半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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Good HANDA Quality

2018年6月13日(水)

東京海上日動火災保険株式会社 半田支社長 日吉 二郎 氏

 小学校の書き初めにも書いた『気力と充実』。たまたま見かけた言葉だが、いつも心に刻み、道を拓いてきた。高校まではサッカーに明け暮れ(中学3年時、東京都大会3位)、大学ではボートに熱中し(全日本大学選手権6位)、そのボート部OBも多く在籍していた同社で、社会人としてスタートした。そこでもボートの三菱選抜に入り、海外遠征も経験。
 「大学のボート部監督に、同級生との今の絆を一生変わらぬものにするためにも、みんなそれぞれ別の会社に行けと言われ、同期みんなで話し合って、私は学生時代一番尊敬する先輩が在籍していた当社に入社することに決めました。今では当時監督が言われた言葉の真意が解る年齢になりました。新人で本店営業部に配属されて以降の15年間は東京、名古屋で営業を担当しました。企業の皆様に直接保険のご提案をすることが好きで、東京では当時はさほど大きくなかった企業に根性だけで飛び込み、取引していただけるまで粘り、取引後の企業と共に成長できることに喜びを感じて日々営業をしていました。名古屋でもその手法で、街に多くの看板が出ている企業に目を付けて飛び込み続けたのですが、厳しい現実が待っていました」
 以後その失敗を教訓にして、自らが飛び込む営業スタイルを改め、代理店さんと共に企業の皆様にご提案することに重きを置くようになる。流れを見て調整しながら動く。それはスポーツを通じて培ったもののようだが、スポーツトレーナーを夢見たこともあるほど運動は身近なものだった。
 「スポーツマネジメント関連業務を志し、グループ会社に異動願いを出して異動を認めていただけたのですが、なぜか企業のメンタルヘルス対応に没頭する5年間が待っていました。当初メンタルヘルスに門外漢の私は周りの専門職の意見や要望を収集し続け、1年かけて何とかメンタルヘルス対応商品を開発しましたが、発売当初はまったく売れずに事業撤退寸前まで追い込まれました。しかし、色々な方との出会いを通じて、撤退ギリギリの時期に私のことを以前より知ってくださっていた方が支援者として現れ、事業として動き始めることができました。この時ほど、人とのつながりや縁を深く感じたことはなく、今でも感謝の気持ちで一杯です」
 今ではその商品『TMS NAVIGATOR』は同社の主力商品となり、様々な業界から注目されている。この仕事の影響もあってか、資格マニアにもなり健康管理士、衛生管理者、健康経営アドバイザー、福祉住環境コーディネーターなどの様々な資格取得にも挑戦し続けている。
 「それらの資格は私の財産で、いつかは健康管理に関わりながら、社会のお役に立てればと思っています。そんな夢を抱きながら、昨年4月半田支社長として着任しました。1年経った今、地域に密着する大切さを痛感しています。会社も今年度より『クオリティNo.1への挑戦』を新中期経営計画のタイトルとしていますが、半田支社でも『Good HANDA Quality〜知多半島の豊かで快適な社会生活と経済の発展に貢献する〜』を掲げ、代理店さん、社員のスキル・チーム力のクオリティアップを図り、お客さまのために、出来得ることはすべてやろうと支社メンバーと共に取り組んでいます。東京2020オリンピック・パラリンピックゴールドパートナーとしての、オリパラを軸としたイベントの開催等、地方創生に資する活動に、半田市をはじめとした様々な行政とも連携していきたいと思っています。そして本活動を通じて、一人でも多く方々に、東京海上日動のファンになっていただければと願っています」
 自らの資格を活かした健康経営セミナー等の活動も企画中で、健康管理を通じて社会に貢献したいという、夢の実現も同時に適えようと邁進中である。そして、地域密着がより図られるようにと半田ロータリークラブにも入会し、さらに知多半島をPRするためにボクサーとしても『知多の赤龍、日吉二郎』(赤は好きな色で母校のスクールカラー&龍は小学生時代よりファンであった中日ドラゴンズマスコット)のリングネームで40歳代のスーパーフェザー級日本チャンピオンを目指し、5月20日にゴングを鳴らす。5年前には日本フェザー級チャンピオン、昨年11月には中部・北陸地区ライト級チャンピオンに輝いた。
 「次戦は40代で3階級制覇を達成できる最後のチャンス。どんなに飲んだ翌朝も、朝焼けの運河沿いを毎日5キロ走り、帰宅後は筋トレ、休日はジム通いで特訓中です。仕事も試合も考え思い悩むこともありますが、最終的には、やるとなったら今がベストと開き直れます(笑)。いつも勝つために全力で戦っていますが、ダメなら次また挑戦すればいい。常に挑戦!日々、ポジティブシンキングで、『気力と充実』です」


