半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

シリーズひと よい肉を毎日美味しく食卓へ

2024年4月30日(火)

株式会社石川屋 代表取締役 石川 大介氏

 海外勤務を志望し、内定をいくつかいただいた中から海外赴任のチャンスもある日本ハムに入社。大阪本社の輸入ブロイラー部に配属となった。
 「何も教えてくれない上司から、配属そうそう500万円の利益を上げろと洗礼を浴びました。得意先は自分で探すものと言われ、商品を覚えることから始め、新規開拓のため、毎日毎日電話でアポイントをとり、ひとりで営業に駆け回る毎日でした。今も自戒の念を込めて、手元に当時の新規開拓ノートが5冊あります。あの時代はどうしたら話のきっかけをつかめるかを学んだ貴重な時間でした。何とかなるでしょうと考えていましたが、常に追い込まれていて、朝の4時から深夜まで平気で働き、休日も仕事をしていました。血の気も多かったのですが、真面目だったんですね(笑)」   
 配属先は商社機能を併せ持ち、電話での売り・買いが主業務で、何百万円という大金が動く一瞬を逃さないため、時には灰皿が飛び交い、戦場のような職場だったと苦笑する。入社した年の12月、同期の中で最初に利益260万円という結果を出し、博多の子会社から出
向の誘いがあった。『あの上司と離れられるなら行きます』と答えたと笑うが、今は亡きその上司には感謝していると、しみじみ振り返る。出向先は九州全土が管轄エリアで、体力に任せて1日1,000kmを走行し、熱血漢溢れる上司からさえ、その無謀さをたしなめられながら、他の商社と時には協力したり闘いを繰り広げた。当時は意義ある闘いさえも楽しみ、仕事に没頭した。そんな日々に別れを告げるように、27歳で結婚を機に地元に戻ることを決意した。   
 「上司から『肉屋の息子だったのか?辞めるのは早い!』と止められましたが、予定通り家業に入社しました。、数年前に狂牛病が流行り、リーマン・ショックを経て、当社の売り上げも踊り場に差し掛かり、父が還暦を迎えた34歳の時に現職に就き、不安定要素がフツフツと湧き上がってきました。その上、契約更新前にテナントで入店していたスーパーから撤退させられるという憂き目に遭い、その当時は強気でしたのでそのスーパーの隣に精肉店を出しました。その無謀さは日ハム時代の教えです(笑)」   
 それを契機に各地に出店し、今年3月末に刈谷ハイウェイオアシスへの出店が決まり、知多半島・三河地区に13店舗を構える。最初に出店した頃は知多牛が走りで、知多牛に倣って知多豚と命名し、それを二本柱として販売した。そのネーミングもポピュラーになり始め、新しいことをやりたいという意欲がフツフツと湧き上がり、南知多町の平山牧場と提携し、『従来の価格で、ワンランク上の味を提供する』新たな取り組みを始めた。今年の夏以降、コンスタントに『平山牛』として食卓に上る量産体制が整った。
「知多半島も若い農家の方が育ってきて楽しみが増えました。昨年地域ブランド『ちた健康豚』を手がける小栗畜産(半田市)から事業譲受し畜産業に参入し、獣医師免許を持つ牧場として(株)小栗ピッグファームを設立しました。また、取引のあったホルモン屋さんが次々に廃業していくため、自社でその作業をしようと昨年10月に豚肉の加工、脱骨や内臓処理を扱う加工センターを開設しました。これにより愛知県内で処理されている週8,000頭のうち、当社が500頭を手がけることになりました。同時に惣菜部門も強化しています」  
 外注に頼っていた分野を自社で賄い、『育てる・作る・売る』という、垂直統合型企業の体制が確立し、お肉の専門店石川屋からお客さまへの約束として掲げる「よい肉を毎日美味しく 食卓へ」をコンセプトにした『GOOD MEAT』という店舗への名称移行を視野に動き始めている。様々な試みや挑戦は自社に限らず、海外、社会、地域にも及んでいる。
 「ミャンマーに、『OBRIGATION(恩・義理の意)CHITA』を設立しショッピングストアに食肉加工卸をし、同時にタイに牛肉を輸出しています。私自身、ミャンマーとの出会いは、日本JC(青年会議所)時代の先輩から、当社に研修生を受け入れてみないかという打診から始まったのですが、肌感が合うというか馴染みが深い国だなぁと感じています。海外の友人、JC、日ハム時代の友人と遊んでいると(笑)、自然に色々な情報が入ってきて、仕事と繋がることが多くあります。カラは重いですが、フットワークは軽く、楽しい方に流れていく習性があるようです(笑)」 
 また、子どもたちに肉の美味しさを知って欲しいと、提携先の知多半島の牧場で生産される『すき焼き肉』を毎年児童養護施設へ届けている。地産地消も同社の積極的な取り組みの一つである。  
 「将来的には、ここ半田からアメリカ・ヨーロッパ諸国に向けて牛肉の輸出が出来たら面白いと考えています。神戸牛や飛騨牛は観光とセットになっていることが多く、海外の飲食店でも味わうことが出来るでしょう。愛知県にはその機能を担う設備が整っていないので、輸出国は限られています。いずれ、あの知多牛を地元で食べたいということになれば、半田にも多くの方が訪れ観光資源の一つになってくるかも知れません。そんなことを夢見ています」   
 自らを慎重派と称し、勝算が見えた時しか動かないと笑うが、昭和6年(1931年)創業という歴史を紡ぎ、時流を読みながらの新たな快進撃はどこまでも続く。

