半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
全てのトピックス

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
全てのトピックス

この道一筋57年 お茶と茶道具の専門店

2024年7月5日(金)

川一製茶有限会社


「心と緑の知多半島 生物皆家族」。代表の川口宗一さんが大切にされている言葉である。地元のお客様を大切に50年以上小さなお茶メーカーとして営業してきた川一製茶有限会社をご紹介。 
 同社は1967年に川口氏が当時二十歳という若さで奥様と創業された。それまでは他業界の会社に勤めていたが地元の半田にずっと居たいという想いで独立された。創業当時、川口氏は知り合いを中心とした家庭への訪問販売で事業を始めていった。当初の取扱商品は1種類のみであり、原付バイクで移動販売するということが1年程続いたという。
 それからお客様の要望が徐々に増えていき、商品の種類も少しずつ増えていった。販売先は地元の商店や個人スーパーへ拡大し、販売業から卸業へ展開していった。その結果、売上、販売量ともに増加していった。しかし高度経済成長期に伴って大手スーパーが地元へ参入することで商品の卸先が減ってきてしまう。そこで打開策として店舗販売事業が開始される。
 店舗販売をすることにより多くの人と関わりを持つことができるようになり、今では地元の菓子メーカー、学校関係、寺院関係等、多くの取引先ができた。また、茶道の先生とも接点を持つことができ、全知多茶道連盟に加入して知多半島を中心としたお茶会へお茶や茶道具を提供している。
 川口氏は創業当初から今日までのことを振り返ると訪問販売から地道に取り組んできたことが今の糧になっているという。お茶の知識は全く無かったという川口氏は独学でお茶に関する知識を習得していき、茶葉の仕入から加工、ブレンドまでを独自で行っている。一番の人気商品である「熱出し玉露」は、かぶせ茶日本有数の生産地伊勢水沢冠山の里で生まれた最上の荒茶を精
撰仕上げした茶であり、玉露の味と香りを楽しめるのが特徴である。創業当初1種類だった商品も今では関連商品を併せて100種類以上取り扱っている。作業場である事務所はどこか懐かしい雰囲気があり、創業時からご夫婦で積み重ねてきた歴史や趣を感じられた。
 現在は半田市と阿久比町にそれぞれ店舗があり、昨年まで青山にあった店舗「お茶の国」は移転をし、現在は自宅兼店舗「お茶の家」として営業している。お店に訪問した際はいつも抹茶を提供していただき、お店の名の通り自宅のような安心感のある空間となっている。
 最後に川口氏はこの業界の日本文化、伝統の飲み物を大切にして専門店の価値を絶やさず残していきたいという想いとこれまで関わってきた皆様への感謝の想いを語ってくれた。これらの「想い」は冒頭で述べた「心と緑の知多半島 生物皆家族」という言葉に強く込められており、川口氏のお茶と人を大切にする気持ちに感銘を受けた。(取材:中野遥介)
                 
                


〈会社概要〉
【住所】半田市新宮町3-137
   お茶の家:半田市青山4-3-1 
   お茶の川一:知多郡阿久比町卯坂神田9-2
【代表】川口宗一
【創業】昭和42年
【HP】https://tea-kawaichi.jimdofree.com/




踏み出す勇気、豊かさの探究

2024年7月5日(金)