ひよし・にろう氏プロフィール
昭和43年東京都生まれ。平成5年一橋大学法学部卒業。同年東京海上(現東京海上日動)火災保険(株)入社。本店企業営業部門配属。9年東京でのエリア営業部門、15年愛知県でのエリア営業部門。20年東京海上日動メディカルサービス(株)。25年医療福祉分野営業部門。28年再び愛知県でのエリア営業部門。29年現職。家族は横浜市在住。当所議員。金融部会副部会長。
 




電力の仕事はチームプレイ 各々が職責を全うする

2018年4月27日(金)

中部電力株式会社 電力ネットワークカンパニー半田営業所長 佐藤晋吾 氏

 北アルプスを望む急峻な山合いの農家に生まれ育った。谷を越え、山を登り登校した。冬は、満天にままたく星灯りを眺めながら帰途についた。
「豊かな環境が故に自然の脅威には逆らうことはできず、台風襲来による地滑りにより生家は倒壊し、山から町に避難(転居)しました。その後、父が急逝し進路変更を余儀なくされましたが、どんな時代にも予期せぬ出来事は起こります。起きた時にどう対処するのか、その心構えを準備しておくことは大切なことと思っています。これも育ってきた教訓から学んだことかもしれませんね。それが影響した訳ではないでしょうが、安定志向を求め中部電力を志望しました」
 地元長野県で勤務と思っていたが,名古屋支店勤務となり春日井営業所に配属された。当時の事務系男子新入社員に課せられた現場検針業務からスタートし、電気料金に関わる様々な業務を経験した。独身寮があった名古屋市名東区は当時まだ自然が残り、歳が近い仲間との生活は、見るもの聞くもの全てが新鮮でワクワクしながら毎日を送った。 
 「その後名古屋支店人事課に異動し、採用・教育・人事評価等に7年携わりました。仕事柄、多くの社内外の人達との出会いがあり、そのことが私の大きな財産となっています。電力の仕事は多岐に亘り、チームでの仕事が求められますが、人材が財産と実感したのもこの時代でした。現在、働き方改革が叫ばれていますが、当時の人事課では既にライフワークバランスを重要視した働き方をしていました。後年管理者になった時にも、この時代の学びや経験が大いに活きてます。人生において最も吸収力のある20代に、この部署に所属したことは、社会人としてとても幸せなことと感謝しています」
 以後、検針員や収納業務を担う人達が加入する第2労働組合員との労使交渉や、電気料金滞納者との折衝と神経を使う仕事も「偉大なる鈍感力」で乗り切ったと笑う。世の流れは電気料金の支払いをコンビニエンスストア・クレジットカード会社が担う時代になり、その交渉に当たった。また、電力の自由化進展に対応する新たな電気料金メニューの制度づくりに奔走するなど、無駄な仕事は一つもなかったと断言する。そんな様々な経験と知識を携え、平成28年に現職となり半田の地に赴いた。
 「所員には、?各々が職責を全うする?よき社会人であれ?健康第一、と言い続けてます。電力の仕事はチームプレイ。誰もが役割を担っている。私たちの仕事は社会のお役に立っているという誇りと自信を持ち、その使命を果たすことが大事。半田営業所は中部電力の中でも有数の伝統ある事業場です。古くから皆さまにお世話になっており、地域のお役に立つことであれば可能なかぎり関わります」
 その対外的なお役目も相当数あり、その時々の出会いを楽しみ絆をつなぐ。いつもどんな時も旺盛な好奇心と、ユーモアあふれるセンスで対峙する。
 「半田市の条例『知多酒で乾杯』を所内で推奨したところ『日本酒好きの所長が勝手に作ったルール』と誤解されるほどの上戸で、半田の地でまず調べたのは『知多半島に酒造が多いのは何故か』です」
 幼少期から体を動かすのが習慣になっており、あらゆるスポーツに熱中した。歳を重ねてからは、チームでも一人でも出来る趣味が主になり現在は、ロードバイク・MTB・登山、冬はスキー・スノーボードに興じる。
 「人生は3万日といわれ,最初の1万日(28歳頃)までが修業、2万日で社会に還元していくものと聞いたことがあります。今、2万日目を疾走中です」



