半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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高度な技術力、的確なニーズ

2020年5月1日(金)

株式会社富士総合設備事務所 代表取締役  西川 祥司氏

ユニフォームの作業服を着て、現場から現場に飛び回わる日々を送って30年近い。トヨタの関連会社、化学工場を経て、同社に入社したのは25歳の時。先代社長の娘さんと結婚し、後継者の道を歩むことになった。
 「継ぐことを軽い気持ちで引き受けたのですが、畑違いの設備工事の仕事は戸惑うことばかりでした。配管工事をしていても何の配管かさえ分からず、完成してから初めてこの仕事をしていたんだと思うほどで(笑)、見よう見まねで一から覚えていきました。体力には自信があったのですが、きつかったですね。色々な苦労はありましたが、『何とかなる』と考えるようにし、楽観的な性格で乗り切ってきたことも多々ありました」
 同社は1972年、先代の榊原康夫氏がプレハブ小屋を構えスタッフ4人でスタートした。当時は指定工事制度も定着し、半田市下水道指定工事店(現在は半田市・東海・知多・西尾・豊田・名古屋市等の上下水道指定工事店)として順調に滑り出した。しかし、第一次・二次オイルショックに見舞われ苦境に立たされたこともあった。そんな時も高度な技術力を追求し、現場が何を要求しているかを的確に把握し、精度の高い仕事をすることをキーポイントとし、難局を乗り越えてきた。その経営方針が同社の底力となり、1997年に名古屋支店を開設。2007年には本社を現在地に移転し、市場を拓いてきた。
 「2代目として2012年に現職に就き、現場の仕事、図面の作成に忙殺されています。会長に退き、別会社を設立して仕事に臨む先代に今も多く学んでいます。仕事が好きで何事にも真摯に取り組み、常に意欲的ですね。80歳を超えてもイキイキと働く姿勢は、経営者としても人としても見習いたい点です。
 この業界もここ数年で、安全に対する意識が高まってきました。書類一つとっても、入社した頃に比べるとその数も増えました。夏は炎天下のもと、冬は厳しい北風の中での仕事ですが、安全で働きやすい環境づくりを心がけています。課題の一つに職人の減少があります。3年から5年の経験で一人前になり、あとは応用次第ですので、ベテランになっても現役で働けます。ただ体力が必要ですのでスタートは若い時、30代前半までが望ましいですね。未経験者でも可能、やる気のある人を募集中です」
 扱う部材も日々進化を遂げ、アンテナの張り方で仕事の効率化に格段の差が出てくる。使用器材は設計図の品番に則るが、部材は企業努力が反映されることも多いようだ。今まで困難だった作業も、使用する部材いかんで容易に作業できるようになる。日頃の材料屋との付き合いや、メーカーの新商品の発表会の参加など、いかに情報を得るかは、経営者としての重要な仕事ともなっている。
 マンション、店舗、工場などのトイレや台所、厨房などの水廻り全般の給排水衛生空調設備工事や、工場内各種配管工事などに携わるモノづくりの世界での達成感は、完成した時と言う。深く埋設される配管や住宅でのその仕事は、完成後は目に触れることはないが、高度な技術力、的確なニーズの把握は、確かにそこに生きている。
 「公共の建物に入ると、ついついトイレの便器に目が行ってしまいます。どんな仕事をしているか確かめてしまいます。職業病でしょうね(笑)。当社の業務内容は土木、建築工事に関連する付帯設備工事、計画、設計、施工、維持管理の請負など多岐に亘り、尾張、三河地方、及び名古屋地区を商圏としています。それは設立時に社名を考える時、富士山の優美な姿に憧れ、広範囲に知名度を高めたいと云う思いを込め、また、メンテナンスの必要性も感じ、あえて『事務所』を付けたと聞いています。その思いに恥じないよう日々精進していきたいと思っています」


