2019年9月3日(火)
高校まで野球に熱中し、身体を動かすことが好きだった。父親が金融関係に勤めていた影響で、同じ業界に携わることになったかもしれないと振り返る。
「入行して約2年内勤で事務仕事を覚えた後、外回り(渉外係)をなりました。いろんな失敗をしましたが、お客さまと話すのは楽しくて、日々やりがいを感じていました。当時の上司から、担当するお客さまのことは、窓口となっている担当者が一番知っている渉外係になりなさいと指導を受け、仕事以外にも色々な話をして、信頼関係が出来るよう心掛けました。人と人とのつながりの大切さ、つながることの楽しさを実感した営業活動でした」
そんな中での大きな励みは、お客さまからの『ありがとう』という言葉だった。一緒に考え悩み、融資成立というカタチになった時は共に喜び、『お役に立てた』と仕事に誇りを持った。後年出会った時に、名前を呼ばれ、『覚えてくれていた、頼りにされていた』ことを肌で感じ、銀行マンとしての喜びを感じた。そんなことが幾度か重なり、お客さまの期待に応えたいと日々の仕事に情熱を燃やした。
「明るく、前向き、ポジティブに、何事も引きずらないようにオン、オフの切り替えは得意な方だと思っています。時には人並みに悩んだり不安を感じたり、ストレスに押しつぶされるようになったりしますが、いつの間にか解消しています。持って生まれた性格からでしょうね」
支店長として3店目になる半田支店に着任後も、先ずは顧客を知ることから始めた。知多半島は、学生時代も含め一度も縁がなく地理や道も全く解らず、着任後数か月は、道に迷い苦労したが、今は、ほとんどナビなしで訪問できるようになった。また、地域の歴史・文化に興味が沸き、運河沿いで行われたキャナルナイトや半田赤レンガ建物・新美南吉記念館・亀崎潮干祭等などにいき、半田市の歴史の深さに驚き、大いに感動したと語る。
「今年、当行は創立70周年を迎えます。社是である〈地域社会の繁栄に奉仕する〉を実践するため、中期経営計画として『より強く、より永く、より深く 〜じもととの絆の深化〜』を掲げています。地域のお客さまのより豊かな生活の実現をお手伝いすることにより、お互いに永く続く関係を目指しています。部下にはお客さまのことをよく知るため、しっかりとお話をすることを要望しています。それには、先ずお客さまの仕事内容に興味を持ち、強み・弱み・ニーズ等を聴ける(相談相手)関係を1件でも増やしてほしいと思っています。
また、かつて野球を通して団体スポーツの面白さ、素晴らしさを知り、チームメイトとの力の結集で物事が成立することを体感しました。今も一人の力には限界があり、各個人が一生懸命、本気で取り組めば、その姿を見た周囲の人が手を差し伸べてくれ運も運ばれてくるような気がしています。だから私はいつも、どんな場面も一生懸命・前向きに取り組むようにしてきました。本気になれば知恵がでます。そして考えたらスピーディに行動することだと思っています。仕事は厳しいものですが、明るく楽しく取り組んだ方が、より能率が上がるような気がしています」
「新鮮な感動は、仕事、私生活に新たな原動力を生みます。いつもその出会いに感謝しながら、明るく、楽しく、ポジティブに前を向いて一生懸命に歩んで行こうと思っています」
ちょっと一息
以前、休日は野球をやっていた息子の応援に駆けつけ、時には部活動の手伝いにも汗を流していました。今は息子も大学生になり、野球から遠ざかってしまいました。急にやることがなくなり時間が余ってしまい、ボーっと生きていました。
そんな時に友人から釣りに誘われ、今はそれにハマっています。浜名湖や蒲郡に時々出かけ、堤防からの釣りを楽しんでいます。せっかちな性格なので絶対に釣りは合わないと思っていましたが食わず嫌いでしたね。最初に釣れた時の引きの感触に感激し、以来その感触を求めて釣り糸を垂れています。
釣った魚は、家に持って帰ると妻が嫌がるので一度も食べたことはありませんが、今は、ひらめ・クロダイを狙っています。ただ、違う魚ばかり釣れて、本命は1度も釣れたことはありません。今年中に、家に持ち帰れるくらいの大きいヒラメ・クロダイのどちらかを釣ることを目標としています。
1969年岡崎市生まれ、在住。92年愛知学院大学法学部卒業。同年(株)名古屋銀行入社。上地支店、新瑞橋支店、港支店等。味美支店支店長、大樹寺支店支店長を経て2018年現職。当所議員。