半田市中心市街地活性化市長特任顧問 伊藤 大海 氏

それは『エン転職』から始まった。2021年8月まちづくり業界の仲間から「半田市でこういう募集があるよ。応募してみたら?」と勧められた。半田市役所の副市長級ポジション、副業・テレワーク可能で、中心市街地を活性化させるための政策を立案、実行する仕事であった。まちづくりの第一人者の大学教授によると「行政側の人間として採用することで、市民がまちづくりに関わるためのハードルを下げた」と評価され、その取り組みは画期的だった。恐らく全国初めての試みあり、応募者は233人を数えた。 
 「就職超氷河期世代の僕は最終選考で緊張しすぎて暴言を吐いて、落ちる特技がありました(笑)。今回もどうせ受からないだろうから楽しくやろうと開き直ったら、幸いにも採用いただきました。僕は2015年に大分県竹田市が中心市街地活性化協議会を立ち上げた時に、民間側のタウンマネージャーとして関わりました。行政と地域の間に立ち、活動を支援する中間支援にこだわってきましたが、正論は言えてもアドバイザーである以上は権限もなく、ものを動かすのも難しい立場でした。地域にしっかりと入り込める現場で、まちづくりに関わりたいという想いを強く持っていました」 
 一貫して取り組んできたまちづくりは、小学4年生で母親から勧められた読売新聞社の『ヨミウリ・ジュニアプレス』の活動に端を発した。色々な人と出会い様々な活動に接し、アメリカに派遣された時にケンタッキー州で沈む夕日を見て「ここにいる瞬間にも、色々な生活がある」と目から鱗が落ちた。色々な人がいて様々な活動をしていることに価値があると社会づくりに心を寄せた。また、小学生の頃は戦争と平和について関心が強く、色々調べた沖縄への家族旅行では戦争の歴史に直に触れ、カルチャーショックを受け沖縄で仕事をしたいと、沖縄を研究できる大学に入学した。みんなで幸せに暮らしていく社会を作っていく仕事に就く決心をした。 
 「落ちる特技を発揮し(笑)目指した会社に就職できず、3年間はシステムエンジニアとして働き、その後1年間中小企業大学校で学びました。その大学校は当時、個人での受験はハードルが高く、校長先生に直談判に行きました。それが運命の出会いで、今も校長先生は僕の師匠です。中小企業診断士としての独立は2003年27歳の時です。その時、まちづくりを仕事にしようと思いましたが、「それは仕事にならないから考え直せ」と若造の僕は全く信用されませんでした。そこで、前職のIT企業での経験を活かし、HP作成やIT活用を支援するITコンサルタントという肩書きで先輩方の中に入っていきました。当時、彼らには苦手な新しい領域だったのです。徐々に自分のやりたい方向に持っていこうと試行錯誤して今につなげてきました」 
 独立して10年以内には中心市街地活性化法など国の施策がより本格化されると予測していたが、3年後の2006年に法改正が行われ、一気にまちづくりに関わる人が増えていった。だが若さ故に相手にされず「ダサいスーツを着て、オッサンぽくしていた」と笑う。30歳過ぎて全国各地に仕事に行くようになった時、ベテランコンサルタントから「大海(おおみ)君の話はいつ聞いても楽しいなあ」と言われ、ありのまま、感じたままで仕事をしていくことに自分の価値はあると気づいた。以来普段ではネクタイを絞めず、自分を理解してくれる人、感性を認めてくれる人の中で仕事をしようと決め、気が楽になったと言う。 
 「初めて半田に訪れたのは採用試験を受ける前、2022年の9月でした。駅前は特に特徴もなく駐車場ばかりで、正直に言えば区画整理がうまくいかなかった典型例のようでした。まちづくりが進まない理由の一つに老朽化した建物の林立が挙げられます。その点から見れば駐車場や空き地が多いのは、建物を壊すという手間が省け、いち早く手がけられる利点があります。また、各地でまちづくりが失敗してきたのは『活性化のエンジンがない』という故です。その対策として半田商工会議所、半田市観光協会、半田市が連携し、この5月にエンジンとも言える中心市街地活性化協議会を設立しました。中埜副会頭(中活協会長)に座長になっていただき幾度も会議を重ね、まちの方々にも助けられながら、通常2年ほどの期間を要する所、1年でここまで辿り着きました。ご理解・ご協力に深謝いたします。皆様の地域に対する情熱と危機感を感じています。僕の役割は、地域での幸せを作っていくための仕組みと仕掛けを作ることであり、素晴らしいものを拾い活かし、仲間を増やしていく『まちの再編集』だと思っています」 
 2022年12月の着任以来、名鉄知多半田駅前にベンチ設置、キッチンカー出店、ワークショップなど、『最大限の妄想(最大限の夢を語ることで、本来考えるより少し大きな物事が叶う)を描いて、事例に囚われず自分等で事例を作っていけば良い』と様々な仕掛けをしてきた。久世市長も言われるように、常に100点を目指すと動けなくなる、故に60点以上を目標に走りながら考え続けている。
 「何かしたいと種を持った人が集まったワークショップでは、その種から発生したアイデアが対話の中で化学反応を起こして「一緒にやろうね」と動き始めています。今僕はそういう人たちを集めることに注力しています。『まちづくりは人づくり』であり、人は大切なものをつなぎ新たなものを創造します。その中で行政はその想いを、どう可視化していくか、支援や環境づくりをしていけるのかが必要です。大学時代から『踏み出す勇気、豊かさの探究』を心に記してきました。豊かさはその地域にとっての豊かさを求めていかないと間違った方向に走ってしまうでしょう。物事の見方、背中を押す、手を引っ張る、足は引っ張らない。そういう応援の意味合いからも大切にしている言葉です」

