半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

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三方よし

2021年7月28日(水)

東京海上日動火災保険株式会社半田支社 支社長 渡邉敬倫氏

その日は、突然やってきた。小学生から野球一筋だったが、怪我をし断念せざるを得なかった。行き先を見失い、大学で学び将来を模索しようと受験勉強に没頭する日々が始まった。それまで勉強とは距離を置いていたが、参考書を熟読し友人たちの力を借り受験に臨んだ。
 「大学3年生を終了後、1年間休学してニュージーランドに語学留学しました。夏休みなどの長期の休みに、衛星放送や電話会社選択サービス『マイライン』の申し込み等、歩合制のアルバイトをして留学費用を貯めました。度重なる門前払いに心が折れそうになりながら、技よりも量と1軒1軒しらみ潰しにあたりましたが、販売の基本は精度を高めていくことだと実感しました。その想いは今の仕事にも活きています。チームを組んでの業務で、お陰で成約率は常にトップでした。お客さまに合わせて商品を組み合わせご提供できる金融業界に魅力を感じ、卒業後は証券会社への入社を予定していました」
 内定式を終えた日、会社訪問をした日動火災(現東京海上日動)から入社の打診があり、魅力的な先輩、仕事の内容に惹かれ急遽、同社最後の新入社員として京都支店勤務となった。(翌年東京海上火災と合併)。アルバイトでは自分の力や想いが成果となったが、代理店さんを通じて商品を販売する間接的な営業に、ジレンマを感じたこともあったと言う。後、経理、海外部門、横浜中央支店、姫路支店を経て、2020年4月現職に就いた。
 「異動の度に全く違う職種に戸惑いましたが、常に書物に助けられました。環境に馴染むタイプと思っていますが、人間関係に悩んだり、思い描く成果を達成するノウハウ取得、また人材育成のためにその手の本に頼り、今も書物は私の相棒です。当社は1879年、渋沢栄一が創立した日本最古の保険会社です。以来、リーディングカンパニーとして時代に即した商品を提案し、挑戦し続けています。最近は大規模災害の発生、コロナ禍等々と、短いスパンで多様な変化が起きていますが、変化をチャンスと捉え新たな取り組みを始めています。当社もデジタルを最大限活用しデジタルと人の力のベストミックスを模索していますが、保険はピープルズビジネス。人と人との信頼関係が構築されて成り立ちます。つながりの重要性を再認識しています」
 また、企業、地域社会が成り立ってこそ、保険商品は機能する。その考えから、17項目からなるSDGs(持続可能な開発目標)に注力し、支援している。3番『すべての人に健康と福祉を』を受けて、健康経営に優れた企業として、経済産業省と東京証券取引所が共同で選定する『健康経営銘柄2021』に保険業で唯一6年連続で選定された。取引先企業の『健康経営優良法人認定』の取得支援を精力的に行っており、氏も『健康マスター検定普及認定講師』の資格を保持している。
 「半田支社の経営理念は『知多半島の豊かさで、快適な社会生活と経済の発展に貢献する』です。地域創生はSDGsで注目する分野であり、当社も半田市、知多信金、半田信金、商工会議所との5者間による地域力推進(地方創生)プロジェクト協定の提携を結びました。私が副部会長を務める金融部会の事業計画にも、SDGsに関連した事業を掲げています」
 同時に半田市、商工会議所と連携し、カードゲーム『SDGs de 地方創生』を通して勉強会の開催、SDGsに取り組んでいる企業の支援、PRに尽力している。このカードゲームの主催、開催には公認ファシリテーターの資格が必須であり、同社東海北陸ブロックで62名がその資格を有し、氏も率先して資格保持者となった。
 「その土地で足跡を残す。当社で言われている言葉です。今までその土地土地で足跡を残してきたつもりです。半田ではSDGsの普及に取り組み、足跡を残したいと考えています。転勤族の私はどこの勤務地でもSDGsの目標に通じる当社、お客さま、その土地の活性化をテーマに仕事をしてきました。私の中に売り手よし、買い手よし、世間よしの近江商人の『三方よし』の精神が生きています。それは私が育った滋賀の風土が醸成してくれたのかもしれません」
 転勤という、その日が当然やってくるまで、三方よしの精神に則り、半田のために尽力していくことだろう。

*カードゲーム『SDGs de 地方創生』は、企業や住民らが主体となって行政と協力し活動することで、まちをダイナ
 ミックに変えていく面白さを体感することができます。