2019年8月16日(金)
大学では都市政策を専攻し、地域の発展に貢献できる仕事に就きたいと同社に入社。社会人としてスタートした豊田営業所では、ガス機器販売、ガス工事の見積もり等の営業職だった。当時の暖房機器市場は、灯油、電気などの競合としのぎを削る中、ガスファンヒーターの利点(パワフル、スピーディ、燃料補給の手間いらず等)を徹底的にアピールし、営業所でもトップの販売実績を挙げた。
「大学時代に地域住民と意見交換をしながら街づくりの基本を学びました。話し合い、関係を構築していくのは性に合っていたのか、入社後の仕事は厳しかったですが、やりがいもありました。お客さまに自身を理解していただき、人と人とのつながりが営業の要になると実感した時代でした」
ハウスメーカーや建築会社などを客先とした営業を経て、イメージキャラクター『ガスのヒーポンくん』として2年ほど活動した。スーツ姿で頭に葉っぱ、尻尾をつけてテレビCMやイベント会場などで家庭用空調機器のPRに努めた。後に、若い感性が求められ、「地球温暖化とエネルギー」をテーマに環境について学ぶガスエネルギー館(東海市)の館長も務めた。
「プラスαの楽しみがあり、何度足を運んでも新しい発見がある展示館運営を心掛けました。パノラマカーが引退した年には、名古屋鉄道様に協力を仰ぎ、運転台や座席、系統板などを展示する企画を実施し、お子さまだけでなく私と同世代の方々にも大変喜んでいただきました。電車好きの私が一番興奮していたかもしれませんね(笑)」
また、童話作家・新美南吉の世界をペーパーアートで表現する、榊原澄香氏の作品も展示し好評を得た。今までと同じことをしていたのでは進歩がない、あれもこれもやってみたいと情報のアンテナを伸ばし、自らも楽しみながら、プラスαを追い続けた。
「サラリーマンとして稀有な仕事の機会をいただき、多くの人たちとの出会いがありました。実績を上げるだけでなく、いかにお客さまにとって最適・最善な提案を行うことができるかが、営業の使命と考えています。幸運にも私はそういう出会いを通じて、果たせてきたのではないかと感じています」
今年3月、笠寺営業所長を経て現職に就いた。ガスエネルギー館勤務時代、知多半島の行政、教育委員会、学校等を訪問し、半田市は馴染み深く、多くの人々と再会し、絆も深くなった。
「着任して5ヶ月ほど経ちますが、地元に溶け込むことをモットーに様々な課題に取り組んでいきたいと思います。エネルギー自由化の今、当地域に根差すエネルギー事業者として、お客さまの安全・安心を第一に、地域に貢献しながら、今後もお客さまから選び続けていただける企業を目指していきます。最初の配属先の所長から『自分の足跡をしっかり残せ!』と言われた言葉が心に響き、今も自身や社員を叱咤激励する時に拝借させていただいています。頑張った成果が、社内で語り継がれていくことは嬉しいことです。サラリーマンに異動は付き物ですが、メンバーには配属された職場でどんな業務も常に自分事として捉え、しっかり結果と成果を出してもらいたいと願っています」
野球が好きで40代半ばまで軟式野球に熱中し、今はソフトボールを愉しむ。家族揃って日本中をドライブもした。かつては工作用紙や和紙で、思い出の駅や風景をイメージした町のジオラマづくりに熱中したこともあった。
「多彩な趣味を持つことによって、様々な世界の人とつながりができ、話題も豊富になっています。たくさんの引き出しを持つことは、営業活動にも活かされ、人生も豊かになると思っています」
――ちょっと一息
3年ほど前から飛行機の写真を撮ることに夢中になっています。休日にはセントレアで、一日中カメラを構えていることも度々です。
伊丹、羽田空港にも行きますが、セントレアは美しい夕景、海を背景に飛ぶ飛行機の美しさに感動します。同じ趣味の仲間から撮り方のノウハウを教えていただいたり、飛行機談義をしたり、無心になれる時間は至福の時です。夜の撮影は高度なテクニックが必要ですが、難しいものにチャレンジする、それも愉しみの一つです。そんな飛行機を撮るのは好き、でも乗るのは苦手です(笑)。
休日ものんびり過ごすのが苦手で、何かしていないと落ち着きません。時間を見つけて、全国各地の空港を訪れてみたいですね。
余談ですが、体質的にお酒は受け付けませんが、ウーロン茶でパワー全開!よろしくお付き合いをお願いします!
