2018年2月28日(水)
『ノーペイン ノーゲイン』(苦労なくして得られるものはない)。アメリカではよく使われる言葉のようだが、大学時代アメリカンフットボールに青春を捧げ、その言葉に支えられてきたと言う。
「アメフトは上級生になればなるほど、責任が大きくなり『上意下達』を重んじることのない精神が好きでした。物事を起こす時、反動が出ることがありますが、それを乗り越えないと次に進めません。社会人になってからも課題に直面した時、いつもその言葉を噛みしめていました。アメフトに熱中した4年間は、私の人生に多大な影響力を与えてくれました」
アメフトの先輩が在籍する日本団体生命保険(平成12年合併によりアクサ生命保険に改称)に昭和61年に入社し、富山支店に配属された。時代はバブル期に突入し支店の拡大を図っていた時期であり、その後も様々な土地に赴き、商工会議所と提携し、(同社は昭和42年から商工会議所共済制度の全国展開を開始)従業員のための福利厚生制度や経営者のための保険を推進してきた。入社して5年目から営業所長として、営業職と社員の支援に尽力した。
「所長になってから仕事のレベルをより高いものにしたく、CFP(国際資格)と1級ファイナンシャル・プランニング技能士(国家資格)の所得を目指しました。3年かけて目的を達成しましたが、資格維持のための研修や教育もあり、今も苦労しています(笑)。地域を代表する企業の方との出会いや、地域の特徴ある産業を拝見できることは大きな楽しみです。その土地の慣習や背景はありますが、結局は人と人のつながりが大切と感じています」
16年間の営業所長時代を終え、本社の販売企画部で最新の販売手法などを指導する、関東エリア担当のトレーニングマネージャーとして活躍。その後、松本支社長を経て、現職となって4年目に入った。
「今は13の商工会議所様を担当していますが、中でも半田商工会議所様は歴史があります。しかし、残念なことに10年ほど前から名古屋営業所の半田分室として機能しています。より迅速に対応するために、着任直後から知多半島に営業所を再び配置したいと思っています」
今は名古屋支社を統括しながら各会議所に赴き商品の提案、営業所長へのバックアップと多忙さを極める。時には経営者を対象としたセミナーの講師としても壇上に立つ。同時に社内での人材育成、働きやすい職場環境づくりにも力を注いでいる。
「毎月社員を採用し、入社月がそれぞれです。風通しのよい職場づくりのために、その採用月に社員ひとりずつface to faceで面談をしています。社員の声を聞き、対処していくことで『信頼』も生まれてくると信じています。対会議所様とも同様で、会議所様とのリレーションをきちんとしていくことが私の使命と感じています。今年も『春のあおぞら共済キャンペーン(3/22〜5/18』が始まります。従業員さんが安心して働ける職場づくり、人材確保のために、今後ますます福利厚生制度の充実は必要になってきます。その一助として、ぜひご加入を検討していただきたいと思っています」
人が居住するところに保険は存在する。全国への転勤は当たり前という覚悟で入社し、単身赴任も視野に入れていた。その単身生活は13年を数えた。
「自宅に住んだのは2年間だけで、単身生活にもすっかり慣れました。料理はレシピ通りに作りますから美味しいですよ(笑)。しかし仕事帰りに、おつまみ買ってイッパイというパターンも多く、コンビニにお世話になっています。家事全般はやっていますが、全て自分でやるのは面倒くさいですね(笑)」
体を出来るだけ動かそうと、2駅分の距離を歩き、電車で勤務地に向かい、付き合いも多くなった支社長就任後に始めたゴルフを楽しむ。名古屋にはアメフト時代、良きライバル校の選手だった仲間もいて、一緒に杯を掲げ、思い出話に興じることもあり、その時々の楽しみを味わう。
現在、名古屋支社の100名近い社員の長として、最上級生としての日々を送り、『ノーペイン ノーゲイン』の精神で職務に励む。
2018年1月29日(月)
