半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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問題解決のお手伝いが使命

2025年5月2日(金)

東海東京証券株式会社 半田支店  支店長 加藤 将人 氏

木曽川沿いに位置する山間の町、岐阜県恵那郡坂下町(現中津川市)で、衣料品販売店の三男として生まれた。幼い頃から両親の仕入れに同行し、町の会館などで衣料品を販売する時は、ちょこんと座り手伝いをした。家業に励む両親の姿を見て、いずれは後継者の道を視野に入れながら、時には両親の想いを受け止めながら歩んできた。
 「父から、興味ある経済の世界を知るためには、証券会社が良いだろうとアドバイスもあり、丸万証券㈱(現東海東京証券㈱)に入社し、本店(名古屋市)勤務になりました。田舎とは違い夜も明るい栄の街で『盆踊りみたい』と言われながら流行っていたディスコに通い、居酒屋に出没し(笑)、栄の夜を堪能しました。事務員として、与えられた仕事をこなす日々が5年ほど続き、その間、半田支店にも勤務しています」
 半田支店時代はバブル全盛期、全社員がエネルギッシュに仕事に遊びに心血を注いだ。同支店には現社長の北川尚子氏を始め同社の要となる将来の役員が多く在籍していた。幼い頃、両親の人と接する姿や人との距離感を見て学ぶことが常だったように、北川社長らの行動や思考力に目を見張り、自然に学んでいった。そんな中で証券不況に伴い営業員の増員が図られ、氏も営業員に転属となった。 
 「どんなに頑張っても成績が上がらず苦戦していました。高知支店時代に上司から「全てやったと言っているが、これとこれを全てやったんだな?」と、具体例を示され、自身の行動を見つめ直し、休日も返上し、全てのお客様に会いに行きました。(好きなゴルフを楽しんだのも1 度だけでした)。結果的には成績に繋がりませんでしたが、『全店で顧客との接触率が一番多い』と評価していただきました。表面に現れる華やかな部分の成果だけでなく、日々の行動を評価してくださる人がいた、私を見ていてくれた人がいたことに救われました」 
 また、ある役員に「本社に戻って頑張りたいと、みんな言うんだよ。でも帰ってくると、その時覚えたことや頑張ったことを忘れて流されていくんだよね」と言われた。その一言は衝撃的で、その時の気持ちを忘れないためにも、お客様に会い続けようと誓った。『お客様のニーズに応えるためにお客様を知る』という営業活動の真髄にも触れたこの時代は、その後の仕事の仕方にも色濃く反映し、大きな転機となった。その誓いは次の春日井支店で、全店トップ営業員として表彰され形になり、今でもあの役員の言葉を心に深く刻み続けている。 
 「春日井支店で出会った方が株が好きで、『あんたはどんな銘柄がいいと思うか?』と聞かれ、株という生き物を扱いながら確かな返答をるために私も株に強くなろうと無我夢中で学び、お客様に育てられきました。その後、支店長の就任年齢は40歳からという制度変更の波に乗り、41歳で中津川支店長に赴任しました。知り合いも多い地元なので支店長というお役に躊躇したのですが、父から『嬉しい』と言われ、親孝行が出来たと私もその立場を嬉しく受け止めました。実は苦しい時代に家業を継ぐことが頭の中にありました。課長、第一課長と昇進し、充実した時間を過ごすようになった頃、父から『そのまま仕事を続けた方が良いだろう』と言われ、私も仕事の面白さ、やりがいを実感していたので、このまま働き続ける道を選びました。折しも大規模小売店舗立地法の運用が緩和され、田舎にも大型店の進出が進み、廃業に近い形で家業を畳みましたが、父の心の片隅に私に継いで欲しかったという想いがあったのかもしれません」 
 支店長に就任した時、『時代の流れに抗うこともなく、流されながら生きてきて、この立ち位置にいる』と振り返ったと語るが、表には現れない『努力』の積み重ねが結実した結果であろう。2023年、4店目の支店長として、半田支店に戻ってきて2年余り。半田商工会議所、半田ロータリークラブの人々と接し、生の声を聞く機会も多く、経営者の抱える課題解決のお手伝いが支店長の仕事であると真摯に向き合う。証券会社は投資のイメージが強いようだが、余剰不動産の売買、遺産相続の整理、相続対策、介護施設の紹介などの社会課題にも取り組み、豊かな老後のプランビジョンを提供している。 
 「歴史に学んで現状を把握し、未来を創造するのが『投資』という考え方もあります。金融庁の統計では金融の勉強をしている人は全国で7%位と示され、日本人は概して投資に後ろ向きな方が多いように感じています。私はより良い将来のためにもリスクに負けず、お客様の心理にストレスをかけない投資方法などの金融勉強会の開催は必要なことだと思っています。金銭はモノとサービスに変えてこそ、その価値が上がるのではないかと、ついつい考えてしまいます。証券マンの性でしょうか?」 
 『証券マンは良き卸問屋であれ』経営の神様・松下幸之助氏がナショナル証券の代表を務めていた時の名言で、氏が好きな言葉である。卸問屋の使命はモノの本質を深く見極め、安い時に商品を仕入れ、安く消費者に提供することである。証券マンも然りで、両親もその精神を貫いた。 
 「幼少期の頃から家業を通じて人との出会いに恵まれ、モノと人、この両方を見続けてきたと感じています。人との出会いは私に様々なチャンスを与えてくれ、本質を見定める力を養っていただけたのではないかと思っています。半田商工会議所さんは、多くの方との出会いの場所を提供してくださり、私の成長を促していただいた場所でもあります。本当にありがたいことです」