さとう・しんご氏プロフィール
昭和37年長野県北安曇郡生まれ。昭和56年長野県立豊科高等学校卒業。同年中部電力入社、春日井営業所配属。名古屋支店総務部、名古屋市内営業所、本店営業部、名古屋支店営業部務等を経て、平成28年現職。半田商工会議所工業部会部会長。当所常議員。一宮市在住。





限界を超えて半歩前へ

2018年3月31日(土)

青年部平成30年度会長 有限会社大和屋家具店 代表取締役社長 淺井 泰博氏

 1899年創業の老舗家具屋の4代目として生まれ、小中学校時代から家具の配達の手伝いなどをし、家業を間近に見て育った。
「父親は今まで守ってきた暖簾を、僕に継いで欲しいという思いはあったのでしょうね。そのためか、東京の大学に行くのを反対され、半田に帰ってくるという誓約書を交わし(笑)上京しました」
 大学時代はバスケットボールのサークルに所属し、インド・ネパールを友と旅し、勉学と大学生活を謳歌した充実した4年間を送った。平成6年卒業と同時に家業に就いた。
 「入社した頃は廃業していく同業者もあり、この先のあり方を考えさせられました。当時はどこの家具屋さんも婚礼家具が主流で、集客力のある大型店が強かったです。うちも店舗が大きい方ではなかったので、他店との差別化を図るために、入社して3年くらいは商品構成、販売方法などを試行錯誤していました」
 将来を見越し、様々なことにチャレンジした。婚礼家具を序々に減らし、輸入家具や輸入雑貨を主軸に置いたこともあったが、今では新築住宅に相応しい家具を主力商品としている。
 「家族構成の変化や暮らし方によって、一つひとつ買い足していただけるような家具を提案しています。そんな家具選びの相談相手として、お役に立てればと思っています。時代により仕事の仕方は変わってきますが、いつの世も商売人としての使命は、お客さまに喜んでいただけることだと思っています。それに応えるために、お客さま目線で考え、販売していくのが商売の基本だと考えています。また、愛着のある家具を修理したいという依頼も多く、父親が中心で携わっていますが、いずれは自分が修理していきたいと思っています。オーダー・セミオーダー家具も取り扱い、インテリア好きの方に、きちんと応えられる店でありたいですね」
 そんな様々なことに挑戦する中で、発足54年の青年部会長として、新たな挑戦をすることとなった。在籍して18年、専務理事、監事を経て、最終年度を迎えた今年度、その重責を担う。
 「前述しましたが、僕は外の世界も知らず家業に就き、仕事一筋の毎日を送っていました。そんな姿を見て父親から、世界を広げるためにもどこかで勉強したほうがいいんじゃないかとアドバイスを受け、青年部に入会しました。未知の世界でしたが、中座しながらも、徐々に青年部活動にどっぷり浸かっていきました。今まで諸先輩から色々なことを教えていただきました。その貴重な経験を、きちんと伝承して卒業していかなければ後悔すると思い、会長を務めさせていただく決心をしました」
 平成30年度という節目の年の会長となるが、近年は以前のことを知らないメンバーも多く、青年部も大きな節目を迎えていると言う。だからこそ、伝承のためにもその歴史や活動をより反映できる事業を組み立て、会員全員が自分の限界を超えて、半歩前へ進むことが大事と力説する。
 「事業のひとつに、富士登山があります。山登りは人生と似ていて、一歩一歩進んでいかないと頂上に辿り着きません。体力的、精神的に辛くても仲間と励まし合って登れば、必ず学びがあります。体を動かし、五感で感じる研修です。また、12月に市民参加型事業を計画しています。多くの皆さんの参加をお持ちしています」
 『経験に勝るものはない』と言われることがあるが、青年部の活動を通して様々なことを学び、挑戦し、生きることを楽しむ余裕も出てきたようだ。
 「膝を付き合わせ熱く語ったり、思いを同じくするメンバーと行動することは、何ものにも得難い時間です。入会直後の僕は話下手で、とても役職は受けられないと思っていましたが、経験を重ねるうちに様々なことに挑戦する勇気をいただきました。多くの青年部メンバーが参加しているトライアスロン『アイアンマン70.3セントレア知多半島ジャパン』に今年もリレーで出場します。3年前から先輩に誘われた時は嫌々だったのですが、今では体が楽になり、時間を見つけて体を動かしています。様々な活動を通して、経験することの大切さを身にしみて感じています」
  
