半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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今こそ、変わる!

2020年10月13日(火)

大八化学工業株式会社 半田工場 工場長  藤田 裕規氏

生まれ育った大阪府堺市の秋祭り「ふとん太鼓」で、神輿を担いでまちを練り歩くのが楽しみだった。好きな祭り、友人も多い大阪で働きたいと大阪市に本社を置く同社に1992年に入社。以来、昨年4月に半田工場長として赴任されるまで、大阪の地で勤務してきた。同社は日本で初めて電線塗料用可塑剤を開発し、培ってきた合成技術を応用してビジネス、医療など新時代の潮流を捉えて多様なニーズに応えてきた。特にリン系難燃剤・可塑剤において国内のトップメーカーである。 
 「研究、技術、製造現場と色々な部署に携わってきました。15年ほど前には、環境に優しいプラスチックの可塑剤開発をしていました。当時、世間は環境に対する意識はあったものの、開発した可塑剤が認知されずその道は険しかったですね。生分解性の可塑剤ということで原料の選定から始まり、市場への展開に辿り着いた頃に生産現場である工場に配属されました。工場への配属は、自身の開発品を責任持って工業化しろということだったと思いますが、上市はされたものの日の目を見ることはなく、ラインナップから外されるのではないかと危惧していました。性能には自信もあり、幾度となく自分でなんとかしたいと思いに駆られたものです。近年はプラスチックによる海洋汚染が深刻になり、その分野もより注目され、ユーザーからの問合せが増加しています。開発からは時間が経過しましたが、自身の開発品が注目されることはうれしいものです」
 工場勤務となってからは、ある意味、苦難の連続でもあった。24時間稼働の生産現場では、マネジメントの立場で年上の部下への対応、トラブルのために真夜中にかかってくる電話とその対応。また小学校、住宅地に隣接している寝屋川工場では、特に安全面など化学工場ならではの課題への対処等、様々な対応に苦慮した。 
 「従業員の意識改革にも心を砕いてきました。今までやってきたことを当たり前と思いがちですが、そうではないことを認識してもらいたいと思っています。半田工場(1975年創業)は、経年劣化による老朽化が目立つようになっています。設備の老朽化は、安全面や品質までにも影響を及ぼします。今までは何もなかったから、これからも大丈夫という保証はどこにもありません。変えていくという認識が重要だと思っています」 
 前職の寝屋川工場でプラントに対する考え方や働き方について多くを経験。半田工場には立場も変わり赴任してきたこともあり、今までの経験を活かした変化にチャレンジしたいと言う。折しも『改革』は同社の次なる挑戦として動き始めている。社名が物語るように大正8年(1919年)創業の同社は、昨年創業100年を迎えた。それを機に次の100年に向けて、全社一丸となって『変革』に取り組んでいる。 
 「初めての工場長という責務を全うしたいと、日々やりがいを感じています。技術の伝承はもちろんですが、誇りを持って働ける会社にしていくことが先ずは大切なことと考えています。それにはプラントを整備し働き方の意識、職場環境など手掛けることは山積しています。従業員とその家族のために『変える』を遂行します」

●ちょっと一息●
初めての単身生活を送っています。家の周り(武豊町)や半田の街中を散策していましたが、コロナ禍の中で出かけられず、家と会社の往復です。出かけてもスーパーに一週間分の食材を買い求めるというパターンで休日は過ぎていきます。たまに京都に帰っても娘2人からは相手にされず、愛犬との散歩のために帰っているようなものです(笑)。
知多半島を知りたいと思って、今年は知多四国八十八箇所巡りを計画していました。お遍路さんの装束で周ろうと張り切っていたのですが、コロナ禍でその望みも叶わないままです。祭り好きとしては半田の祭りも楽しみにしていたのですが、中止となってしまい残念です。こんな状況の中では仕方ないですね。
野球を見るのが好きで、家族揃っての阪神ファン。娘が就職して初めての給料で阪神・巨人戦のチケットをプレゼントされ感激。娘の阪神のユニフォームを借りて妻と観戦に行きました。早くコロナのことを気にすることなく家族そろって甲子園に行けることを楽しみにしています。