ちょっと一息
 実は今年開催されるはずだった『東京オリンピック2020』の観戦チケットの抽選に当選しました。陸上の予選でしたが、延期になってしまって残念です。今年の夏の楽しみがお預けになってしまいました。
 趣味とは言えないかもしれませんが、昨年二人目の子どもも大学で外に出て、ヨメさんと二人になりネコを飼い始めました。私が帰宅しても喜んで膝に乗ってくるわけでもなく、「帰ってきたな」という感じで淡々としています。愛猫“二コ”は室内で暴れまわるので至る所にバリケードを作り、快適に過ごしてもらいたいと猫グッズ作りに追われています。楽しく作業しています。もう少し懐いてくれると嬉しいのですが(笑)。


西川 祥司氏
1967年大阪府生まれ。小学校2年生で半田市に転居。85年半田東高校卒業。92年同社入社。2012年現職。当所議員。



熱波

2020年3月31日(火)

令和2年度半田商工会議所青年部会長 株式会社池田工業代表取締役 池田 龍一氏

行きつけの店で、マスターがカウンター越しに声をかけた。「商売をしているなら、半田商工会議所青年部の仲間にならない?」いち早く隣の彼女が「いいじゃあない。入ったら!」と応じた。青年部への入会が決まった瞬間だった。その後、彼女と結婚し、入会直後に結婚お祝い金を頂戴したと笑う。
 「本格的に活動したのは小学校のPTA活動にも携わり、一区切りした入会7年後くらいからです。「飲みに行こう!」と引っ張り上げてくれる先輩に恵まれ(笑)、飲みに行く、青年部に馴染む、事業に参加するという図式で活動にハマって行きました(笑)。活動を始めた時、『東海ブロック半田大会』があり、交通部会長を拝命しました。役員の中で一番若かったので、色々な意見をいただきフォローしてもらいました。先輩方はみんな熱くて、物事に対して真剣に取り組み、そのパワーに感動し貴重な経験をさせていただきました」
 氏は裏表のない人、有言実行の人とメンバーから評される。そんな姿勢が心を打ってか、令和2年度の会長に要請された。今まで先輩に学んだことを後輩に返そう、現役メンバーの「やってください」という声が、受託する大きな要因になったようだ。
 「僕自身、3年前に父から家業を受け継ぎ、プレイジングマネージ
ャーとしての立場です。正直、仕事との両立は厳しいと感じています。しかし、時間を作るのも勉強の一つと先輩方から学びました。出来ないと思ったら出来ない、見よう見真似でやってみようの精神で向き合っていこうと思っています。こういう立場に押し上げてもらったので・・・。僕からすると、押し上げてくれた皆んなの方が大変では?僕をフォローするのが(笑)。
 でもこれからの青年部は、僕みたいなものでも役員が出来るということが重要になってくるのではと思います。それぞれ個性があり資質も様々ですが、入会したからには誰もが役をやって欲しい。やれば、きっと感じることはあるはず、成長につながるはず。役は人を作ると信じています」
 『失敗してもいいからチャレンジを』よく言われた言葉だと振り返る。熱量を持って挑戦すれば、その熱に仲間もほだされ成功へとつながる。熱量を持って事業に参加すれば、その熱が波及して会全体が盛り上がる。そういう場面を幾度も重ねてきて、『熱量』の重要性を体感した。会員同士、外に向けて熱い波を起こして行きたい。そんな想いを込めて、スローガンは『熱波』とし、『沖に(遥か遠くのものを目指す)行くなら、熱い想いで取りに行って欲しいと願う。
 「せっかく会員であるなら目一杯YEGを使おう!!組織を使って商売、人脈を広げて行って欲しいと思っています。同時に子どもたちに夢や希望を与え、半田に誇りを持ってもらえるような新しい波を起こして行きましょう。それがどんなカタチとなり、どんな事業になるかは不明ですが、やっている僕らが楽しまなければ意味もないと感じでいます。また、全国的な流れに倣い、政策提言委員会を設置しました。学びながら1年間かけて、地域活性化の一助となるような政策提言を作り上げていって欲しいと思っています。どんな時にも、僕はトコトン付き合います。かつて先輩たちから、そうしてもらったように」
 会長がやりたいことが正解ではない。皆んなで一緒に作り上げていくことが大事であり、そこに至る過程を大切にして欲しいと強調する。大人になると、同じ目標に向かって物事に関わる機会が少なくなっていく。しかし、青年部活動ではそれを経験することで出来、仲間としての絆が強くなっていく。それを多くの仲間に実感してもらいたいと願う。
 「毎年、会長は新しい青年部を作ろうという熱い想いで活動をスタートしていると思います。発足56年目という歳月の中で、その時々の時代で先輩方が熱を持って作り上げてきたモノ・コトを胸に刻み、守るべきものを守りながら、時代を先駆けるべき熱量を持って活動を行って行きましょう。さらに魅了あるモノ・コトを次代に託しつなげていけるような、熱い新たな波を皆んなで起こして行きましょう。この1年間、それが楽しみで今ワクワクしています。青年部にお誘いいただいた、天草元会長に本当に感謝しています」

