半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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子どもの輝く未来の幸せに貢献する

2021年2月18日(木)

有限会社 共育舎 専務取締役 平林 明美氏

 ホップ、ステップ、ジャンプ・・・明るく元気に楽しく、その時々の周りの声に応えて軽やかに人生を歩んできた。衛生看護科に通う姉の解剖生理学の教科書を見て、こんなことを学びたいと看護師を志した。
 「小学5年生の時に亡くなった父をお世話してくださった看護師さんに憧れたこともあり、看護師を目指して桃陵高校に進学し、専攻科卒業後は愛知県がんセンター病院に勤めました。その頃に主人と出会い、主人が私の父と同じ誕生日であることに運命を感じ、20歳の時に勢いで結婚しました(笑)。結婚前に義母から『うちの嫁になるんだったら珠算1級を取ってね。あと家事もよろしくね』と言われ、看護師をしながらそろばんの練習をしていました。主人のためと健気に頑張りました(笑)。ちなみに、高校時代に料理教室に通っていたおかげで、お料理は少しも苦ではありませんでした」
 結婚後しばらくは子育てに追われる日々を過ごし、ある日、友人からそろばんを教えてと頼まれ、教室を開校したのが4番目のお子さん(娘さん)が1歳の時だった。その後もうひとり男の子が生まれ、生まれたばかりの子どもを教室の角のクーハンに入れて授業に臨んだ。やがて要望に応え、書写も教えることになった。
 「5人の子どもたち(4男1女)は皆、好きな中学校を受験しましたが、子どもたちの勉強を見ているうちに自然に私の学力もつき、小学生や中学生の学習指導にも参画するようになりました。主人と私の影響もあったのか、子どもたちのうち4人は当社に参画してくれ、それぞれの得意分野で当社を支えてくれています。そのおかげもあり、事業は順調に拡大しています。2018年4月には、保護者の方からの要望で、21世紀型学童保育『Let’s Port』をスタートしました」
 共働きが当たり前になったいま、習いごとが土日に集中し、なかなか家族でゆったりと過ごす時間が作れないご家庭が多い。Let’s Portでは、お子さんをお預かりながら、そろばん、速読、算数、国語、書写やプログラミングなどの習いごとが可能である。仕事を終えたお母さんやお父さんがお子さんをお迎えに来られたときには、お茶を飲みながら悩みをお聞きし、リフレッシュしていただくこともある。このように働く家族を支え応援したいという想いで運営している。
 「私が子育てしていたころ、地域の方に随分助けていただきましたので、少しでもそのお返しになればという気持ちで仕事に取り組んでいます。子育てや教育には正解がありません。だからこそ、昨日よりも良い教育、良い指導になるように試行錯誤をすることを心がけています。そして、子どもたちには、学力のみならず、笑顔で『ありがとう』と感謝できるような人に育ってもらえたら大変嬉しいです。これからも、『子どもの輝く未来の幸せに貢献する』を経営理念に、子どもたち一人ひとりとひたむきに向き合っていきます」 
 パワフルな原動力は、「何事も前向きに捉える。良い経験も悪い経験もすべて糧になる」という考え方だ。多少失敗してもいいから行動し続ける。「じっとしていると損な気がする」と笑う。仕事がないときでも常に何かに没頭しているという。最近は認知機能を如何に保つかを考え行動することがマイブーム。関連する書籍やネット、ときには動画を通じて知識を蓄え、それを運動、料理、お菓子・パンづくりなど、身の回りの環境すべてに反映させる。常にどうしたらもっと効果が出るかを考え、その行為自体を楽しみ、続ける。コロナ禍のこんな時だからこそ、元気で明るくパワー全開!
 「仕事も充実し、家族も元気で私も自由に楽しく動けています。今が一番良い時かもしれません。しかしこの先、もっと大きな幸せが待っていると期待しています。その年齢にならないと味わえない気持ちがあることが、年齢を重ねるごとに分かってきたからです。ちなみに、今年の私のテーマは『素直に生きる』です。嬉しい時は嬉しいと言い、嫌なことはそれは嬉しくないと言う、子どものような純真な心を持つということでしょうか。最終到達点は子どもに返ることかもしれません(笑)」
 明日からも高く高く、ジャンプし続けていくことだろう。
 
