2023年7月28日(金)
現在、半田市内各所で掲出されている「新美南吉生誕110 周年ポスター」や、知多半島観光情報ポータルサイト「タビチタ」・動画「知多半島情景」「t abi chit a 」を一度は目にしたことはないだろうか。これらをデザインしたのが、今回ご紹介する株式会社エヌ・エフ・ユーである。
同社は、平成6年11月に学校法人日本福祉大学の出資により設立。【地域のふくしに貢献する「生活創造企業」】を経営理念に掲げ、子どもから高齢者まで誰もが住み慣れた地域の中で生じる様々な生活課題の解決や、企業・団体が抱える課題についても多様な関係機関・団体ともネットワークを形成しながら、支援していく企業を目指している。来年、設立30周年を迎える同社について、取締役副社長 中村聡氏にお話を伺った。
設立当初は、少子化を筆頭に今後増えるであろう大学運営に関する様々な課題を合理化し、運営をスムーズにしていくことが求められ、その役割を担ってきた。最初は問題も多かったが、その都度解決しながら組織運営を進め、現在は、教育に関する様々な業務のトータルアウトソーシングをサポートしている。
ここまで聞くと、大学運営を主として行っている同社が、なぜ冒頭に挙げたコンテンツのデザインを行っているのか、と疑問に思うかもしれない。それは、今から10年ほど前、大学運営の業務も軌道にのり、大学組織のサポートや人材運用で培ったノウハウを活かし、地域に向けた取り組みに力を入れたことが始まりである。
「日本福祉大学」の名の通り、ふくしサービス事業を中心に、様々なサービスを提供している。知多半田駅前の通りにある「Kurasot(t くらそっと:暮らしに“そっと”寄り添うの意・造語)」もそ の一つであり、暮らしの相談窓口として福祉用具販売や介護保険レンタル、介護保険販売の相談、住宅改修・福祉住環境に関する相談ができる店舗となっている。その他、地域支援事業の一つで、地域密着型のデザイン制作事業者として冒頭のようなデザインやPR動画、展示映像などの映像やパッケージ等のコンテンツ企画・制作等も行っている。実は、筆者が同社と関わりを持ったきっかけもこの地域デザイン事業からだった。
大学運営と地域支援という二面性を持つ同社の強みは、学生連携と地域密着の強さだと感じる。知多半島という地域に大学があることは、この地域の一つの資源である。また、日本福祉大学自体も知多半島全体をキャンパスとして捉えており、そこに通う学生は知識を学ぶだけでなく、地域とのつながりも得ることができる。一企業として、【地域・学生・企業】と連携ができることは同社の大きな特長だ。中村氏も、これからの同社の取り組みの中でも、地域支援事業を拡充していきたいと考えている。同社の持つノウハウや学生連携の付加価値を使って、地域や企業の課題を解決していきたいと話された。
企業が抱える悩みは様々である。その企業が得意とする分野以外で悩まれていることはないだろうか。例えば、障がい者就労に関すること。法定雇用率をクリアすればよい、ということではなく、誰もが働きやすい職場にするための職場環境整備を促進するなど、ふくしの専門家だからこそできる提案がある。『餅は餅屋』ではないが、少しでも企業・地域の課題が解決できるよう、同社ならではの支援があるので、ぜひ一度相談してみてほしい。
お話を伺った中村氏は、実は日本福祉大学の卒業生だった。一般企業での勤務を経験し、縁あって同大学の職員として入職、その後、株式会社エヌ・エフ・ユーの立ち上げに関わり、現在に至る。人生のほとんどを学生と共に過ごしており、今現在もラグビー部の部長として関わっている。日々、学生と接点を持つ中で、地域が学生を育ててくれるとも感じているそうだ。その地域にはもちろん企業も含まれており、その橋渡しの役割を担えるのが株式会社エヌ・エフ・ユーだと考えている。
大学運営から始まった同社は、来年設立30周年を迎える。地域・社会のパートナーを目指して、学生も、地域も『しあわせ』となれる取り組みを進める同社のこれからを見ていきたい。 (取材:濱島千尋)
<会社概要>
【住所】半田市宮路町533 イチノビル2F 【代表】岡崎 真芳
【創業】平成6年11月 【TEL】21-0560