●ちょっと一息●
『知る者より好む者、好む者より楽しむ者のパフォーマンスが勝る』と言われているように、楽しむために色々なことに挑戦してきた方だと思います。
それぞれの勤務地で最大限楽しみ、負けず嫌いな性格から在学中は色々なスポーツ検定に挑み金バッジを取得、そして誰よりも先に資格保持に挑戦したり・・・。最近ゴルフを始め、スクールに通う予定にしています。振り返れば野球をやめることになった時は落ち込みましたが、今こうしていられるのは怪我をしたから、怪我をしたことが幸運だったかもしれないと感じています。常にポジティブに考える。これも私の資質でしょうか。
 休日には公園で息子とキャッチボールを楽しむことも大きな喜びです。子どもがいるから頑張れる。妻がいるから気分がラクになり人生が豊かで充実している。そんな家族と一緒に楽しい日々を送りたいと思っています。

1978年京都府生まれ。小学2年生で滋賀県に転居。2003年関西大学商学部卒業。同年日動火災(株)(現東京海上日動火災保険(株))入社。京都支店、経理、海外部門(シンガポール・マレーシア担当)、横浜中央支店、姫路支店を経て、
2020年4月現職。当所議員。当所金融部会副部会長。半田市在住。



モノ作りに憧れて

2021年6月9日(水)

愛知道路コンセッション株式会社 代表取締役社長 柘植 浩史氏

始まりは大工さんへの憧憬だった。手先が器用で竹とんぼ、凧などモノを作ることが大好きだった。中学入学前、自宅建築時に大工仕事を見て、『楽しそう!』と中学卒業後に大工の道を志した。視野を拡げてから将来を決めたら、と親族からアドバイスを受け、高校に進学したが、建築・土木の世界への想いは深く、大学院修了後により大きなものを造りたいと、前田建設工業に入社した。  
 「モノを造りたい一心で現場を希望しましたが、本社(東京)設計部門に配属され、海ほたるのシールド発進立坑の構造設計が最初の仕事でした。新入社員ではできることも限られ、モノが大きすぎて歯車のような感覚で(笑)やらされ感が強く、喜びは東京で働けることでした(笑)。4年目に上司に直訴し、現場に出してもらいました。首都湾岸線に続く浮島の現場で、設計者の目で見た予見通りのトラブルが発生し(設計通り進捗しないのは地質の原因が多い)、それを対処し会社に貢献できた時に、土木屋としてある程度一本立ちをしたと感じ、モノを造る喜びも味わいました。現場で働くだけでなく、設計技術者としても貢献できると実感しました。そんな時に、設計技術者か現場、どちらを専門とするかの選択を迫られました」 
 『現場経験をした設計技術者は大きな強みを持つ』という上司の言葉に納得し、設計技術者としての道を決意した。後、長男ゆえに郷里、中津川市に近い中部支社(名古屋市)への転勤を願い出て勤務。上司の引き合いで、社長直轄の会社方針等を決定する部署、本社総合企画部への異動命令が下ったのは38歳の時だった。その異動は現職へとつながることになり、大きな岐路となった。 
 「経験・知識不足も感じ、新しい業務に飛び込み期待に応えられるのかと不安にかられましたが、背伸びしても力以上のことはできない、与えられた環境の中で着実に一歩一歩進んでいこうと覚悟しました。以後、その姿勢は仕事への取り組み方の基本になっています」  
 2019年現職に就任。同社は全国初の有料道路運営(県内8路線)を行うことを目的に、前田建設工業が2016年設立。愛知県内で72.5キロ、うち知多半島内では52.8キロの道路の維持・管理をしている。 
 「当社の運営開始以来、道路の舗装状況が良くなった、料金所での対応も良くなったという声をいただいています。当社の親会社が建設会社であるからこそ、道路施設のメンテナンスにこれまで培ってきた建設業のノウハウが活かせていると感じています。ご利用者様に安心して走っていただける安全な道路を提供するために、当社や協力企業は日々精進しています。南海トラフ地震に備え、パーキングエリア(PA)を使っての防災訓練も定期的に実施しています。災害時にはPAに留まっていただくことが大前提です。皆さま方のご協力をお願いいたします」  
 上司や仲間に恵まれたからこそ、ここまでの歩みがあったと道程を振り返る。また、人と人との関係は鏡であり、自分の思っていること、考えていることは相手も思い考えている。互いを尊重しながらより良いものを創造していく。それもまた、仕事をしていく姿勢にもなっている。 
 「運が良かったことで今の私があると感じています。しかし、運は自ら呼び込む側面もあり、感謝の気持ちで周囲に接することが大切と信じています。感謝の気持ちを持ち続ける。私の生き方です」  
 モノを造りたいと飛び込んだ世界だった。現在は長として直接モノ造りの分野からは距離を置いているが、流れに逆らわず、一歩一歩着実に歩む。その精神は不変である。