●ちょっと一息●
 ゴルフは今も楽しんでいますが、基本的には一人でやれることが好きで、一人で考える時間は必要だと思っています。サウナでボーっとしたり、今からは田舎の山のお守りで(笑)、タケノコ、蕨、ふきのとう、タラの芽、茗荷採りで忙しくなります。例年、自作の釜で採ってきたものをアク抜きして湯がいて、周りの人に配り歩いています。 
 社会人になった時はキラキラする都会に憧れていましたが、今では田舎が好きで落ち着きます。母が一人で住む中津川に週末に帰り、母の命令下であれこれやっています。畑を耕し、耕運機をかけたり、石垣を直したり、やるべきことは楽しみながらやりたいと思い、試行錯誤しながら一人の時間を存分に楽しんでいます。近所では「親孝行息子」と言われているようで、ちょっと気恥ずかしいのですが。 
 私はプライベートでは寡黙なんです。家族(妻、二男一女)の会話に入れなくて(今時の言葉が難しいこともありますが)、聞いているだけ。周りの皆さんは想像できないかもしれませんね(笑)。また、今年から「楽器が弾けるといいな」と思ってフォークギター教室に通い始め、「マリーゴールド」を練習中です。これも一人で出来ることで、私の心休まる時間です。 
 将来は地元に帰って、ゴルフ、山菜採りをしながら、金融の勉強を子どもたちに教えられるような場所が提供出来ないかなと考えています。きっと、いつまでも証券マン気質が抜けないでしょうから。

1969年坂下町(現岐阜県中津川市)生まれ、名古屋市在住。87年中津川商業高校卒業。同年丸万証券㈱(現東海東京証
券㈱)入社。本社配属。93年まで事務職。94年から営業員として2004年高知支店、春日井支店を経て、10年中津川支店長、春日井・岐阜支店長を経て、23年現職。当所議員。金融部会副部会長。(令和7年3月10日取材時現在)



『NEXT10デザイン』~未来的価値の創造~

2025年4月3日(木)

