立っていました。2年前に思いもしなかった代表者になり、当初はプレッシャーに押し潰されそうになりましたが、私の使命は両親が育ててきた会社を次代につないでいく橋渡し役と割り切ったら、気が楽になりました。創業当時から貫いてきた地域密着、お客さまのニーズに応える精神を受け継ぎ、しっかりつないでいきたいと思っています」 
 就任直後、コロナ禍が重くのしかかる中、SDGsの実現、エシカル消費(※)など、社会が企業に求めるキーワードが次々と生まれた。それを意識し、健やかな暮らしを送っていただくことで社会貢献をしたいと模索していた時に、『大高酵素浴』と出会った。 
 「私どもの酵素浴は正確には『おがくず酵素浴』です。酵素のパイオニアの大高酵素におがくずを混ぜて発酵させて70℃くらい(体感温度40℃前後)まで温め、その中に20分ほど埋まって温まります。化学燃料や電気などは一切使わず自然発酵で温度を上昇させるので、環境保護の観点からもとてもエコなんですよ。昨年12月に大高酵素浴『森のくまさん』としてオープンして以来、私も利用していますが、免疫力アップ、デトックス・ダイエット効果(私は5、6キロ痩せました)等、嬉しいことずくめです。お医者さまのアドバイスを受けながら、社員共々、実証していますが、健康になった、痩せた、肌がきれいになったと好評です。男性社員も美意識が高くなりました(笑)。ぜひ、ご利用ください。半田市地域振興券も使えます」 
 現場に立ち35年余という実体験から、『〇〇さんだから』と購入につながるような人脈作りの大切さを説く。同時に社員に対して温かい視線を向ける。 
 「毎日フロアを歩き回っています。スタッフの顔色を見て、体調万全?何か言いたいことがある?と、寄り添うように心掛けています。社員教育は子育てと同じで、その人の良さや得意分野を見極め、適材適
所で力を発揮してもらっています。亡き母は気配りに長けた人で、誰にでも平等であり、メーカー・社員あっての当社、お客さまあっての当社という姿勢を崩しませんでした。私も尊敬する母の教えを守り、そういう人でありたいと思っています。幸いなことに母の血を引いたのか、その人の良い所を見つけるのは得意で、今では特技となっています」 
 慣れ親しみ愛した職場で『生涯、販売員として働こう』と心に決めていたが、社長就任という思いもしなかった展開に戸惑いながらも、代表者としての決断を求められては『正しかったか?』と自分の判断に悩
み、眠れない日も過ごしたこともあったと言う。 
 「社長業も子育てと重なり、自分が周りに支えられながら親になってきたように、周りの人たちに助けられながら、社長初心者の私は社員
に育ててもらっています。あと数年経ち、還暦を迎える頃には“成長した社長”として花開きたいですね」

※エシカル消費…消費者それぞれが各自にとっての社会的課題の 解決を考慮したり、そうした課題に取り組む事業者を応援しながら消費活動を行うこと

●ちょっと一息●
父が家具を作る度におがくずが出て、まだ幼かった私は姉と一緒にそのおがくずの中に埋もれて遊んでいました。そのおがくずと出会い、大高酵素浴『森のくまさん』をオープンしたのも深いご縁を感じています。木工工場から産業廃棄物として出るおがくずは焼却処分をしていた時代もありました。そんな産廃物を酵素浴に再利用し、さらに使用したおがくずを畑の肥料として再々利用して土に還します。循環型社会の一役を担っていることも嬉しいことです。 
 子どもの頃から両親には「将来みんな一緒に会社をやっていってね」と言われていたので、家業に関わるのは自然な流れでした。嬉しいことに昨年の10月からは長男も両親の意を汲んで入社してくれました。金融機関からの転職で戸惑うこともあるようですが、当社には家具の修理を手掛けたり、売り場を熟知しているレジェンドがいます。そういう方々に助けていただきながら、後継者として家業発展に尽力して欲しいと願っています。 
 私に一番影響力を与えてくれ、決して超えることの出来ない母は残念ながら亡くなってしまいましたが、我が家の隣に住む父は今も時折会社に顔を出して私を支えてくれています。偉大な両親に感謝してもしきれません。

1965年半田市生まれ。85年愛知女子短期大学経営学科卒業。同年、高砂殿名古屋駅前店入社。86年同社入社。2019年現職。半
田市在住。当所議員。