【HP】https://www.nfu.co.jp/
会員訪問NO.485 Kurasot(t くらそっと) ユウナル東海店カフェ入口
Kurasot(t くらそっと)半田店
【住所】半田市南末広町120-9(半田ビル1F)
Kurasot(t くらそっと)ユウナル東海店
【住所】東海市大田町下浜田137(ユウナル東海1F)
2023年7月28日(金)
人生は選択の連続で、あの時のこの選択があって、がある。サーフィンを一生やっていこうとオーストラリアに行くばかりになっていた時に、結婚という第二の人生を選択した。アルバイト先で出会った夫人は、建築会社のご息女で3人姉妹の長女。夫人の背景を考えつつ、出勤前に海でサーフィンを楽しみ会社で現場監督として働き仕事に邁進した。
「結婚して2年後、義父(現会長)に仕事を手伝ってくれと言われ当社に入社したのと同時に、半田青年会議所(以下JC)OBの義父
に勧められ、JCに入会しました。私は名古屋生まれの名古屋育ち、地元とは縁がなく同世代とのネットワークを構築したいと入会し、多くのことを学びました。膨大な時間を使いましたが、何ものにも代え難い貴重な経験をさせていただきました。今の考え方や生き方をしているのも、JCに入会したからこそと勧めてくれた義父に感謝しています」
様々な貴重な経験の中には、胃が痛くなるような日々もあったと振り返る。特に2014年理事長に就いた年は半田JC発足50周年の節目の年であり、日本JCの事業(世界の約70か国のメンバーが1週間の研修プログラムに参加)を主管する一大事業が控えていた。世界のJCは4つのエリアに分かれるが、その各エリアに大会PRのために赴いた。道中スピードラーニングを聴き発音を確認しながら、与えられた3分間でPRに臨んだ。7月に国内外140名ほどのメンバーが知多半島各所に集い、9月に周年事業という息つく暇もないほどのスケジュールをこなしてきたが、その間の記憶が全くないほどと語る。
「私はメンタルが強いと思われているようですが、そうでもないのですよ(笑)。理事長時代は私はその場に行って挨拶をするという役割でしたが、現場のメンバーは本当に大変だったと思っています。それらの経験から、どんな難題にも対処できるようになり、自分の置かれている状況を的確に把握する必要性を学びました。今、自分はどういう立ち位置にいるかと確認し、その状況の中でどう動くかと常に自問自答をしています。また、人としての礼儀や思いやりを持ち、相手の立場に立った考え、偽りのない生活をしていれば、間違った方向には行かないと確信しました。私自身が営業活動にはそんなに熱心な方ではありませんが(笑)、そういう想いから自然に営業につながったということが幾度もあります」
2017年、現職に就任した時も、先ず立ち位置を考えた。同社は初代の『大工の清治さん』が『大清工務店』を創業した。初代は現場、先代は営業畑、3代目として両方に関わる立ち位置にあると考えているが、営業的な動きの方が多いと顧みる。現場に出たい、そういう気持ちを抑えながら、業界や地域等に請われて多忙な日々を送る。
「JC時代に返事は“ハイ“イエス”と育てられましたので(笑)、頼まれごとは可能な限り引き受けてきました。『頼まれごとは試されごと』です。困っているなら協力したいと思うのは人の道だと思っています。私は長いものには巻かれてきて(笑)、体育会系なので、頭より体を使ってきました。出来る、出来ないということは別にして、先ずはそこに行って動くということを大切にしてきました」
反面、自身が潰れないためには、時には依頼話が来ないように立ち振る舞うようにすることも必要だと思ったときもあった。だが、現実には断ることを良しとせず、今年の10月28日・29日両日に開催される『第九回はんだ山車まつり』でも重責を担っている。先輩JCが始めたはんだ山車まつりを守り伝える『半田山車祭り保存会』に事務局の一員として、当たり前のように誘われた。前回から本格的に関わり、今回の祭りでは要となる運行警備部長として運行ルートや警備計画の調整に飛び回っている。日夜あちこちの地区や保存会での話し合いが続き、それぞれの課題にぶつかることも多く、JC卒業後以来は遠ざかっていた胃痛が久しぶりに訪れたと苦笑する。