藤田 裕規氏
1968年大阪府堺市生まれ。
92年岡山理科大学生物化学科卒業。同年大八化学工業入社。
寝屋川工場、技術センター(東大阪市:現在は大阪技術開発センター)、寝屋川工場を経て現職。当所議員。武豊町在住。



常にチャレンジ

2020年9月1日(火)

日油株式会社 愛知事業所長兼武豊工場長  高橋 勝彦氏

丁重で物静かな語り口調は、「常にチャレンジ」という熱い想いを秘めているようだ。在籍する大学院が同社と共同研究をしていたこともあり、新材料、新しい加工技術等を創造できるだろうと同社に入社した。学んでいた環境工学は裾野が広く、様々なことに取り掛かりやすい分野ではあったが、実社会では苦悩する日々だったと言う。 
 「武豊工場の研究所に配属され、既存の製品に少し手を加えたものを作ったり、新しい化合物の開発を手がけていましたが、厳しい日々でした。『力を付けたい、あれも知りたい、これも知りたい』と貪欲に取り組んできたつもりです。ただ仕事に対しては不器用で(笑)、一つのことに集中してしまって、時間の使い方は上手くなかったですね」
 真摯に真っ直ぐに取り組み、時には寝食も忘れて向き合い、溢れ出る探究心を満たした。氏曰く、入社後に右も左も分からない中で主軸原料となる硝酸エステルのプラントを立ち上げたのは思い出深く、苦労も多かったと振り返る。  
 「畑違いの分野に戸惑うこともありました。30歳の頃、爆発検証のためにモノが破壊されていく過程を数値化するプログラムのソフト開発のために、米国(サンディエゴ)に留学しました。大学の研究室で教授に指導を受ける日々でしたが、辛かったですね(笑)。今まで関わっていた物理化学の世界から数字の世界に変わり、四苦八苦の毎日でした。束の間の楽しみは、地域の人との関わりで、その土地の文化や習慣に触れることでした。教授のお宅にも伺い、楽しく刺激的な時間も過ごしました」 
 初めての世界で期限までに作り上げなければならない過酷な仕事であったようで、以後は多少の厳しい状況に置かれても、臆することなく対応できるようになった。想像を絶するような時間もあったようだが、研究者としての喜びも存分に味わった。  
「好きな研究を存分にできる。楽しくて仕方がなかった時期もあります。また、目標に向かって努力し、それが完成したときの達成感は何事にも代え難い喜びです。研究者冥利に尽きる瞬間でした。当工場は今年創業101年目を迎え、ロケット関連製品、産業用爆薬類を始め、医療薬原料等生活に密着した製品も数多くあります。製品として市場に出て半世紀以上、当社の売上に大きく貢献している主力製品も多数あり、新しい技術、新しい分野の開拓、将来の国際化を見据えて、次なる主力製品を作るために化学メーカーとして多面的に事業を展開しています。一研究者として貴重な経験をしてきました」 
 30年近く研究者として携わり、本社(東京都渋谷区恵比寿)の化薬事業部、企画室、関係会社を経て、2014年武豊工場長、16年より愛知事業所長を兼務している。研究者であり続けたいと願ったこともあったが、長として今年度の経営方針である「挑戦と協創」の下、安全・コンプライアンスを基本にして、「成長市場への事業拡大、新製品・新技術開発の加速、社内外との連携強化、生産性の向上、CSRの推進」に強力に取り組んでいる。  
「火薬工場は典型的な労働集約型産業です。労働力に頼る割合が高いので、特に生産性の向上に明確な道筋を付けるための課題に取り組んでいます。その対処のための一つに人材育成があります。立場が変われば想いが変わるように、いつの間にか私も諸先輩から受け継いだバトンを、次代につなげていくことを使命と考えるようになりました。しかし、ついつい昔の自分を忘れて『もっと要領よくやったら』と思ってしまうことがあります(笑)」  
かつて「何でこんな苦しい思いをしないといけないのか?」と悩んだ時に、先輩から「好きなことばかりできる訳ではない、与えられた仕事の中にも面白いことはある、それを探せ」とアドバイスされ、以来それを心に記して仕事と向き合ってきた。そして「おもしろき こともなき世を おもしろく」高杉晋作の辞世の句を大切な言葉として温めている。 
 工場を総括する長として、「常にチャレンジ」、次代へ確実にバトンをつなげるために邁進する。

