半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

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地域に愛される企業でありたい

2024年6月3日(月)

みつまる自動車株式会社 間瀬 浩正さん

技術者である父は地域のために働きながら、常に新しいことに挑戦し、当時としては珍しかった大型自動車の整備工場を営んでいました。そんな父には逆立ちしても勝てないと自覚していましたが、両親から「長男だから継ぐんだよ」と洗脳され(笑)、自然と後継者の道を歩み始めました。技術を身につけるために専門学校を経てトヨタビスタ愛知(現・愛知トヨタ)に入社し、整備と営業を学び、家業に戻ったのは23歳の時でした。
 当時、将来に希望が持てず、ゴルフをしている時だけが心休まる時間でしたが、半田青年会議所(JC)に入会し、仲間に触発され、「何かやらなければ」と感じるようになりました。ある日、机の上に『車検のコバック、加盟店募集』と書かれた月刊誌が置かれていました。それを見た瞬間、「これからの車業界はこれだ!」と確信し、説明会に参加し、全国でFC加盟1号店として契約しました。大きな冒険でしたが、母からの「父と同じ世界で競うのではなく、自分の武器を見つけなさい」という言葉に
強く背中を押されました。また、本音で話し合うJC仲間との出会い・活動を通じて、新しい情報に接する時の、アンテナの張り方も変化していたと感じます。JCに入っていなかったら、その記事を見ても何も感じなかったと思います。同時に、車屋は『3K』と言われていた時代でした。社員がみつまるのコバック車検で働いていることを自信を持って言えるような会社を作りたいという強い想いもありました。
 色々なご縁が重なり、1992年に『車検のコバック』FC店としてスタートし、3年後には年間車検台数が10倍ほどになりました。今では当たり前の事前見積もり、見積もり金額がオーバーしたらお客様に確認して作業という明確なシステムが好評で、知多半島全域からお客様がいらっしゃいました。コバックは多店舗展開を基本モデルとしており、当社も東海市に出店を準備していましたが、父の反対に屈して2号店は諦めました。今思えば2号店出店を諦めた時は、1号店を出す時のような熱意がなく「そうだよね」とあっさり受け入れたことも、私に与えられた定めであるように感じています。信仰深い両親からの恩恵でしょうか、いつも見えない力に導かれていたような気がしています。
 やがて整備業界自体がニューサービスと呼ばれるコバックと同じサービスを提供するようになり、当社の立地条件の悪さが仇となり、瞬く間に年間の車検台数が6割ほどに落ち込んでしまいました。そんな時にJCの先輩から「いい物件がある」という情報が飛び込み、現在地に移転し再スタートを切るという幸運に恵まれました。
 私自身、新しいことにチャレンジすることが好きな父の血を受け継ぎ、1年前に先進自動車に対応できる設備工場を新設し、EV・予防安全機能・高精度車体整備が可能な設備を整え、アメリカのテスラ社の認定板金工場(*)の資格を取得しました。コバックに次いで、第二の武器を手にした瞬間でした。「過剰投資ではないか?経営が無謀すぎる!」と本気で心配してくれる仲間もいましたが、近い将来訪れる自動運転社会での安全を守ることが、当社の使命と考えています。
 会社は舞台だと考えています。役者である社員がそれぞれのポジションで素晴らしい演技をすることによって、会社は成長し発展します。幸いにも、コバックには愛知県知事認定の「車検大学校」があり、そこで熟練した講師の指導を受けた社員が高度な知識と技術を習得しています。さらに、テスラ社独自の厳しいトレーニングと評価試験に合格した社
員もおり、私たちは専門知識と高度な技術・経験を持つスペシャリスト集団です。私の役割は、このような『人財』に恵まれた中で、方向性を示し、舞台を整え、集客を行うことです。同時に、今の与えられた環境の中
で自分ができることを全力で取り組み、コバックのもう一つの基本モデルである複合店舗『コバックランド』の展開を進めています。車検工場、自動車整備、板金塗装、保険代理業務、自動車販売業務を通じて、「お客様に求められ、必要とされ、喜んでいただけるサービスを創造し続ける」という経営理念のもと、地域に愛されるサービスを提案し、日々成長を目指しています。
 JCに入会し、素晴らしい人々との出会いから、仕事への意欲や取り組み方など多くの有意義なことを学び、現在の私が形成されました。現在所属しているロータリークラブのメンバーからも、私の弱点や短所を指摘していただき、自己反省の機会を得ています。生涯、このようなアドバイスを素直に聞き続ける自分でいたいと思っています。
 本音で忠告してくれる人は数少ないと私自身が体感しています。一緒に働く二人の娘に対して、父として当たり前なのですが、本音で忠告する一人になりたいと願っています。時間を調整し、昼食は三人で近くの喫茶店でとります。時には「娘さんと一緒で羨ましい」と言われることもありますが、「その考え方は間違っている」と厳しい言葉を投げかけることのほうが多いランチです。私の意見が必ずしも正しいわけではありませんが、選択肢の一つとして考えてもらえればうれしいと思っています。今は、その長女がJCに入会し、JC活動にどっぷりと浸かっています。彼女がどのように成長するかを楽しみに見守っています。
*板金修理に必要なテスラ車両の情報を得られる


