

2026年6月1日(月)
子どもの頃、科学雑誌や理科の実験に興味を持ち、つくば万博で見た科学技術に感動し、それに関連するような仕事に就けたらと望んだ。大学院修了時、メーカーの研究所に就職する同級生も多くいたが、学んだことで社会の基盤を支える仕事をしたいと同社に入社、岐阜支店岐阜電力センターに配属となった。
「最初の2年間は町中や山間部に建つ鉄塔の点検などの保守業務、その後の2年間は送電線の設計・工事業務に従事し、現場の基礎を学びました。まちの発展に必要な電力を送ることのできる送電線を建設するのですが、設計では送電線の太さ、鉄塔の高さや強度、基礎の大きさや敷地面積、そして予算を決めていきます。その後、行政との調整や工事業者を選定し施工管理を行います。岐阜では2件の工事を完工し貴重な経験ができました。仕事は、現状を把握し、計画を立て、周りの人の協力を得ながら調整をし、ゴールに向かって進むスタイルが基本です。入社して3年目の私に、ものを造ることを通して仕事の進め方を教えてくれた上司と出会えたことは幸運だったと感謝しています。同時に、形として残る仕事は印象深いものです」
その後、工務部では送電線の研究(風圧に耐える特殊な電線の開発等)、送電業務の指針や手引の作成(電線に流せる電流の容量の決定等)に関わった。原価グループでは電気料金の算定業務に従事し、国への申請にあたり霞ヶ関の経済産業省に『なぜ、原価がこうなった?』と問われた時に妥当性を説明した。そして東京支社では、災害時の停電の復旧計画を求められた時に、作業工程を具体的に説明した。大学で学び、現場・技術系畑で働いてきた知識やスキル、経験が活きた。
「私もそうですが、とかく技術者は自分の発言が正しいと思いがちです。しかし、誰もが一生懸命頑張り、色んな考えや想いを持って仕事をしています。ですので、人と接する時は相手の話を良く聴くように努めています。三重で初めて組織の長になった当初は、他グループから質問されると、つい自分が動いて対応してしまっていました。ずっと担当でいたので、その癖が抜けなくて(笑)。部下の能力や性格、適性に応じた役割があり想いがあると反省し、聴くことの大切さを実感しました。また、私
が入社数年で鉄塔を建てたのは自分だけの力ではなく、未熟な私を上司がしっかりフォローしてくれたおかげでした。私も部下には、上司がしてくれたように部下の将来を考え責任感を持って臨んできたつもりです」
入社して30年余が過ぎた。その間様々な仕事に携わったが、2021 年11月に制定した『中部電力グループ経営ビジョン2.0』を一番印象深い仕事として挙げる。2050年の社会像を見据えて、想定されるエネルギー・環境政策、経済、社会、技術の変化に向けて、持続的な成長を実現するための取り組みを具体的に表し、同社の目指す姿を示している。安心・安全、脱炭素、分散・循環型社会に挑戦し、『社会の基盤を支えたい』という入社動機の熱い想いも込められている。
「今まで私が経験してきた全てを踏まえて記してきました。ビジョンのような夢のある目標は簡単には達成できませんが、背伸びすれば手が届くような、ストレッチゾーンの目標に向かって努力することで近づけると思います。頑張って挑戦し不可能と思っていたことも可能になれば、それぞれの成長にも繋がります。形に拘る方ではありませんが、ビジョンが明確になれば仕事がし易くなり、みんなと一緒に一つずつ形にしていくことは嬉しく、やり甲斐もあります」
2020年に送配電事業会社として中部電力㈱から分社化した中部電力パワーグリッド㈱の半田支社長に着任し1年が過ぎた。エリアとする知多半島、名古屋市南部は、日本の縮図のような地域だと語る。人口増加のまち・過疎化が進むまちもあり、商業・工業・漁業・農業・空港などあらゆる産業の中で仕事が経験できる、若手にとって最適な支社と評する。新入社員時代に上司から学んだ「安全に安定した電力を送り続けること」、「新たな技術やルールを取り入れ、ワクワクする新しい取り組みに挑戦し、より安全で安価な電力を送ること」、その『不易流行』の精神を社員に引き継ぎ、活躍してくれることを期待し楽しみにして
いる。