●ちょっと一息●
 半田商業高校で「高校生目線で、まちとどう関わりたいか」をテーマに授業をし、その一環として5月にまち歩きをし、6月に模造紙にその提案を記載。それをクラシティに掲示しようと考えています。そういう風に皆さんが『実行したいこと』があれば、僕たちは応援できます。この秋にネットワークの形成、起業・創業の促進等を図ることを推進するため『半田市創造・連携・実践センター』を設置します。多くの皆さんのご利用をお待ちしています。   
 僕は今、東京都日野市に住みながら半田で月に10日ほど在住という生活をしています。家族は妻と中学2年生の息子で、僕が在宅している方が「手間がかかる」と思われて(笑)半田への出張、大いに喜ばれているようです。ここでの生活は快適ですが、目下の悩みは飲みに誘える人が少ないということです。工業用・医療用アルコール以外はなんでもいける口なんですが(笑)

1976年、佐賀県生まれ東京育ち、東京都日野市在住。98年明治学院大学国際学部国際学科(島嶼(とうしょ)社会研究)卒業。プログラマー、システムエンジニアを経て2001年中小企業大学校東京校中小企業診断士養成課程入校。翌年中小企業診断士 伊藤大海事務所代表(現・まちづくりLand for Next Generation)。国の支援機関等を通し、全国で中心市街地活性化の支援に関わる。15年~18年、大分県竹田市タウンマネージャー。22年現職。 



聴いて、共感して、寄り添う

2024年7月5日(金)

カウンセリングルーム すずらん 伊藤 瑞恵さん

5月1日生まれの私の誕生花「すずらん」の花言葉は『幸せの再来』。その花言葉の通り、人生は何度でもやり直せて、人は何度でも幸せになれると信じています。幸せってなんでしょうか?私は幸せは自分で感じるものであって、日常の些細なこと、当たり前のことを幸せと感じられる感性を持っていることだと考えています。
 私自身、色々な経験をしてきました。ペットを突然亡くし、ペットロスに陥ってしまいました。眠れない、ペットの鳴き声が聞こえるなど、情緒不安定になっていきました。その辛さを体験しているから、ペットロスで苦しむ方の力になりたいと思っています。「お別れから3ヶ月経っても精神的ダメージから抜け出せない場合は、専門家の協力を得てください」と言われています。一つの目安ですが、それよりも知っておいていただきたいのは、ペットはいずれ亡くなってしまうので、大なり小なりペットロスを経験するかもしれないという事です。その覚悟を持っていることで、別れに対する感じ方も大きく変わってきます。また、あなたの近くにペットを亡くして悲しみの中にいらっしゃる方がいらしたら「いつまでも泣いていたらだめだよ」などの慰めの言葉や「私も経験があってね、その時は・」といった、ご自身の経験談を話し始めてはいけません。その言葉をかけられて二重三重に傷付いていく人もいます。ただただ話を聴いて共感してあげてください。それだけで救われる方が多くいらっしゃいます。黙って聴いてくれる人がいる。それが生きる力になります。
 長期の悲嘆にくれ、体調を悪くし、最悪の場合には人生を棒に振ってしまうケースもあるようです。重篤なペットロスになってしまう前に立ち直り、ペットとの楽しかった思い出を生きる力に変えていっていただけるような、カウンセリングを提供したいと思っています。
 「幸せになるお手伝いをしたい」と思ったのは10代後半でした。心を癒す仕事をされている精神対話士の活動をテレビで見て「有意義な仕事、いつかやってみたい」と衝撃を受けました。社会人になり、母になり、その時の思いは遠い記憶になったまま過ごしていたある時、私自身の怠慢や人間関係のトラブルで経営していた事業を廃業しました。好きで始めた仕事を失い人としても未熟だと気付いた時、人生終わった、生きている価値もないと絶望しました。それまで友人だと思っていた人達は離れていき、もう駄目だと覚悟を決めた時「一人だけでも信じてくれる人がいれば、最悪の状態にはならないでしょう」と寄り添ってくれる友人がいたんです。その言葉に心を打たれ、10代の頃の映像や想いが甦ってきて、カウンセラーを目指しました。
 コネクションも、経験も少ない中で2017年5月1日に創業し、昨年に現在地に移転しました。最初の頃は1回のセッションが終わると疲労困憊してしまい、1時間くらいは動けない状態でした。お客様の人生に感情移入してしまって疲れてしまうんですね。カウンセラー仲間や先輩方の力を借りながら、その感情がコントロールできるようになったのは、5、6年経ってから
です。経験を重ねて癒す力が養われてきたと実感しています。
 現在は箱庭療法心理セラピストを養成する講師や、安定した心を育てるためのトレーニングプログラムのご提供もしています。周りの目ばかり気にして何もできなくなったり、落ち込んでしまい心が揺さぶられ不安定になられる方がいらっしゃいます。そういう方は総じて生き辛さを抱えていらっしゃるのではないでしょうか。自分に向き合い、自分を客観的に見ることができれば、ちょっとやそっとのことで心は揺らぐことはなく、自分らしく前向きに生きていけると思っています。そういう心を育てるためのプログラムです。(期間:6ヶ月)
 経営理念は「一人ひとりの力を信じ、共に歩み、強く背中を押す存在であること」そのためには私自身のメンタルも整えることが必要であり、公私をきっちり分けることが大切です。仕事を頑張れば頑張るほど、プライベートも全力で愉しもうという意識が強くなってきました。そういうバランスを取っていないと自分を保つことが難しいような気がしています。
 1人の友人が生きる力をくれたように、私はあなたが前を向いて自分の脚で歩き出せるまで見守ります。
 大丈夫、あなたは一人じゃない!