池田 龍一氏
昭和52年2月生まれ。平成13年(有)池田工業入社。平成29年、代表取締役就任、屋号変更。青年部入会:平成15年度。副会長、監事を経て、本年度会長。半田市在住。


ちょっと一息
趣味は青年部の懇親会です(笑)。メンバーと飲むことは楽しくて、30代までは酒豪で通っていました。自慢は、どんなに飲んでも記憶をなくしたことがないことです。今は少し弱くなって、宴席でも12時になったら寝ます(笑)。
 歌うのは拷問です(笑)。たまに酔うと歌うのですが、そんな時はもう皆んな酔っぱらっていて、誰も聞いていないですね(笑)。



半田の子どものために

2020年2月28日(金)

ヤマネ株式会社 代表取締役 間瀬 貴裕氏

半田の子どものために・・・・・思い、描き、実践してきた。
 中学1年生の時に『後継者に』と母親と叔母に泣きつかれ、不幸のドン底に落とされた、と今は笑顔で振り返る。兄は違う道に進み、自分しかいないと理解していても反発し、勉強から逃げ、何の努力もしない高校生活を送ったと言う。そんな中でも子どもが好きと保育士を志した時もあり、今も書棚には夢追うために開いた書籍が眠り、あの頃の想いが詰まっている。
 「専門学校卒業後に設計事務所に勤務し、同時に半田商工会議所青年部に入会しました。以来25年間、どっぷり青年部活動にハマり、生きる力をごく自然に学ばせていただきました。青年部入会時は20歳。一番の若手として先輩メンバーと関わり、会長の時は青年部発足50周年であり、メンバーに助けられながら事業を終えることができました。僕は本来トップで動く人間ではなく、支えるタイプだと思っていますが、貴重な経験が出来た巡り合わせに感謝しています」
 その時のテーマは「子どものために」と、子どもたちが半田を好きになれる事業にこだわった。記念事業はプロのスポーツ選手との触れ合いを企画し、大人になってからも半田であんなことがあった、半田はいい町だったと思い出してもらえるようにと願った。
 青年部卒業後を目前に控えた今から3年前に、その時を待っていたかのように当所の建設部会運営委員に要請され、子どもに向けての事業に取り組んだ。昨年の夏休みは『重機で縁日体験』と称して、建設現場で働く重機、高所作業車の乗車体験などを企画・実施した。
 「タイル施工販売、ブロック・レンガ工事等を生業としています。モノづくりは面白くやりがいのある仕事だと思っています。当社で働く職人も毎日イキイキと仕事をしていますが、この業界も高齢化が進んでいます。最近は特に建設現場は危ない場所という認識で、子どもたちが直接目にする機会が減っていることも、その一因となっているのではと考えています。僕は子どもの頃に父に連れられ、当たり前のように仕事を手伝い、その光景が子ども心に焼き付いています。それがなかったら断固としてこの世界に入らなかったでしょう(笑)。建設現場を身近に感じ、楽しい世界だと思ってくれる子どもさんが一人でもいれば嬉しいと思って、先輩部会員の皆さんにご指導を受けている毎日です」