山本 悠介氏半田商工会議所青年部 令和7年度会長 CTリング株式会社 代表取締役

小学校のPTA仲間であり、家族同士、親戚のようなお付き合いをしている、平成28年度青年部(以下YEG)会長の坂田篤氏から誘われ、同年にYEGとの縁が始まった。3年後、半田のこども育成委員会委員長として、行政、企業やメンバー事業所などに協力を仰ぎ『バスロゲイニングin半田ナワバリバトル』を企画した。昼食はメンバーの店でワンコインランチを提供してもらい、当時、試運転を開始したコミュニティバス『ごんくる』で市内を巡った。小中高校や名所、文化施設などをチェックポイントとし、チームで得点を競い合うゲームに、280名の参加者たちは熱狂した。当時のメンバー140名の人的資源を活かし、将来、まちをデザインするであろう子どもたちに半田の魅力を知ってもらうこと、『ごんくる』の改善提案の寄与を目的とし、その使命を果たした。
 「まだ若かった私は委員長として結果を残したい、今までとは違うことにチャレンジしたいと思っていました(笑)。また、人望の厚い坂田会長からの紹介だから中途半端なことは出来ない。入会後も多くの先輩方に支えていただき、恩を返したいという想いがいつもありました。入会当初、右も左もわからない私をサポートしてくれた大橋委員長は令和4年度の会長。翌年担当してもらった池田副会長は令和2年度会長。ナワバリバトルで苦楽を共にしてくれた鈴木専務理事は令和5年度の会長に就任しました。本当にいつもいい縁に恵まれています」
 入会後は渉外委員会委員、研修委員会副委員長・東海ブロック出向を経て、初の委員長となり役員を歴任してきた。様々な事業の足跡を残し、4月から令和7年度会長に就任する。発足60周年事業を終え、新たな10年に向けたファーストステップを踏み出す年度として、スローガン『NEXT10デザイン』~未来的価値の創造~を掲げた。
 「60年という長い歴史の中には多くの学びがあります。それを受け入れ守るべきことは守り、時代に即した形で進化させながら、YEGの可能性を示し、地域と共に継続的に発展していくために必要な価値を創造していく1年にしたいと思っています。私たちが出来ることは沢山ありますが、必要なファクターが整っていない、もしくはシナジーが生まれにくい状況の時もあります。メンバー全員がそれに気づいた時に、大きな力が生まれてくると信じています。歴代の会長も言われているように、事業は主催する委員会のものではなくYEG全体のものであり、全員で作り上げていく意識を持つことが大切なことだと思っています。決定したことを当たり前に実行し、当たり前に参加する。そんな簡単なことで信頼関係も生まれ、大きなステップを踏み出すことが出来ます」
 150名を超えるメンバーの職種は様々で、メリットの享受もそれぞれである。色々な人との出会いや研修での学びは財産であるが、目に見えて劇的な変化が起きることはあまりない。未来の会員を含めた全てのメンバーにメリットが生まれる価値を提供したいと、親会が発信する補助金や助成金、研修の活用などの浸透を目指す。団体の基盤強化のために活動の軸は対内に置き、生成AI、対内取引の推進・HPの活用(HPを一新し、会員事業所のための営業マンとして進化)、BCPの作成、BCPの推進、地域振興、こども育成、国際視察などを『半田YEGロードマップ』として提唱する。
 「所信、基本方針、WAY、戦略実行システムなど、あえて私の想いや方向性、考え方を詳細に示させていただきました。今も各委員会で目標に向けて実行する道筋を模索しているという話も聞こえてきます。そういう風土を作り出すことが大切であり、そこへのアプローチや方策を私なりに表したつもりです。様々なチャレンジや取り組みが、私の在任中に完成することはないでしょうが、その動きが次代へ繋がっていくことを願っています。きっと次の誰かがブラッシュアップしてくれるでしょう。それをとても楽しみにしています。私は会長としての強い責任感は持っていますが、お任せして温かく見守る存在でありたいと思っていま
す。好きなこと、得意なことをやるのではなく、やるべきことを実行しようとするタイプの私は、会長というより参謀役に向いていると思っていますけれどね(笑)」
 人に恵まれ、色々な影響を受け今日があると振り返る。坂田歴代会長のような、『人と人を繋げる人になりたい』と語る。かつて多くの人からの縁をいただき、繋いで難局を乗り越えてきた。高校生時代に周りの環境から苦境に陥った時、支えになったのは同級生の現夫人だった。その夫人とは高校卒業式の日に入籍し、新たな生活を築いた。妻子を養うために昼夜働き始め、恩師と慕う人と出会い21歳の時に社業(電気通信設備の保守)を興し、人と社会との繋がりを大切にしている。2019年、サロン事業部『カプセルサロンLITTLE TREAT』を立ち上げ、夫人が運営し公私とも良きパートナーとして歩んでいる。
 「経済的に苦労していた時は、昼間は通常の仕事をして、早朝2時から朝刊を配っていました。寝る間もなく本当にきつかったですね。多くの人に支えられながら目一杯努力をしていました。今はいい言葉ではないかもしれませんが、その時は『この努力が必ず報われる』と確信していました。また、私は本が好きで、その影響も大きかったですね。今この状況も私の人生の定めであり、努力によってこの先には必ず豊かで幸せな人生があると信じていました。もし、これからどんな苦境があったとしても、私は絶対へこたれません。上手くいくためにどうしたらいいかと考え、クリアしていくと思いますし、今までもそうしてきました」
 NEXT10としてビジョンを見据えた初年度、その踏み出し方で、今後の方向性が決まる可能性もある大事な一歩となる。苦い経験、諸先輩方からの温かい支援や指導、それらの貴重な経験を踏まえ、確かな一歩を踏み出すだろう。かつて自分磨きに必死だった時代を経て、会長という立場に立った今、メンバー事業所・地域の発展を願い、チャレンジャーの顔を持ちながら始動した。