●ちょっと一息●
JCから多くのことを学びました。当社の代表になった翌年、半田JCの理事長の大役を仰せつかりましたが、その年は半田JCを一般社団法人にするか公益社団法人にするかの方向性を決める重要な年であり、迷わず公益社団法人化を選択しました。理事経験はあったものの不慣れなことが多い中、我流で取り組んだことも多く、メンバーにご迷惑をおかけしながら豊富な人的ネットワークに助けられ、今の仕事に繋がっていることも多々あります。深く感謝 しています。 
 そのJCメンバーの先輩からの声掛けで前回に引き続き、昨年の『第九回はんだ山車まつり』の実行委員会の実行本部長を務めました。組織を立ち上げ、予算管理、祭りのテーマ『慶』を決め、当日は運営の責任者として関わらせていただきました。色々な方と出会え最高に楽しく幸せな時間を過ごさせていただきました。これもJCとの関わりがあったからでしょうね。

1973年半田市生まれ。半田高校を経て97年拓殖大学商学部卒業。同年日本ハム(株)入社、食肉事業本部輸入ブロイラー部配属。2000年(株)石川屋入社。07年4代目社長就任。半田市在住。当所議員。



『社業繁盛!咲き誇れ!~GROW UP HANDA YEG~』

2024年4月1日(月)

令和6年度半田商工会議所 青年部会長 ㈲はなふく 代表取締役 森下 達夫 氏

 令和6年度に発足60周年を迎えた半田商工会議所青年部。周年という節目の年、鈴木靖隆前会長の言葉を借りれば『カリスマ会長』が誕生し、陣頭指揮する1年となる。今までの歩みを家業を通して振り返ると、自分らし
い仕事をすることを目標に、その時々のステージで大きな足跡を残した。強い意志と貪欲な挑戦で四半世紀。カリスマのごとく生花業界を牽引してきた。青年部(以下YEG)活動も然りで、その一生懸命さ、真摯な取り組みで一石を投じてきた。
 「2009年、28歳で懇意にしている取引先のYEGメンバーからの紹介で入会し、積極的に出席してきました。諸先輩方からの学びや遊びの手ほどきを受け(笑)、若いからゆっくり育っていけばいいよと温かい言葉に支えられながら、YEGでの居場所を作っていただきました。経営者としての考え方、異業種の方々との出会いで人脈も広がり、入会は僕の人生にとってプラスになることばかりでした」
 2013年、夢のメンバー!交流・事業委員長時代に、はんだふれあい産業まつりで『キッズチャレンジファクトリー』を企画した(現在も継続事業)。キッザニア(子どもたちが様々な職業にチャレンジし、楽しみながら社会のしくみを学ぶことができる職業・社会体験施設)が流行り始めた頃で、わずか3ヶ月という短い準備期間でカタチにし大成功を収めた。
 「ペースが遅い怠け者の僕ですが、歴代会長や年上の同期メンバーたちの背中を追いかけて必死でした。雨の中、ごん鍋の振る舞い、
ステージイベント、協力して仲間や来場者と一つになったことは貴重な経験でした。そういう流れの中で一緒に汗をかいてきた仲間に僕としてどんな恩返しが出来るか、そんな責任感が芽生えてきました」
 会長の要請を受けた時に、コロナ禍の中で会長を務めた先輩たちの英断に想いを馳せた。社業でさえ不透明な中でYEGの存続、仲
間たちのために立ち上がった姿に心を打たれ、42歳を迎えた今だから会長として仲間と向き合う時と決心した。
 「YEG入会の最終メリットは、社業繁盛を目指せるという点に尽きるのではないでしょうか。そのためには学び合い教え合うことで自己研鑽と経営力の強化、会員150名、OB会や県内外YEGとのネットワークの活用、活動を社業に繋げる方法を追求する等さまざまなことが考えられます。こうして挙げたことは、僕がYEGに入会して学んだこと、気づかせていただいたことです。僕自身仲間との深い付き合いにより経営力が伸びました。失敗、迷い、衝突もある中、仲間の支援で勇気を得て今があります。60年の歴史を積み重ねてきた半田YEGでは、本当の成長が得られます」