■ 半田市岩滑高山町7‒42‒1
■ 営業時間/月曜~金曜:9:00~19:00 土曜・日曜:9:00~16:00 完全予約制
■ 休日/祝日 定休日・時間外での対応はご相談ください
■ 資格/キャリアコンサルタント  心理カウンセラー(日本次世代育成支援協会)
箱庭心理セラピスト養成講師(日本箱庭療法研究会)



歴史ともてなしが味わえる

2024年6月3日(月)

合同会社 うさぎ屋

半田市の紺屋海道沿いに位置する一軒の古民家。歴史ある町並みに溶け込み、地域の人々に愛されるこの和食会席料理店が今回ご紹介する「うさぎ屋」である。
 現在の同社は明治時代から続くこの地で、落ち着いた雰囲気のなか地元の食材を活かした料理を提供してくれる。また、古民家を活かした空間で、季節の移ろいを感じながら、心温まるもてなしと共に、記憶に残るひとときを過ごすことができる。まず初めに、「うさぎ屋」を営むに至った歴史を前代表の榊原富太郎氏と、現代表の姉である亜美氏に話を伺った。
 平成16年に創業した「うさぎ屋」は、現在の和食会席料理店としての顔を持つ前に、平成12年から現在営業している母屋の奥にある蔵にて、現代表の母が「ギャラリーはなくら」という喫茶店とギャラリーを経営し始めた。そのときは、三段弁当や軽食などを提供していた。そして、母屋を2年間貸し出した後に、平成16年から「うさぎ屋」として飲食業への道を歩み始めた。この飲食業への本格的な転身は、喫茶店を運営していた経験を活かす結果となった。
 同社の魅力の1つが明治34年に着工し、翌年に完成した母屋である。濃尾地震や三河地震、伊勢湾台風を経験しながらも、現在も明治の遺構を色濃く残している。また、庭から見える景色は明治の時と変わらず、春なら椿や桜、秋なら彼岸花などの四季折々の植物がお客様を出迎えてくれる場となっている。他にも、大正時代に造られた電話部屋など多くの見どころがある。
 また、食器に対するこだわりも「うさぎ屋」を語る上で欠かせないものだろう。現代表の母は、上記に述べたギャラリーを営
んでいたときから器や骨董品を収集していたそうだ。季節に合わせた食器(例えば3月はひな祭り、5月は五月人形など)や、うさぎをモチーフにした器などを集めており、中には独自に作ってもらった器もあるとのこと。そのため、「うさぎ屋」で食事をもてなす折には、食事だけでなく、視覚的な楽しみも提供してくれるだろう。ぜひ来店したときには、料理を載せている器にも注
目してみてはどうだろうか。
 両氏は、「この店をお客様と長く付き合える店にしたい」とおっしゃった。コロナ禍以前は宴会で利用されることが多かったが、コロナ禍以後は還暦や米寿のお祝いなどで家族でのご利用が増えたことを大きな変化と感じているそうだ。重ねて、亜美氏は「結婚記念日に利用してくださっていたお客様から2.3年音沙汰がないと思っていたら、お子さんを連れて来店してくださったことがある」と教えてくれた。このように、お客様に寄り添うもてなしをしているからこそ、「また来たい」と思ってもら
えるのだと感じた。
 この取材の最後に屋号の由来を聞いたところ、「うさぎは古来より縁起が良いため、それにあやかっています」と答えられ
た。調べてみると、ぴょんぴょんと跳ねることから商売が「大きく跳躍する」ということで、うさぎのものを持てば繁盛するといわれているそうだ。ほかにも、古事記内で縁を結ぶ役割を持っていたため、うさぎは縁結びの縁起ものとしても親しまれていた。
これは、両氏の想いと重なる部分があり、相応しい名前ではないだろうか。
 最後に、この記事を通じて、「うさぎ屋」の歴史やこだわり、未来への展望を多くの人に知ってほしいと筆者は思う。そし
て、長く付き合える店を目指す榊原様方の想いは、訪れるお客様に必ず伝わるものなのでぜひ一度、「うさぎ屋」の扉を叩いて、その魅力を自らの目で確かめてみてほしい。(取材:藤井悠美)
                 