2019年6月13日(木)
創業は古く、江戸後期まで遡ることができる障子紙やふすま紙など生活用紙の小売に端を発する。1886年「竹倉商工店」として活版印刷を開始し、時代の変遷により、姿を変えながら今に至っている。3人兄弟の長男として生を受け、家業は何となく意識していたというが、社会人としてのスタートは出版社(大阪)だった。
「法学部だったこともあり、関連のある分野に就職しました。主に法律、会計、行政関連(特に地方自治体関連)の実務書出版の会社で、奈良県のある自治体の市民憲章づくりは、最初の仕事として印象深く残っています。後、大阪の印刷会社で修業し、当社に入社したのは大学卒業6年後の1999年でした」
創業の地であった市内本町から移転(1993年)、バブル崩壊後の苦しい時期で、経営再建という難題が立ちはだかり、貴重な経験をすることとなった。その後、東京のグループ会社(M&A先)に出向することとなり、同じく経営再建に携わり、様々な経験を財産にして昨年10月に現職に就いた。
「創業当時から地域に密接に結びつき、地域の課題を解決するという考え方で事業を行なってきたようです。130年以上たって、当然業務の内容は大きく変化していますが、基本的な考え方は今も変わりません。地域が発展してこそ、元気であってこそ、会社も存続し続けられるのだと思います。経営に欠かせないものとして、社会貢献にも積極的に取り組んでいます。ゴールデンウィーク中に、半田運河沿いのイベントで、活版印刷を体験できるワークショップを出展しました。毎年秋には亀崎地区のイベントでも同様のワークショップを開いています」
先代が何かの役に立てるようにと保存していた活字。巷ではレトロな雰囲気が味わえると、『小さな活版印刷機』が登場するなど、味わい深い魅力が再評価されているようだ。そんな中で、かつて実際に使っていた『活字』を使ってのワークショップは、老舗印刷会社ならではの取り組みである。珍しさからイベント出展を観光協会などから依頼されることもあるという。また、今年で7回目となる新美南吉記念館で開催されるホタルの鑑賞イベント『南吉さんの蛍まつり』は、最初は同社が単独で開催したイベントであり、半田市に主催が移管された今でも、共催として運営に携わっている。また、地域おこしの一助にと、潮干祭のお土産品として『串あさり』を商品化するなど、多様な分野で社員共々、取り組んでいる。最近では、知多信用金庫、CACと協力して『ちたクラウドファンディング』を立ち上げ、本年4月に半田市で説明会を開き、順次知多半島内で開催している。
「それぞれが小さな取り組みであっても、地域の活性化につながってきます。プロジェクトが成功するまでフォローし、熱い想いで知多半島の未来を考え、夢の実現を目指す人たちの背中を押していきたい。半田での説明会には30名程が参加され、前向きに取り組もうと考えている方はかなりいらっしゃいます」
創業当時から『地域の課題を解決する仕事』を追求してきた同社。長い歴史の中で経営者から経営者へ、そして社員から社員へとその風土が引き継がれている。
「現職について半年余り。スタート台に立ったばかりですが、社員と共に成長したい。課題解決という本質を忘れず、本業である印刷とデザインで培った知見を生かし、社会に対して新たな価値を創造していける会社にしていきたいと思っています」
泳ぐのは得意で、幼稚園から始め大学でも水泳部で競泳をやっていました。今も週1・2回は泳ぎ、月に1度くらいはマスターズで近県の大会に出ています。ほとんどの大会で表彰台には上っていますね。自分の納得感だけでやっていて、結構ハードなので、カラダに良くないかもしれませんね(笑)。
トライアスロンをやっていた頃もあり自転車も好きです。時には仲間や社員と一緒に知多半島などを走っています。頭をカラッポにして泳いだり走ったり・・有意義なひと時です。
2019年5月24日(金)
3歳のころに東海市に転居し、半田高校で学び、東京の大学ではテニスサークルに所属、学生生活を満喫した。縁あって同行(東海銀行)に入行し、どこかのタイミングで地元に帰ることも視野に入れてはいたが、社会人としてのスタートは関東圏を望んでいた。
「ところが配属されたのは豊田支店(愛知県)。その後は名古屋、東京で勤務し、昨年4月に現職に就きました。地元の赴任が多くない中で、故郷とも言える半田支社への辞令を受けたのには、大変驚きました。」
入行以来、大半は愛知県内、東京都内で法人営業に携わり、様々な業種のお客さまを担当してきた。現職に就いた今も、外回りは銀行の営業活動の基本と、お客さまの下に伺う。お客さまのなかには高校の大先輩も多く、会話がスムーズに弾む反面、期待に応えられるかという不安にかられることもあると言う。
「その不安が頑張ろうという原動力につながり、励みともなっています。先輩に何回生と聞かれ、覚えていなくて困ったこともありました(笑)。ご縁で当支社に赴任し、金融を通じて地元が元気になるよう、お客さまの成長に貢献できたらと思っています。そのためにはお客さまの歴史、経営者のお考えなど、お客さまをよく知ることでしょうね。それがあってこそ、次に向けてのご提案が可能になると考えています。どの業界にも言えることでしょうが、『人と人との信頼関係』が大切と肝に銘じています」