●ちょっと一息●
5年前から半田の住民になりました。生まれ育った福山市も大学の北九州市も緑が多く、新入社員として武豊に赴任する時に降り立った名古屋駅の混雑にドギマギした記憶があります。この地は暮らしやすい町だと思っています。
スポーツ観戦(野球、サッカー、駅伝、マラソン等)を楽しみ、たまにゴルフと庭いじり。お酒はソコソコと日々の生活を満喫しています。しかし工場が稼働している時は携帯電話が手放せません。万が一の時のいち早い対処のためですが、鈴を付けられた猫のようです(笑)。


高橋 勝彦氏
1958年広島県福山市生まれ。
84年九州工業大学大学院工学研究科環境工学専攻修了、日本油脂(現日油)株式会社入社、愛知事業所配属。
本社、関係会社を経て2014年武豊工場長、16年愛知事業所長。博士(工学)。当所議員。半田市在住。



オンリーワン!ナンバーワンに!

2020年8月11日(火)

豊田メタル株式会社 代表取締役(常務)松本 忠氏

 志半ばで挫折したことも、己や会社、社会と闘い、常に挑戦してきた道のりだった。子どもの頃からの車好きが高じてカーデサイナーを夢見た。その道を目指した大学入試では、デッサン力が伴わずに断念した。他の大学に入学してもなお、『これで良かったのか?男の夢を追い求めようか?』と悩んだと振り返る。 
 「就職先もカーデザイナーの道には辿り着けず、海外出張もあるだろうから、未知の世界に身を置けば次にやりたいことが見つかるかもしれない。この会社の中でいずれデザイン部を作れるかもしれないと自分に言い聞かせ、豊田通商に入社しました」 
同社の“入社4年目に異動”という制度により、鉄のスクラップリサイクルを担当した。以後それに深く関わり、リサイクルの仕事はやりたいこと、やりがいへとつながっていった。当時、鉄屑は旧態依然とした世界の中で商いがされており、その中で何が出来るかと常に闘っていた。系列を超えて市場を拡げることを提案し、時代を見据えて海外輸出を訴えた。上司から『100年早い!』と言われることもあったが、氏曰く『私の声が大きかったからでしょう』と笑うが、熱意に押された上司からの理解、また、バブル崩壊という時代も味方して(日本では売れなくなってしまったため)海外輸出が実現した。さらにそれまで扱っていなかった鉄鉱石も、視野に入れることを意識し始めた。
 「無理だと上司から言われましたが、鉄屑は“クズ”なので、後に続く若者はこんな世界でしか闘えないのかと思うでしょう。鉄鉱石を当社で扱えない理由探しがしたかったんですね。それで産地オーストラリアの駐在を願い出ました。
その後も色々な人と闘い、自分の力の無さに消沈することも多々ありましたが、今こうして生きているから大丈夫でしょう(笑)。アメリカ勤務を経て、この会社に赴任したのは一昨年の10月ですが、自動車リサイクル法が施行された2005年前後には当事業に関わっており、その後再度、海外数ヶ国でのリサイクル事業に従事したのち戻って参りました。当社は50年前に豊田メタルスクラップとして設立し、社名の改称と共に進化しています。ユニークで、オンリーワンかつナンバーワンになれる要素を持った会社だと思っています。ここで仕事が出来ていることに幸せを感じています」 
 2001年には自動車リサイクル研究所が完成し、リサイクルをしやすい車体構造の研究、効率的な解体技術等の研究をし、世界でも類を見ない取り組みをしている。また、家電リサイクル他、鉄や樹脂等の廃棄物リサイクルもしており、鉄スクラップの生産量は、年間約7万トンを数える。 
 「現場で車や家電を解体している従業員、大型機械をオペレーションしている従業員、研究所その他全ての仕事の先は、地球環境負荷の低減、明日の生態系の保全につながっています。それら全て社会の重要なパートの仕事ということを認識し、やりがいを持って仕事に臨んでもらえたら嬉しいですね。国連が提唱している持続可能な開発目標(SDGs)達成のための17項目の、ほぼ全項目にヒットしています。そのことを従業員に伝えていくことは私の役割だと思っています」
 今年4月から『ネクストメタルプロジェクト』をスタートし、来年から組織化を図る予定である。若手社員が中心となり、明日の豊田メタルのために何が出来るか?働きがいのある会社にするためにはどうすれば良いか?と意見を闘わせている。オンリーワンかつナンバーワンになるための第一歩を踏み出した。
 「今、次代を担う若者に、狙いを定めて確実に一発で勝負する『スナイパー型行動』よりも、失敗してもとにかく撃ち続けて成功をつかむ『マシンガン的な行動』を促しています。若い時は『熟慮断行』を心がけていましたから、全く矛盾していますね(笑)。以前は自分が基準、今は会社、人を見ているんでしょうね。時代性、立ち位置の変化からでしょうが、常に闘い、挑戦するという思いは一生変わらないと思います」