 与えられたことは真摯に受け止め全力を尽くす。これも青年部時代に叩き込まれた。建設部会運営委員として心の余裕が少し出来た昨年秋、またまたそのタイミングを図るように議員就任に白羽の矢が立った。
 「息子は現在、中学1年生。まさに僕が後継者にと強制された年です。父は後継について一言も発しなかったように、僕も子どもの意志に任せようと考えています。この先、会社が存続するかは不透明であり、僕の規模の会社でお受けしていいのか、随分悩みました。今こうして先輩方の半田の想いを聞ける場所をいただけたことは幸せだと感謝しています」
 少年時代、父親はJC活動にも情熱を燃やし、ほとんど家にいなかった。苦労する母親の姿を見て『父は大嫌い』だったと言う。しかし、父親は亀崎の少年野球チームを発足し、小学校のPTA会長として学校のアスレチック作りに奔走し、子どものために何かをするのが好きだった。仕事を一緒にするうちに尊敬する父親に変わっていったが、振り返れば今は亡き父親の足跡をなぞるような日々を過ごしていると苦笑する。
 「僕も子どもが小さい頃は青年部活動に熱中し、ほとんど家にいませんでした。あの時にもっと傍にいてあげられたらと今も振り返ることがあります。でも子どもたちとは仲良しで、高校2年生になった娘とよく一緒に出かけています。父は忙しい中、年1回の家族旅行は欠かしませんでした。僕も見習っています。
 イヤイヤ継いだ家業でしたが、今になれば半田に住み、多くの仲間に恵まれた幸せな毎日、両親には感謝の言葉しかありません」


ちょっと一息
「タカちゃん、もってるから。」トライアスロンを始めてからよく言われる言葉です。「アイアンマン70.3セントレア常滑Japan」に青年部有志メンバーと一緒に僕は、リレーで4回目(2012年)から出場しています。毎回走りながら「こんな苦しいこと何でやっているんだろう」と思いながら、トライアスロン中毒に襲われています(笑)。
 昨年夏は中国アモイ大会に出場。通常、大会の様子がネットに上がりますが、いつも最下位に近い僕の写真はほとんどありません。でも今回はエントリーした段階から心配してくれる運営の方がいて、ボロボロなって倒れそうになっている僕がネットにたくさん上がっていました(笑)。その時の制限時間は8時間(7時間56分でゴール)。そんな数分を残しての奇跡のゴールが何度もあります。今夏は、最終目標である佐渡国際トライアスロンにチャレンジしたいです。


間瀬 貴裕氏
1972年半田市生まれ。93年名古屋工業専門学校建築科卒業。同年ヤマネ(株)入社し、関建築事務所出向。2010年現職。当所議員。




全ての人を幸せに!

2020年2月3日(月)