 この4月から60周年記念事業がスタートする。だから地域の方々に感謝したい、ありがとうを届けたいと公開事業を企画中。生花販売業という、エンドユーザーに近い距離感だからこその企画という会長色を出しながら、メンバーにも60周年事業を各自の社業繁盛のチャンスにしていただきたいと願う。スローガン『社業繁盛!咲き誇れ!~GROW UP HANDA YEG~』には、そんな想いが溢れるほど込められている。
 「僕は支えてもらうタイプで、歴代会長のようなリーダーシップはありません。ただ、自信を持ってみんなのことを好きと言えます。60周年事業はメンバー全員で作り上げていかないと実施できません。皆さんのご協力をお願いします」
 YEG仲間の支えもあって発展してきた社業だが、同時に、年の離れたお兄さん的な関係性の父君の姿勢から、仕事に対する真摯な態度を学び、自分しかできない仕事をする覚悟をもらった。時代性もあり父君は葬儀花と大型スーパーの置き花を主軸とし、葬儀業界の下請けとして電話を待ち、カラダを酷使する日々だった。その姿を見て父君
のできなかったことを自分が精一杯やろうと誓った。
 「名古屋フラワー学院を出て上京し、最先端の店舗の門を叩きました。店先には芸能人や政治家が行き交うことが当たり前の店舗では、掃除する姿さえ正され、花を売ることは技術・サービスを売ることと教えられ、花をモノとして売っていたに過ぎなかったことを知らされました。業界誌に取り上げられている方々との出会いを通して、個性って何?自分はどうだろうかと考えるようになり、職人ではなくデザイナーを目指そうと考え始めました。地元で自分らしい店を持ちたいと帰郷したのは21歳の時でした」
 葬儀花からの脱却を図り、ブライダル業界にアプローチした。門前払いされたこともあったが、挨拶には自作の花を持参し、ある時はブライダル情報誌の新郎役のモデルを務めた。そのセンスと一生懸命さが実り、大手結婚式場と契約を結んだ。名古屋生花小売商業協同組合の青年部会長職も務め、そのフィールドが広がり人と出会う度
に、商いとの向き合い方を自身に問いかけ、感動を超えていく感動を花に込めて届けたいと思うようになった。
 「最近思うのは、その花が持っている素材の良さを活かし、引き算をしながら花を提供したいと思っています。以前は足し算、掛け算をしてきました(笑)。ビジネスマンよりアーティストの感性で生きる。父の背中が教えてくれました」

●ちょっと一息●


 幸運にも色々な場面に恵まれ、中でも印象に残っているのは『ガーデニングワールドカップフラワショー2013㏌JAPAN、フラワーアレンジ部門」での銀賞(ハウステンボス開催)。2016年のG7伊勢志摩サミットではセントレアに到着した飛行機のタラップを彩る花、オバマ大統領に贈る花束を作らせていただくチャンスをいただき、貴重
な経験をさせていただきました。
 また、YEGメンバーから起業家の発掘・育成並びに新事業創出を目的とし、今後の経済社会に存在意義と可能性の高い企業として勝ち残れるための『第21回ビジネスプランコンテスト』に温めていたプランを仲間と共に応募し、一次選考を通過することができました。