●ちょっと一息●
尾張旭市に落ち着いて2年ほどになります。休日はゆっくりしていることが多いですね。海外では休日も精力的に動いていたので、今はゆっくり過ごしたいという欲求が強いのかもしれません。
海外生活は家族全員、単身、妻と2人であったりと、子どもたちの生活に合わせてきましたが、休日は必ず旅行に行っていました。ベルギー勤務時代には少し足を伸ばせばあちこちの国に行け、そこでは色々なイベントがあって、とても楽しかったですね。その影響でもないでしょうが、ワインが大好きで少し前までは1日に2本は空けていました。
社会に出てからは絵筆を握る時間もなく過ごしてきましたが、究極の夢は絵を描きながら世界を放浪すること。叶えられたら嬉しいですね。

松本 忠氏
1959年愛知県一宮市生まれ。83年名古屋大学経済学部卒業、豊田通商(株)入社。
86年以来、主にスクラップリサイクルを担当。オーストラリア、イギリス、ベルギーに駐在。
2016年アメリカ・ケンタッキー(豊田通商アメリカ:金属資源SBU長)を経て18年帰国し
19年現職。尾張旭市在住。当所議員。日東会代表幹事。



未来に羽ばたくために

2020年7月15日(水)

日本車輌製造株式会社 輸機・インフラ本部 衣浦製作所長兼技師長  西尾 俊彦 氏

大きなものを作りたい、地図に残る仕事に関わりたいと入社し、鉄構事業部に配属された。そこで水門等の機械設備の設計技術者としてスタートし、22年間設計や工事管理に携わってきた。この仕事と出会って幸せだった、と語る人の多くから『運が良かった』という言葉が飛び出すことがある。氏もまた、時代の大きな節目に、やりがいのある仕事に携われ『運が良かった』と語る。
 「設計技術者として、印象深い仕事を一つあげるとすると、地下鉄の海底トンネルの水門建設で1年ほど香港に駐在したことです。初めての海外での仕事でした」
 九龍と香港島を結ぶ海底トンネルは、沈埋トンネル方式が採用され、両岸部には防災用のゲートを設けているが、そのゲートの設計を同社が担当した。氏は、当時建設中の空港と香港島を結ぶ海底トンネルの水門の設計・施工で関わり手腕を発揮した。1997年、香港返還の年に工事は完成し、7月1日の20世記最後の歴史的イベント「香港返還」を間近で体感し、現地で雨空の花火を見上げた時、工事を完成させた喜びもひとしおだったと振り返る。
 「いろんな仕事を経験しました。運よくその時代にその仕事と出会い、多くの人との出会いがあり様々な学びがありました。技術者として、これまで有意義で充実した時代を過ごすことができました。そうした経歴を経て、所長としてこの衣浦製作所に戻ってきた昨年は、事業部の大きな節目となるプロジェクトの真最中でした」
 同製作所は、1975年の開所から45年以上に亘り橋梁を始めとする各種鋼構造物の製造を担ってきた。現在、工場を大規模にリニューアルし、同社の他製作所で生産してきたタンクローリーや大型産