●ちょっと一息●
 「バスケットボール、野球、スキー、テニスを楽しんでいましたが、10年ほど前から一人でできることを、と週2回ほどジョギングをしています。(ハーフマラソンに2回出場)。走った後の達成感が堪らず、体調管理も兼ねて走り続けたいと思っています。コロナ禍で色々なイベントが中止になり、週末
には家族の住む中津川市に帰る時間が取れるようになり、家庭菜園に勤しんでいます。モノを作るのが好きだからと始めたのですが、椅子や本棚を作るのとは勝手が違い、生き物は難しいですね(笑)。昨年は上手くいっても今年は不作だったり、だから作っていて面白いですね。そろそろ夏野菜の植え付けが始まります。 
 晴耕雨読、悠々自適の生活は夢ですが、体が動かなくなったことを考えて、読書以外で動かず長く楽しめる趣味を探していますが、なかなか見つかりません。亡き父が好きでやっていた囲碁に挑戦するのもいいかもしれませんね」

 1964年岐阜県中津川市生まれ。89年岐阜大学大学院工学研究科土木学
専攻修了。同年前田建設工業(株)入社。本社設計部門、中部支社、本社総合企画部長等を経て2019年現職(前田建設工業から出向)。当所議員。半田
市在住。 






5年先を見る!

2021年5月21日(金)

昭永ケミカル株式会社半田工場 工場長 丹村 州宏氏

 いつの頃からか、5年先を見て行動することを心掛けるようになった。仕事に忙殺される今は、その到達点を目指しているが、振り返れば中学生時代に漠然と将来の自分を考えた時に『変えたい!』と決心し、高校入学後は『変わろう!』と努力した。 
 「小学生の時は教科書に載っていた『泣き虫』の方言『泣きメロ』と呼ばれ、授業中に挙手できず、先生から指名されると顔が真っ赤になり黙ってしまう子どもでした。そんな自分が嫌で、意地になってそれまでの自分と決別しよう、将来こうありたいと考えていました。今では人前でも全く動じなくなりました(笑)」 
 住宅メーカーに入社し、5年後に東京に転勤命令が下った。夫人が妊娠中、両親が入院という状況で身動きが取れず、退職を決意した。将来像を描けないのはたった一つ、人生計画であると言う。それは自身だけではなく、家族単位で歩調を合わせることが大切だからと語る。家族を最優先し転職を選択、義父の勤めていた昭永化学工業(株)(現昭永ケミカル(株))に入社した。
 「前職も経理・総務畑でしたので戸惑うことはなく、私の周辺状況が落ち着いた2年後に経営企画室(東京)勤務となり、予算計上、社内ルール作りなど、やりがいのある仕事に携わる機会をいただきました。以後、半田工場の生産本部、再構築計画等に関わり、2019年現職に就きました。当工場は愛知県という物流面でも恵まれた立地にあるため、1973年の操業開始当初より同社の主力工場として稼働してきました。水性を含め幅広い品種の塗料の製造工場で、安全・品質の信頼に足る実績を積み上げています」 
 お客様のニーズにお応えできることを第一に考え、最初の1年で現状を把握、2年目からは考え土台を作り、5年目に実行するように導いていく。しかし近年、法令基準の変化、働き方改革、三六協定、そしてコロナ禍と、その背景や労働環境も激変している。工場長に就任し3年目を迎えるが、計画通りの進捗を望めないことも多々あるようだ。
 「短期間では、選択肢が限られる傾向にあると考えています。長期的に物事を捉えれば、最初の計画が頓挫しても、そこから波及して何かが生まれたり、別のアイデアも出てきます。無駄がないように考え、1年ごとに練り直していくことも必要でしょうね。変わること、変えることを極端に恐れない私の性格からか、失敗をどうリカバリー出来るかが自身の価値だと思っています。長いスパンを心掛けるのは、頑固な私だから冷静になって考えようとする自戒からかもしれません。柔軟に物事を捉えようと思っていますが、周りから見たらやはり頑固かもしれませんね(笑)」 
 企業として人材育成は重要で、特に製造業では技術の継承は大きな課題となっている。それは在職者全員に当てはまることで、今の担当者が次の世代に今出来ることをきちんと継承していくことで、仕事となってつながっていく。与えられた職責の中で責任を取り判断し考えていくことが仕事であり、単純にやっているのは作業に過ぎない。仕事にしていくことは、担当者の責務であると語る。もちろん、それは自身に向けての言葉でもある。
 「かつて、上司にとって私は扱いにくい部下だったようです(笑)。仕事として受けたからにはやるべきだと、頑固に出来る方法を考えてきました。努力をしてきたというより、こうありたいという想いで必死でした。涙を流したこともありますが、やりがいがあり面白い仕事に出会えて感謝しています。お客様のニーズにどう応えるのか?今、求められていることは何か?出来ることは何か?常に考えています。5年先も常に考えながら、その時々のこうありたいという夢に向かって仕事をしているでしょうね」