NTT西日本 東海本部 ビジネス営業部 ビジネスパートナー営業部門長 大西 壮氏

世界のホームラン王、王貞治氏に憧れ「子供たちに夢を与える野球選手になりたい」と高校卒業まで野球中心の毎日。法政大学に入学し硬式野球部に入部。甲子園で活躍した名だたる選手たちと共にプレーする機会を得た。しかし、夢へのステップを駆け上がろうとした矢先、肩の怪我によりその道は儚くも絶たれた。
 「失意の中で支えとなったのが『電話』でした。一人暮らしが始まったばかりの東京は心細く、郷里の友達に電話し続けました。請求金額に驚き『もっと気軽に使える電話にしたい』『沢山の人の役に立つため顧客数の多い企業に就職したい』とNTTを志望。怪我の後に所属した軟式野球部の先輩からの導きもあり入社りし、営業からスタートしました」
 後、NTT研修センターにおけるJICA(国際協力機構)海外研修員の受け入れ業務、NTT西日本本社での企画業務等、様々な部署で幅広い業務に携わり、2017年に東海事業本部に新設された、パートナー企業とのアライアンスを推進するビジネスパートナー営業部門の長として着任。入社して27年、通信は固定電話からインターネットへと激変したが、同時に自らも日を追うごと、役職に就くごとに、その姿、言動は変化し続けている。営業職として各戸の扉を叩いて回った新人時代、インターホンを押すことをためらい、消え入りそうな声で対応していた。研修センターでは、各国代表の研修員との英語での対応に苦慮し冷や汗を流したという。
 「僕は元来内気で人見知りタイプ。身内からは絶対営業には向かないと心配されました。いつの頃からか役をいただくとスイッチが入るというか、成りきることができるようになりました。今も目一杯気張ってその役を演じています(笑)」
 同部門は、パートナー企業との各種提携により、情報機器・ネットワークサービス・クラウドサービス等を組み合わせたソリューションを提供し、お客さまである中小企業の経営課題を解決へと導くよう取り組んでいる。パートナー企業との関わりは、異文化との出会いでもあり、相互のコミュニケーションや信頼が不可欠。日々、課題は山積されるが『大変なのが普通。大変だから任命されたと解釈している』と前向きに真摯に取り組む。パートナー企業との対応を中心に東海4県を飛び回る日々だが、『大阪本社勤務時代に西日本全域を対象としていた時と比べれば、行動範囲は狭い』と、今日は静岡、明日は三重とフットワークも軽い。
 「当社は通信インフラを支える企業として社会貢献してきました。時代の変化を再認識した上で、今後は社会を取り巻く様々な課題を先頭に立ってICTの力で解決していく『ソーシャルICTパイオニア』を目指して変革を続けています。その自負を持ち、パートナー企業と共にもっと沢山のお客さまに貢献していきたい。NTTだけでは解決できないお客さまの課題もパートナー企業と連携すれば解決できると思っています」
 お客さまやパートナー企業との対応だけでなく、自部門社員40名の統率も重要な仕事である。社員が健康であることが大前提。安心して働けるよう職場環境の改善等に配慮し、経営方針等をわかりやすく伝え方向性を合わせるよう努力している。
 「入社研修時の目標を掲げる場面で好きな歌のワンフレーズ『最後は僕が笑う』と書きました。苦労しても多くのお客様に貢献し沢山の方を幸せにできたら、『頑張って良かった』と笑うことができます。まだ成長過程の僕なので(笑)これからも人を幸せにするチャンスは沢山あります。最後は『NTTに入って良かった』と笑いたい、それが今の僕の夢です」
 野球少年だった頃から、社会の役に立ちたいという想いを持ち続けた。大人になった今も誰かがハッピーになれば嬉しい。その熱い想いは変わらない。 



物心ついて以降、野球から長く遠ざかったことはなく、今もプロ・アマの枠を超えて出身校別にOBチームを結成し戦う夢の舞台『マスターズ甲子園』出場に向けて挑戦しています。試合で痛めた両膝を昨年手術。来る3月の県予選に向け完全復帰でピッチャーマウンドに戻ることを目指しています。10年後は「130kmを投げる還暦おじさん」が目標です。
 野球は3割打ってようやく一流ですが、「仕事の新企画は打率1割でもOK!」と社員に伝え、「まずはバッターボックスに立ってバット振ってこい!」とチャレンジを後押ししています。失敗から学ぶことも沢山あります。若い人はもちろん、誰もが可能性を秘めています。仲間を信じ、自分らしい人生を送ってほしいと願っています。