■ 半田市吉田町1丁目33
■ 営業時間/月~土 8:00~18:00、 日曜・祝日 9:00~18:00(日曜受付のみ)
■ 休日/GW・夏季休暇・年末年始・一部不定休  ■ TEL.20-5891 



日東会 集団献血を実施

2024年5月17日(金)

市内日東町の立地企業で構成する日東会(代表幹事・堀井清人/㈱サン・ビック)は5月15日、愛知県赤十字血液センターによる集団献血会を実施しました。
この献血会は企業の社会貢献を目的に始まり、昨年5月に新型コロナウイルス感染症が5類感染症となり、今回は多くの会員企業が参加をされました。
 当日は初夏の陽気が感じられる快晴の中、会場である徳倉建設㈱建設センター事務所に、会員企業から従業員50名が献血に参加。合計86単位(400ml/単位)の血液を頂く事ができ、大変多くの協力を得ることができました。



産業廃棄物焼却施設完成

2024年5月1日(水)

㈱サン・ビック 半田事業所

このたび4月に半田事業所(日東町)に、産業廃棄物処理施設、大型焼却炉が完成しました。同焼却炉は、ロータリーキルンとストーカ炉のハイブリッド型方式を採用し、多様な性状の廃棄物の処理が可能となっています。

焼却処理能力:142.1t/日

また、焼却により発生する熱から電力(発電能力1950kW)を生み出すサーマルリサイクルを推進し、同社の電気を賄う他、余剰分は売電もおこなう。6月頃から本格稼働をする予定。

代表者/栁 由美
住所/半田市日東町1-7
TEL/0569-32-5551
https://www.sanbic.co.jp/



シリーズひと よい肉を毎日美味しく食卓へ

2024年4月30日(火)