●ちょっと一息●
当社の母体『半田速算』は1924年(大正13年)、県下で2・3番目に開校したそろばん教室です。主人の父と主人は、古くから半田商工会議所とお付き合いがありますが、私が会議所と関わらせていただいたのは青年部に入会した2000年からです。平成の大合併構想のときには合併委員会ビジョン小委員会に委員として参加しました。父も母も日本海側から知多半島に移り住んできており、空の青さ、温暖な気候、雪かきをしなくても暮らしていける半田が大好きで、私もその影響を受け半田大好き人間になりました。ちなみに、子どもたちもそんな私に感化されたのか半田が大好きです。知多半島がもっと住み良いまちになれば嬉しいと、まちづくりを熱心に学んだ時期でした。
 青年部メンバーとして活動したことも深く印象に残っています(サンタクロース事業ではトナカイになりました)。入会当時、私は38歳。研修会後の二次会、三次会も積極的に参加し、あまり年の違わないメンバーから『お母さん』と呼ばれ、母の日はカーネーションをいただいていました(笑)。「私はあなた達を産んだ覚えはありません!」と笑っていましたが、とても嬉しかったですね。その時からのご縁で今も何かあるたびに青年部メンバーとのお付き合いが続いています。学童保育を開設した時も、内装、備品、オープンチラシ等の相談に電話1本でメンバーが駆けつけてくれました。現在は、次男が青年部メンバーとして活動しています。弊社と半田商工会議所との繋がりは、これからも長く続いていくでしょう。

平林 明美氏
1962年常滑市生まれ。82年愛知県立桃陵高校専攻科卒業。
愛知県がんセンター病院勤務。退職後、2000年有限会社共育舎入社および半田商工会議所青年部入会(07年卒業)。
当所議員、サービス部会副部会長(専門サービス分科会長)および人材育成委員会委員。半田市在住。 



目標に向かい挑戦  No Rain No Rainbow

2020年12月11日(金)

アクサ生命保険株式会社 名古屋支社 支社長 齊藤 俊英氏

 目前の目標に向かって挑戦し続けた。そのルーツは小学4年生から始まった。勉学で2人の親友の中で一番を目指し、病に苦しむ人を救いたいと医師を志し、中学受験のために進学塾に通った。
 「成績優秀者に贈られる優秀賞を獲ることを目標にしていました。生まれ育った江東区深川は庶民の町、山の手から通う塾生が多く、深川より少しイメージの良い隣町、両国から来ているとちょっと
見栄を張っていました(笑)。結局、第一志望の試験日にマイコプラズマに罹ってしまい、想いは届きませんでした。以来、本番に弱い男になりました(笑)」
 大学で学んだ経済学の延長で金融関係を志望し、日本団体生命(現アクサ生命保険)に入社した。保険会社に付き物の転勤という2文字は全く頭になく、両親にその事を問われて長男であるがために思案した。当時、同社は野球が強く、『野球部で活躍すれば東京勤務になるらしい』という噂話があったため、中学時代に経験した野球部に入部した。
 「東京に残りたい一心で体を張ってダイビングキャッチまでしていましたが(笑)、選に漏れ三重県の桑名営業所に赴任し、4年後の岐阜営業所から所長として勤務しました。父母のような年代の方の
中で全く自信が持てず、人見知りな私はおっかなびっくり仕事をし、飲みニュケーションにも励み(笑)、可愛がっていただきました。転勤先をゴルフのコースに例えていうなら、以後、ショートホールの旅に出ました」
 後年サーフィンを再開し夫人とも出会い、より豊かな人生を送るようになるが、まるで波を追い求めるように、蒲郡、神奈川、東京、埼玉、茨城と太平洋沿岸地に勤務した。ロングホールの旅に出た旭川支社からは、支社長として統括する立場に就いた。
 「所長時代は推進員と一緒に営業に行くことも多くありました。ゴールキーパーですが、いつでもフォワードになる存在ですね(笑)。苦労もしましたが、経営者から地場産業の話なども伺い、楽しくやりがいもあり貴重な経験をさせていただきました。全200余営業所中で、1番を獲りにいくつもりで30番以内の営業成績を収めることを目標にしていました。推進員の努力もあり、トップ10に何度か入れたのは幸運だったと感謝しています」
 新潟、福井支社を経て、現職に就いたのは2019年1月。支社長として、営業所長の個性が発揮できるよう、伸び伸びした職場環境作りに努め、共済推進員には社会科と算数に強くなって欲しいと願う。同社は昭和42年から商工会議所共済制度の全国展開をし、商工会議所と関わりが深い。現在は来月1月1日からの当所共済制度『あおぞら共済』リニューアル*に向けて多忙な日々を過ごす。
 「時代の変遷により、生存保障が求められています。実際に死亡給付金よりも入院給付金支払いが多くなってきていますので、より加入者さまのお役に立てると思っています。また、これからは働く人の減少、高齢者雇用の時代になり、従業員の健康増進にも気遣うことが求められます。従業員の健康は企業の繁栄につながります。
会議所さんと足並みを揃えて、企業の皆さまの『健康経営』のお手伝いをしたいと思っています」
 昨年、法人保険税制の大幅な変更があり、時代は急速な変化を遂げている。それに対応していくために絶えず、学ぶ姿勢を持つべきと自戒する。
 目前の目標に向かって挑戦し続ける人の実体は、努力を忘れず、自分に厳しい人のようだ。
 
