半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

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ご縁を大切に

2023年6月1日(木)

中部紙工株式会社 代表取締役社長 吉田 哲 氏

ご縁を大切にしながら道を拓いてきた。就活時(1987年)、同社に勤める隣人から「これから伸びていく会社」と薦められた。同社は2代目にバトンを引き継ぐ時であり、若き社長の補佐役を求めていた。それまでは大手企業を視野に入れていたが、同社の方針や想いに触れ『歯車になるより、自らの手で事を成し遂げたい』と入社を決意した。
 「若い会社(1960年創業)で、勢いがあり楽しく仕事ができる雰囲気でした。入社1年間は岡山工場で研修し、配属予定の関西営業
所が閉鎖したため、2年目からは本社(半田)で、社長の鞄持ちとしての日々が始まりました。仕入れ先のトップの方とお会いする機会も多く、『利は元にあり』という言葉通り、仕入れの重要さを実感しました。私は元々営業志望で、営業マンは売り上げが全てと考えていましたが、仕入れの大切さを理解し、『どのような営業マンになりたいか?』と様々なタイプの営業マンと接しながら、考え続けました」
 辿り着いた先は、マニュアルに頼りきらず、相手と一緒に悩みながら課題を解決し相手の立場に立った、人間関係に重きを置く営業スタイルだった。社長にお供した4年間は、営業マンとしての心構え(相手の望むことは何か?)、仕事の楽しさなど、ビジネスの基本を学んだ貴重な時間だったと振り返る。岡山・関東営業所で営業マンとして飛び回り、岡山営業所長時代には全営業所売上1位の名古屋営業所を追い抜くことを目標として、その悲願を達成した。
 「当社は業務用大型クラフト紙袋の製造・販売を主業務としています。この業界に限ったことではありませんが、同じような製品を作ることはどこの企業でも可能です。そこに品質、価格、そして営業力が加味されてお得意様となっていただけるのではないかと感じています。八方美人的かもしれませんが(笑)、どなたとでも気軽にお付き合いをしてきました。営業マンにとって必要な要素ではないかと思っています。今も各工場に行ったり、営業所の社員に同行しお得意様回りをしますが、動き回ることは私に合っています」
 アンテナを張って磨いた会話力とその資質が味方した。生まれ持っての好奇心の旺盛さは、新しい職場、出張、出張の連続の激務もにならなかった。むしろ1ヶ所に長く勤務するより、次々と新しい土地で働くことが性に合っているようで、常に新しい出会いを求めた。知らない土地で仲間やお客様と話し、食べ、飲みながら和気藹々と過ごし、行く先々でのご縁がつながった。まさに人対人の付き合いだった。本社への2度目のご縁が始まったのは2015年。営業部長として着任し、翌年取締役営業本部長、そして昨年6月に現職に就いた。
「前任社長は若く、そのまま続行されると思っていましたので、昨年3月の突然の社長要請に戸惑いながらの就任でした。特に昨年は原材料の高騰により1年に2回の価格転嫁があり厳しい決算結果になりました。そんな中での就任でしたので、全国に挨拶回りに伺った時に、皆さんから『大変な時期に、ご愁傷さま』と言われることも多かったですね(笑)。就任後は前社長の方針を守ることが精一杯で、今振り返ってもこの1年間の記憶がないほどドタバタしていました。今、やっと気持ち的にも落ち着いたような気がしています」
 2年目を迎えた今期は営業利益の黒字を第一目標に、営業畑で培ってきた人脈や知識を活かして新規開拓しシェアアップを図る。同時にコンプライアンスの徹底、安全(労災ゼロ)厳守、人材育成、生産面でのロス率の軽減と課題は山積している。
 「営業畑を歩いてきて売ることが最優先で、経営や管理部門は門外漢でしたので、今は学ぶことばかりです。課題に追われる今、『経営者は孤独』という言葉が身に染みています。大好きなお酒を飲んでいる時も、仕事上の愚痴は言えませんからね(笑)。若い頃は飲みにいけば、仲間と一緒になって上司の愚痴を言ったりしてストレスを発散していました(笑)。楽しくいい時代でした。ただ私は、悩み続けているのではなく、やるしかないと、その辺りの切り替えは早い方だと思っています。一晩寝たら、心機一転ですね。また、一言の重みも実感しています。今までは多少の失言をしたとしても、背後の社長が支えてくれていました。でも今は私の一言は会社の言葉す。この1年間で、その責任の重さを痛感しました。話し好きの私も、少し無口になったのかもしれません(笑)」
 人対人との付き合いを重要視し、自ら働きかけてきた。それは『よそ者だったからかもしれない』と自己分析する。勤務した岡山(大阪から西日本地区)関東営業所(北関東地区)は広域をエリアとし、文化、習慣、風習がそれぞれ大きく異なり、新天地に赴いた時には戸惑いもあっただろう。だからこそ、その土地の違いを積極的に楽しんだ。
 「そこに長く住むか住まないかということではなく、その土地に住んでいる間はその時々を楽しく充実した時間にしてきました。よそ者意識を持っていたのでは何も始まりません。自ら人との出会いを求め、こちらから話しかけてきました。そうすると自然にご縁は始まり、つながっていきます。たまたま隣に座った人と仲良くなる。それもご縁だと思い、今を大切に生きていきたいと思っています」