株式会社石川屋 代表取締役 石川 大介氏

 海外勤務を志望し、内定をいくつかいただいた中から海外赴任のチャンスもある日本ハムに入社。大阪本社の輸入ブロイラー部に配属となった。
 「何も教えてくれない上司から、配属そうそう500万円の利益を上げろと洗礼を浴びました。得意先は自分で探すものと言われ、商品を覚えることから始め、新規開拓のため、毎日毎日電話でアポイントをとり、ひとりで営業に駆け回る毎日でした。今も自戒の念を込めて、手元に当時の新規開拓ノートが5冊あります。あの時代はどうしたら話のきっかけをつかめるかを学んだ貴重な時間でした。何とかなるでしょうと考えていましたが、常に追い込まれていて、朝の4時から深夜まで平気で働き、休日も仕事をしていました。血の気も多かったのですが、真面目だったんですね(笑)」   
 配属先は商社機能を併せ持ち、電話での売り・買いが主業務で、何百万円という大金が動く一瞬を逃さないため、時には灰皿が飛び交い、戦場のような職場だったと苦笑する。入社した年の12月、同期の中で最初に利益260万円という結果を出し、博多の子会社から出
向の誘いがあった。『あの上司と離れられるなら行きます』と答えたと笑うが、今は亡きその上司には感謝していると、しみじみ振り返る。出向先は九州全土が管轄エリアで、体力に任せて1日1,000kmを走行し、熱血漢溢れる上司からさえ、その無謀さをたしなめられながら、他の商社と時には協力したり闘いを繰り広げた。当時は意義ある闘いさえも楽しみ、仕事に没頭した。そんな日々に別れを告げるように、27歳で結婚を機に地元に戻ることを決意した。   
 「上司から『肉屋の息子だったのか?辞めるのは早い!』と止められましたが、予定通り家業に入社しました。、数年前に狂牛病が流行り、リーマン・ショックを経て、当社の売り上げも踊り場に差し掛かり、父が還暦を迎えた34歳の時に現職に就き、不安定要素がフツフツと湧き上がってきました。その上、契約更新前にテナントで入店していたスーパーから撤退させられるという憂き目に遭い、その当時は強気でしたのでそのスーパーの隣に精肉店を出しました。その無謀さは日ハム時代の教えです(笑)」   
 それを契機に各地に出店し、今年3月末に刈谷ハイウェイオアシスへの出店が決まり、知多半島・三河地区に13店舗を構える。最初に出店した頃は知多牛が走りで、知多牛に倣って知多豚と命名し、それを二本柱として販売した。そのネーミングもポピュラーになり始め、新しいことをやりたいという意欲がフツフツと湧き上がり、南知多町の平山牧場と提携し、『従来の価格で、ワンランク上の味を提供する』新たな取り組みを始めた。今年の夏以降、コンスタントに『平山牛』として食卓に上る量産体制が整った。
「知多半島も若い農家の方が育ってきて楽しみが増えました。昨年地域ブランド『ちた健康豚』を手がける小栗畜産(半田市)から事業譲受し畜産業に参入し、獣医師免許を持つ牧場として(株)小栗ピッグファームを設立しました。また、取引のあったホルモン屋さんが次々に廃業していくため、自社でその作業をしようと昨年10月に豚肉の加工、脱骨や内臓処理を扱う加工センターを開設しました。これにより愛知県内で処理されている週8,000頭のうち、当社が500頭を手がけることになりました。同時に惣菜部門も強化しています」  
 外注に頼っていた分野を自社で賄い、『育てる・作る・売る』という、垂直統合型企業の体制が確立し、お肉の専門店石川屋からお客さまへの約束として掲げる「よい肉を毎日美味しく 食卓へ」をコンセプトにした『GOOD MEAT』という店舗への名称移行を視野に動き始めている。様々な試みや挑戦は自社に限らず、海外、社会、地域にも及んでいる。
 「ミャンマーに、『OBRIGATION(恩・義理の意)CHITA』を設立しショッピングストアに食肉加工卸をし、同時にタイに牛肉を輸出しています。私自身、ミャンマーとの出会いは、日本JC(青年会議所)時代の先輩から、当社に研修生を受け入れてみないかという打診から始まったのですが、肌感が合うというか馴染みが深い国だなぁと感じています。海外の友人、JC、日ハム時代の友人と遊んでいると(笑)、自然に色々な情報が入ってきて、仕事と繋がることが多くあります。カラは重いですが、フットワークは軽く、楽しい方に流れていく習性があるようです(笑)」 
 また、子どもたちに肉の美味しさを知って欲しいと、提携先の知多半島の牧場で生産される『すき焼き肉』を毎年児童養護施設へ届けている。地産地消も同社の積極的な取り組みの一つである。  
 「将来的には、ここ半田からアメリカ・ヨーロッパ諸国に向けて牛肉の輸出が出来たら面白いと考えています。神戸牛や飛騨牛は観光とセットになっていることが多く、海外の飲食店でも味わうことが出来るでしょう。愛知県にはその機能を担う設備が整っていないので、輸出国は限られています。いずれ、あの知多牛を地元で食べたいということになれば、半田にも多くの方が訪れ観光資源の一つになってくるかも知れません。そんなことを夢見ています」   
 自らを慎重派と称し、勝算が見えた時しか動かないと笑うが、昭和6年(1931年)創業という歴史を紡ぎ、時流を読みながらの新たな快進撃はどこまでも続く。

●ちょっと一息●
JCから多くのことを学びました。当社の代表になった翌年、半田JCの理事長の大役を仰せつかりましたが、その年は半田JCを一般社団法人にするか公益社団法人にするかの方向性を決める重要な年であり、迷わず公益社団法人化を選択しました。理事経験はあったものの不慣れなことが多い中、我流で取り組んだことも多く、メンバーにご迷惑をおかけしながら豊富な人的ネットワークに助けられ、今の仕事に繋がっていることも多々あります。深く感謝 しています。 
 そのJCメンバーの先輩からの声掛けで前回に引き続き、昨年の『第九回はんだ山車まつり』の実行委員会の実行本部長を務めました。組織を立ち上げ、予算管理、祭りのテーマ『慶』を決め、当日は運営の責任者として関わらせていただきました。色々な方と出会え最高に楽しく幸せな時間を過ごさせていただきました。これもJCとの関わりがあったからでしょうね。

1973年半田市生まれ。半田高校を経て97年拓殖大学商学部卒業。同年日本ハム(株)入社、食肉事業本部輸入ブロイラー部配属。2000年(株)石川屋入社。07年4代目社長就任。半田市在住。当所議員。