おおにし・つよし
1970年三重県多気郡生まれ。93年法政大学法学部卒業。同年日本電信電話(株)(現NTTNTT西日本)入社。刈谷支店、NTT研修センター勤務、本社勤務を経て、2017年現職。三重県在住。当所議員。





己の存在価値を問う

2019年10月2日(水)

JFE物流中部株式会社 代表取締役社長 酒井 忠之氏

 生まれ故郷の北の大地から飛び立ち、33回目の秋を半田の地で迎える。その間、福山、新潟、倉敷で様々な秋、多様な職種に関わり、『己の存在価値、何のために今自分がここにいるのか?』と自身に問いかけ、向き合って来た。
 「大学で金属材料を学び、日本鋼管(現JFEスチール)に入社しました。以後、当時、新材料と言われていた溶融シリカ(ガラス組成耐火物)や、特殊鋼(チタン・クラッド・ステンレス)をはじめとする厚鋼板の製造に携わって来ました。温度、成分、圧延方法などの微妙な差異によって、厚鋼板そのものの性質、品位も異なってきます。誰の手にかかっても安定して高品位の製品が出来、いかにコストを下げるか等の実機でのプロセスの確立は技術屋として腕の見せ所です。時間を忘れて仕事に没頭し、厚鋼板との関わりは印象深い仕事の一つです。そんな時も存在価値を自身に問いかけ、今の私が直面する課題に真摯に向き合うことの重要さを実感しました」
 ダイナミックで、カタチに残るものを作りたいと鉄鋼メーカーに入社し、30年間勤務。2016年全く畑違いでもあるJFE物流西日本副所長(倉敷市)として着任した。
 「モノづくりの現場から離れ、対象もモノから人へと移行しました。前職は商品技術部長として、会社と客先の橋渡しという対外的な仕事だったこともあり、違和感なくその世界に溶け込めました。また、歳月と共に現場から遠ざかり、マネジメントの世界に入って行ったので、人との繋がりが重要なその業界に自然に順応出来たのかもしれません。現場の方が面白かったですが(笑)。私自身はその土地の風土や習慣に比較的すんなり適応できる方で、どこに行っても戸惑いもなく、仕事や生活に向き合い楽しんできました」
 昨年4月に半田勤務になった。大学のヨット部の先輩、後輩が半田高校の出身で、半田という地名は知っていたが、初めて半田の地を踏み、地域性や会社の風土に触れ、トップとして考えることも多いようだ。
 「現職に就き、悠々と流れてきた歴史に培われてきた風土によって、考え方や求めるモノが醸成されていることを肌で感じています。そう思うのは、上司をサポートとする副所長の立場から、陣頭指揮を執る立場への変化かもしれませんが、与えられた状況の中で、最大のパフォーマンスを引き出すことを使命と考えています。また、私は走りながら考えていくタイプで、方向転換のタイミングの難しさも感じています。肩書きならではの孤独感を味わっていますよ(笑)」
 そんな中で、初めての単身生活を送る。帰宅後は1日15キロを目安に走り、食事を作って食べる。タイトなスケジュールの毎日で、寂しいと感じた単身生活も瞬く間に1年過ぎ、生活のペースも掴めてきたようだ。また、410回を数えた献血にも足繁く通う。
 「お役に立てればと始めたのですが、届いた採血結果で深酒をしていないかチェックしています。健康管理の一助となり、私も役立たせてもらっています。リタイア後は『故郷、札幌で日本語教師』も視野に入れていますが、今は山積する課題改善に向けて精一杯の毎日です。少しでも業績向上のお手伝いができればと、日々真剣勝負です」

1961年北海道札幌市生まれ。86年北海道大学工学部卒業。同年日本鋼管(現JFEスチール)福山製鉄所入社。2002年福山厚板工場工場長。12年JEFスチール福山厚板部部長。14年西日本鋼材商品技術部部長。16年JFE物流入社、西日本副所長(倉敷)。18年現職(JFE物流取締役)。半田市在住。当所議員。当所交通運輸港湾部会副部会長。