●ちょっと一息●
 趣味は旅行です。知らない景色を観ることで新しい観点を得る感覚が好きです。妻と娘(トイプードル2匹)とキャンプ等、車での国内旅行もよく行っています。
 昨年12月に日本商工会議所青年部の国際事業がセブ島であり、極貧地域での炊き出しに参加しました。環境に嘆くことなく暮らす子どもたち、子どもたちが理解していない劣悪な状況を根本から改善しようと支援している日本人の姿。個人的な旅行では経験できない、考えさせられる内容でした。今度は従業員や家族と一緒に行こうと思っています。
 半田YEGの皆様には、仲良し夫婦として知られている我が家です。息子たちも独立し、私たち夫婦も心身ともに健康で、時間にゆとりができたこのタイミングで、会長職をお預かりすることになりました。YEGの活動には多くの時間が必要となりますが、夫婦仲良く、社業も発展させながら、人生を楽しんでいきたいと考えています。そして、そのような姿を次代を担うメンバーにお見せできればうれしい限りです。広い視野を持ちながらも、日常にささやかな彩りを添えていく。そんな会長を目指して、精一杯務めさせていただきます。

1983年半田市生まれ半田市在住。2001年阿久比高校卒業。04年ヤマモト通信創業、12年CTリング㈱に社名変更し法人成り。16年半田商工会議所青年部入会。19年酸素カプセル、コラーゲンマシン、セラゼムマスター等を提供するサロン事業部『LITTLE TREAT』開業。25年半田商工会議所青年部会長。




お客さまに喜びを

2025年3月4日(火)