「周りの人に支えられ、育てられてきました。今も半田ロータリークラブで、諸先輩方の教えを請いながら、週に一回の例会に出席しています。人に恵まれ、運の良い人生を歩んでいると思います。家内も一昨年、宅地建物取引士の資格を取り、グループ会社(セイワハウス)で働き、会社を育てるために二人三脚の日々を送っています。私の最大の任務は次代に繋ぐことだと肝に銘じています。『継続は力なり』と言いますが、本当にその通りで、続けることも大変なことですが、どれだけ繁栄した状況で次代に繋いでいくのか。それが重要なことだと思っています」
自らに課した次代への継承、これまでの人生の選択の集約であり、立ち位置を自問自答した答えであるようだ。
●ちょっと一息●
「地域とつながろうと同年会に参加しました。その後、息子が地域の祭り『大獅子・小獅子の舞』で『ささら摺りの童子』をお受けしたので祭りに参加し、祭りは見るものから参加するものへと変わりました。それまでは酒が飲めない私は『祭りをやらないか?』と声がかかる度に、いつも逃げ回っていました(笑)。外から入った私は寄付集めや警備などの裏方の仕事に徹していましたが、そんな私に42歳の時に神祭長の役が回ってきました。小さい頃から祭りに親しみ祭りを熟知している同年の中で、お引き受けするのを固辞していましたが『勝ちゃんを支えるで、やってくれ!』という声に押されてその大役をお受けすることにしました。その年は長男はささら童子(長男・二男で6年間ささら童子をお受けしました)で、親子揃って祭りに参加した良い思い出です。
一生続けていこうと思っていたサーフィンはJCに入会してから遠ざかっています。結婚記念日を刻んだサーフボードは青春の思い出と共に、今も床の間に鎮座しています」
1976年名古屋市生まれ、半田市在住。99年愛知工業大学土木工学科卒業。土木会社を経て、2007年同社に入社。17年現職。当所議員・建設部会長。
2023年7月28日(金)
明日を見つめて今全力
父親(現会長)の『後継者は長男、二男は会社に関わらない』という意向に従い、僕は大好きな車の仕事をしようと修理や販売、店長として働いていました。今も隙あれば車屋をやりたいと思っています(笑)。5年くらい前に会社を継いだ兄からの要請でサラリーマンを辞めて当社に入社しました。労務や経理、人事を担当しましたが、経験のない分野で戸惑うことも多く、社業とはいえその頃はちょっと辛かったですね。
当社はアルゴン溶接等アルミ加工を得意とし、創業当初から車のガラスの精度等をチェックする検査機器を製作し、樹脂型検査ゲージ、検査治具の製作等を業務としています。中でも40年以上、お客様の製品の品質向上に貢献させていただいている特許取得の自社センサーを取り付けた樹脂型検査ゲージ製作は、当社の大きな武器の一つです。2016年にドイツの工作機械メーカー『FOOKE』からアジアでの拠点を作りたいと声がかかり、業務委託を締結しました。現在国内で3台あるこの5軸加工機『ENDURA』はプログラミング次第で、自動車、船舶、鉄道、航空、宇宙どの分野にも対応でき、用途に応じた使い方ができます。人が何十時間もかかる作業を短時間で、加工面も極めて精緻な仕上がりとなり、今業界に求められる『意匠面の厳密な再現』に対しても目覚ましい効果を発揮します。新規事業として、この加工機の販売とメンテナンスを請負っています。僕が所属している総務部ではDXの導入により業務の効率化を図り、手持ち無沙汰になったので(笑)、その分営業に力を注ぎ始め、攻めの営業活動をしていこうと思っています。
この加工機の定期点検・メンテナンスは当社でしか請け負えないという武器を活かして商圏は日本全国です。社員は何ヶ月もドイツに行き、その技術を学び100%サポートが可能です。販売後の定期メンテナンスや不慮のトラブルが起きた場合には、その会社と当社をつなぎ遠隔操作で解決する方法も考えています。また、交換部品も当社がFOOKEから仕入れ、お客様に販売する商社のような役割を果たせたらとも思っています。そしてメンテナンス等に関わる、オペレーターを養成する学校を作れたらいいなとも夢見ています。