●ちょっと一息●
 転勤は日本全国を旅させてもらっているようなものです。転勤族であるがために色々な人、その土地ならではの楽しみにも出会えました。
 今はサーフィンのために旅行をするサーフトリップを楽しんでいます。大学でサーフィン部に入ったのがサーフィンとの出会いで(全日本学生サーフィン選手権フレッシュマン5位入賞)、神奈川勤務から大学卒業以来15年ぶりに再開しました。茨城営業所では共済の担当部長から「歴代の所長はフルマラソンの霞ヶ浦マラソンに出場することになっている」という厳命で、4時間を切ることを目標に練習に励み完走しました。余談ですが、ボデイボードを趣味とする妻と出会ったのもこの時代です。北海道ではスノーボードと、山野などの舗装されていない道を走るトレイルランニングを
楽しんでいました。
 今はサーフィンと近郊の山に登り、温泉に浸かるという幸せな時間を過ごしています。体力維持にもつながるこの楽しみ、いつまでも続けていきたいと思っています。また、寺社仏閣古拙巡りが好きで、
暇が出来ると奈良や京都にふらっと出かけたりもしています。仏像を見ると心が落ち着きます。

齊藤 俊英氏
1964年東京都江東区生まれ。
87年明治大学政経学部経済学科卒業。
同年日本団体生命(現アクサ生命保険)に入社。桑名、岐阜、蒲郡、神奈川、東京、埼玉営業所等を経て、2019年現職。AFP(日本FP協会認定) 当所議員。
名古屋市在住。



次なる挑戦の時

2020年11月18日(水)