「3年前、支店・電力センター・営業所機能を統合した組織改定により、半田支社として生まれ変わりました。送電線・変電所・配電線の計画・建設や維持管理、お客さまへのご対応等、部署毎での仕事ですが、同じ電気を送る仲間が融合して効率化を図り、互いに支え合いながら職務に向き合っていただきたいと思います。そのためには安全・コンプライアンスの徹底、社員の健康を守って、始めてスタートラインに立てます。そこに課題があればなんでも言ってもらえる風通しの良い職場にしていきたいと思っています。全体最適を実現した上で、プラスα の取り組みができればとても嬉しいですね。今までは電力センターでの仕事の記憶から鉄塔に目がいきがちでしたが、今は電柱が気になって、街中でも空を見上げています(笑)」
数年で部署が変わり、常に新しいミッションが与えられた。どんな時も果敢にチャレンジし、社会に貢献できるようにとベストを尽くしてきた。技術開発や工夫により安価で安全・安定・高品質な電気を送り、社会の基盤を支えたいという想いは、入社したその日から変わらない。
●ちょっと一息●
19年前から大府に住んでいますが、知多半島を訪れたのは海水浴や魚の美味しい海辺のまちで、半田には目が向いていませんでした。実際来てみると歴史と伝統があり、住んでいる人も自分のまちが好きで、私の故郷、桑名と似通った点が多く、懐かしく大好きなまちになりました。ゴールデンウィークにロータリー仲間から誘われた『亀崎潮干祭』は、地域の繋がりを強く感じ、その勇壮華麗さに魅せられて、半田の素晴らしさを再認識しました。
好きな技術、理系に進んだものの、なぜか良い点が取れたのは国語や世界史で、歴史小説を読むのが好きです。小学校の頃の『三国志』に始まり、司馬遼太郎の『坂の上の雲』、社会に出てからは塩野七生の『ローマ人の物語』や宮城谷昌光の『晏子など数々の歴史小説を夢中になって読破しました。趣味の旅行でその小説の舞台を訪ねることが多く、3年前には会社のリフレッシュ休暇を利用して、『ローマ人の物語』の舞台、イスラエルとスペインを旅しました。マサダの要塞、アルハンブラ宮殿など、その歴史背景を知って行くとまた違った角度から見ることが出来て、旅はより意義深いものになります。自分の住んでいるまちの良さや課題の発見や、自分のことを振り返る機会にもなるので、若い時に旅に出ることをお勧めします。私も旅に出て色々なことを感じてきましたが、もう少し年を重ねてからの旅は家族のためのものにしたいと思います(笑)。それもまた楽しいものでしょうね。
プロフィール:1968年名古屋市生まれ。幼少時知多市に住み、小学校以降は三重県桑名市で暮らし、現在は大府市在住。93年筑波大学大学院理工学研究科修了。同年中部電力㈱入社。岐阜支店岐阜電力センター配属、97年本店工務部技術開発グループ、99年本店工務部送電グループ、2001年本店経営戦略本部原価グループ、05年東京支社、08年三重支店技術部送電課、20年本店経営戦略本部戦略グループ、23年本店技術開発本部技術企画室、25年現職。当所常議員。
2026年6月1日(月)
半田市にある海音。天然酵母パンの店として知られるこの場所で、いま注目を集めているのが「玄米めん」だ。この取り組みの背景にあるのは、「“玄米が好き”というシンプルな想い」。ご夫婦で営む同店の奥様は、そう語る。もともと酵素玄米を練り込んだパンを作ったり、土曜日限定で玄米のお弁当を提供するなど、日常的に玄米を取り入れてきた同店。さらに、美浜町で自然農法による米づくりにも取り組み、食材そのものと向き合う時間を大切にしてきた。
ただ、自ら育てた米は収穫量に限りがある。そこで出会ったのが、「玄米を麺にする」という発想だった。美浜町で育てた米を製麺所で加工し、玄米めんとして届ける。これまでの積み重ねが、新たなかたちへとつながっている。
「玄米の栄養を、もっと手軽に摂ってもらいたくて」。奥様は、そう語る。日々の食事の中で無理なく取り入れられることを大切にしながら、この玄米めんを形にしたという。
販売が始まると、その味わいと希少性から評判が広がり、入荷してもすぐに売り切れてしまうほどの人気となっている。