2019年には生産工程における品質管理の最適化を図るため、ドイツに拠点を構えるLED外観検査機メーカー『Oligo』と業務提携をしました。社内に2社の製品のデモセンターを併設し、購入を検討される方に実際にその製品を見て試していただいています。それぞれの担当者は日々追われています。アジアの拠点作りというご縁をFOOKEからいただいた当社は、アジアへ、そして世界へと進出しようとしています。その夢が実現したら楽しいですね。
この製品の素晴らしさを多くの方に知っていただくこと、それが僕の仕事と思っています。それと同列にするのも変かもしれませんが、僕は青年部の魅力を伝えていくことも、僕の役目かなとも考えています。
社業に入社したのと同時に、同級生の誘いを断りきれずに青年部に入会しました。会員50名増強の年で、その委員会に入ってしまい(笑)、先輩委員にお供して話を聞いているうちに友達も増えて楽しくなっていきました。紹介者の彼の顔を立てようと全行事に参加し、入会初年度には『新人賞』をいただきました。翌年は『MVP』を狙ったのですが、獲得に至らず涙を飲みました(笑)。青年部に入ったお陰で仲間からの声掛けもあり、『異業種交流展示会メッセナゴヤ』や『アライアンスパートナー発掘市』にも出展し、当社のPRをする機会をいただきました。青年部入会前はどこの経済団体との付き合いもなく、また当社の製品が一般消費者と直結していないので、ある意味謎の会社でしたが(笑)、少しは認知されたのでしょうか(笑)。県の連合会、東海ブロックに参加すると、当社を知っているメンバーとお会いすることもあり、青年部の繋がりの広さを感じています。僕は青年部に入会して友達も多くなり、様々な情報も入り、人生が豊かになりました。出席を渋っているメンバーや、これから入会を検討している方々に、青年部の魅力や楽しさを発信していこうと思っています。それが僕にできる青年部へのお返しかなと・・・。
5軸加工機『ENDURA』の営業活動が軌道に乗ったら、夢の実現に向けて動き出そうと考えています。業界の研修で『今後は一企業で7事業を持っていないと生き残れない』という話を聞きました。7つとは言わなくとも、3つ4つの事業は必要かなと考えています。青年部メンバーと一緒に新事業を興すのも夢の一つです。
仕事、青年部活動、趣味のジェットスキー、食べ歩きとスケジュール表に予定はビッシリで、ゆっくりする暇もありません。でもこうして動いていることに幸せを感じています。28歳の時、首のヘルニアで生死の境を彷徨いました。それからは、動けるうちは動かないともったいないと、家が好きだった僕は外へ出て行くようになりました。食べ物の好き嫌いをしていたらバチが当たると今は好き嫌いは一切ありません。
『明日を見つめて今全力』父が創業以来、経営理念としてきた言葉です。僕もその言葉を噛み締めながら、公私共に今日も明日も全力です。
■知多郡武豊町字前田34 ■TEL.73ー5101
2023年7月3日(月)
うだるような暑さに身体が慣れず、夏バテしている方も多い今日この頃だが、「医者に金を払うよりも、みそ屋に払え」ということわざを知っているだろうか。これは江戸時代によく言われた言葉だが、現代においても味噌は人間の身体に対して健康に良い様々な効果があると言われている。今回は、そんな味噌にこだわり知多半島と三河を中心に味噌ラーメン専門店4店舗を展開する、(株)イート・アップの代表である杉浦淳一氏に話を伺った。
スマートな立ち居振る舞いで穏やかな空気を醸し出す杉浦氏は、いわゆる“ラーメン屋の大将”という雰囲気を感じさせない。「実は麺四朗は、父親が個人事業主として2006年にオープンさせた知多店が始まりなんです。自分は20歳の頃から13年間は建設会社に勤めており、図面を描いたり施工管理を行っていました」
2012年に半田市有楽町に2号店となる半田店がオープンし、事業が拡大してきた矢先の2014年、父親から麺四朗への入社を初めて打診された。「今思えば、自身の引き際を考え始めていたのかも知れません。私自身もこれまでに経験の無い飲食業でやっていけるのかという葛藤もありましたが、一念発起して2014年6月に入社しました」