1981年半田市生まれ。2000年名古屋フラワー学院卒業後、上京。02年帰郷し自社入社。21年3代目代表取締役に就任。
09年青年部入会、地域委員会委員長、副会長、専務理事を経て24年会長。半田市在住。



創立130周年特別委員会 委員長に聞く

2024年2月29日(木)

本美勝久氏(半田信用金庫会長 当所常議員)

当所創立130周年記念事業を終えて

────周年関連事業のメインである昨年11月の記念式典は、盛会のうちに無事終了いたしました。委員長として大役を務められた今の心境はいかがでしょうか。
 大きなトラブルもなく、無事式典を終えることが出来てほっとしています。130周年という節目の重要な式典の委員長としての立場は大きなプレッシャーでしたが、多くの方にご協力いただき、しっかり準備してきましたので、必ず乗り越えられると信じていました。ご協力いただいた皆さんに、心よりお礼を申し上げます。お役を終えた今、解放された安堵感と一抹の寂しさを感じています。

────松石会頭からの指名を受け、委員長職を受諾されたのが、1年ほど前でしたね。
 「なぜ私が(当時69歳)?お若い方に相応しい方がいらっしゃるのでは」と即答できませんでしたが、私どもは地域の金融機関として商工会議所さんにお世話になっています。お声がけをいただけるのはありがたいことと、お引き受けさせていただきました。
 1回目の会議を昨年3月に開催し、委員さん14名と顔合わせをしました。皆さん経験豊富な方ばかりで忌憚のない意見が交わされ、
いつも白熱した会議でした。

────記念プログラムの講師決定までにご苦労があり、委員の皆さんからは「委員長は意見を辛抱強く聴き、よく耐えてまとめてくださった」という声が聞こえています。
 耐えていた訳ではありませんが(笑)、全員式典を成功させようという強い想いだからこそ、色々な意見が出たのでしょうね。言われてみると、講師決定まで数回同じような会議をしていました(笑)。なかなかまとまらず、講師が決まったのは式典の4ヶ月前くらいでした。
「半田商工会議所の記念式典なので、半田市の将来に夢や希望を与えてくれる講師がいいのではないか」と言う意見に沿って検討したところ、半田出身のピアニストであり医師でもある沢田蒼梧さんが候補に挙がり、メンバー全員が了解しました。私はぜひ演奏を聞いてみたかったので大賛成でした。1部は式典、半田市民も対象とした2部の記念プログラムは沢田蒼梧さんのピアノリサイタルと前田正信医師(あいち小児保健医療総合センター名誉センター長、武豊町出身)とのトークセッション、3部は知多半島の食をフルに取り入れた祝賀会で、いずれも地元に関わっている講師・おもてなしで、まさに地元色のオンパレードでした。
 いつまでも出席された方の記憶に残るような記念式典になるよう、結果を出すということを目標にしてきました。ただ、記念式典でピアノ演奏というのはあまり例がなかったので、出席された方がどう感じるかは少し不安でした。結果的には大好評でしたので、委員長をやらせていただいて良かったとつくづく思っています。

────記憶に残るという点では、演出も素晴らしかったですね。
 会頭には、式典内で壇上で原稿を読むスタイルではなく、舞台狭しと歩きながら身振り手振りを交えて『会頭宣言』をしていただきました。委員会メンバーのアイデアですが、会頭も快く応じていただけました。会頭のスマートさも全面に出て『会頭色』も意識した印象深い式典になったと自負しています。記念プログラムには沢田蒼梧さんのファンから「県外ですが、いいですか?」という問い合わせもあり、東京、大阪、京都などの遠方からもお越しいただいています。半田市のPRの一助になったのではないでしょうか。

────委員長は会議後の懇親会も積極的に参加し、式典当日も誰よりも早く集合され、スタッフの腕章を付けて走り回られていました。
 委員長として決起集会や懇親会は参加するのが当然と思い、烏龍茶を飲みながら楽しみました。こういうお付き合いを通して親交が深められたことも、成功への一因だったのではと感じています。当日も気持ちは一スタッフでした。青年部メンバーは約40名、女性会メンバーが約30名と多くの方にご協力をいただきました。両メンバーの協力なしでは記念式典の運営は成り立ちませんでした。心から感謝しています。
 仕事ではできない経験をさせていただき、私自身も貴重な時間を皆さんと一緒に過ごせたことは大変有意義でした。関わった皆さんに、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