イオンリテール株式会社 東海カンパニー 東愛知事業部 イオン半田店 店長 久岡 勝忠氏

「イオンに働きに行かない?」という友からの一言が将来を決めた。美容師の姉の影響で美容師を目指し、インターン生活を控え、美容院が入店する総合スーパーのアパレル店(神奈川県)でアルバイトしていた時だった。お客さまに喜んでいただけることにやりがいを感じ、興味を持った小売業への転身を視野に入れていた時だった。 
 「イオングループはグローバル企業であり、ありとあらゆる業種と職種が詰め込まれ、お客さまに喜んでいただける手段が多様にあります。自分の力を試したいと思い、迷うことなく1998年に当社に入社しました。オシャレなアパレルで働くつもりが、配属先は宮城県多賀城店の水産担当部門でした。私はスーパーの鮮魚売り場の匂いが苦手で且つ生魚をほとんど食べられないという状態でしたので、入社した1年くらいは思い描いていた仕事とのギャップに苦しみました(笑)」 
 朝4時に起き、市場で仕入れ、店頭に立つうちに『お客さまに喜んでいただいている』反応をダイレクトに感じ、いつの間にか魚への苦手意識から卒業していた。情報交換をしながら魚を仕入れ、捌き、的確な(時にはお勧めしない)調理方法を探り、自分の舌で確かめた。『聞いて、見て、触る』という信条は高い訴求効果に繋がり後年、神奈川・千葉・山梨で水産担当者として関わり、土地柄によって接客の違いの重要性を体感した。 
 「海の近くに住む方と、都会の若い世代では魚の知識量やニーズが違い、鮮度や価格の一本槍のアプローチでは説得力に欠けます。地域性も考え、お客さまの背景を想像して接客していました。持ち帰った魚を、ご主人のため、お孫さんのためにどう料理をするのか?そこをイメージし応対すれば会話も広がり、次のステップに繋がります」 
 その土地を知り、人と知り合うことは大事なことと、お客さま・共に働く従業員と会話のキャッチボールを楽しみ、大切にしてきた。新店オープンのサポートに赴いた時、ミャンマーで現地の従業員に教育係として駐在した時も同様だった。その土地土地で汗を流した仲間とは人と人として繋がり、今も連絡を取り合う。13拠点で勤務し、半田店長に着任したのは2023年9月。鳥羽店に次ぎ2店目の店長として、新たな取り組みをスタートした。
 「先ず従業員に1週間分の『いつもの食卓』の写真を持ってきてくださいとお願いし、その献立に沿った商品をヒントに陳列しています。ほんの一例ですが、食卓を知るという事実を元に行動を起こせるのは大きな自信となり、その土地の生活習慣を知ることにもなり、未来予測も可能です。業績を伸ばすために売りたいものを売るという店サイドの都合ではなく、お客さまが求めている商品を安価で提供することが最も重要です。極端なことを言えばいくら陳列棚全ての商品が揃っていても、お客さまが求めている商品やサービスがなければお客さま満足度に100%応えられないと考えています」
『ニーズに応え、お客さまが満足し喜んでいただく姿勢』を徹底し、店内設置の『お客さまの声』の要望にもスピーディーに応える。店を我が家の冷蔵庫代わりとして、出勤前、帰宅時、休日に来店というような生活の一部になっていただけたらと願う。同店は開店して30年。歴代店長が次の店長にバトンをしっかり繋ぐために尽力してきたように、氏も次代を見据えて今このタイミングで出来ることを全力で取り組んでいる。昨年6月より段階的に店舗を改装し、10月から食品売り場を24時間営業にして利便性を図り、『我が家の冷蔵庫』に一歩近づけた。 
 「パートも含め200名ほどの従業員の多くは、社会や家庭で人生経験を積み、次のステップとして熱い想いを持って働いています。『自分家(ち)だったら』と思い、それぞれの得意分野の中でその人なりのアプローチをしていただきたいと考えています。例えば自分の家にお客さまがいらしたら、想いを込めておもてなしをします。そういう気持ちで接すれば、お客さま満足度も向上するはずです。私たちはお客さまとの会話を楽しみにしています。ぜひ気軽に声をかけてください。また、当社は各店の店長がそれぞれの強みを活かして店の特色を出しています。“水産出身”の私は魚売り場が気になり、ちょくちょく顔を出しています。売り場は担当従業員のフィールドで、私はお手伝いしか出来ませんが、そこで働く従業員から学ぶことも多くあります。店長は全ての仕事や売り場に関われるのが特権です。カートを片付けたり、衣料品売場や専門店に行こうかなと思ったらいつでも行けます(笑)。日々楽しんでいますよ」 
 今までの出会いや経験が人格形成となり仕事の姿勢となっている。未来予測もその一つで、甲府昭和店(山梨県)のオープン初日に発災した東日本大地震で考動した一人の社員から影響を受けた。騒然となる店内で我先に寝具売り場から布団や毛布を運び出し、お客さまの最大の脅威になるだろう寒さ対策に備えた。
 「この社員のようにとっさの時こそ、次のステップに向けて的確な考動ができるようになりたいと強く思いました。あらゆる事象にスピーディーに的確な判断ができる人間になれば、本当の意味で『お客さまに喜んでいただけること』に貢献できると思っています。振り返ってみると、人格形成で行き着く所は母親かもしれません。福島で生まれ関東で逞しく飲食店を営んできた母親の生き様は、私の中で教科書として生きています。母親が信じた道を一直線に進んでいた姿は、私に勇気を与えてくれ、私もそう生きたいと思っています」

●ちょっと一息●
 店舗から徒歩圏に居住することが望ましいという自身の考えから、店舗近隣に住む単身生活も15年になります。神奈川県に住む家族の元に帰った時は大学生の息子観察を楽しんでいます。今時の若者は夢や希望を声高に発する社会環境ではないと感じているように見受けます。当社に勤務する若者が気持ちよく自分の夢や希望を語り、より良いパフォーマンスができる環境を作るためにどうしたら良いのかを息子を通して考え、息子観察はもはや趣味の境地に至っています(笑)。 
 「座右の銘はなんですか?」時折聞かれますが、「ありません」と答えています。自然体であれば良しと思い、座右の銘に縛られるのが嫌なのですね。その時に自分が信じることにベストを尽くして進むだけです。そうは言っても日々右往左往していますが(笑)。

1974年福島県会津若松市生まれ。7歳で神奈川県相模原市に転居。武豊町在住。98年イオン㈱入社。宮城・神奈川・千葉・山梨・東京・三重などで水産担当、新店サポートや店舗開設に関わる。2016年現地営業担当としてミャンマーに駐在等。23年現職。当所議員。



誠実であり堅実であれ

2025年1月31日(金)

