半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

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半田の子どものために

2020年2月28日(金)

ヤマネ株式会社 代表取締役 間瀬 貴裕氏

半田の子どものために・・・・・思い、描き、実践してきた。
 中学1年生の時に『後継者に』と母親と叔母に泣きつかれ、不幸のドン底に落とされた、と今は笑顔で振り返る。兄は違う道に進み、自分しかいないと理解していても反発し、勉強から逃げ、何の努力もしない高校生活を送ったと言う。そんな中でも子どもが好きと保育士を志した時もあり、今も書棚には夢追うために開いた書籍が眠り、あの頃の想いが詰まっている。
 「専門学校卒業後に設計事務所に勤務し、同時に半田商工会議所青年部に入会しました。以来25年間、どっぷり青年部活動にハマり、生きる力をごく自然に学ばせていただきました。青年部入会時は20歳。一番の若手として先輩メンバーと関わり、会長の時は青年部発足50周年であり、メンバーに助けられながら事業を終えることができました。僕は本来トップで動く人間ではなく、支えるタイプだと思っていますが、貴重な経験が出来た巡り合わせに感謝しています」
 その時のテーマは「子どものために」と、子どもたちが半田を好きになれる事業にこだわった。記念事業はプロのスポーツ選手との触れ合いを企画し、大人になってからも半田であんなことがあった、半田はいい町だったと思い出してもらえるようにと願った。
 青年部卒業後を目前に控えた今から3年前に、その時を待っていたかのように当所の建設部会運営委員に要請され、子どもに向けての事業に取り組んだ。昨年の夏休みは『重機で縁日体験』と称して、建設現場で働く重機、高所作業車の乗車体験などを企画・実施した。
 「タイル施工販売、ブロック・レンガ工事等を生業としています。モノづくりは面白くやりがいのある仕事だと思っています。当社で働く職人も毎日イキイキと仕事をしていますが、この業界も高齢化が進んでいます。最近は特に建設現場は危ない場所という認識で、子どもたちが直接目にする機会が減っていることも、その一因となっているのではと考えています。僕は子どもの頃に父に連れられ、当たり前のように仕事を手伝い、その光景が子ども心に焼き付いています。それがなかったら断固としてこの世界に入らなかったでしょう(笑)。建設現場を身近に感じ、楽しい世界だと思ってくれる子どもさんが一人でもいれば嬉しいと思って、先輩部会員の皆さんにご指導を受けている毎日です」
 与えられたことは真摯に受け止め全力を尽くす。これも青年部時代に叩き込まれた。建設部会運営委員として心の余裕が少し出来た昨年秋、またまたそのタイミングを図るように議員就任に白羽の矢が立った。
 「息子は現在、中学1年生。まさに僕が後継者にと強制された年です。父は後継について一言も発しなかったように、僕も子どもの意志に任せようと考えています。この先、会社が存続するかは不透明であり、僕の規模の会社でお受けしていいのか、随分悩みました。今こうして先輩方の半田の想いを聞ける場所をいただけたことは幸せだと感謝しています」
 少年時代、父親はJC活動にも情熱を燃やし、ほとんど家にいなかった。苦労する母親の姿を見て『父は大嫌い』だったと言う。しかし、父親は亀崎の少年野球チームを発足し、小学校のPTA会長として学校のアスレチック作りに奔走し、子どものために何かをするのが好きだった。仕事を一緒にするうちに尊敬する父親に変わっていったが、振り返れば今は亡き父親の足跡をなぞるような日々を過ごしていると苦笑する。
 「僕も子どもが小さい頃は青年部活動に熱中し、ほとんど家にいませんでした。あの時にもっと傍にいてあげられたらと今も振り返ることがあります。でも子どもたちとは仲良しで、高校2年生になった娘とよく一緒に出かけています。父は忙しい中、年1回の家族旅行は欠かしませんでした。僕も見習っています。
 イヤイヤ継いだ家業でしたが、今になれば半田に住み、多くの仲間に恵まれた幸せな毎日、両親には感謝の言葉しかありません」


ちょっと一息
「タカちゃん、もってるから。」トライアスロンを始めてからよく言われる言葉です。「アイアンマン70.3セントレア常滑Japan」に青年部有志メンバーと一緒に僕は、リレーで4回目(2012年)から出場しています。毎回走りながら「こんな苦しいこと何でやっているんだろう」と思いながら、トライアスロン中毒に襲われています(笑)。
 昨年夏は中国アモイ大会に出場。通常、大会の様子がネットに上がりますが、いつも最下位に近い僕の写真はほとんどありません。でも今回はエントリーした段階から心配してくれる運営の方がいて、ボロボロなって倒れそうになっている僕がネットにたくさん上がっていました(笑)。その時の制限時間は8時間(7時間56分でゴール)。そんな数分を残しての奇跡のゴールが何度もあります。今夏は、最終目標である佐渡国際トライアスロンにチャレンジしたいです。


間瀬 貴裕氏
1972年半田市生まれ。93年名古屋工業専門学校建築科卒業。同年ヤマネ(株)入社し、関建築事務所出向。2010年現職。当所議員。




全ての人を幸せに!