●ちょっと一息●
「本社勤務になってからは単身生活が9年目を迎えました。一人でじっと部屋にいるのが苦手な私は、社内の単身仲間と定期的に旅行に行ったりしていた時期がありました。今はその仲間も散り散りになってしまい、家の近所で一人でブラっと行ける居酒屋を何軒か確保(?)し、飲み仲間も出来ました。『職業不詳の酒好きの親父』として通っていますが、社長就任時に、この『カイギショゲッポウ』で紹介していただき、身元がバレてしまったことがありました(笑)。
 岡山に住む家族(夫人、二人の息子さん)の元に帰るのは月に一度ほど。この4月に初孫のお宮参りで岡山に帰り、親の務めを果たしてきました。8年も子どもと離れていると実感が湧かず、おじいちゃんになったと言われても不思議な感じです」

1964年兵庫県尼崎市生まれ、半田市在住。87年関西学院大学社会学部卒業。同年中部紙工(株)に入社し、岡山工場で研修。88年本社購買業務、92年岡山営業所、97年関東営業所営業課長、2001年岡山営業所長、15年本社営業部長、16年取締役営業本部長を経て、22年現職。当所議員。



地域のため、従業員のために

2023年5月24日(水)

知多乗合株式会社 代表取締役社長 金森 隆浩 氏

 『子曰く、四十にして惑わず、五十にして天命を知る』。論語の一節に例え、56歳になった今、まだ天命を知るべくもないが、惑わずこのバス業界でお役に立とうと決意したのは12年前だったと振り返る。『電鉄はいいよ』という先輩の言葉と地元で働きたいという思いで名古屋鉄道に入社。時はバブル期、総合職の同期入社は80数名という異例の大量採用時だった。「何となく、ホワ~ンと入社しました」と笑う。  
 「入社4年後の1995年、グループの遊覧船事業である日本ライン観光に配属されました。安近短がもてはやされた時代、木曽川を下る
『日本ライン下り』の乗船料は3,400円と高額なため、集客に苦労していました。足繫く訪問しても成果が出ず、コースを組む提案型の営業をはじめました。周りから売れないと反対される中でも、上司からは理解してもらい、ヒット商品につながりました」  
 今でこそ当たり前になっている取り組みであるが、当時は全く新しい発想だった。自社の施設だけでなく、地元施設、周辺の見どころ、季節の商材等を絡ませ、地域一帯を巡る旅だった。鵜飼いもセットし季節は限定されたものの、初年度には1,000人が楽しんだ。負けず嫌いで、数字や結果にはとことんこだわり、成果を出すために常に真摯に取り組んだ。今もその姿勢は変わらない。  
 「2000年に名鉄本社の自動車企画管理部に配属となり、それ以降バス業界に関わっています。宮城交通に転勤し、運輸営業の部長として会社の再建に取り組んでいた2011年に、東日本大震災に遭いました。帰宅困難者の輸送を最優先にし、震災当日の深夜に臨時バスを出発させました。家族が行方不明の従業員、私は単身赴任で家族は安全地帯にいる、そんな後ろめたさを感じながら、震災後も欠かさずバスを走らせ続けました」
 刻々と変わる状況の中で3~4日ごとにダイヤ改正をし、バス停の時刻表入れ替えの手伝いもした。ある日、いつ来るか分からないバスをポツンと待つ高齢者と出会った。高齢者は涙ながらに『宮交さん、本当にありがとうね。こんな時にバスを走らせてくれてありがとう』と声をかけてくれた。その言葉に震撼し44歳だったその時、惑わずこの道を進もうと決意した。今までは予算を達成したとかICカードを導入したなど自己実現のための関わりだったが、バスはなくてはならない生活の足、地域社会のために、安心で便利で安価なバスを走らせ続けようと誓った。同時に従業員あっての事業、自宅の片づけも後回しにして懸命にバスを走らせる従業員への感謝を新たにした。  