株式会社大成 代表取締役社長 小栗 啓正 氏

 1952年同社は機械工具販売会社として創業。その30年後に啓正氏が3代目の期待を背負って誕生した。現取締役の先代(父親)からは「継いでくれ」とは言われなかったが、その時々で、ごく自然に家業に触れさせられ、仕事を印象づけられてきた。小学生の頃、先代に業界の展示会に誘われ商品を眺め、家業を朧げながら知った。大学生になりアルバイトの相談をした時に、自社で働くことを勧められ、社員と接しながら事業内容や商品をより理解した。その流れに乗るかのように、仕入先のトラスコ中山(作業工具、測定工具などあらゆる工場用副資材の卸売業)に入社し、倉庫当番や伝票整理など内勤に従事した。
 「仕入先に入社することを決意した時、先代に将来は家業を継ぎたいと言いましたら、『頼むわ、でも適性があるかどうかは見極める』と釘を刺されて社会人生活をスタートしました。初めて生まれ育った半田を離れ大阪(本社)で勤務しました。社員寮に住んで電車通勤、週3回ほど仲間と酒盛りをし、すっかり関西弁に染まりました(笑)。3年後に熊本への転勤辞令が出て『本州から出るのか!』と、寂しい思いをしながら真の一人暮らしが始まりました。30歳で家に帰ろうと思っていましたので、計画通りその年に半田に戻りました」
 都合6年間、いわゆる『他人の飯を食う』間に様々な人と出会い、多くのことを学び、それは今でも仕事上で重要な戦力ともなっている。上司からは「何事も受け取り次第」と言われ、物事にぶつかった時には、自分と向き合い自身に問い、自ら解決方法を導き出した。「この売上ではアルバイト並み」と厳しい言葉を投げかけられ、意識を切り替え、新たな方法で取り組むことを体得した。同社勤務の関係会社の子息らは、将来の横の繋がりを強固にするために『あきんど塾』で学ぶ。そこの卒業生は、『ゴールはない、いつまでも五合目』という気持ちを持とうと『五合目会』を結成している。年に一度、東京・大阪で開催される気の置けない仲間との集いは、情報交換の場であり親睦の場であり、心安らぐ大切な時間である。多忙な中でも、懐かしい顔に会いに行く。
 「当社に入社後は事務職で裏方の仕事に関わり、先代は私に一通りの仕事を与え、黙って見ているだけでした。2023年10月に『後は任せるわ』と私に代表取締役社長の席を譲り、口は出さず相談事に助言し支えてくれています。社長就任後の最初の大きな仕事として、新社屋の建設を考えています。先代からは「やらないかんな、社長の仕事だから」と言われ、暗に建設を後押しされています(笑)。働く環境を整えることは重要なことと考えています」
 高齢化や少子化、社会構造の変化などにより人材確保は大きな課題となり、同社も同様である。同時に創業時に数名でスタートし、今では25名の社員を抱え狭隘化も懸案事項になっている。『綺麗な社屋は働き甲斐がある』と自身も感じてきた。大阪時代はドラマに出てくるようなスタイリッシュなオフィスで「こんないい会社で働けるんだ! 」 と感激した。そして熊本時代は氏曰く「掘っ立て小屋のような事務所で、同じ会社なのか?社屋の外観で働き方のテンションは違う!」と実感した。先代が建築して40年余。その歴史を見守ってきた社屋は、3代目の若い感性で新たな顔になり次代に引き継がれていく。
 「初代から引き継いできた『誠実であり堅実であれ』という精神を承継していきます。近くのホームセンターや他の仕入れ先が対応できない商品があると、当社を紹介してくれるのは有難いことです。これも初代から築いてきた『誠実』の賜物と思っています。現職に就任直後、建築業許可を取得し、メーカー・問屋とタッグを組み、建築物の設計から設備設置までを担うなど仕事の幅も広がりました。時流に沿い、生産システムを共に考え、SDGsに対応する商品、省力化機械など、合理化・効率化に役立つ生産ツールの提案など、ニーズに合わせて的確に迅速に対応しています。社内稟議がスピーディで、作業現場まで商品をお届けし、臨機応変にお応え出来るのは当社の強みです」
 金属とボルトを繋ぐ継手屋さん?ボルト屋さん?と言われることもあるようだが、「最新の商品知識と膨大な商品アイテムを揃えた何でも屋さんです」と笑う。1円以下の小さなボルトから何千万円の工作機械まで取り扱い、あらゆる業界のモノ創りを支えるサポーター企業として地域経済を支えている。地場産業の醸造会社では機械メンテナンスを請け負い、生産現場のパートナーとしての役割も果たしている。
 「業界での実施企業は少ないようですが、定時は午後5時で、6時半までに完全退社で昼休みは留守番電話対応。今後は完全週休2日制にします。社員たちからは『そんなことをして仕事は回って行くのか? 大丈夫か?』と心配されましたが、お客様の理解をいただけるようになりました。短時間で密度の濃い仕事をして成果を出す、これからの働き方だと考えています。業界から『知多半島といえば㈱大成』と言っていただきたい、商圏を広げ新規営業所を作りたい、挑戦したいことは山積しています。私自身『何とでもなる』と仕事に取り組み、『何とかなる』と、これまでも何とかしてきました」
 物腰の柔らかさと芯の強さ、実行力、コミュニケーションスキルは先代から引き継いできた『経営者として、人としての武器』だろう。