2020年2月3日(月)

NTT西日本 東海本部 ビジネス営業部 ビジネスパートナー営業部門長 大西 壮氏

世界のホームラン王、王貞治氏に憧れ「子供たちに夢を与える野球選手になりたい」と高校卒業まで野球中心の毎日。法政大学に入学し硬式野球部に入部。甲子園で活躍した名だたる選手たちと共にプレーする機会を得た。しかし、夢へのステップを駆け上がろうとした矢先、肩の怪我によりその道は儚くも絶たれた。
 「失意の中で支えとなったのが『電話』でした。一人暮らしが始まったばかりの東京は心細く、郷里の友達に電話し続けました。請求金額に驚き『もっと気軽に使える電話にしたい』『沢山の人の役に立つため顧客数の多い企業に就職したい』とNTTを志望。怪我の後に所属した軟式野球部の先輩からの導きもあり入社りし、営業からスタートしました」
 後、NTT研修センターにおけるJICA(国際協力機構)海外研修員の受け入れ業務、NTT西日本本社での企画業務等、様々な部署で幅広い業務に携わり、2017年に東海事業本部に新設された、パートナー企業とのアライアンスを推進するビジネスパートナー営業部門の長として着任。入社して27年、通信は固定電話からインターネットへと激変したが、同時に自らも日を追うごと、役職に就くごとに、その姿、言動は変化し続けている。営業職として各戸の扉を叩いて回った新人時代、インターホンを押すことをためらい、消え入りそうな声で対応していた。研修センターでは、各国代表の研修員との英語での対応に苦慮し冷や汗を流したという。
 「僕は元来内気で人見知りタイプ。身内からは絶対営業には向かないと心配されました。いつの頃からか役をいただくとスイッチが入るというか、成りきることができるようになりました。今も目一杯気張ってその役を演じています(笑)」
 同部門は、パートナー企業との各種提携により、情報機器・ネットワークサービス・クラウドサービス等を組み合わせたソリューションを提供し、お客さまである中小企業の経営課題を解決へと導くよう取り組んでいる。パートナー企業との関わりは、異文化との出会いでもあり、相互のコミュニケーションや信頼が不可欠。日々、課題は山積されるが『大変なのが普通。大変だから任命されたと解釈している』と前向きに真摯に取り組む。パートナー企業との対応を中心に東海4県を飛び回る日々だが、『大阪本社勤務時代に西日本全域を対象としていた時と比べれば、行動範囲は狭い』と、今日は静岡、明日は三重とフットワークも軽い。
 「当社は通信インフラを支える企業として社会貢献してきました。時代の変化を再認識した上で、今後は社会を取り巻く様々な課題を先頭に立ってICTの力で解決していく『ソーシャルICTパイオニア』を目指して変革を続けています。その自負を持ち、パートナー企業と共にもっと沢山のお客さまに貢献していきたい。NTTだけでは解決できないお客さまの課題もパートナー企業と連携すれば解決できると思っています」
 お客さまやパートナー企業との対応だけでなく、自部門社員40名の統率も重要な仕事である。社員が健康であることが大前提。安心して働けるよう職場環境の改善等に配慮し、経営方針等をわかりやすく伝え方向性を合わせるよう努力している。
 「入社研修時の目標を掲げる場面で好きな歌のワンフレーズ『最後は僕が笑う』と書きました。苦労しても多くのお客様に貢献し沢山の方を幸せにできたら、『頑張って良かった』と笑うことができます。まだ成長過程の僕なので(笑)これからも人を幸せにするチャンスは沢山あります。最後は『NTTに入って良かった』と笑いたい、それが今の僕の夢です」
 野球少年だった頃から、社会の役に立ちたいという想いを持ち続けた。大人になった今も誰かがハッピーになれば嬉しい。その熱い想いは変わらない。 