この玄米めんは、うどんやパスタ、ラーメンなど、さまざまな料理にアレンジできるのも魅力のひとつだ。実際に手に取ってみると、もっちりとした食感と、噛むほどに感じるやさしい風味が印象的で、どんな食べ方でも自然と食卓になじむ一品となっている。
また奥様は、小麦についてもこう話す。「輸入小麦に比べて、国産小麦はグルテン量が少ないといわれています」。半田市には、素材にこだわったパン屋が多く、同店もそのひとつだ。グルテンフリーを意識している人にとっても、日々の選択肢の中で無理なく取り入れられる環境が整っている。
「ずっと我慢するのではなく、時には楽しむことも大切にしてほしい」。そんな想いから、グルテンフリーに取り組む人にとっての“選択肢のひとつ”としても、この店を利用してほしいと話す。
パン屋という枠にとどまらず、日々の食をどう豊かにするか。その積み重ねの中から生まれた玄米めんは、これからの食のあり方をやさしく示しているようにも感じられる。
まだ知らない人がいるなら、ぜひ一度手に取ってみてほしい。海音には、日常の中に無理なく取り入れられる“やさしい選択”がある。 (取材:大岩咲紀)
【住所】半田市清水北町60
【TEL】 0569-22-5530
【定休日】日・月曜日
【営業時間】10:00~18:00(なくなり次第閉店)
土曜日 10:00~16:00
2026年6月1日(月)
石垣などを積む『石積み』を祖父が始めたのは1946年。その後、父が墓石の加工・販売に業務転換して今に至ります。長男の私に「後を継ぐのか?」と聞かれ「やります!」と、その一言で私の人生は決まりました。大学を卒業後、石を卸す商社で石のあれこれを学び、葬儀や仏壇・墓石販売会社で営業マンとして修行し、25歳で当社に入社しました。
父は私のポストとなる、営業部を立ち上げ、2人の社員と手分けして知多半島全域を回る日々が始まりました。葬儀場や葬儀看板(その頃は喪主名、住所が記載されていました)から情報を得て、葬儀が終わって3日後くらいに、そこにお訪ねして墓石のカタログをお渡ししていました。20年ほど前は葬儀後に、仏壇屋や香典返しのためギフト屋さんが訪問することは当たり前の時代でしたが、玄関先の呼び鈴を押す時はドキドキでした。修業時代の先輩はお客様の気持ちを第一に考えていました。そこで学んだことが、私の営業の基礎になっています。「イメージ通りのお墓が出来た」と言われることや、お礼の手紙をいただくことは、嬉しくやりがいを感じる時です。
当社(本店)は墓地(市営北谷墓地)の近くにあり、亀崎・知北(東浦)支店も同様で「墓地の近くにあればお墓が必要になった時に気づいてもらえる」という父の考えです。また、父の代から日本で育ち産出された『国産墓石』を使用しています。風土に合うため耐久性も優れており、最後に入る所は日本の石で出来たお墓の方が安らぐだろうと仰る方もいらっしゃいます。存命中に子どもたちに負担をかけたくないと、自分や家族のためのお墓、寿陵墓(じゅりょうぼ)を建てられるケースは、近年増加傾向にあります(長寿や子孫繁栄を願う縁起の良いお墓とされます)。また、デザイン墓石とか洋碑と呼ばれている、欧米風の墓石も人気を集めています。石やデザインに懲り、刻む文字も『絆、心、空、ありがとう』など、その方の想いが込められています。墓石を作る機械の開発や研磨加工などに必要不可欠な技術力の向上によって、よりご希望に併せて作製することが可能です。当社は職人の手により、真心込めて丁寧な作業でお墓作りをしています。
お墓を取り巻く諸事情も変化し、当社の事業内容もお墓参り代行、お墓の掃除、墓石クリーニング・リフォーム、除草作業、防草施工など多様化しています。墓石を隅々まで知り尽くしたプロの手で作業しますので、お墓のことなら何でも安心してお任せください。5月9日からは、仏花の販売も始めています。また、5月30日から6月30日まで『墓石ご相談会』を開催します。お墓開きは祝い事と言います。お気軽にいらしてください(本誌、裏面広告をご覧ください)