────130周年記念事業に関わられた経験から、新たな歴史を刻み始めた半田商工会議所に向けての期待、アドバイス等をいた
だけますか。
 商工会議所さんは地域にとって重要な役目を果たされていますが、会員さんにとって身近な存在か?敷居が高いような感じを受けています。私ども金融機関は対お客様という明確な関係性がありますので、『ちょっと困った時』にお客様がご相談にみえますが、商工会議所さんはその辺りの関係性が微妙ではないかと感じています。地域金融機関と上手く連携を図り、私どもも何かお手伝い出来たらと思っています。
 榊原前会頭が提唱されていた『会員ファースト』をより実践していくことで、会員さんにとって気軽に訪れていただけるような、身近な半田商工会議所になってくるのではと期待しています。
 



企業のお困り事解決に 全力でお手伝い

2023年9月1日(金)

半田重工業株式会社 常務取締役 新美 勝規 氏

創業者(祖父君)の進取の気性に富んだ血脈は、脈々と受け継がれてきた。自社に入社して20年余。既成概念にとらわれることなく、や
りたいこと、できることをやろうと、氏もまた、受け継いできた気骨を遺憾なく発揮する。
 「大学卒業後に当社の取引商社を経て、自社に入社し1年ほど豊田自動織機に出向しました。将来を見越して勉強の日々でしたが、人脈形成のために外部研修を常に受けていました。主要取引銀行の製造業対象の研修会は、20代の参加者は私ひとり。キャリアを積んだ諸先輩方の話についていけず苦労もしましたが、貴重な学びの機会になり、経営についての相談相手がいたことは心強かったですね。今もその研修会に参加していますが、同世代の参加者も増え、歳月の流れを感じています」
 知識を蓄えるため、人脈作りのために様々な研修会、海外視察に積極的に参加し仲間との絆を深めていった。後年、これらの繋がりが貴重な財産となり、多方面に亘って好影響を与えることとなる。昨年6月に製造業の困り事を解決しようと、企業と技術、企業と人材を繋ぐ、工業系特化型のオンラインマッチングサービス『FactorX』を立ち上げた。今までのご縁が繋がり登録企業者が半年も経たずに、受注者700社以上、求人情報1,000件以上という数を数えた。
 「1937年創業の当社は、10年後に豊田自動織機との取引を開始以来、フォークリフト部品と油圧シリンダーの専門メーカーとして、様々な部品・製品を製造してきました。お陰様で仕事は安定していますが、変化の激しい時代に既存の仕事を大切にし、新しい軸を作っていくことは必要不可欠なことと思っています。新規事業を始めたことにより、新しい人材、考え方、企業とのお付き合いが増えて、視野が広くなったように感じています。このことも私にとって大きな財産となっています。反面、失敗したら…という不安は常にありますが、祖父の手記に綴られている言葉『命まで取られる訳ではないから、一度の人生、やりたいこと、出来ることを頑張ろう』が私の支えとなっています」
 新規事業の課題はアイディアであり、新たなビジネスモデルは雑談から生まれて来ることを実感し、時には食べながら飲みながら『ビジネスに関する雑談』を交わし情報交換をする。また、ベンチャー企業の経営者と話したり、大学との共同研究を試み、既成概念にとらわれることなく柔軟な思考で、様々な人との繋がりを大切にしている。確かに受け継がれている。