業車両を移転しラインナップに加え、この4月から新体制で始動したばかり。従業員も大幅に増え、協力会社を含め約500名という大所帯になった。
 「安全で働きやすい環境づくりは所長として最も大切な仕事です。今、モノづくりの会社では、技術の伝承は大きな課題になっています。
若い人がここで働きたいと思ってもらえるような製作所にしたいと、厚生施設にも注力しました。社員食堂はカラフルできれいになり、メニューも充実しました。どれも美味しいと評判で、若い社員はお昼ご飯を楽しみに仕事をしているという声も聞いています。工場リニューアルの機会に製作所パンフレットも一新し、『未来に羽ばたく』という最初のページの言葉に、私自身の思いも込めました。所長としては未だ1年生。日々、いろんな課題にどう対処すべきかと自問自答しています。時には厳しさも必要になりますが、自分なりの方法で従業員の皆さんと接していこうと思っています。毎日が手探りの連続です」
 製作所の安全を預かる総責任者の立場として大きな重責を担い、工場内を日々安全パトロールし、気さくに従業員に声をかけコミュニュケーションを大切にする。1年目の今は時には迷い悩みながら所長としての職務に向き合う。
 だが、技術者としては、自らの経験を通して、社会に役立つ仕事、地図に残る仕事をしてきたことに誇りと絶対の自信を持つ。水門は災害から人を守る、橋梁は地域をつなぎ人と人をつなぐ、タンクローリーは人々の暮らしに欠かせない燃料を全国隅々まで届ける。同社の企業理念『社会基盤の充実と発展に幅広く貢献』は、全社員のモチベ
ーションになっている。
 「私は一仕事やり遂げた後の仲間との打ち上げが好きです(笑)。
一人の力には限界があります。仲間と共に困難を乗り越えた後、一緒に語り合い、一緒に飲み、喜びを分かち合う。これは最高の時間です。その瞬間を心から楽しむためには、自分が全力で仕事に立ち向かい納得出来た時だけ。やるべきことをやったと自分に言える時だけと思っています。私自身、新しいことに挑戦することは好きで、いつもワクワクした気持ちで、精一杯仕事に取り組んできたつもりです。その結果、心に残る仕事と多くの仲間と出会えました。今は新型コロナ禍で大変な時期ですが、仲間と共に乗り越えていきたいと思います」

ちょっと一息
身体を動かすことが好きで、今はゴルフにはまっています。製作所敷地内の片隅に芝生を巡らして整備し、ゴルフ好きの仲間と共に毎日練習に励んでいます。
休日は、妻と近くの野山をよく散策します。四季折々で自然と触れ合うことは本当にいいですね。最近、山の中で突然大きなカモシカと出くわし、びっくりしました。

西尾 俊彦 氏
1963年岐阜県恵那市生まれ。86年名古屋工業大学機械工学科卒業。同
年日本車輌製造(株)入社。鉄構事業部に配属され、本社(熱田)や衣浦製
作所の勤務を経験し、22年間同事業部に所属。その後、エンジニアリング事
業部(11年間)を経て、2019年現職。多治見市在住。当所常議員。





幹事会活動を通し充足感を得る

2020年5月29日(金)