 幾度となく青年部に入って良かった、という言葉が発せられる。仲間と集い、共に研鑽し合い、事業の成功に杯を重ね至福の時間を過ごす時、人の輪・思いの輪が拡がり、チャンスや可能性を拡げ、成長へと繫がることを実感してきた。そんな自身の体験も踏まえて、今年度のスローガンは『繫がろう 心とこころ 拡げよう 思いの輪 〜自分の限界を超えて半歩前へ〜』。かけがえのない仲間と共に、限界を超えて、半歩前に踏み出す。しっかりと前を見据えて‥‥。


あさい・やすひろ氏プロフィール
昭和48年半田市生まれ。平成6年大学卒業後、同年有限会社大和屋家具店入社。27年現職。青年部入会:平成12年。地域委員会委員長、愛知県商工会議所青年部連合会出向研修委員会、副会長(地域活性委員会担当)専務理事、監事を経て30年度会長。
中心市街地活性化勉強会メンバー。半田市在住。







No Pain No Gain

2018年2月28日(水)

アクサ生命保険株式会社 名古屋支社 支社長 小林 敬氏

 『ノーペイン ノーゲイン』(苦労なくして得られるものはない)。アメリカではよく使われる言葉のようだが、大学時代アメリカンフットボールに青春を捧げ、その言葉に支えられてきたと言う。
 「アメフトは上級生になればなるほど、責任が大きくなり『上意下達』を重んじることのない精神が好きでした。物事を起こす時、反動が出ることがありますが、それを乗り越えないと次に進めません。社会人になってからも課題に直面した時、いつもその言葉を噛みしめていました。アメフトに熱中した4年間は、私の人生に多大な影響力を与えてくれました」
 アメフトの先輩が在籍する日本団体生命保険(平成12年合併によりアクサ生命保険に改称)に昭和61年に入社し、富山支店に配属された。時代はバブル期に突入し支店の拡大を図っていた時期であり、その後も様々な土地に赴き、商工会議所と提携し、(同社は昭和42年から商工会議所共済制度の全国展開を開始)従業員のための福利厚生制度や経営者のための保険を推進してきた。入社して5年目から営業所長として、営業職と社員の支援に尽力した。
 「所長になってから仕事のレベルをより高いものにしたく、CFP(国際資格)と1級ファイナンシャル・プランニング技能士(国家資格)の所得を目指しました。3年かけて目的を達成しましたが、資格維持のための研修や教育もあり、今も苦労しています(笑)。地域を代表する企業の方との出会いや、地域の特徴ある産業を拝見できることは大きな楽しみです。その土地の慣習や背景はありますが、結局は人と人のつながりが大切と感じています」