 「当社は『ものづくりはひとづくり』『仕事の質は人から』という考えから人材育成にも積極的に取り組み、発言しやすい職場づくりに努めています。それは業務改善にも繋がり、工場内では、いつもどこかで何かが改善されています。私は人の話を聞きながら『それもいいかも』とまずは自分なりに咀嚼して考え、どちらかというとパートナーと一緒に仕事を進めていくタイプです。そういう多くの人と接する経験からも人の持つ力の偉大さ、影響力を感じています」
 前社長は御母堂が務め(現会長)、今までの経験を踏まえた視点での改革が行われた。その一つに整理整頓に重きを置き、生産現場の安全衛生の改善に取り組み、労働災害が大幅に低減し生産性も向上した。それにより昨年、地域の中で安全衛生に関わる優良事業所として『愛知労働局長表彰 奨励賞』を受賞し、同社に大きく貢献し、進むべき一つの道を拓いた。
 「当社はシステム、人、設備の中長期的な安全管理の仕組みを構築しています。これらを地域社会と共有し、地域貢献をしていきたいと思っています。祖父
の手記は幾度も読み返していますが、色々な人に助けられて会社を存続できてきたことを恩義に感じていたようです。強靭な精神力を持ち、新しいことを違和感なく受け止め人との繋がりを大切にしてきた祖父には及びませんが、その血が流れていることを誇りに思っています。新規事業を通して、私も多くの人に助けられていることを体感し、改めて地域との繋がりを深
め、地域貢献も当社の使命であることを実感しました」
 今、やりたいこと、出来ることは『 FactorX』をより軌道に乗せるため、製造業の力になるためと、営業活動に尽力する日々を送る。東海3県下はもちろん、関西、北陸、東北にも足を延ばす予定だ。
 「それぞれの土地の風土、文化、四季を感じながら、次々と新しい人、会社と出会い、新しい考え方や知識を得る機会に接することはありがたく楽しいことです。食べ歩きが好きな私は、その土地で美味しいものをいただけるという素敵なオマケの時間も大好きです(笑)」
 創業者から一貫して『新しいモノづくりの未来へ』挑戦する精神は、確かに受け継がれている。

●ちょっと一息●
「当社に入社するまで地域との関係性は薄く、地元のことは殆ど知りませんでした。今年度、父も務めた雁宿小学校
のPTA会長になって初めて地域との繋がりが始まりました。学校には地域を山車が練り歩くなど独自の祭り『かりやど
祭り』があって、改めて地域との繋がりが強い学校だと認識しました。母校ですが、そのお役に就いて初めて認識を新た
にしました。来年は町内会長のお役目をいただきます。新たな出会いに今からワクワクしています。
 『真面目で堅そうに見えるのに話すとフランクですね』と度々言われます。ギャップがあるようです(笑)。私自身、既成
概念は少ない方だと思っています。それは幼い頃から半田市の姉妹都市の学生さんなどをホームステイとして受け入れ
たり、私も交換留学生として訪れた機会もあったという家庭環境にもあるのではと思っています。半田市が繋いでくれた
ご縁ですね。そしてその気質もまた、祖父から受け継がれてきたものかもしれませんね」

1978年半田市生まれ、半田市在住。2001年日本大学理工学部電子電気工学科卒業。(株)東陽を経て、03年同社入社。当所常議員。




立ち位置の重要性を学ぶ

2023年7月28日(金)