潮干会代表幹事・株式会社テクア半田事業所 所長  渡辺 勝広氏

「前世は欧米人だったかもしれません」と笑いながら語るように、ある意味、昭和30年代生まれの日本人の視点とは少し異なるのかもしれない。氏の職歴もその一つのように思う。
 「大学卒業後は営業職として東京の商社に就職しましたが、縁あって30歳の時仕入先であった名古屋のプラントメーカーに転職しました。その後、顧客であった産業廃棄物処理業界に転職し、同業3社を経て2013年2月現職に就きました。僕は職人に憧れ、一つの仕事を突き詰める生き方は素晴らしいと思っています。でもサラリーマンからのスタートだったので、自分の可能性を見出すことが出来るかもしれないと、次なるステップを求め続けてきました。業種が変わるたびに専門書を読みあさり苦労もしましたが、どこに行っても、その道に精通する人になりたいと思ってきました。社会に出てからの学びは生きた学問です。それが今の僕の財産になっていると感じています」
 同社は、1955年常滑市での創業以来一貫して環境衛生事業に取り組んで来た。2013年循環型社会形成に貢献できる新規事業の基点として半田事業所を開所し、県内浄化センターから排出される下水汚泥を発酵処理し、有機肥料を製造、農地に還元するリサイクル事業を行っている。そこの初代所長に着任1年後から、潮干会(潮干町内企業24社で結成された自治会・事務局は半田商工会議所)の運営に代表幹事として関わっている。
 「産廃処理工場は自分の側には来てもらいたくない迷惑施設でしょう(笑)。しかし、ここで生きているのだから社会貢献をしよう、お役に立てればと思って引き受けることにしました。僕の性分から、引き受けたからにはしっかりやろうと、様々な提案をしてきました。清掃活動、献血、親睦ゴルフは定例行事でしたが、もっと多くの人が潮干会に関わって楽しめるよう、ボウリング大会をスタートしました。また、場内道路での迷惑駐車・雑草繁茂、夜には暗くなってしまう歩道等、地域が抱える問題を改善するため所轄官庁様との懇談会を実施しています。僕は行政に対しても言いたいことは言っています。でもクレーマーではなく、団体として努力出来ることをしながら、市としても会の困っていることに協力して欲しいと要望し、互いに仲良くしながら環境改善を図りたいと思っています。そして、先に進むためにはその時々で、結論を出すべきと考えています。提案させてもらいながら話し合いをし、その要件が不可能であれば、次の一手を考えることができ、前に進むことが出来ます」
 時には自助努力をしながら、暗い歩道対策でソーラーセンサーライトを会で購入し幹事会メンバーで設置した。交通安全講習実施、起震体験車ナマズ号による地震体験会段取り(残念ながらコロナウイルス感染拡大防止のため中止)等、働きやすい環境づくりのために尽力してきた。有言実行を座右の銘とし、(不言実行は嫌い。失敗しても分からないでしょう(笑))ついつい、『こうしたい、ああしたい』と提案し率先して動く。自ら忙しくしているかもしれない、自己満足かもしれないと苦笑するが、これも性分のようだ。行動型の英米人、慎重型の日本人と言われることがあるように、とかく日本人は自ら積極的に発言し行動することは少ないようだ。それ故に、友人からは「欧米か?」と軽口をたたかれることもあるそうだ。
 「好きでやっているんだから、やってもらったらいいんじゃないと言われながら(笑)、潮干会幹事会と関わり6年目(内4年が代表幹事)になり、あっという間の6年でした。いわゆるボランティア活動である幹事会活動を通して、金品では得られない充足感を得られたように感じています。思えば予想外に転職を重ねた40年で62歳を過ぎた今、失業期間を1回も経験することなく生業を得られたことには感謝しかありません。定年退職まであと3年になりましたが、ますます健康に留意し、サラリーマン人生の最終コーナーを元気に走り抜けたいと思います」

ちょっと一息
高校時代はサッカー部でしたが能力の限界はいかんともしがたく、大学時代はワンダーフォーゲル部に所属していました。体育会だったのでかなりしごかれ、道なき山での合宿はつらい記憶しかありませんが、手つかずの自然に対する畏敬と憧れは今でも脳裏に残っています。そのせいか、20年ほど前から源流に近い渓流域でのテンカラ釣りにはまっています。ヨーロッパ発祥のフライフィッシングの日本版と言えばわかりやすいでしょうか。テンカラは竿・ライン・毛ばりの3点のみの道具立てでアマゴ・イワナと対峙する日本特有のシンプルな釣りです。ウキ・リール・おもりは使いません。
 諸説ありますが江戸時代にはその原型である職漁師の釣りとして存在していたようです。(私はキャッチ&リリースですが)シンプルが故により自然と溶け込んだ感が強く飽きることがありません。今年は外出自粛のため一度も釣行できていませんが、(昨年購入した軽キャンピングカーでの遠征もおあずけです)春から秋の漁期(それ以外は禁漁)に年10回以上は山岳渓流に足を運んでいます。もちろん大きな熊鈴をつけておっかなびっくりですが(笑)

渡辺 勝広 氏
1958年神奈川県川崎市生まれ。82年明治大学商学部卒業。商社、プラントメーカーを経て、20年前くらいから産業廃棄物処理業界に関わり、2013年(株)テクア入社、半田事業所所長に着任。名古屋市在住。