 「バス業界に関わり23年、志を共にする全国の同世代の同業者の仲間との絆も深まりました。電話1本で悩みを解決し、最新情報の収集も瞬時に可能な『戦友』もいます。名鉄バス時代、訪日外国人にとって日本は安心な国であるが、便利な国にはほど遠いと、仲間たちと『JAPAN BUS LINES(全都市を結ぶ訪日外国人向けバス乗り放題パス・60数社加盟)』を立ち上げました。しかし今は全国を視野に入れるのではなく、知多半島にしっかり根を張った活動をしていきます」
 久しぶりに知多半島に縁もゆかりもない社長(13代目)として就任したのは1年ほど前。『現場を見て、現実を知ることが大切』と短パンとTシャツ、サングラス姿で週末に半島中の路線バスに乗車し、客層、路線の状況、乗務員の対応等を把握した。現実を知ることにより的確な対処ができ、地域に根付いた貢献が可能になると語る。着任後、新たに2市町のコミュニティバスも受託し、現在は7市町(美浜町・南知多町・阿久比町を除く)で運行。暮らしに密着した移動手段として地域貢献を果たしている。  
 「半田市は自治体だけでなく様々な団体や民間企業も積極的にいろいろなことに取り組み、元気がある地域だと感じています。その恩恵を受け、当社も多様な方面に伸びしろを期待でき、今年6月に創立80周年を迎え地域の皆様、従業員に感謝を込めて様々な企画をスタートしています。4月からはバスの後ろに『安全のため、左折時、交差点で一旦停止します』と記したステッカーを貼り、事故防止と乗務員に安心して停止できる背景を整え、ひいては地域の交通安全につながっていければと思っています。目標は高く掲げつつも一段ずつ登っていき、先ずは次のステージ『安全管理2.0』その次は『3.0』とバージョンアップしていきたいと思っています」
 ICカード乗車券の拡張、バス停標識のリニューアル、系統ナンバリングなど分かりやすい、利用しやすいバスを目指し、代表を兼任する名鉄知多バス旅行の『謝恩かもめツアー』を実施する。同時に従業員同志の連携・感謝のために、クラブ活動への支援、班活動の実施、担当役員制度を新設し、部下とのつながりの強化、またカタチも大切と半田営業所の建て替えを計画している。  
 「地域のため、従業員のために何をしたらいいのか?通勤中も街を歩いていても考え、会話からヒントをもらったり雑談から閃いたことも多くあります。だから従業員と一緒に喫煙所で嗜むタバコは止められません(笑)。楽しく仕事をすることがモットーですので、考え悩み続けていても、ストレスチェックでも、全くストレスなしという結果です。『やってみなはれ』の精神で、何でもやってみようと思っています」 
 惑わずこの道を進もう。その思いがカタチとなり、生活の一端となって、天命を知る日は近いだろう。

●ちょっと一息●
「サラリーマン人生が終わるまでに趣味をいっぱい持つといい」という叔父のアドバイスに影響され、
色々なことを始めました。横浜、大阪に住む大学時代の友と『振り子の法則』で3人の住む町を拠点に年1
回、自転車旅行をしています。昨年は知多半島一周でした。雨が降ったので半分は車でしたね(笑)。折り
たたみ自転車を携え、民宿やゲストハウスに泊まる気心知れた友との気ままな旅は私の大切な時間です。
 家族との時間も大切にし、息子1人、娘2人は私がスポンサーになる時は付き合ってくれますが、私が話
し出すと鬱陶しがられ長時間一緒は持ちません(笑)。妻には年1回、ちょっと豪華な食事会をセットして感
謝を伝えています。大学時代に出会った妻には感謝の一言に尽きます。