最初は飲食店の基本である洗い場から、パート・アルバイト従業員に仕事を教えてもらう日々が続いた。代表者の息子という周りからの視線もプレッシャーに感じつつ、仕事を覚えて信頼を勝ち取るまでは何も出来ず悔しかったと言う。その後も、既存の社員と意見が衝突するなど上手くいかないことも多々あったが、経営者の学びの場に積極的に出ていくなどして自身を磨き続けた。2018年頃には、プレイヤーからマネジメント業へシフトを図り、父親と経営について話すことが多くなった。2019年末から、会社設立と代表者交代について具体的に進めていく中では、父親との意思疎通が上手くいかないこともあったが、自身が入社した時の気持ちを改めて思い出し、2020年4月に(株)イート・アップを設立。社名は直訳すると「食べつくす・平らげる」という意味で、現業態の麺四朗だけに留まらず、他の飲食にも展開出来るようにと名付けた。
経営理念の【すべてのお客様の為の一杯、そこから生まれるスタッフ皆の幸せ】には、初心を忘れないように創業者である父親の口癖から一部を取り入れた。今では会議資料のヘッダーに記載したり、定期的な社員面談の際にもしっかりと確認し、意識の共有を図っている。意識だけでなく理念の実現のための指針書も作成し、お客様と直接触れ合うスタッフが具体的に実践出来るように工夫している。
また、経営者として、トヨタ自動車の豊田章男社長(当時) も会議で用いた「ボスになるな、リーダーになれ」という言葉を大事にしている。これは自身の過去の経験からも学んでいたことであり、社員のやる気を引き出すコーチングを意識している。因果関係があるかは分からないが、「社員が良く笑う店舗は売上が上がる」ということを事実として捉えているそうだ。
最後に今後の展望を伺うと、次のように答えてくれた。「知多半島では『味噌蔵 麺四朗』の知名度は伸びてきたが、三河ではまだまだ低いと感じる。これまでは父親が一杯のラーメンから作ってくれた線路に乗っかっているだけだったが、今後は自分が作った新しい線路で、社員やスタッフ皆を幸せにするために引っ張っていきたい」こう話す杉浦氏の優しい笑顔からは、出来たてのラーメンよりも熱い想いが伝わってきた。 (取材:齋田哲資)
【住所】半田市有楽町5-155-1(半田店) 【代表】杉浦淳一
【営業時間】(月・水~金)11:00~14:30、17:00~23:00
(土日・祝)11:00~15:00、 17:00~23:00 ※日曜日22:00
【定休日】毎週火曜日 【TEL】89-0117(半田店)
2023年7月3日(月)
入行当初は口数は少なく、人見知りだったと、笑顔を絶やさず軽快な口調で語る。商いをしていた父君の懐に入り仲良く話す銀行員の姿に憧れ、地元に密着しながら貢献したいと同行に入行した。内勤を経て3年目に渉外担当となり、新規開拓の任務が下った。
「訪問先のインターフォンを押したものの、どう話そうか?自信がなく立ち止まり引き返す日もあり、このまま勤めることが不安でした。最初の勤務地の瀬戸支店は『信用金庫』が地元に根付き、お客様と友達のように接する信金の方を羨ましく見ていました。時は転職率も高いバブル期、私も辞めようと上司に相談したら『楽しいこと、面白い仕事もあるから続けてみなさい』と説得されました。高校・大学時代はラグビーをやり、人とのつながりを大切にしていましたが、いつの間にか人と対等に話すイメージが描けなくなってしまって・・。鍛錬して慣れよう、やるしかないと言い聞かせ、試練の日々(笑)が始まりました」
それぞれの勤務地で自身に叱咤激励しながら働き、2000年に精鋭陣が勤務する異色の店舗、大阪支店への異動になった。そこで働くことに躊躇したが、赴任後は見るもの聞くもの新鮮で触発されることが多く、水を得た魚のようだった。名古屋銀行という社名は所在が明確であり、訪問先に安心感を与えた。
「大阪は名古屋と比べると何十倍もの企業があり、有名企業も多くあります。取引を始めるのは難しいかもしれないが、大阪に来た記念に(笑)、大企業の門を叩きました。企業の規模に関係なく商談するのは1対1であり、様々な業種を訪れれば広く学ぶことも出来、色々な情報もいただけました。度胸が付き、どんな会社へも飛び込みで行けるようになり、いつの間にか性格が変わったように思います。『やらされている』から、『考えてやらなければ成長はない』と実感するようになったのも、この大阪時代からです。『地位は人を作る』という言葉に納得したのも、この時期でした」