物心ついて以降、野球から長く遠ざかったことはなく、今もプロ・アマの枠を超えて出身校別にOBチームを結成し戦う夢の舞台『マスターズ甲子園』出場に向けて挑戦しています。試合で痛めた両膝を昨年手術。来る3月の県予選に向け完全復帰でピッチャーマウンドに戻ることを目指しています。10年後は「130kmを投げる還暦おじさん」が目標です。
 野球は3割打ってようやく一流ですが、「仕事の新企画は打率1割でもOK!」と社員に伝え、「まずはバッターボックスに立ってバット振ってこい!」とチャレンジを後押ししています。失敗から学ぶことも沢山あります。若い人はもちろん、誰もが可能性を秘めています。仲間を信じ、自分らしい人生を送ってほしいと願っています。

おおにし・つよし
1970年三重県多気郡生まれ。93年法政大学法学部卒業。同年日本電信電話(株)(現NTTNTT西日本)入社。刈谷支店、NTT研修センター勤務、本社勤務を経て、2017年現職。三重県在住。当所議員。





己の存在価値を問う

2019年10月2日(水)

JFE物流中部株式会社 代表取締役社長 酒井 忠之氏

 生まれ故郷の北の大地から飛び立ち、33回目の秋を半田の地で迎える。その間、福山、新潟、倉敷で様々な秋、多様な職種に関わり、『己の存在価値、何のために今自分がここにいるのか?』と自身に問いかけ、向き合って来た。
 「大学で金属材料を学び、日本鋼管(現JFEスチール)に入社しました。以後、当時、新材料と言われていた溶融シリカ(ガラス組成耐火物)や、特殊鋼(チタン・クラッド・ステンレス)をはじめとする厚鋼板の製造に携わって来ました。温度、成分、圧延方法などの微妙な差異によって、厚鋼板そのものの性質、品位も異なってきます。誰の手にかかっても安定して高品位の製品が出来、いかにコストを下げるか等の実機でのプロセスの確立は技術屋として腕の見せ所です。時間を忘れて仕事に没頭し、厚鋼板との関わりは印象深い仕事の一つです。そんな時も存在価値を自身に問いかけ、今の私が直面する課題に真摯に向き合うことの重要さを実感しました」
 ダイナミックで、カタチに残るものを作りたいと鉄鋼メーカーに入社し、30年間勤務。2016年全く畑違いでもあるJFE物流西日本副所長(倉敷市)として着任した。
 「モノづくりの現場から離れ、対象もモノから人へと移行しました。前職は商品技術部長として、会社と客先の橋渡しという対外的な仕事だったこともあり、違和感なくその世界に溶け込めました。また、歳月と共に現場から遠ざかり、マネジメントの世界に入って行ったので、人との繋がりが重要なその業界に自然に順応出来たのかもしれません。現場の方が面白かったですが(笑)。私自身はその土地の風土や習慣に比較的すんなり適応できる方で、どこに行っても戸惑いもなく、仕事や生活に向き合い楽しんできました」
 昨年4月に半田勤務になった。大学のヨット部の先輩、後輩が半田高校の出身で、半田という地名は知っていたが、初めて半田の地を踏み、地域性や会社の風土に触れ、トップとして考えることも多いようだ。
 「現職に就き、悠々と流れてきた歴史に培われてきた風土によって、考え方や求めるモノが醸成されていることを肌で感じています。そう思うのは、上司をサポートとする副所長の立場から、陣頭指揮を執る立場への変化かもしれませんが、与えられた状況の中で、最大のパフォーマンスを引き出すことを使命と考えています。また、私は走りながら考えていくタイプで、方向転換のタイミングの難しさも感じています。肩書きならではの孤独感を味わっていますよ(笑)」
 そんな中で、初めての単身生活を送る。帰宅後は1日15キロを目安に走り、食事を作って食べる。タイトなスケジュールの毎日で、寂しいと感じた単身生活も瞬く間に1年過ぎ、生活のペースも掴めてきたようだ。また、410回を数えた献血にも足繁く通う。
 「お役に立てればと始めたのですが、届いた採血結果で深酒をしていないかチェックしています。健康管理の一助となり、私も役立たせてもらっています。リタイア後は『故郷、札幌で日本語教師』も視野に入れていますが、今は山積する課題改善に向けて精一杯の毎日です。少しでも業績向上のお手伝いができればと、日々真剣勝負です」

1961年北海道札幌市生まれ。86年北海道大学工学部卒業。同年日本鋼管(現JFEスチール)福山製鉄所入社。2002年福山厚板工場工場長。12年JEFスチール福山厚板部部長。14年西日本鋼材商品技術部部長。16年JFE物流入社、西日本副所長(倉敷)。18年現職(JFE物流取締役)。半田市在住。当所議員。当所交通運輸港湾部会副部会長。



より強く、より永く、より深く

2019年9月3日(火)