【住所】 半田市堀崎町2-1
【代表】 榊原 舞
【営業時間】 昼の部 11:30~14:00 
     夜の部 18:00~21:30 ※事前予約制
【TEL】 26-6363
【定休日】 水・木曜日



迷った時こそ、実行!

2024年6月3日(月)

株式会社大進 顧問 中村 宗雄 氏

 28歳で今は亡き無二の親友に請われて入社し、土木の仕事は同じ現場がなく、同じものを創っても条件はそれぞれ異なっており、工夫次第で勝者にも敗者にもなれる。その自由度の高さに魅力を感じたと振り返る。
 「それまでとは畑違いの職種でしたが、『土木は経験工学』と言われているように、求められるものが明解なので、性に合っていると感じました。アウトドア派の僕は現場での夏の暑さ、冬の寒さも気にならなかったですね。当時は従業員が4・5人、創業者が病に倒れ廃業の話も出ましたが、代表のご指名を受け企業存続のため、法人成りし人事を見直すなど組織変革を図りました。厳しい判断をせざるを得ないこともあり、今思い出しても辛かったこともありました」 
 会社のために身を粉にして働いたのは、30歳で生死を彷徨ったことが一つの理由として挙げられる。原因も不確かで再起不能と宣告されたが、ある治療法と出会い奇跡的に回復した。その時、寝たきりになっても生きていたい。普段の生活がいかに貴重であったのか、普通に仕事をして普通の生活がしたいと渇望した。やっておけば良かったと思うことが多くあり、一歩踏み出すことの大切さが身に染みた。迷うのはそのことをやってみたいからと、以後『迷った時こそ、実行する!』と心に決めて、普通に仕事をするために、企業の健全化を図ろうと下請けから脱却し、伸ばしていく経営にシフトしていった。 
 「下請けが8割方だったので、新たな仕事を作っていきました。知り合いの方達に助けられながら、元請けとしての仕事はでこぼこしながら次第に増えていきました。15年ほど前、各市に直営店のリフォームショップを1店舗ずつ作りたいという募集に手を挙げ、お陰様で当社が『可能性が高い』とご縁をいただきました。期待される会社になることの必要性を実感しました」 
 「『LIXILリフォームショップ大進』として、新たな分野を広げ、東海南高校校舎改修工事に対し、卓越した技術と献身的な努力により優れた成績で工事を完成させた評価で、愛知県建設部より『平成28年度優良工事施工業者』として表彰された。品質・安全・利益をいかに高い次元でバランスをとるかが大切であり、競争しない仕事をしていくことが他社と闘う基礎条件と強調する。競争しないとは、選ばれる会社であり、「いい仕事をするから頼みたい」と思われるような企業を目指し尽力する日々が続く。だが想いが強すぎて動き出してしまうので、俯瞰して見ることを自身に課しているそうだ。 
 「若い頃は生き急いでいるとか、暴走列車と言われたこともあります(笑)。親しい方たちからは、「お前の唯一良い所は決断できる所」と言ってくれる人もいますが、何でも簡単に決めてしまうのでしょうね(笑)。ただ常に現状を変えようと、M&Aで建設会社2社、空調、メンテナンス等を業務内容とする1社を取得しました。僕は暇そうに見られてしまうことが多いのですが、結構やることはあります(笑)。変えたいという想いから、一時政治の世界にも、気づいたら走り出していました。政治は