●ちょっと一息●
「ゴルフを楽しんだり、本の虫でジャンルを問わず乱読していた時期もありました。読書は老眼になり(笑)少し遠ざかり、いつの間にか一人で出来る写真を撮ることが趣味になりました。半田の住民になって20年
以上になり、市内の至るところに出かけカメラのシャッターを切ってきました。被写体は草花や自然が多いですね。彼岸花の時期は何度も矢勝川沿いに通いました。自分が撮られるのが嫌いなので人物は撮りません。子どもの成長記録の写真も妻が担当でした(笑)
 伊勢や静岡辺りまでバイクで遠出をする時も、常に単独行動です(時々バイク通勤をしています)。思い立ったら気ままにどこでも行き、気持ちも楽な一人の時間を楽しんでいます。バイクで遠出し、写真を撮る。趣味満載で、至福の時間です」

丹村 州宏氏
1969年名古屋市生まれ。91年愛知大学法政学部経営学科卒業。住宅メーカーを経て、96年昭永化学工業(株)(現昭永ケミカル(株))入社。経営企画室(東京)、生産本部、再構築計画に関わり、製造課長を経て、2019年現職。当所議員。半田市在住。



未来への“考動” ~より多く学び より多く交流し 最高の連帯感を~ 

2021年4月19日(月)

令和3年度半田商工会議所青年部会長 庭楽株式会社 代表取締役 榊原 亮輔氏

 コロナ禍の今だからこそと、持ち前の行動力が支持され、今年度の会長に就任。入会して10年、若干40歳。「既成概念に囚われず、自由な発想で委員会事業を実施してきた。昨年度はコロナ禍一色で大半の行事が自粛されたが、亮輔君なら何かやってくれるのではないか!」と会長を支えるブレーンからも熱い声援が届く。
 「後輩に誘われ入会し、1年目は和気藹々と楽しく活動し、2、3年目は仕事が多忙となりスリープ(笑)。翌年、県連会長に半田から出向することになり、そのお供に任命されました。真面目な奴じゃあダメ、イケイケでなければと居酒屋で口説かれ、酔った勢いで引き受けてしまって(笑)。身長178cm、体重93kgのこのキャラクターが、盛り上げ役に抜擢されたようです。笑顔でいても怖いと言われ悩んだこともありますが、ロマンティストで心は繊細で乙女です(笑)」
 何にでも挑戦、時々の出会いをチャンスに変えるのも自分自身と、県連への出向を機に積極的に活動に関わった。堅苦しいことが苦手、ルールに縛られたくない。そんな想いが強く、組織としての活動に躊躇したこともあったようだが、メンバーの温かさや人と人との絆を肌で感じ、次第に青年部活動にのめり込んでいった。
 交流委員会の委員長時代、家族交流会「情熱交流バラエティー~半田の田んぼでイッテQ!~」を企画。田んぼを貸し切って開催するのは初めてのことで、ケガをしないか?衛生面は大丈夫か?様々な課題を委員会のメンバーに助けられ、クリアして当日を迎えた。メンバーも子どもに負けじと楽しみ、大盛況に終わった。この経験からやりがいと達成感の醍醐味を味わい、青年部活動に情熱を注いだ。遠方の長期出張時も、会議参加のために半田に帰り、とんぼ返りをするという離れ業をやってのけた。
 「前例にないからという言葉は大嫌いで、その原因を取り除けばどんなことも可能になると確信しています。出来ない理由を並べ、何もしない選択をしてしまうことがありますが、コロナ禍という逆境下の今こそ思考や行動を止めてはいけないと考えています。そういう想いも込めスローガンは『未来への“より多く学び より多く交流し ~”考動最高の連帯感を~』です」
 昨年度コロナ禍を経験し、人と人とのつながりや思いやり、本当に大切なものが見えてきた。その想いを踏まえ、青年部創立*の意義をメンバーで再確認し、新たな一歩を踏み出す大切さを力説する。同時に半田商工会議所(親会)活動への参画を基本方針の大きな柱にした。
 そして飲みながら熱く語ることで、自身の方向性や気づきも見えてきた経験から、懇親会でのface to faceを大いに推奨する。もちろん『断らない男』として研修会・懇親会は皆勤賞もの。
 「要は入って良かったと思われるような青年部にしていくことです。僕自身、心の支えとなる人、心底相談出来る仲間と出会い、青年部に入会して人生が変わりました。先日もメンバーから、仲間に支えられ情報を共有してきたことで苦境を乗り越えてきた。青年部に入っていなかったら廃業をしていたかもしれないという言葉を聞き、改めて『絆』の大切さを実感しています。誰もが苦しい状況でしょうが、みんなと一緒に学び、交流し、連帯感を持てば未来は明るいと確信しています」