株式会社名古屋銀行 半田支店(スマート店 武豊支店)母店支店長 小野田富夫氏

 高校まで野球に熱中し、身体を動かすことが好きだった。父親が金融関係に勤めていた影響で、同じ業界に携わることになったかもしれないと振り返る。
 「入行して約2年内勤で事務仕事を覚えた後、外回り(渉外係)をなりました。いろんな失敗をしましたが、お客さまと話すのは楽しくて、日々やりがいを感じていました。当時の上司から、担当するお客さまのことは、窓口となっている担当者が一番知っている渉外係になりなさいと指導を受け、仕事以外にも色々な話をして、信頼関係が出来るよう心掛けました。人と人とのつながりの大切さ、つながることの楽しさを実感した営業活動でした」
 そんな中での大きな励みは、お客さまからの『ありがとう』という言葉だった。一緒に考え悩み、融資成立というカタチになった時は共に喜び、『お役に立てた』と仕事に誇りを持った。後年出会った時に、名前を呼ばれ、『覚えてくれていた、頼りにされていた』ことを肌で感じ、銀行マンとしての喜びを感じた。そんなことが幾度か重なり、お客さまの期待に応えたいと日々の仕事に情熱を燃やした。
 「明るく、前向き、ポジティブに、何事も引きずらないようにオン、オフの切り替えは得意な方だと思っています。時には人並みに悩んだり不安を感じたり、ストレスに押しつぶされるようになったりしますが、いつの間にか解消しています。持って生まれた性格からでしょうね」
 支店長として3店目になる半田支店に着任後も、先ずは顧客を知ることから始めた。知多半島は、学生時代も含め一度も縁がなく地理や道も全く解らず、着任後数か月は、道に迷い苦労したが、今は、ほとんどナビなしで訪問できるようになった。また、地域の歴史・文化に興味が沸き、運河沿いで行われたキャナルナイトや半田赤レンガ建物・新美南吉記念館・亀崎潮干祭等などにいき、半田市の歴史の深さに驚き、大いに感動したと語る。
 「今年、当行は創立70周年を迎えます。社是である〈地域社会の繁栄に奉仕する〉を実践するため、中期経営計画として『より強く、より永く、より深く 〜じもととの絆の深化〜』を掲げています。地域のお客さまのより豊かな生活の実現をお手伝いすることにより、お互いに永く続く関係を目指しています。部下にはお客さまのことをよく知るため、しっかりとお話をすることを要望しています。それには、先ずお客さまの仕事内容に興味を持ち、強み・弱み・ニーズ等を聴ける(相談相手)関係を1件でも増やしてほしいと思っています。
 また、かつて野球を通して団体スポーツの面白さ、素晴らしさを知り、チームメイトとの力の結集で物事が成立することを体感しました。今も一人の力には限界があり、各個人が一生懸命、本気で取り組めば、その姿を見た周囲の人が手を差し伸べてくれ運も運ばれてくるような気がしています。だから私はいつも、どんな場面も一生懸命・前向きに取り組むようにしてきました。本気になれば知恵がでます。そして考えたらスピーディに行動することだと思っています。仕事は厳しいものですが、明るく楽しく取り組んだ方が、より能率が上がるような気がしています」
 
 「新鮮な感動は、仕事、私生活に新たな原動力を生みます。いつもその出会いに感謝しながら、明るく、楽しく、ポジティブに前を向いて一生懸命に歩んで行こうと思っています」


ちょっと一息
 以前、休日は野球をやっていた息子の応援に駆けつけ、時には部活動の手伝いにも汗を流していました。今は息子も大学生になり、野球から遠ざかってしまいました。急にやることがなくなり時間が余ってしまい、ボーっと生きていました。
 そんな時に友人から釣りに誘われ、今はそれにハマっています。浜名湖や蒲郡に時々出かけ、堤防からの釣りを楽しんでいます。せっかちな性格なので絶対に釣りは合わないと思っていましたが食わず嫌いでしたね。最初に釣れた時の引きの感触に感激し、以来その感触を求めて釣り糸を垂れています。
 釣った魚は、家に持って帰ると妻が嫌がるので一度も食べたことはありませんが、今は、ひらめ・クロダイを狙っています。ただ、違う魚ばかり釣れて、本命は1度も釣れたことはありません。今年中に、家に持ち帰れるくらいの大きいヒラメ・クロダイのどちらかを釣ることを目標としています。
 
1969年岡崎市生まれ、在住。92年愛知学院大学法学部卒業。同年(株)名古屋銀行入社。上地支店、新瑞橋支店、港支店等。味美支店支店長、大樹寺支店支店長を経て2018年現職。当所議員。



足跡を残せ!