また、お客さまは多数の金融機関の中から同行を選んでいただいている。先ずはそのことに感謝すべきと語る。そしてお客さまの成長が結果的に銀行の成長につながるため、互いに長く続く関係を保つような謙虚さを持って仕事に向かう『感謝の気持ちと謙虚な心』が銀行員として、人として大切であると強調する。
「当行は『世界に選ばれる、信頼のグローバル金融グループ』を中長期的にめざす姿としています。部下には積極的に海外勤務を希望して欲しいと言っています。特にアジアは労働人口が若く、経済も成長しています。そこでは日本では感じられない世界を実体験でき、視野も広がり考え方も変わってくると思っています。色々な世界を見て、自分の成長につなげて欲しいですね。当地に赴任して、改めて地元との付き合いが始まりました。会議所さんのにぎわい創出委員会副委員長として、色々な事業に関わり、新しい出会いもありました。昨年はキャナルナイトに出かけて、半田を堪能しました」
多忙な毎日だが、土・日曜日の仕事のない日は夫人の住む川崎に帰る。仕事を持つ夫人を気遣い、一緒にアルコールを嗜んだり、旅行にでかけ、二人の時間を大切にする。大学時代に出会って30年の付き合い、仕事にも理解を得て、夫人は最大の応援者であり、その存在は明日への原動力にもなっているようだ。
「妻とはLINEで生存確認をしています(笑)。食事は外食が基本。自炊に挑戦しようと思いましたが、調味料を一から揃えなければと考えた瞬間、あきらめました(笑)。その変わり、掃除や洗濯はお手の物です。運動不足が続いていましたので、学生時代に打ち込んでいたテニスを2年前から再開しました。。半田、川崎、それぞれの場所で楽しみとやりがいを見つけるようにしています。半田と川崎での生活、公私とも充実した日々を過ごしています」
2019年4月18日(木)
『行動力のある青年部に入会したら』と父親から勧められ、仲間入りしたのが弁護士事務所を開設した1年後。半田市に勤務し、当所とも関わりが深かった父親から、お墨付きでのスタートだったが、多忙なこともあり、出席率は50%ほどだったと言う。
「入会3年目に委員長になったのが、僕の青年部活動の分岐点でした。新設の国際教養向上委員会で、メンバーたちとどんな委員会にしようかという議論からスタートしました。事業、研修会、懇親会(ウーロン茶で盛り上がる)が楽しく、鰻登りに出席率も上がりました(笑)。中学校から外に出ていたので、最初は誰ひとり知り合いがいなかったのですが、地元に帰ってきたと実感したのも入会したからこそと思っています」
全ての要職を経て、今年度会長に就任した。氏曰く、『あきっぽくって面倒なことが嫌い』今まで長続きしたことはあまりなく、気がつけば10年という歳月が流れていたと振り返える。それほど青年部活動は楽しく、実のあるものだった。だから、今までの感謝を込め、会長の椅子に座ることを決意した。
「元号が変わり新時代が到来します。何か新しいことをみんなで考えて挑戦していきたいという想いで、スローガンは『すべての仲間と新時代への挑戦』です。新しく『半田の子ども育成委員会』を組織しました。従来のサンタクロース委員会を、夏でも子どもたちのお役に立てたらと思い改称しました。子どもたちには将来半田を背負ってもらいたい、青年部にも入会していただきたいという願いも込めています」
また、かつて初めて委員長となって開眼したような自身の経験からも、各委員会の活動方法等はみんなで悩み、交わりながら作り上げていって欲しいと期待する。そこまでの過程こそが大切で、達成した暁にはそれぞれが大きく成長すると確信する。
「どんな事業が生まれてくるのか、ワクワクしながら楽しみにしています。僕もあと2年で卒業です。もう2年しかないので、メンバー全員と交わることが念願です。顔も見たことがない、話したことのない仲間もいます。暇を見つけて、1回でも参加いただければきっと新しい何かを得ることができると信じています。僕もそうでした。修業時代も今も少人数で仕事をしていて、大きな組織の中で働く機会に恵まれていませんでした。でも青年部では会員130名ほどの中で、ある時は中間管理職、部長というようなポジションをいただき、日常では得られない人との関わりを経験しました。人との接し方に幅が出たのではないかと自負しています。一番は友だちが出来たことですが、青年部は僕に多くのことを教えてくれました」
同時に友との関わりは、新たな仕事にもチャレンジするきっかけとなった。メンバーは事業主が多く、企業についての悩みを抱えていることもある。そんな時にアドバイスをしたいと、中小企業診断士の資格を取得し、知識の引き出しも増え、仕事の幅も広がった。
「いつも新しいことに向かっていきたいと考えています。先ずは手始めに(笑)、僕の大好きなアイドルグループのももいろクローバーZ(ライブにも行きます)に因んで、会員手帳と名刺(一部)をピンクにしました。快進撃を続けるももクロ同様、半田商工会議所青年部も新時代へ向けて走り続けましょう!」