*本青年部は、次代を担う経営者及び後継者、幹部社員として研鑽をつみ、人格教養、経営能力の向上により、企業の発展をはかり、あわせて商工会議所活動への参画、協力を通じて地域経済、地域社会への繁栄に貢献することを目的とする


 「がんじがらめの校則の建築専門学校をさっさと退学し、仲間と楽しむために、アメ車を買って楽しもうと色々な仕事をしました。19歳の時、父の造園会社を手伝い僕の人生は大きく変わりました。いざやってみると、すごく心に響いたというか、草刈りの仕事であんなに清々しい気持ちになれるなんて、正直自分でも驚いたものです。今まで賃金の高さで仕事を探していた僕が、楽しさ、面白さのために仕事をし始め、色々な庭を手掛けたいという想いで26歳で庭楽を創業しました。
 破天荒な父との関係性から『信頼関係』の大切さを始めとした多くのことを学びました。その当時の僕の姿を見て多くの人が支えてくれるようになりました。中でも僕の人生のターニングポイントとなった独立直後に仕事を依頼してくれた幼なじみのお母さん、父の会社で働いていた頃から心の親方と慕っている大先輩、僕を世の中に出してくれた稲沢のデザイナーさんは、感謝してもしきれない3人です。
 今、僕はトータル空間プロデューサーとして、日本全国、時には海外で仕事をさせてもらっていますが、このご縁は稲沢のデザイナーさんからいただきました。東海テレビの『玄関最速ビフォーアフター』の出演依頼を受け、以後、仕事内容も変化し社業発展の追い風となりました。メディアに出ることで、こんなに信頼されるのかと驚き、時にはそのプレッシャーに潰されそうになりながら、我流でしたが負けまいと必死で勉強し、常にアンテナを張っています。
 今まで様々な「庭という空間」を生み出してきました。これからも一つひとつの出会いを大切に、庭好きなお客様と一緒になって、本当に価値のある空間をつくり続けること。それが僕の夢です」

榊原 亮輔氏
1980年半田市生まれ。98年愛知県立武豊高校卒業。
99年(有)知多グリーンプラン入社。2006年庭楽(株)創立。
平成22年度半田商工会議所青年部入会。交流委員会委員長などを経て令和2年度愛知県商工会議所青年部連合会副会長。令和3年度半田商工会議所青年部会長。半田市在住。 



変革期こそ同じベクトルに

2021年3月23日(火)