仲間からも大いに触発された。一人一人が個人事業主のような熾烈な競争を繰り広げる職場であったが、営業成績を上げるという同じ目標に向かって進んだ。出始めたWindows95にも挑戦し、仲間の話し方、接し方を見本とした。そして営業手腕に王道はなく、自身のやり方が大切であり、『モノを売ることは人を売ること』という想いに到達した。本来持ち合わせていた『笑顔』は、初対面のお客様にも、好印象を与えたようで、大きな武器となった。
「以後、愛知県内の色々な支店や本店に勤務し、2010年に島田支店の支店長になりました。私の入行当時は多くの行員の最終目標は支店長でした。私もそうでしたので、目標を達成した時は嬉しかったのですが、今は世の中の考え方が少しずつ変わってきているのではないかと思っています。預かり資産、相続相談、法人業務など、その道に特化したスペシャリストの道を最終目標とすることも、銀行員としての一つの生き方だと思っています」
2022年8月、支店長として6店舗目の半田支店に赴任した。働きやすい職場環境を作ることを第一とし、行員満足度を上げることが、ひいてはお客様のためになると断言する。業界を取り巻く環境や商品は、常に新しい時代の対応が求められている昨今である。一緒にゴルフをしたり酒を飲めばお客様の懐に入れた時代もあったようだが、今はお客様の求めている情報を的確に提供することが最たる仕事になっているようだ。以前は資格取得のための勉強、今は情報提供のための勉強と、勉強一つを取っても大きな差異が生じている。学びが仕事と直結し、気の抜けない時間を過ごさざるを得ない状況の中で、行員満足度を高めることの課題も多い。
「電子マネーやキャッシュレス時代になり、いずれかは対面での仕事はなくなるかもしれませんが、最終的には人と人とのつながりが大切で、以前より感じている『モノを売ることは人を売ること』に尽きると思っています。ただ、若者のコミュ二ケーション手段がSNSやブログなどが主流となっているためか、顔を合わせての言葉でのやりとりは苦手かなと感じることはあります。若い行員に近づきたいと1歩歩み寄ると、2歩後退されている(笑)、と感じてしまうことはあります。世代間を埋める特効薬は見つからず、色々と模索中です」
若者の離職率も高い今、かつての自分が辞めようと思った時の姿を重ねる。その時に上司からかけられた言葉『名古屋銀行の仕事は楽しいよ。面白いよ』そういう想いを持ってもらえるような人材育成をすることが『最後の恩返し』であり、支店長の使命であると語る。振り返れば新入社員の頃、血気盛んだった頃、色々な悩みや苦しみ、愚痴をこぼす日もあった。だが入行36年目を迎えた今思うのは、口数は少なく、人見知りで、自信も持てなかった氏を、社会人として育ててくれた同行には感謝の念が尽きないと言う。
名古屋銀行を愛する人の真の言葉であろう。
●ちょっと一息●
「家内の実家、常滑市に住んでいます。最初は潮の香りが気になりましたが、今ではすっかり慣れ、町代をやらせていただき祭りの打ち上げにも参加し、住めば都という言葉を実感しています。電車での通勤時間1時間をフルに楽しんで、途中下車してはあちこちで飲み歩いていました。名古屋銀行は何かと理由を見つけて飲む文化があって(笑)、どっぷりとその中に浸かって楽しんでいました。今は飲むと翌朝は起きるのが辛いと感じることがありますが、飲んだら酔っ払わないといけないと思って(笑)、今日も頑張っています(笑)。
1歳になった孫がいます。男の人に懐かない子だったのですが、最近私と二人でいても泣かなくなったので、だんだん可愛くなって来ました(笑)。6月生まれの孫と私、一緒に誕生日祝いをしました。57歳違いの仲良しの二人です(笑)」
1965年名古屋市生まれ、常滑市在住。88年愛知大学経済学部卒業。同年名古屋銀行に入行し瀬戸支店勤務。93年小牧支店、2000年大阪支店、中村支店課長、守山支店副支店長、本部営業統括部、島田・蟹江・枇杷島通・刈谷・津島支店長、本部法人営業部を経て、22年現職。当所議員。