愛知海運株式会社 半田カンパニー 取締役カンパニー長 吉川 敦氏


生まれ育った知多市で働くことも考えたが、縁あって同社に入社した。社会人としてのスタート時は、巷ではバブル期を代表する(ビタミンドリンク・リゲインの)CMソング『24時間戦えますか?』が流
れ、誰もが企業戦士だった。
 「毎日ドタバタしていました。配属された作業課では、仕事が忙しくなると到着したコンテナから貨物を出したり、船から鉄骨を下ろす作業等をしました。高校時代に野球をやり体力には自信がありましたが、時には『何でこんなことしなきゃならないのか』と思ったりもしました(笑)。若かったので、現場の大切さも理解できませんでした」 
 以後、貿易の実務部門、通関等に携わり現半田カンパニーにも勤務した。同社は全ての業務を覚えるために様々な部署で学びながら、知識の向上、人脈形成などを図ることを目的に、2~3年周期で異動する方針である。 
 「やっと馴染んできた時の転勤は寂しい反面、新しい仕事に挑戦するチャンスです。経験を積むためには良い機会だったと感じています。当社は港湾運送事業をメインにし、お客さまと貨物が異なりますが、仕事内容はどこのカンパニーでもそれほど大差はありません。大切なことは、人とのつながりだと思っています。私自身、その場や人に接するのは苦ではありませんでしたが、人間関係はいつの世も複雑ですね(笑)」 
 35歳で管理職(課長)としてマネージメントする立場に立ち、人を使う難しさに直面した。ビジネス本や歴史本から答えを導き出し、対話する機会も積極的に設け、試行錯誤した。その時の苦難は、会社人として生きていくための大きな転換期になったと言う。そんな苦しい時代もあったが、素晴らしい出会いもあった。 
 「入社直後の上司にも恵まれ、本社のオペレーションチーム時代には、上司のみでなく、同僚・部下にも恵まれ、今でも社内で心強い仲間達であり、良き相談相手、良き協力者となってもらってます。現社長の部下としても寝食を共にしました。私を理解してくれ、上手く使っていただいたと思っています。人心掌握術が素晴らしく、いつの間にかそのペースに巻き込まれ、あるべき方向に向かっていました。会社での師匠であり、その方との出会いがあったからこそ、今の私があると感謝しています」 
 三河カンパニー長に就任した時も、全責任を負う覚悟を決め、大きな転換期を迎えた。以後、名古屋カンパニー長を経て、2019年4月に現職に就いた。 
 「長い間、現場と離れていましたが、改めて現場の重要性を感じています。作業員たちが安全な環境で働くことができ、仕事が効率よく回るためにも、現場に足を運ぶことを日課としています。ここでのベースは現場です。時として、入社直後に作業員として働いていたことが脳裏に浮かびます。時代もやり方も違ってきていますが、全社員が一丸になり協調していくことが大切と改めて感じています」 
 コロナ禍で今まで通りの業態の継続が難しくなった業界も多い。同社も今後、物流量の確保が困難になっていくだろうと予測する。
 「そういう事態になった時も社員を守るために、新たな業態を作ることが私の責務となってきます。入社以来、バブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災など大きな節目がありましたが、誰しも経験したことのないコロナ禍は、先行き不透明で不安もいっぱいです。私が入社したきっかけとなったのは、アットホームで居心地の良い会社であったことも一因です。その雰囲気の中で仕事も充実し、出会いにも恵まれ、運がいい男だと思っています。今こそ会社への恩返しのためにも、次なる挑戦の時と思っています」 



●ちょっと一息●
 半田には25年ほど前、27歳の時に勤務し、姉家族が住み、ご縁のある町です。祭りの盛んな町らしく、元気な人が多いように感じています。会議の進め方もテキパキとし、せっかちな私に合った町だと思っています(笑)。
その元気をいただいて、家庭では『亭主、元気で留守がいい』を実践していました(笑)。コロナ禍の前までは歴史好きが高じて城や神社仏閣を巡ったり、ゴルフや酒席、野球観戦に出かけたのですが、今では休日は家でゴロゴロが多くなりました(笑)。アルコールは好きで、焼酎を嗜んでいますが、2人の娘は相手をしてくれなくて・・それを求めてはダメですね(笑)。
『明日には明日の風が吹く』好きな言葉です。後悔をしないためには懸命に今日を過ごし、嫌なことは一晩眠れば忘れるようにしています。そうすればきっと明日には、さらにいい風が吹くことを信じて・・。

吉川 敦氏
1967年愛知県知多市生まれ。
89年愛知大学法経学部卒業。同年同社入社。
本社、三河・名古屋カンパニーを経て、2019年現職。当所議員。知多市在住。



今こそ、変わる!

2020年10月13日(火)