中部電力パワーグリッド株式会社半田営業所 所長 木下裕義氏

 秘めた想いや苦しみは見えない。2019年、同社で一番若い営業所長として着任。穏やかな眼差しと口調で語られる今までの歩みは、決して平坦な道のりではなかったようだ。成功体験という醍醐味を味わったこともあったが、部署ならではの苦悩や困難に耐え忍んできた。その時々で米アラバマ大学のアメリカンフットボール名監督、ウォルター・D・ウィントルの『すべては心の持ち方次第である』という言葉を支えに、ボート部で培った忍耐力で乗り切った。大学時代ボート部キャプテンとして練習に明け暮れた日々は、人間力を創造し、人生を左右し、また人生を切り拓く武器となった。 
 「生家は曽祖父から鰤網の漁師として漁業組合で大船頭を任され、私が4代目後継者でした。しかし漁業の将来を不安視した両親の勧めもあり、迷いながらもサラリーマンの道を選択しました。少年時代は野球、高校ではボート部に入部し、勉強もそこそこに部活動に熱中する毎日でした(高校選抜大会優勝)。ボートで大学に呼んでもらい(笑)そのボートの縁もあって当社に入社しました」 
 地元に帰ることを考えて公務員を志したが、試験日が学生最後のレース決勝戦と重なり大会に出場、人生の岐路に立った1日だった(大学インカレ優勝)。入社後は緑営業所(名古屋市)に配属となり、電気の新増設受付・工事の手配等に関わった。以後も常に人と対面しての業務であったが、ボート部で培ったコミュニケーション能力を発揮した。様々な人との関わりがあったが『当たり前じゃあ面白くない。困難な時こそ、新しい仕事に取り組む時こそ、やる気が出てきた』と振り返る。 
 「本店で調達業務を担当していた10年ほど前に業務効率化、ガバナンス強化を目指して、創立以来、60年間継続してきたシステムの改革を手掛けました。長年染みついた手法や習慣を打破するため、時には鬼になり(笑)、必要不可欠な仕事と割り切りました。やり遂げた達成感も味わいましたが、辛い仕事でした。叩かれてもへこたれない、田舎で養ったど根性も役に立ちました(笑)」  
 20年ぶりに2店目となる営業所、半田営業所の現職に就いた。営業所は現場、本店支店は管理部署での業務。その差異に戸惑うこともあったようだ。 
 「営業所勤務は入社してすぐの2年間だけ、経験不足を感じる時もありますが、やってやろうという気概は誰にも負けません。そして若いからこその行動力があると自負しています。今までは縁の下の力持ち的な仕事に関わってきましたが、現職になり、社員の家族も預かる責任の重さを感じています。良質なエネルギーを安全・安価に安定供給することは、立派な電力マンになる第一歩ですが、非常災害時には張り切りすぎて二次災害に遭ったら本末転倒です。いかなる状況下でも安全を最優先に、社員の命を守ることが私の大きな使命です」
 昨年4月に同社は発電(つくる)送電(おくる)小売(うる)の三事業を機能ごとに分社化し、社名を『中部電力パワーグリッド半田営業所』と改称し、新たなスタートを切った。半田営業所はおくる事業を担い地域に一番近い事業場として、お客さまを第一に考え、様々なご用を承り、地域のライフラインを支えている。  
 「地域に根ざした企業というのは不変ですが、変革期こそ社員一人ひとりが安定供給という、同じベクトルに向かうことが大切です。そういう意識を醸成し、求心力を高めていくことも私の使命であります。同時に地域貢献も大きな役割と考えています。これまでも新しく創り出す仕事、プロジェクト的な仕事が多く、貴重な経験をさせていただきました。脂の乗り切った世代と言われる年齢を迎えた今、少し気も長くなって(笑)余裕を持って何が必要で何をすべきかを的確に把握し、貪欲にチャレンジしていく所存です」  
 入社して24年、様々な経験を経た今も、熱い想いや苦しみを心の奥底に秘めたまま、真摯に仕事に取り組む日々を送る。 

●ちょっと一息●
 「大学時代は早朝4時起きでボートの練習、授業、終わったら練習と、練習漬けの日々で本を読む機会もなく過ごしてきました。入社後に先輩や取引先の方々から本を読むことの素晴らしさを教えていただき、読書は趣味の一つとなりました。通勤電車の中で読むことが多いのですが、今熟読しているのは、唐代、治世の問題を真正面から取り扱い、帝王学の指南書となった「貞観政要」です。時代に乗り遅れないように書籍からも多くのことを学びたいですね。
 また、趣味と言って良いのか分かりませんが、居酒屋でワイワイ酒を飲むことが好きです。その土地の酒と肴、地元の方との語らいを楽しみに、あちこちの店を訪れていました。コロナ禍の今はそういう時間が過ごせないのが残念です。社内では酒に強くないと半田の所長は務まらないという根も葉もない迷信があります。その点では十分に合格点と思っています(笑)。
 出身地、七尾市にある旅館「加賀屋」のモットー『笑顔で気働き』は、「できません」は言わない、「マニュアルより笑顔で気働きを」と、加賀屋流のおもてなしの精神です。その精神で、お客さまによりそった営業所として今後も私の使命を果たしていきます」

木下裕義氏
1975年石川県七尾市生まれ。97年早稲田大学人間科学部卒業。
同年中部電力(株)入社。緑営業所、火力センター、本店(資材管理)、岐阜支店、本店(資機材調達・工事請負契約)を経て2019年現職。
当所常議員。工業部会長。名古屋市在住。