『石に触れていただきたい』という想いで、『はんだふれあい産業まつり(所属する青年部ブースで子ども向けに実施)』の他、会議所主催の『はんだオープンファクトリー』、『HANDA NOBEL』で、お墓に文字を刻む技術を活かして、サンドブラストのワークショップを開催しました。当社では15センチ角の研磨した黒い石の板に砂を高速噴射し表面を削って洗浄・研磨・装飾して作品として完成させます。カッターを使用するため、小学校高学年以上のお子さんが対象となりますが、親子連れ、大人の方など多くの方々に参加いただきました。表札にされる方、オブジェとして家に飾られる方様々ですが、完成した作品を嬉しそうに抱えて持って帰られる姿を見ると、開催して良かったと思える瞬間です。これからも色々なイベントに参加し、多くの皆さんに石に触れて、石の魅力を体感していただきたいと願っています。
父が急逝して私が後を継いだのは29歳の時で、もう17年経ちました。お墓事情も時代に応じて様々な変化をしてきましたが、特に近年は激変しています。入社した20年ほど前には半田市近隣では市営墓地が足らなくて、抽選だった時もあったようで、『墓じまい』という言葉を聞く時代が到来するなんて想像も出来ませんでした。納骨をせず、手元に置いておきたいと仰る方もいらっしゃいます。その気持ちは分かりますが、お墓を建て納骨することは一つの区切りであり、新たに出発する時だと考えています。亡くなった方の居場所となり、残されたご家族が何年もお参りを続け、拠り所になるお墓を建てることに携わる仕事は私の誇りです。これからも葬祭墓石ディレクターとして、皆さんに喜んでいただけるようなお墓を建てていきたいと思います。
奥様の亜由美さん(取締役)
主人と義母と私、3人で仕事に携わり、主人は営業と墓石の設置、義母は経理全般、私は墓石や花立てに刻む花のデザインを担当しています。以前は蓮や菊が一般的でしたが、今は桜、鈴蘭、向日葵など、故人のお好きな花を要望される方が多くなってきました。私も提案させていただきながら、よりお客様のお気持ちに沿うよう努めています。
「介護生活は大変でした」「こんな辛かった思い出があるのよ」と故人とのお話しをされる方がいらっしゃいます。私は耳を傾けることしか出来ませんが、いつかそういうお話を、笑い話として語っていただける日が来ることをお祈りしながら、皆さんの想いが多く詰まったお墓になるようお手伝いをしています。
■ 半田市柊町2-66-1
■ 営業時間/9:00~17:00(全店)
■ 定休日/木曜日(知北支店のみ営業)
■ TEL/0569ー22ー2884㈲丸山石材店HP
2026年5月7日(木)
■全国へ価値を届ける贈答品店への進化
半田市で歴史を重ねた果物店が、従来のあり方を一新し、贈答品専門店として生まれ変わりました。「私たちは果物を売りません。『想いの形』をお届けします」。新たな歩みを始めた同店の目指す姿を、代表の東哲也氏はこの言葉に凝縮させています 。
■徹底した「差別化」と「本質」へのこだわり
現在、日常的な果物はスーパーやコンビニエンスストアでも手軽に手に入るようになりました。そうした時代の流れの中で、東氏が導き出した答えは、徹底的な「高級贈答品」への特化です。カミヤが取り扱う果物は、市場でも最高級とされる「特選」や「秀」といった等級の中でも、さらに選び抜かれたものばかりです。しかし、東氏は「高い仕入れ値の、美味しいフルーツを並べるだけでは不十分だ」と断言します。
「私たちが目指しているのは百貨店レベル、あるいはそれを超える品質です。贈った方が誇らしく思え、受け取った方が驚き、感動する。その体験こそが、私たちが提供する価値なのです」
■細部に宿る「おもてなし」の精神
そのこだわりは、果物そのものに留まらず、包装や演出の隅々にまで及んでいます。店内を覗くと、そこには従来の果物店のイメージを覆す光景が広がっています。
一つひとつ丁寧にラッピングされたリンゴ、高級和菓子を思わせる趣のある仕立て、そして重厚感のあるオリジナルの木箱。リボン一つ、シールの位置一つに至るまで、スタッフ全員が「どうすれば贈り主の気持ちがより美しく伝わるか」を試行錯誤し、磨き上げています。
例えば、スイカ一玉であっても、カミヤの手にかかれば芸術品のような装いへと変わります。こうした徹底的なこだわりが実を結び、かつては三越などの高級百貨店で購入されていたお客様が、今ではカミヤを選んでくださるようになっています。