1966年岐阜県墨俣町(現大垣市)生まれ、稲沢市在住。1991年神戸大学教育学部卒業。同
年名古屋鉄道(株)入社。95年日本ライン観光(株)、2000年名古屋鉄道(株)自動車企画管理
部、08年宮城交通(株)営業推進部長、15年名鉄バス(株)経営統括部長、17年取締役経営企
画部長、21年取締役運輸本部長を経て、22年現職。当所常議員。



トライアル・アンド・エラー~確かなつみ上げを次代へ~

2023年4月6日(木)

半田商工会議所青年部 会長(有)鈴木製作所 代表取締役 鈴木 靖隆 氏

 時には自由に、時には自らを律して、そして時には使命感を課して日々を送ってきた。その姿は多様であるが、悩み戸惑いながらも、『外柔内剛』の精神で歩みはブレることはなかった。
 「大学3年生になる時に、海外で住みたいと外国語学部に転部希望の僕と、その流れを阻止したい母との間で軋轢があり退学。その後
はアパレル関係でアルバイトをし就職しました。多くの部下を抱える立場も経験しましたが、人間関係の構築が上手く出来ず退職しました。その頃の僕は尖っていて言葉もキツかったと反省し、それからは物腰を柔らかく敬語で話すように心がけました。その後は自由に、目的もなく過ごし、突如26歳で働いている人が眩しく見え、早く社会に戻りたい、人間になりたいと(笑)その生活からキッパリ足を洗いました。この自由にあるがままに生きた6年間に自我が芽生え、僕にとって貴重な時間だと感じています」 
 『他人の釜の飯を食いたい』と地元企業でアルバイトをし、1年後に入社。同社は製缶・旋盤加工・機械メンテナンス・機械据付調整
等を社業とし、設計から製作までの一貫生産は、その技術力、丁寧な仕事に定評が高い。一人息子(姉2人)だが、後継者という意識は全くなく、職人さんの下で働くことが楽しく、父親には一生社長でいて欲しいと願った。その思いが一変したのは青年部の存在だった。家業に就き、中学時代の親友から『青年部に入らない?』と年に1回誘われ続けた。最初は町工場のような規模の企業が入る団体ではない!2年目には、面白い団体かもしれない・と、心境が変化し、3代目として継ぐことを決意した35歳で入会した。最初の誘いから8年後のことだった。会合等の出欠の返事は誰よりも速く、頼まれた仕事はより短時間で仕上げることを決心し、自らを律してきた。
 「怠け者で、忘れやすいので、そう決めました。そんな僕を使いやすい奴と思われたようで、2年目に委員長をやらないかという話が飛び込んできました。『挑戦しない経営者は魅力がない』という言葉に背中を押されて、委員長を受けました。委員長の明確な自覚もなく経験もない僕は、委員会を上手く回せず迷惑をかけっぱなしでしたので、失敗は2度としない、依頼された役を全て引き受けようと決意しました。そのような気持ちになったのは『認められたい』と言う気持ちが強かったように感じています。職人気質の父は口数も少なく、僕は父と意志の疎通が上手く出来なかった、でも青年部では認めてくれる。それが嬉しかったですね。僕にも色々なチャンスをくれて、上手く育てていただいた。そういう先輩やメンバーとの出会いがありました。今度は次代にその想いを届けようと会長に就くことを決心しました」 
 会長を支える専務理事を2度経験し、得た課題も、『基本方針』に反映させた。専務理事の仕事は多岐に亘り、メンバー・会議所本体とのパイプ役、青年部内の改革等であり、その改革の一つが令和3年度から採用された会員の50歳定年だった。役職の重要性や労力の
大変さを痛感し、組織の充実を図り、メンバー同志・会議所本体とのつながりを強固にするため、専務理事を支える常務理事のポストを新設した。同時に青年部の運営基本方針と並んだ綱領に『国際人としての教養を高めよう』が謳われている。それに準じ、国際人としての視野を広げるための第一歩として、『市民交流委員会』を設立し、新たな国際交流事業への挑戦を試みる。
 「楽しみ、充実した委員会活動を経験して欲しいと思っています。あの講師を呼びたいから、こういう事業ではなく、課題を解消するためには、こういうゴールがあるというストーリーを楽しんでいただきたいと思っています。青年部活動は、問題点に対して対策を講じる社業と同じです。また、今は簡単に物事を調べることが出来、忙しさにかまけて、ついつい、いつも通りでと思いがちになってしまいます。僕自身もそうで、考えたり、勉強することを止めてしまうこともあります。それでは進展がありません。学び俯瞰して見ることで頭は柔らかくなり、新しい何かが生まれると確信しています。委員会が人を育てるという青年部設立の原点に返り、全メンバーの事業所に繁栄してもらいたいと思っています。青年部、社業、地域のいずれもが発展しなければ、いずれかの発展はありません」
 前述したように、青年部活動によって多様な刺激を受け成長してきた。何よりも『挑戦する』ことを大事にしてきた。入会前は面倒なことはやらない、頭ごなしに否定する、俯瞰して見ることはしない、挑戦しない、そんな自身であったと振り返る。だから今、会長としての決意は以前の自分を振り返り、かつての自分と同じような道は歩かないで欲しいという想いからの言葉である。そして会長の使命として、発足60周年を目前に控えた歴史に敬意を払いつつ、先人に負けぬ情熱を持って時代にあった形で試行錯誤と検証を繰り返し、全ての仲間と共に青年部を作り上げていくことを誓う。 
 「出来ることをしての成功は、意味があるでしょうか?社業であれば良いかもしれませんが、青年部では挑戦し続けて欲しいと思っています。挑戦して失敗しても、そこから生まれるものはあるはずです。その気持ちから、令和5年度スローガンは『トライアル・アンド・エラー~確かなつみ上げを次代へ~』です。余談ですか、妻の名前は『なつみ』です。遊び心と妻への愛情を盛り込んだスローガンで、僕の青年部会長とし
ての挑戦が始まりました」