大八化学工業株式会社 半田工場 工場長  藤田 裕規氏

生まれ育った大阪府堺市の秋祭り「ふとん太鼓」で、神輿を担いでまちを練り歩くのが楽しみだった。好きな祭り、友人も多い大阪で働きたいと大阪市に本社を置く同社に1992年に入社。以来、昨年4月に半田工場長として赴任されるまで、大阪の地で勤務してきた。同社は日本で初めて電線塗料用可塑剤を開発し、培ってきた合成技術を応用してビジネス、医療など新時代の潮流を捉えて多様なニーズに応えてきた。特にリン系難燃剤・可塑剤において国内のトップメーカーである。 
 「研究、技術、製造現場と色々な部署に携わってきました。15年ほど前には、環境に優しいプラスチックの可塑剤開発をしていました。当時、世間は環境に対する意識はあったものの、開発した可塑剤が認知されずその道は険しかったですね。生分解性の可塑剤ということで原料の選定から始まり、市場への展開に辿り着いた頃に生産現場である工場に配属されました。工場への配属は、自身の開発品を責任持って工業化しろということだったと思いますが、上市はされたものの日の目を見ることはなく、ラインナップから外されるのではないかと危惧していました。性能には自信もあり、幾度となく自分でなんとかしたいと思いに駆られたものです。近年はプラスチックによる海洋汚染が深刻になり、その分野もより注目され、ユーザーからの問合せが増加しています。開発からは時間が経過しましたが、自身の開発品が注目されることはうれしいものです」
 工場勤務となってからは、ある意味、苦難の連続でもあった。24時間稼働の生産現場では、マネジメントの立場で年上の部下への対応、トラブルのために真夜中にかかってくる電話とその対応。また小学校、住宅地に隣接している寝屋川工場では、特に安全面など化学工場ならではの課題への対処等、様々な対応に苦慮した。 
 「従業員の意識改革にも心を砕いてきました。今までやってきたことを当たり前と思いがちですが、そうではないことを認識してもらいたいと思っています。半田工場(1975年創業)は、経年劣化による老朽化が目立つようになっています。設備の老朽化は、安全面や品質までにも影響を及ぼします。今までは何もなかったから、これからも大丈夫という保証はどこにもありません。変えていくという認識が重要だと思っています」 
 前職の寝屋川工場でプラントに対する考え方や働き方について多くを経験。半田工場には立場も変わり赴任してきたこともあり、今までの経験を活かした変化にチャレンジしたいと言う。折しも『改革』は同社の次なる挑戦として動き始めている。社名が物語るように大正8年(1919年)創業の同社は、昨年創業100年を迎えた。それを機に次の100年に向けて、全社一丸となって『変革』に取り組んでいる。 
 「初めての工場長という責務を全うしたいと、日々やりがいを感じています。技術の伝承はもちろんですが、誇りを持って働ける会社にしていくことが先ずは大切なことと考えています。それにはプラントを整備し働き方の意識、職場環境など手掛けることは山積しています。従業員とその家族のために『変える』を遂行します」

●ちょっと一息●
初めての単身生活を送っています。家の周り(武豊町)や半田の街中を散策していましたが、コロナ禍の中で出かけられず、家と会社の往復です。出かけてもスーパーに一週間分の食材を買い求めるというパターンで休日は過ぎていきます。たまに京都に帰っても娘2人からは相手にされず、愛犬との散歩のために帰っているようなものです(笑)。
知多半島を知りたいと思って、今年は知多四国八十八箇所巡りを計画していました。お遍路さんの装束で周ろうと張り切っていたのですが、コロナ禍でその望みも叶わないままです。祭り好きとしては半田の祭りも楽しみにしていたのですが、中止となってしまい残念です。こんな状況の中では仕方ないですね。
野球を見るのが好きで、家族揃っての阪神ファン。娘が就職して初めての給料で阪神・巨人戦のチケットをプレゼントされ感激。娘の阪神のユニフォームを借りて妻と観戦に行きました。早くコロナのことを気にすることなく家族そろって甲子園に行けることを楽しみにしています。


藤田 裕規氏
1968年大阪府堺市生まれ。
92年岡山理科大学生物化学科卒業。同年大八化学工業入社。
寝屋川工場、技術センター(東大阪市:現在は大阪技術開発センター)、寝屋川工場を経て現職。当所議員。武豊町在住。



常にチャレンジ

2020年9月1日(火)