■半田から全国へ。広がる「カミヤ」の価値
202525年12月の移転・再始動以来、カミヤは日々進化を続けています。店舗での対面販売に加え、現在はオンラインストアの構築も進めており、半田の地から全国の法人・個人のお客様へ、その価値を届ける準備を整えています。また、地域との繋がりも大切にしており、2026年4月からは半田市の婚姻届提出者に贈られる結婚祝品(カタログギフト)にも参画しています。人生の門出という最も大切な場面で選ばれる店でありたい。そんな願いが、着実に形になりつつあります。
「昨日と同じことをしていては、成長はありません。毎日変化し、進化し続けることでしか、お客様の期待を超えることはできない」と語る東氏。「果実ギフト専門店 カミヤ」が届けるのは、旬の香りと共に、言葉では言い尽くせない感謝や敬意といった「目に見えない想い」です。大切な誰かを想うとき、真っ先に顔が浮かぶ場所。そんな究極の贈答品店を目指し、カミヤの挑戦はこれからも続いていきます。 (取材:藤井悠美)
【住所】半田市宮本町6-213-1
【代表】東 哲也
【営業時間】10:00~18:00
【TEL】23-1318
【定休日】不定休
2026年5月7日(木)
交通・運送・不動産・レジャー・流通産業など多角的な企業展開に関心を持ち、1989年名鉄グループの中核的企業の名古屋鉄道㈱に入社。大学で専攻した地球物理学関連の就職を視野に入れたこともあったが、考えた末に、地元、名古屋で社会人の第一歩を踏み出した。
「乗り物が好きだから鉄道会社という思いもありました。当時の研修期間は3年間、新岐阜駅(現名鉄岐阜駅)で駅員としてスタートし、車掌、サービスエリアのレストランや旅行センター勤務などであっという間に1年は過ぎて行きました。それまでの“2年目から関連会社へ研修出向”という流れから、助役として駅勤務というコースも始まっており、新一宮駅(現名鉄一宮駅)で助役として勤務しました。当時の一宮駅は名鉄とJRの共同使用駅であり、出札・改札業務が複雑で、多くのJRの駅名や運賃制度、切符の種類を覚えるなど苦労もありました。その上、駅長の代理を勤める職務に向き合うことは大変でしたが、若くて多少の徹夜くらいは平気であり、非番の日にはそのまま駅の人たちと色々な所に遊びに行き、楽しい時代でもありました」
1992年鉄道事業本部(本社)に異動し、その業務は運輸省(現国土交通省)の窓口のような役割もあり、国会が始まれば、運輸省からの質問に対応するため夜中の2時、3時まで電話の前で待機も多くあった。他にも、いざ運賃改定業務が始まると、その状態が半年以上続くこともあった。その後、名鉄全体の予算編成や実績の分析など、多くの部署の勘定科目ごとに分析・把握する業務に就いた。ありがたいことに理系出身でもあり、数字や分析に関する関数に対する大きな拒否感もなく、当時、普及途上であったコンピュータも学生時代から使っていたこともあり、その経験に大変助けられた感もあったと語る。
「その後のICカードmanaca(マナカ)の導入も印象深く残っています。名古屋市との共同開発の窓口、ICカード発行会社(現㈱エムアイシー:旧名鉄ICカード㈱)の立ち上げ・登記といった業務も担当しました。知らないことばかりで、夜間、資料に「なんだ、これ?」という部分を見つけるたびに、翌日の朝一番で公証役場、東海財務局などに顔を出したりしていました。その後、当地域内のICカードとの相互利用サービスを開始するために調整・協議の相手は広がり、更に全国相互へと拡大していきました。manacaは後発だったために、やり甲斐というより、考える間もなく追われるまま、全国の流れに付いていくことで必死でした。それまで限られたエリアの仕事が多かったのですが、付き合いの範囲は仕事の拡がりと比例して全国に広がりました。ここで多人数での調整というものも経験することになりました。普段は友好的なお付き合いも会議では忖度なく、「沈黙はYES」を体感しました。100人ほどが一堂に会することもあり、課題解決は早いのですが、『NO』ははっきり言うべき、代表として会議に出席する責任を再認識しました」