 16年間の営業所長時代を終え、本社の販売企画部で最新の販売手法などを指導する、関東エリア担当のトレーニングマネージャーとして活躍。その後、松本支社長を経て、現職となって4年目に入った。
 「今は13の商工会議所様を担当していますが、中でも半田商工会議所様は歴史があります。しかし、残念なことに10年ほど前から名古屋営業所の半田分室として機能しています。より迅速に対応するために、着任直後から知多半島に営業所を再び配置したいと思っています」
 今は名古屋支社を統括しながら各会議所に赴き商品の提案、営業所長へのバックアップと多忙さを極める。時には経営者を対象としたセミナーの講師としても壇上に立つ。同時に社内での人材育成、働きやすい職場環境づくりにも力を注いでいる。
 「毎月社員を採用し、入社月がそれぞれです。風通しのよい職場づくりのために、その採用月に社員ひとりずつface to faceで面談をしています。社員の声を聞き、対処していくことで『信頼』も生まれてくると信じています。対会議所様とも同様で、会議所様とのリレーションをきちんとしていくことが私の使命と感じています。今年も『春のあおぞら共済キャンペーン(3/22〜5/18』が始まります。従業員さんが安心して働ける職場づくり、人材確保のために、今後ますます福利厚生制度の充実は必要になってきます。その一助として、ぜひご加入を検討していただきたいと思っています」
 人が居住するところに保険は存在する。全国への転勤は当たり前という覚悟で入社し、単身赴任も視野に入れていた。その単身生活は13年を数えた。
 「自宅に住んだのは2年間だけで、単身生活にもすっかり慣れました。料理はレシピ通りに作りますから美味しいですよ(笑)。しかし仕事帰りに、おつまみ買ってイッパイというパターンも多く、コンビニにお世話になっています。家事全般はやっていますが、全て自分でやるのは面倒くさいですね(笑)」
 体を出来るだけ動かそうと、2駅分の距離を歩き、電車で勤務地に向かい、付き合いも多くなった支社長就任後に始めたゴルフを楽しむ。名古屋にはアメフト時代、良きライバル校の選手だった仲間もいて、一緒に杯を掲げ、思い出話に興じることもあり、その時々の楽しみを味わう。

 現在、名古屋支社の100名近い社員の長として、最上級生としての日々を送り、『ノーペイン ノーゲイン』の精神で職務に励む。


こばやし・けい氏プロフィール
昭和38年長野県上田市生まれ。61年立教大学社会学部卒業。同年日本団体生命保険株式会社入社。富山支社、多治見営業所長、大館営業所長、所沢営業所長、高崎営業所長、本社販売企画課、松本支社長を経て平成27年1月現職。CFP、1級ファイナンシャル・プランニング技能士。名古屋市在住。当所議員。





機動力で勝負

2018年1月29日(月)