●ちょっと一息●
 趣味は暴飲暴食と言っても良いほど、食べて飲むのが好きでアルコールのある場所は大好きです(笑)。青年部活動後の懇親会は皆勤賞で、二次会、3次会までお付き合いしています。とは言っても酒の味がしない水のような酒が好きで、アルコール好きというより、宴席が好きですね。一時、懇親会参加のために青年部に入ったのかなと思ったほどです(笑)。
 住んでいる成岩4区の祭りは幼稚園の年長さんくらいからやっています。今まで色々な人にお世話になり、今は子どもたちに楽しんでもらえるような機会を作る世代になりました。人の人生は『恩送り』と実感しています。 

1980年半田市生まれ、在住。2000年名古屋学院大学経営経済学部中退。07年家業、(有)鈴木製作所に入社し19年に現職。2015年青年部入会。16年サンタクロース委員会委員長、その後副会長や専務理事を経て、令和5年度青年部会長。 



プラス思考で目標を持って

2023年3月30日(木)

東邦ガスネットワーク株式会社 広域導管部 次長 法元 智至氏

1964年名古屋市生まれ、日進市在住。87年立命館大学卒業。同年東邦ガス入社。5年間の選手生活を終えリビング営業部、東邦インベストメントサービス㈱出向(現東邦総合サービス)、人事部(硬式野球部監督)、瀬戸営業所長、東海営業所長、三重支社長付等を経て、2022年現職。当所議員。  