2012年に名鉄バス㈱に出向。以降、予算・企画・運行と幅広く関わり、安全統括管理者の責務も負った。当時、地域公共交通会議が制度化されて間もない時期で、構成員となる地方公共団体、学識経験者、住民代表等と直接協議する場に、公共交通事業者として参加したことは、大きな財産になった。現在も半田市地域公共交通会議の委員として、住民生活に必要な輸送の維持・確保、公共交通の利便性増進のために尽力する。
「現職に就いてこの6月で1年になります。現時点で知多バス運行路線をすべて乗っているとは言えず、範囲を知多半島に広げると、恥ずかしながらまだまだです。会社の状況はと言えば、当然ながら、ドライバー不足は一番の問題です。路線や運行本数を維持することに苦労している中、お客様の要望にどう応えていくのかは大きな課題です。コミュニティバスのエリア増や増便のご要望にも応えきれていないのが実情で申し訳なく思っています。また、近年は貸切バスでの遠足も少なくなり、バスで出かけるという選択肢を持たない方も増えていると感じています。まずは、子どもさんにバスの中に足を踏み入れていただくのは大切なことと考えています。色々な知多半島中のイベント等でも、ご協力出来たらと考えています」
これまでの多くの人々との出会いは財産であるが、それぞれの局面でのふるまいは百人百様である。当たり前のことだが、仕事モードの時は、忖度なし、明確な意思表示が必須であると強く経験した。その後は、部下にも同行を求めたり、時には代理としての出席依頼時も、「想定外のことや不明な点があった時、『NO』だけは言ってほしいと伝えていた」と強調する。
「昨年1月末に本社機能をクラシティに移転し、目の前に知多半田駅を眺めることが出来ます。この付近には名鉄グループ企業(名鉄知多タクシー、名鉄イン知多半田駅前)があり、委員としても中心市街地の活性化を心待ちにしています。まちの景観が変われば人の流れも変わってきます。人が動くのは血液が流れるのと同様で、まちにとって重要です。そのためにどうすべきなのか?様々な課題が山積する中で、交通事業者として、その一助となるように切望しています」
目の前の仕事に直向きに取り組むその姿勢は、どんな立場になっても変わらない。
●ちょっと一息●
多くの男の子のように、乗り物が好きということもこの世界に入った一因でもあり、今も乗り物好きです。名鉄バスに携わってから年に1、2回はバスツアーに参加し、関西万博もバスツアーを利用しました。乗っているだけで目的地に連れて行ってくれて、駐車場を探す手間もなく、車内でビールも飲め(笑)、楽です。名古屋から東京までのバス移動も、景色を眺めながら、6時間という時間も何の苦にもなりませんでした。
半田は名鉄主要駅の知多半田駅があり、当社赴任前から数えきれないくらい来ているまちです。今で言う『映える』場所がいっぱいあるまちと感じています。雨上がりの運河沿い倉庫群を見た時はギョッとするくらい綺麗で、感動しました。まずは知多バスが運行するまちをしっかり見たいと歩いています。時間があれば目的地に向けてアプリに身を任せたり、道を一本外したりして歩いています。先日、沿線ではないのですが「上野間から富貴までなら、すぐ着けるだろう」とたかを括って夕方5時くらいから歩き出しました。山の中の道を案内され、スマホの明かりを頼りに歩きながら「この先に道はあるのか?遭難したらどうしよう」とスマホの電池切れを心配しながら、富貴に着いた時は生きた心地がしませんでした。色々な場所を見てみたい、努めて好奇心を持つように心がけています。(写真は好奇心の一環で、遊べるものは触ってしまいます。日間賀島のブランコは対岸まで飛ぼうと漕いだり、LUUP試乗も一番乗り!)
1965年名古屋市生まれ、在住。89年京都大学工学部卒業。同年名古屋鉄道㈱へ入社し、新岐阜駅に配属。92年鉄道事業本部(本社)、2012年名鉄バス㈱課長として出向。部長・取締役・常務を経て、2025年6月現職。半田市地域公共交通会議委員、半田市中心市街地活性化協議会知多半田部会員、半田交通安全協会会長など多数。当所常議員。