エスケー化研株式会社 名古屋工場 工場長 原野 栄氏

 工業高等専門学校(高専)に入学した頃は2年間の寮生活が義務付けられ、今ではありえないほどの、『まるで軍隊のような生活』だったという。入学当初の数ヶ月は、早朝5時起床から夜の点呼まで緊張の日々を送った。
 「寮生活は厳しかったのですが、もともと高専は自由な校風でした。3年生からは私服通学で、成人した生徒のために喫煙室もありました(笑)。遊びにハマり、留年や退学をしてしまう生徒もいましたが、私は要領よく(笑)、ごく普通に卒業しました。担任の紹介で当社に入社したのですが、『絶対辞めるな』と念を押され、何かあるかなと思ったものです」
 当時、その何かは、勤務時間が長かったことだった。入社した33年前は会社の売上高も100億ほど(現在は建築仕上塗材の国内最大手、売上高917億6200万円・平成29年3月期)。同規模の会社も乱立し、しのぎを削り合う毎日で、その労働環境に半数くらいの人が退社し、入社当時の社員の平均年齢が20代前半だった。
 「大阪工場に配属され、寮から会社まで徒歩で40分くらい。朝は先輩と車通勤し、残業して歩いて寮まで帰ると12時の門限に間に合わず閉め出されていました。会社に行くのが辛いと感じることもありましたが、今では良い思い出です。本当によく働いていました。そういう真面目にコツコツ働く社風は、今も受け継がれています」
 また、上場企業の社長在位歴で最長の日本記録を持つ創業者(在位61年、現会長)が本社工場長を兼任していたので、常に創業の精神を肌で感じてきた。オイルショック時に脱石油対策として誕生した『耐火被覆材』は「無から有を生じる」という思想を基に創業者自らが海外まで原料調達に走り回り、たまたま手近にあった砂漠の砂をヒントに開発し、今では同社の耐火断熱事業の主軸となった。ピンチをチャンスの心意気、困った時にも決してあきらめない創業精神は染み付き、現職となった今もやるしかないと日々奮闘している。
 「規模は大きくなりましたが、機動力を大切にし建築仕上塗材は午後2時くらいまでの注文は当日生産・出荷をしています。多い時で100トン、小さい缶を含めて1万缶になり、現場は多忙を極めていますが、全てのオーダーを受け入れることを使命としています。毎日のミーティングは欠かせませんが、いつの間にか、社内でも努力してやれることはやろうという雰囲気が醸成されてきました。仕事に向かう自主性や意識が育ってきたことはとても嬉しいことで、やりがいを感じています。そして、工場長は工場を稼働させるだけでなく、営業活動も使命として、注文につなげるための努力は常に心がけています」
 当所のにぎわい創出委員として異業種の人との出会いを大切にしているが、それも時として、仕事にとつながっていくこともあると言う。そんな出会いや仕事を通じて、社員たちに伝承したいことは山積している。
 「誰もが、入社当時は自分のことだけを考えるので精一杯です。やがてチームとして、事業所としての仕事の仕方を考え、業績を上げるためにも会社全体のことを考えるようになるでしょう。期間も短期間から半年、1年、3年と長いスパンで物事を考え、先を見る目が育ってきます。全員が一丸となって仕事に取り組むことが出来たらと願っています」
 前職者と入れ替わるようにして、現職に就いたのが4年前。秋頃から転勤の話が出始め、決定したのは初冬の頃で新年の初出勤から半田勤務となった。目の回るような準備期間であったが、夫人の希望で学期途中の子どもたちも説得し、入社以来慣れ親しんだ大阪から、一家そろって未知の半田の住民となった。
 「出かける時、何かする時は家族一緒が基本です。半田に来て『醸す丼』のリーフレットを片手に店巡りをみんなで楽しみました。家族が元気でいてくれるだけで、仕事も頑張れます。単身で来ていたら大阪に戻っていたかもしれませんね(笑)」
 幼少の頃は小児喘息気味で運動を勧められ、短距離走やマラソン、走り幅跳びに挑戦した。中学時代には県内の駅伝大会にも出場し、その時からあきらめない精神力は芽生えていたようだ。さらに高専時代、新入社員時代から現職まで、貴重な経験や人との出会いで、『機動力』の大切さを再認識し、仕事に邁進する日々を送る。


はらの・さかえ氏プロフィール
昭和38年山口県宇部市生まれ。59年宇部工業高等専門学校工業科学科卒業。同年エスケー化研(株)入社。大阪工場品質管理に配属。生産管理、大阪工場長を経て平成26年1月現職。
半田市在住。当所議員。