まちの発展のためには本当に大事なものだと思いますが、社員への責任を考えたら、会社はもっと大事だったんですね」 
 現在は同社の顧問、前述3社の代表としての任に就く。経営の効率化や企業運営の無駄を省くために、ホールディングス化する流れがある中で、現体制の道を維持した。社員に頑張ってもらい、その中から社長に就く人の姿を見たい、人を育てていく喜びを体感したいと語る。その背景には氏も多くの人に育てられ、ある意味、次代の人材を育てることは『恩返し』なのかもしれない。半田青年会議所、名古屋の青経塾(青年経営者研究塾)、現在所属する半田ライオンズクラブなどで学びの場を積極的に求めてきた。 
 「人の話を聞くのが大好きです。食べること、飲むことが好きな僕は、食べ物に例えるなら『体のためには何でも食べよう』と言うのと同じで、貪欲にどんな分野の話を聞くようにしています。むしろ興味の持てないような分野の話を聞く時の方が得るものが多いように感じています。この間も市内のファッション講座に行ったのですが、学ぶことが多かったですね。学びも成長につながってくると思っていて、人間の成長は出会った人数×距離だと考えています。だから僕は距離は関係なく動くよう意識しています。そして忙しいから止めようと思いがちですが、却って忙しい方が時間を有益に使えるような気がしています」 
 今年、還暦を迎え『やることリスト』を新たに見直した。誘われて始めたマラソンは名古屋・大阪・京都・松阪などで走り、最終目標はニューヨークシティマラソン出場であり、ウルトラマラソンへのチャレンジも視野に入れている。そして今年4月から、学びたいと法政大学経済学部の通信制教育課程に入学した。大学生としての顔も持ち充足感を得ながら、さらに多忙を極めることになりそうだ。
 「一度は終わった人生と思い、いただいた残りの人生を全力で過ごしているだけです。マラソンは自分の体力と時間配分を計算しながら走らないと完走はできません。仕事や人生もそれと同じで、闇雲に走り続けても素晴らしいゴールには辿り着けませ
ん。『失敗した時こそ学びがある』と思い、失敗を恐れず学び続ける人生でありたいと思っています。『迷った時こそ、実行!』です」


●ちょっと一息●
 長年、半田国際交流協会に関わり、昨年末に松石会頭から会長を引き継ぎました。かつては姉妹都市(アメリカ・ミッドランド市、オーストラリア・ポートマッコーリ市、中国・徐州市)との交流が主事業でしたが、半田市に外国籍の方が5%近く在住する今は『多文化共生』をテーマに活動しています。外国の方も働きやすいまちづくりをすることは企業の発展につながっていきます。そのお手伝いができればと思っています。
 地元、上半田地区の住吉ちんとろ祭委員会の事務局長を務めています。今年はキッチンカー、テント、テキ屋さんとそれぞれの良さを活かし、祭りの雰囲気を盛り上げていただきました。地域の方々から協賛をいただき開催している祭りなので、大人の都合だけでなく、子どもさんも楽しめる祭りになるようにしていきたいと考えています。

1964年半田市生まれ。83年半田工業高校(現・半田工科高校)機械科卒業。サラリーマン生活を経て、92年同社入社。98年代表取締役社長。2007年現職。半田国際交流協会会長。住吉ちんとろ祭委員会事務局長。その他要職多数。半田市在住。当所議員。