 氏を語る時、その野球人生をおいて語ることは不可能であろう。プロ野球選手のご子息は、(父君は法元英明氏/元中日ドラゴンズ選手、同2軍監督、同スカウト)生まれて間もない頃、当時後楽園球場で行われた巨人対中日戦でセンターを守っていた父英明氏が王選手の右中間の打球をフェンスへ頭部激突しながら好捕。しかし丸二日意識不明になった話を聞き(事なきを得たが)、「野球は怖いからぼくはやらない!」と幼少時言っていたようだが、近くの公園での遊びの野球に夢中になったのがきっかけで中学から本格的に始めた。  
 「家に飾ってあった甲子園の大観衆でプレーする父の高校時代の写真を見て、ぼくもあの聖地に行きたい!といつしか強く思うようになりました。高校は甲子園常連校よりも常連校を倒して甲子園に出たい!長い物に巻かれるのが嫌い、弱者が強い者を倒すことが私のロマン。愛知高校へ入学して甲子園に出ることを目指しました」   
 2学年先輩と1学年後輩(元中日の彦野利勝選手ら)は甲子園の土を踏んだが、氏の世代は出場という夢はあと一歩叶わなかった(同学年には名古屋電気高校(現愛工大名電)の工藤公康選手、大府高校の槙原寛己選手らがいた)。そして、甲子園に行けなかった悔しさから、大学野球でもうひと花咲かせたいと、立命館大学に入学した。
 「3年間はBチームで鳴かず飛ばず、大学ラストイヤーにやっとレギュラー獲得。1986年の関西学生野球春季リーグ戦では、甲子園出場のスタープレーヤーが率いる他の大学を押し退け(1学年後輩には元ヤクルトの古田敦也選手がいた)大学史上初のリーグ春秋連覇を成し遂げ、大学野球の聖地である明治神宮球場に春秋連続出場しました。リーグのベストナインのタイトル受賞や関西学生選抜チームの一員として台湾遠征メンバーに選出されるなどの活躍を評価され、翌年野球で東邦ガスに入社しました」  
 それまで東邦ガス硬式野球部は全国大会には無縁のチーム。都市対抗は戦前から出場なし。あくまで社業重視で特別、野球に力を入れていない会社であった。5年間の選手時代は、全国舞台に出場する機会もなく達成感もないまま引退。社業専念となり3年後再びコーチ、退任後8年間社業専念後に監督就任と指導者含め計10年ほど野球に真剣に向き合ってきた。2003年、61年ぶりに都市対抗野球大会に出場時は一社員としてスタンドで選 手の活躍を見守ったが、社命により2004年の7月に監督として現場へ復帰。アマチュア野球の最高峰の大会である都市対抗野球大会に就任1年目で出場を果たし、翌年には社会人野球日本選手権大会へ創部以来の初出場へ導いた。野球と社業との間を行き来するのは苦難もあったが、与えられた場所で頑張ってきただけと振り返る。  
 「仕事が分かりだした時に野球に戻れということもありましたが、社業専念の経験が指導者として必ず役立つとお受けしました。チーフ、課長と責任のある役職を務めた経験を通して人の力を最大限発揮させることや、埋もれている人が考え方一つで組織の力となることなど学びました。もともとうまくいかないと弱気で悲観的思考になりがちだった私は、いつしかプラス思考が醸成されました。会社で仕事を叩き込まれ、会社が私を作り、私を変えてくれたのでしょうね。そういった職場での経験、具体的には不可能を可能にすることを求められるのは当たり前、無理と判断し逃げてしまえば、その時点でゲームセット!勝つためには失敗を恐れずに前に出続けるしかない!だめならやり返すだけだ!という強い信念を身に着けたことが監督時代、全国大会出場経験のほとんどないチームを全国の舞台へ導けたと思っています。本当は日本一を目標にしていましたから不完全燃焼ですがね。(笑)」
 昨年4月1日、同社はガス事業法により分社化し、東邦ガスの一般ガス導管事業等を承継し設立され、現職に就いた。社名は導管網を意味する『ネットワーク』とし、新たな仕組み作りを担う。営業畑を歩き様々な地域の現場を熟知している氏に、その責務が任され奮闘する毎日が始まった。  
 「東邦ガスは昨年創立100周年を迎え、先人が築いてきたお客様や協力会社との信頼関係があります。それをより強固にするのが私の役割だと思っています。新しいことを行おうとするとスムーズに進まないことはありますが、そこからどうするか?それが仕事の基本だと考えています。できないと結論付けるのはできるだけ遅く、最善の努力をしているか?全力を出し切っていないのではないか?自身に常に問いかけ粘ってしぶとく取り組めば、多少なりとも結果は変わってくると思っています。仕事も野球と一緒で、簡単に諦めないこと。目標を目指して向かって行くことが大切だと思っています。後世に引き継げられる仕事をしていきたいと思っています」
 野球選手を引退して間もない頃、全てが思うようにならない時があり、ちらっと退職も考えたことがあった。悩んだ時、尊敬し兄とも慕う牛島和彦氏(浪商-中日-千葉ロッテ-横浜元監督)にこう言われた。『辞めたいなら辞めればいいよ。でもな、辞めますと言って、会社の偉い人に引き留められるか?問題はそこや!どうぞお辞めくださいと言われないか?引きとめられるくらい大きな仕事して辞めたら次はあるけど今の自分はすんなりどうぞ!かもしれん。それはカッコ悪いな』と。その一言で踏みとどまった。以後、しっかり足跡を残し、辞める時はカッコよくと決心した。気づいたら1年後に定年を迎え、一区切りの年となる。