こだわりの「豆腐」をつくるための、こだわりの道具でありたい

2024年4月30日(火)

株式会社かめさきカホリン

古くから日本国内で親しまれ、誰もが食したことがあるであろう“豆腐”。この“豆腐”を作るための道具を製造している会社が半田市亀崎町にある「株式会社かめさきカホリン」である。今回は代表の磯貝氏に、同社のこだわりや豆腐にかける想いを取材させていただいた。
 同社は昭和25年、磯貝氏の祖父にあたる先々代の間瀬秀雄氏が現地にて創業、今年で74年目となる老舗企業である。創業当時は豆腐を固めるための凝固剤の製造販売を主
としており、社名である「カホリン」は凝固剤の一種である「カオリン」からきているそうだ。昭和30年代、それまで木製が主流だった豆腐の製造器具が、保健所の指導により衛生面から金属化(アルミニウムやステンレス製)の研究・開発がされ、同社も愛知県豆腐商工業協同組合とともに共同研究を行った。以降、凝固剤製造を廃止し、豆腐器具製造に特化して現在に至る。国内でも豆腐器具専業は同社のみであり、60年以上作り続けてきたことで蓄積されたノウハウを活かして早期納品、少量受注のほか、顧客の要望に応じた仕様での製造が可能となっている。『美味しい豆腐をつくりたい』という豆腐職人や豆腐製造事業者の方々と共に歩んできた同社は、美味しい豆腐を作るための良い道具、こだわりの道具を常に作り続けており、日本の伝統食である豆腐の文化を継承し、発展させるための役割を長年果たしている。取材をして初めて知ったが、豆腐のサイズは地域によって異なっていたそうだ。また、豆腐自体にも地域での特徴があるそうで、知れば知るほど奥が深いものだと感じた。
 代表の磯貝氏は豆腐文化を絶やさないためにも、様々な活動を行っている。みなさまは【豆腐マイスター】というものをご存じだろうか。全国に4,959名の方が受講・認定されている日本で初めての豆腐の食育資格だ。「豆腐を通じて豊かな食を未来に継承すること」を基本理念に活動している(一社)日本豆腐マイスター協会(後援:(一財)全国豆腐連合会/国から認可された唯一の豆腐業界団体)が主催しており、磯貝氏は協会の代表理事も務めている。身近な存在である豆腐だが、現在は後継者不足による廃業等から豆腐職人・豆腐製造業者が減少しており、このままでは豆腐のことを伝える人が地域からいなくなり、豆腐のことを知らない子供たちが増え、豆腐という食文化が日本から失われていくのではないか、という危機感から豆腐マイスター認定講座は生まれた。豆腐マイスターは「地域に根付く食育の担い手を育てる」ことを目指し、豆腐に関する正しい知識を身につけ、日常的に豆腐を使うだけでなく、多様な情報があふれる世の中で、正しい情報の発信者として存在している。
 豆腐業界全体の底上げをすべく、磯貝氏は日々活動している。昨年、当所主催で初めて開催した「はんだオープンファクトリー」でも、地域の子供たちをはじめとした参加者が同社を訪問した。工場内の見学のほか、同社の製品を使って実際に豆腐を作るなど、豆腐を身近に感じられる体験をした参加者からは笑顔があふれていたという。
 磯貝氏は今後の豆腐業界について、「豆腐」というコンテンツをもっと広げていきたいと語った。豆腐マイスターは食育の担い手という、消費者の視点での学びが主であるが、そこから一歩進んで、業界として豆腐に関する知識・ノウハウを残していくことも重要だと考えている。最近では、豆腐業界の社員研修として豆腐マイスターを活用されることも多く、豆腐の基礎知識だけでなく、業界の歴史や動き、経営的視点などの情報も伝えていきたいと話された。さらに、近年では日本国内だけでなく、海外での豆腐需要も高まっているそうだ。ビーガンやベジタリアンといった菜食主義のスタイル、食の環境負荷に関する問題意識などの観点からも注目されており、業界としても前向きな動きだろう。
 筆者も冷奴や鍋、湯豆腐など季節を通じて豆腐を頻繁に購入する。豆腐は食卓には必要不可欠なものだ。今晩のい出しでスーパーに立ち寄った際は、豆腐への熱い想いを頭に思い浮かべながら、手に取りたい。(取材:濱島千尋)
                 
                

<会社概要>
【住所】半田市亀崎町9-123-11  【代表】磯貝剛成
【創業】昭和25年4月 【TEL】28-3141
【HP】http://www.kahorin.co.jp/