日油株式会社 愛知事業所長兼武豊工場長  高橋 勝彦氏

丁重で物静かな語り口調は、「常にチャレンジ」という熱い想いを秘めているようだ。在籍する大学院が同社と共同研究をしていたこともあり、新材料、新しい加工技術等を創造できるだろうと同社に入社した。学んでいた環境工学は裾野が広く、様々なことに取り掛かりやすい分野ではあったが、実社会では苦悩する日々だったと言う。 
 「武豊工場の研究所に配属され、既存の製品に少し手を加えたものを作ったり、新しい化合物の開発を手がけていましたが、厳しい日々でした。『力を付けたい、あれも知りたい、これも知りたい』と貪欲に取り組んできたつもりです。ただ仕事に対しては不器用で(笑)、一つのことに集中してしまって、時間の使い方は上手くなかったですね」
 真摯に真っ直ぐに取り組み、時には寝食も忘れて向き合い、溢れ出る探究心を満たした。氏曰く、入社後に右も左も分からない中で主軸原料となる硝酸エステルのプラントを立ち上げたのは思い出深く、苦労も多かったと振り返る。  
 「畑違いの分野に戸惑うこともありました。30歳の頃、爆発検証のためにモノが破壊されていく過程を数値化するプログラムのソフト開発のために、米国(サンディエゴ)に留学しました。大学の研究室で教授に指導を受ける日々でしたが、辛かったですね(笑)。今まで関わっていた物理化学の世界から数字の世界に変わり、四苦八苦の毎日でした。束の間の楽しみは、地域の人との関わりで、その土地の文化や習慣に触れることでした。教授のお宅にも伺い、楽しく刺激的な時間も過ごしました」 
 初めての世界で期限までに作り上げなければならない過酷な仕事であったようで、以後は多少の厳しい状況に置かれても、臆することなく対応できるようになった。想像を絶するような時間もあったようだが、研究者としての喜びも存分に味わった。  
「好きな研究を存分にできる。楽しくて仕方がなかった時期もあります。また、目標に向かって努力し、それが完成したときの達成感は何事にも代え難い喜びです。研究者冥利に尽きる瞬間でした。当工場は今年創業101年目を迎え、ロケット関連製品、産業用爆薬類を始め、医療薬原料等生活に密着した製品も数多くあります。製品として市場に出て半世紀以上、当社の売上に大きく貢献している主力製品も多数あり、新しい技術、新しい分野の開拓、将来の国際化を見据えて、次なる主力製品を作るために化学メーカーとして多面的に事業を展開しています。一研究者として貴重な経験をしてきました」 
 30年近く研究者として携わり、本社(東京都渋谷区恵比寿)の化薬事業部、企画室、関係会社を経て、2014年武豊工場長、16年より愛知事業所長を兼務している。研究者であり続けたいと願ったこともあったが、長として今年度の経営方針である「挑戦と協創」の下、安全・コンプライアンスを基本にして、「成長市場への事業拡大、新製品・新技術開発の加速、社内外との連携強化、生産性の向上、CSRの推進」に強力に取り組んでいる。  
「火薬工場は典型的な労働集約型産業です。労働力に頼る割合が高いので、特に生産性の向上に明確な道筋を付けるための課題に取り組んでいます。その対処のための一つに人材育成があります。立場が変われば想いが変わるように、いつの間にか私も諸先輩から受け継いだバトンを、次代につなげていくことを使命と考えるようになりました。しかし、ついつい昔の自分を忘れて『もっと要領よくやったら』と思ってしまうことがあります(笑)」  
かつて「何でこんな苦しい思いをしないといけないのか?」と悩んだ時に、先輩から「好きなことばかりできる訳ではない、与えられた仕事の中にも面白いことはある、それを探せ」とアドバイスされ、以来それを心に記して仕事と向き合ってきた。そして「おもしろき こともなき世を おもしろく」高杉晋作の辞世の句を大切な言葉として温めている。 
 工場を総括する長として、「常にチャレンジ」、次代へ確実にバトンをつなげるために邁進する。

●ちょっと一息●
5年前から半田の住民になりました。生まれ育った福山市も大学の北九州市も緑が多く、新入社員として武豊に赴任する時に降り立った名古屋駅の混雑にドギマギした記憶があります。この地は暮らしやすい町だと思っています。
スポーツ観戦(野球、サッカー、駅伝、マラソン等)を楽しみ、たまにゴルフと庭いじり。お酒はソコソコと日々の生活を満喫しています。しかし工場が稼働している時は携帯電話が手放せません。万が一の時のいち早い対処のためですが、鈴を付けられた猫のようです(笑)。


高橋 勝彦氏
1958年広島県福山市生まれ。
84年九州工業大学大学院工学研究科環境工学専攻修了、日本油脂(現日油)株式会社入社、愛知事業所配属。
本社、関係会社を経て2014年武豊工場長、16年愛知事業所長。博士(工学)。当所議員。半田市在住。