 
ちょっと一息
東邦ガス野球部の監督を退任したあと、長男が中学硬式野球チーム『SASUKE名古屋ヤング』で野球を始め、その時から今でも休日はコーチとして指導をしています。就任当時は弱小チームでしたが、2019年夏には全国大会で優勝しました。子どもたちの将来が甲子園やその先の野球人生で活躍することはうれしいことです。しかし野球が上手ければそれでいいのではなく、野球を一生懸命に頑張ったことが将来の素晴らしい人生に繋がってくれることが最も大事だと考えています。私は野球をして来たからこそ今がありますが、野球が全てではない。野球を通じて学んだことが大事なことで人としてしっかり生きていってほしい。そのことを子どもたちには伝えています。 
 現役選手を引退した数十年前、暴飲暴食を繰り返し、もう引退したんだから運動なんかするのはうんざり、階段を使わず、50m先の自販機まで車で行く始末でした(笑)。その結果3年で20kg太り、30代前半で無呼吸症候群、息も途切れ死にそうになり、それをきっかけに自宅でエアロバイクを始めました。結果はてきめんで1年で13kg減量成功。あの時エアロバイクを始めてなければ今頃生きていたかどうかもわかりません(笑)飲み食いが大好きなので油断すれば直ぐに増量してしまいます。今もエアロバイクで体重維持と老化防止に努めています。余談ですが、今年明け早々、娘が出産しおじいちゃん1年生になりました。もう少し長生きしないといけませんので(笑)。



地産地消で地域発展を

2023年1月30日(月)