2019年8月16日(金)

東邦ガス株式会社 半田営業所長  田島晋矢氏

 大学では都市政策を専攻し、地域の発展に貢献できる仕事に就きたいと同社に入社。社会人としてスタートした豊田営業所では、ガス機器販売、ガス工事の見積もり等の営業職だった。当時の暖房機器市場は、灯油、電気などの競合としのぎを削る中、ガスファンヒーターの利点(パワフル、スピーディ、燃料補給の手間いらず等)を徹底的にアピールし、営業所でもトップの販売実績を挙げた。
 「大学時代に地域住民と意見交換をしながら街づくりの基本を学びました。話し合い、関係を構築していくのは性に合っていたのか、入社後の仕事は厳しかったですが、やりがいもありました。お客さまに自身を理解していただき、人と人とのつながりが営業の要になると実感した時代でした」
 ハウスメーカーや建築会社などを客先とした営業を経て、イメージキャラクター『ガスのヒーポンくん』として2年ほど活動した。スーツ姿で頭に葉っぱ、尻尾をつけてテレビCMやイベント会場などで家庭用空調機器のPRに努めた。後に、若い感性が求められ、「地球温暖化とエネルギー」をテーマに環境について学ぶガスエネルギー館(東海市)の館長も務めた。
 「プラスαの楽しみがあり、何度足を運んでも新しい発見がある展示館運営を心掛けました。パノラマカーが引退した年には、名古屋鉄道様に協力を仰ぎ、運転台や座席、系統板などを展示する企画を実施し、お子さまだけでなく私と同世代の方々にも大変喜んでいただきました。電車好きの私が一番興奮していたかもしれませんね(笑)」
 また、童話作家・新美南吉の世界をペーパーアートで表現する、榊原澄香氏の作品も展示し好評を得た。今までと同じことをしていたのでは進歩がない、あれもこれもやってみたいと情報のアンテナを伸ばし、自らも楽しみながら、プラスαを追い続けた。
 「サラリーマンとして稀有な仕事の機会をいただき、多くの人たちとの出会いがありました。実績を上げるだけでなく、いかにお客さまにとって最適・最善な提案を行うことができるかが、営業の使命と考えています。幸運にも私はそういう出会いを通じて、果たせてきたのではないかと感じています」
 今年3月、笠寺営業所長を経て現職に就いた。ガスエネルギー館勤務時代、知多半島の行政、教育委員会、学校等を訪問し、半田市は馴染み深く、多くの人々と再会し、絆も深くなった。
 「着任して5ヶ月ほど経ちますが、地元に溶け込むことをモットーに様々な課題に取り組んでいきたいと思います。エネルギー自由化の今、当地域に根差すエネルギー事業者として、お客さまの安全・安心を第一に、地域に貢献しながら、今後もお客さまから選び続けていただける企業を目指していきます。最初の配属先の所長から『自分の足跡をしっかり残せ!』と言われた言葉が心に響き、今も自身や社員を叱咤激励する時に拝借させていただいています。頑張った成果が、社内で語り継がれていくことは嬉しいことです。サラリーマンに異動は付き物ですが、メンバーには配属された職場でどんな業務も常に自分事として捉え、しっかり結果と成果を出してもらいたいと願っています」
 野球が好きで40代半ばまで軟式野球に熱中し、今はソフトボールを愉しむ。家族揃って日本中をドライブもした。かつては工作用紙や和紙で、思い出の駅や風景をイメージした町のジオラマづくりに熱中したこともあった。
 「多彩な趣味を持つことによって、様々な世界の人とつながりができ、話題も豊富になっています。たくさんの引き出しを持つことは、営業活動にも活かされ、人生も豊かになると思っています」

――ちょっと一息 
 3年ほど前から飛行機の写真を撮ることに夢中になっています。休日にはセントレアで、一日中カメラを構えていることも度々です。
 伊丹、羽田空港にも行きますが、セントレアは美しい夕景、海を背景に飛ぶ飛行機の美しさに感動します。同じ趣味の仲間から撮り方のノウハウを教えていただいたり、飛行機談義をしたり、無心になれる時間は至福の時です。夜の撮影は高度なテクニックが必要ですが、難しいものにチャレンジする、それも愉しみの一つです。そんな飛行機を撮るのは好き、でも乗るのは苦手です(笑)。
 休日ものんびり過ごすのが苦手で、何かしていないと落ち着きません。時間を見つけて、全国各地の空港を訪れてみたいですね。
 余談ですが、体質的にお酒は受け付けませんが、ウーロン茶でパワー全開!よろしくお付き合いをお願いします!