株式会社大清工務店 代表取締役社長 近藤 勝美 氏

 人生は選択の連続で、あの時のこの選択があって、がある。サーフィンを一生やっていこうとオーストラリアに行くばかりになっていた時に、結婚という第二の人生を選択した。アルバイト先で出会った夫人は、建築会社のご息女で3人姉妹の長女。夫人の背景を考えつつ、出勤前に海でサーフィンを楽しみ会社で現場監督として働き仕事に邁進した。
「結婚して2年後、義父(現会長)に仕事を手伝ってくれと言われ当社に入社したのと同時に、半田青年会議所(以下JC)OBの義父
に勧められ、JCに入会しました。私は名古屋生まれの名古屋育ち、地元とは縁がなく同世代とのネットワークを構築したいと入会し、多くのことを学びました。膨大な時間を使いましたが、何ものにも代え難い貴重な経験をさせていただきました。今の考え方や生き方をしているのも、JCに入会したからこそと勧めてくれた義父に感謝しています」
 様々な貴重な経験の中には、胃が痛くなるような日々もあったと振り返る。特に2014年理事長に就いた年は半田JC発足50周年の節目の年であり、日本JCの事業(世界の約70か国のメンバーが1週間の研修プログラムに参加)を主管する一大事業が控えていた。世界のJCは4つのエリアに分かれるが、その各エリアに大会PRのために赴いた。道中スピードラーニングを聴き発音を確認しながら、与えられた3分間でPRに臨んだ。7月に国内外140名ほどのメンバーが知多半島各所に集い、9月に周年事業という息つく暇もないほどのスケジュールをこなしてきたが、その間の記憶が全くないほどと語る。
 「私はメンタルが強いと思われているようですが、そうでもないのですよ(笑)。理事長時代は私はその場に行って挨拶をするという役割でしたが、現場のメンバーは本当に大変だったと思っています。それらの経験から、どんな難題にも対処できるようになり、自分の置かれている状況を的確に把握する必要性を学びました。今、自分はどういう立ち位置にいるかと確認し、その状況の中でどう動くかと常に自問自答をしています。また、人としての礼儀や思いやりを持ち、相手の立場に立った考え、偽りのない生活をしていれば、間違った方向には行かないと確信しました。私自身が営業活動にはそんなに熱心な方ではありませんが(笑)、そういう想いから自然に営業につながったということが幾度もあります」
 2017年、現職に就任した時も、先ず立ち位置を考えた。同社は初代の『大工の清治さん』が『大清工務店』を創業した。初代は現場、先代は営業畑、3代目として両方に関わる立ち位置にあると考えているが、営業的な動きの方が多いと顧みる。現場に出たい、そういう気持ちを抑えながら、業界や地域等に請われて多忙な日々を送る。
「JC時代に返事は“ハイ“イエス”と育てられましたので(笑)、頼まれごとは可能な限り引き受けてきました。『頼まれごとは試されごと』です。困っているなら協力したいと思うのは人の道だと思っています。私は長いものには巻かれてきて(笑)、体育会系なので、頭より体を使ってきました。出来る、出来ないということは別にして、先ずはそこに行って動くということを大切にしてきました」
 反面、自身が潰れないためには、時には依頼話が来ないように立ち振る舞うようにすることも必要だと思ったときもあった。だが、現実には断ることを良しとせず、今年の10月28日・29日両日に開催される『第九回はんだ山車まつり』でも重責を担っている。先輩JCが始めたはんだ山車まつりを守り伝える『半田山車祭り保存会』に事務局の一員として、当たり前のように誘われた。前回から本格的に関わり、今回の祭りでは要となる運行警備部長として運行ルートや警備計画の調整に飛び回っている。日夜あちこちの地区や保存会での話し合いが続き、それぞれの課題にぶつかることも多く、JC卒業後以来は遠ざかっていた胃痛が久しぶりに訪れたと苦笑する。
 「周りの人に支えられ、育てられてきました。今も半田ロータリークラブで、諸先輩方の教えを請いながら、週に一回の例会に出席しています。人に恵まれ、運の良い人生を歩んでいると思います。家内も一昨年、宅地建物取引士の資格を取り、グループ会社(セイワハウス)で働き、会社を育てるために二人三脚の日々を送っています。私の最大の任務は次代に繋ぐことだと肝に銘じています。『継続は力なり』と言いますが、本当にその通りで、続けることも大変なことですが、どれだけ繁栄した状況で次代に繋いでいくのか。それが重要なことだと思っています」
 自らに課した次代への継承、これまでの人生の選択の集約であり、立ち位置を自問自答した答えであるようだ。

●ちょっと一息●

「地域とつながろうと同年会に参加しました。その後、息子が地域の祭り『大獅子・小獅子の舞』で『ささら摺りの童子』をお受けしたので祭りに参加し、祭りは見るものから参加するものへと変わりました。それまでは酒が飲めない私は『祭りをやらないか?』と声がかかる度に、いつも逃げ回っていました(笑)。外から入った私は寄付集めや警備などの裏方の仕事に徹していましたが、そんな私に42歳の時に神祭長の役が回ってきました。小さい頃から祭りに親しみ祭りを熟知している同年の中で、お引き受けするのを固辞していましたが『勝ちゃんを支えるで、やってくれ!』という声に押されてその大役をお受けすることにしました。その年は長男はささら童子(長男・二男で6年間ささら童子をお受けしました)で、親子揃って祭りに参加した良い思い出です。
 一生続けていこうと思っていたサーフィンはJCに入会してから遠ざかっています。結婚記念日を刻んだサーフボードは青春の思い出と共に、今も床の間に鎮座しています」

1976年名古屋市生まれ、半田市在住。99年愛知工業大学土木工学科卒業。土木会社を経て、2007年同社に入社。17年現職。当所議員・建設部会長。