半田商工会議所副会頭 知多信用金庫 理事長 間瀬 朱実氏

 金融機関は午後3時で閉店する、早く帰れるだろうと入庫した。その期待は当たり前のように外れ、当時は残業続きで大晦日まで仕事という激務の連続だった。入庫して38年、昨年6月の知多信用金庫総代会で理事長に就任した。同金庫のトップ交代は5年ぶり、齋藤前理事長(現会長)は氏を10人の役員の中から選任した折り『当金庫をよくしてくれる、職員のためによく動いてくれるだろう、そういう思いが伝わって来た人』と述べている。この38年は自分を磨き、同金庫のために尽力した年月だった。
 「入庫後は本店営業課(場所は現栄町支店)に配属され、定期積金の集金をするのが主な仕事でした。毎日コツコツとやれば結果は出る、積み重ねが大切と信じていますので、他の人がお客様を1回訪問すれば、私は2回、3回と足で稼いできました」
 まさに努力の人だった。入庫志望からは想像出来ない激変を遂げたのは、大きな二つの出来事から体得したことだった。入庫早々、某事業所オーナーに『期限の利益について述べよ』と問われた。何を言っているか分からず、勉強しなければ答えられないと感じ、自宅で机に向かう日々が始まった。今でもその姿勢を貫き、書物と向き合う。二つ目は結婚してすぐ、緒川支(東浦町)時代にそれを体験した。
 「年が明けての初出勤日、1月4日のことでした。体調を崩した出産間近の妻と連絡が取れず、胸騒ぎがして帰宅すると妻が倒れていて、その日から1ヶ月半くらい看病のため欠勤しました。その事情を知ったお客様は「間瀬くんが可愛そう」と、私が働く支店に定期預金を移して下さるなどして預金額が全店で1番になったほど。多くの方から温かいお気持ちをいただきました。その時から家族は一番大切、家族のために働こう、仕事を頑張ろうと決心しました」
 同僚も氏の担当地区の集金を助け、当時の支店長も休むことを快諾し、周囲の思いやりに包まれての期間だった。職場のチームワークが良く、支店長(榊原康弘当所前会頭)の下、『全店1番の店』を目指して、全職員が前を向いた。夜中の11時にもお客様の家を訪問することも当たり前で、誰もが一心に働いた。その当時の同僚たちは今では同金庫の役員に何人かはなり、現職となった氏の相談相手でもあり、良き仲間でもあるようだ。
 「辛いことが沢山あったと思いますが、それを忘れてしまうほど楽しいことがいっぱいありました。正月には榊原支店長の家に行き、酒を飲みながら麻雀をし、仕事も楽しかったですね。資格取得を奨励されていましたので、銀行業務検定試験、ファイナンシャルプランナー等は取得しましたが、金庫のためと昇進思考はなく無欲で働きました。支店長時代は、部下が将来を描けるような金庫にするために、部下との会話を大切にし、汗をかき、知恵を絞ってきました」
 同時に『あなた』と呼ぶより『名前』で呼ぶことが大切と、常務時代までは全職員630名の名前を把握していた。それも部下を思う気持ちの表れであろう。理事長就任は60歳を迎えた時だった。県内15信用金庫中で同い年の理事長は3名。若き理事長としての期待は大きい。同金庫が目指す『全員営業体制』の実現に取り組んだ。顧客先を回る営業マンだけでなく、店頭、後ろに控える事務職、全職員がお客様を気持ちよくお迎えし、お帰りいただくことが一番の営業であると語る。そのために挨拶の励行を図り、同時に報告、連絡、相談の重要性も説く。そして公序良俗に反する行動はせず、人格を高め爽やかであれと職員に望む。昨年10月には5年後に迎える創立100周年に向けて委員会を立ち上げ、地元になくてはならない信用金庫となる5年間とすることを誓った。
 「face to faceの接点を充分に活かしながら、時代に応じた機械化・IT化で生産性・効率性を上げるために昨年9月にデジタルチームを新設し、相続対応も視野に入れました。また知多半島においても重要課題であるカーボンニュートラルの勉強会を始めました。課題山積の中でのスタートですが、色々な方との出会いを楽しみながら情報収集をしていこうと思っています。出来ることがあれば何でも手がけていこうと思います。また、私は地元亀崎で生まれ育ち、地元への熱い想いがあります。地元の皆さんと一緒に歴史・文化等を含めた『地産地消』を考えながら、地元発展に貢献したいと考えています。当金庫建設時も全て地元の方々にお世話になってきました」
 この38年間、『お・い・あ・く・ま』を戒めとして心に記してきた。『世界の盗塁王』と称された元プロ野球選手の福本豊氏の人生訓であり、『おこるな、いばるな、あせるな、くさるな、まけるな』の頭文字から抜粋した言葉である。楽しいことがいっぱいで、辛いことは忘れてしまったと
語るが、『おいあくま』を密かに心に刻むほど、様々な場面を経験し克服して、楽しさに変えてきたのかもしれない。まさに努力の人であり、決心した道を歩み続ける人である。

●ちょっと一息●
半田商工会議所副会頭の話をいただいたのは、当金庫の理事長に就任してすぐのことでした。荷の重さに躊躇しましたが、他の役員と相談の上、その重責をお引き受けすることにしました。中埜・水野両副会頭にお教えいただきながら、松石会頭の黒子となり務めていきたいと考えています。地元金融機関の使命として、半田発展のための雇用創出、新
規事業者の起業を応援していきたいと思っています。
 私が生きていく上で家族の存在は絶対です。理解ある夫、子煩悩な父親として過ごしてきたつもりです。行動は家族単位、土曜日は妻のお供で買い物、娘3人からは除け者にされることなく(笑)、いつも誘われていました。スポンサー目的かもしれませんね(笑)。妻の誕生日は忘れても、私には娘たちからプレゼントが届いていました。それは自慢です(笑)。今は孫と一緒に過ごすのが1番の楽しみで、半月に満たない孫をお風呂に入れるのも上手になりました(笑)。

1961年半田市亀崎生まれ、在住。84年愛知学院大学商学部商学科卒業。同年知多信用金庫入庫。本店営業課でスタートを切り、横須賀支店長、本店営業部長、営業統括部長、常務理事、専務理事等を経て2022年現職。2019年当所金融部会長、22年当所副会頭就任。