工業高等専門学校(高専)に入学した頃は2年間の寮生活が義務付けられ、今ではありえないほどの、『まるで軍隊のような生活』だったという。入学当初の数ヶ月は、早朝5時起床から夜の点呼まで緊張の日々を送った。
「寮生活は厳しかったのですが、もともと高専は自由な校風でした。3年生からは私服通学で、成人した生徒のために喫煙室もありました(笑)。遊びにハマり、留年や退学をしてしまう生徒もいましたが、私は要領よく(笑)、ごく普通に卒業しました。担任の紹介で当社に入社したのですが、『絶対辞めるな』と念を押され、何かあるかなと思ったものです」
当時、その何かは、勤務時間が長かったことだった。入社した33年前は会社の売上高も100億ほど(現在は建築仕上塗材の国内最大手、売上高917億6200万円・平成29年3月期)。同規模の会社も乱立し、しのぎを削り合う毎日で、その労働環境に半数くらいの人が退社し、入社当時の社員の平均年齢が20代前半だった。
「大阪工場に配属され、寮から会社まで徒歩で40分くらい。朝は先輩と車通勤し、残業して歩いて寮まで帰ると12時の門限に間に合わず閉め出されていました。会社に行くのが辛いと感じることもありましたが、今では良い思い出です。本当によく働いていました。そういう真面目にコツコツ働く社風は、今も受け継がれています」
また、上場企業の社長在位歴で最長の日本記録を持つ創業者(在位61年、現会長)が本社工場長を兼任していたので、常に創業の精神を肌で感じてきた。オイルショック時に脱石油対策として誕生した『耐火被覆材』は「無から有を生じる」という思想を基に創業者自らが海外まで原料調達に走り回り、たまたま手近にあった砂漠の砂をヒントに開発し、今では同社の耐火断熱事業の主軸となった。ピンチをチャンスの心意気、困った時にも決してあきらめない創業精神は染み付き、現職となった今もやるしかないと日々奮闘している。
「規模は大きくなりましたが、機動力を大切にし建築仕上塗材は午後2時くらいまでの注文は当日生産・出荷をしています。多い時で100トン、小さい缶を含めて1万缶になり、現場は多忙を極めていますが、全てのオーダーを受け入れることを使命としています。毎日のミーティングは欠かせませんが、いつの間にか、社内でも努力してやれることはやろうという雰囲気が醸成されてきました。仕事に向かう自主性や意識が育ってきたことはとても嬉しいことで、やりがいを感じています。そして、工場長は工場を稼働させるだけでなく、営業活動も使命として、注文につなげるための努力は常に心がけています」
当所のにぎわい創出委員として異業種の人との出会いを大切にしているが、それも時として、仕事にとつながっていくこともあると言う。そんな出会いや仕事を通じて、社員たちに伝承したいことは山積している。
「誰もが、入社当時は自分のことだけを考えるので精一杯です。やがてチームとして、事業所としての仕事の仕方を考え、業績を上げるためにも会社全体のことを考えるようになるでしょう。期間も短期間から半年、1年、3年と長いスパンで物事を考え、先を見る目が育ってきます。全員が一丸となって仕事に取り組むことが出来たらと願っています」
前職者と入れ替わるようにして、現職に就いたのが4年前。秋頃から転勤の話が出始め、決定したのは初冬の頃で新年の初出勤から半田勤務となった。目の回るような準備期間であったが、夫人の希望で学期途中の子どもたちも説得し、入社以来慣れ親しんだ大阪から、一家そろって未知の半田の住民となった。
「出かける時、何かする時は家族一緒が基本です。半田に来て『醸す丼』のリーフレットを片手に店巡りをみんなで楽しみました。家族が元気でいてくれるだけで、仕事も頑張れます。単身で来ていたら大阪に戻っていたかもしれませんね(笑)」
幼少の頃は小児喘息気味で運動を勧められ、短距離走やマラソン、走り幅跳びに挑戦した。中学時代には県内の駅伝大会にも出場し、その時からあきらめない精神力は芽生えていたようだ。さらに高専時代、新入社員時代から現職まで、貴重な経験や人との出会いで、『機動力』の大切さを再認識し、仕事に邁進する日々を送る。