●ちょっと一息●
 月に一度ほど映画館に出かけたり、動画配信のサブスクでアクション映画やSF映画を楽しんでいます。非現実的な所が魅力で観ているとリフレッシュします。ちょっと疲れ気味なのでしょうか(笑)。
 尊敬する人はここまで会社を育ててきた先代です。経営者として、人として見習うことも多く、常に私の前を歩いている人生の先輩です。父親としても最高で、家族揃って一緒に旅をするなど、楽しい時間を過ごしています。
 大きな声では言えませんが(笑)、社長になると面倒なことも時々あります。家と会社の往復でほんの10分ほど車に乗るだけ。私は車種は一向に構わないのですが、社員からは「社長だからいい車に乗ってください」と言われています。また髪型にもこだわりがなく、面倒なので坊主頭にしたいのですが、これも社員から反対されています。社長業は何かと大変ですね(笑)。

1982年半田市生まれ。2005年日本福祉大学情報社会科学部卒業。同年トラスコ中山㈱入社。11年㈱大成入社。23年現職。当所常議員。



半田商工会議所 会頭 松石 奉之

2024年12月27日(金)

令和7年の新春を迎え、謹んでお慶び申し上げます。

明けましておめでとうございます。令和7年の新春を迎え、謹んで会員の皆さまのご多幸と繁栄をお祈り申し上げます。
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2024年12月、日本酒や焼酎などの「伝統的酒造り」を無形文化遺産に登録しました。日本酒の国内消費は減少傾向で、国税庁によると、2022年の清酒の国内消費数量は40万キロリットル。1989年の134万キロリットルの3分の1以下となりました。嗜好の多様化で他の酒を飲む量が増え、若者の「日本酒離れ」が進み、また、造り手不足に悩む酒蔵も多く、今般の登録を国内外に酒造りの価値を伝える契機にと、期待が高まっています。
 愛知県は、古くから多種類の発酵調味料や発酵食品を使った料理を通じて特徴ある食文化を味わえる地域で、現在の世界的な「発酵食文化」への関心の高まりは、愛知の旅の目的地・デスティネーションとしての認知度向上につなげる絶好の機会となります。2024年5月、愛知県は「愛知『発酵食文化』推進協議会」を設立し、愛知の「発酵食文化」の振興・国内外への魅力発信により、世界から人を呼び込むことを目指しています。
 そして本年5~7月、「発酵ツーリズム東海」が、ぎふメディアコスモス(岐阜市)と半田運河エリア(半田市)をメイン会場として開催されます。発酵をテーマにした「展覧会+物販+観光事業」として、愛知・岐阜・三重の広域ツーリズムを通じ、この地域の持つ「食」の強みを東海地方全体のアイデンティティに据えます。
官民一体となって産業振興を推進することを目的に、半田市が設置した「半田市産業振興会議」(榊原康弘委員長・当所前会頭)はこのほど、半田市への提言をまとめ、当市の産業分野の強み・将来の拡張可能性を有する産業集積群の一つとして「発酵・バイオ産業」を挙げ、民間事業者との連携促進、ゾーンエリアへの学術・研究機関、企業誘致等の環境条件整備を提示しました。“得手に帆を揚げる”。ヒューマンケア、観光・交流など、強みとする分野、潜在するチカラを十分に発揮できるよう、時宜・流れ・風を活かし、関係機関と共に全力で走り出してまいります。
 市内中心市街地は、JR武豊線半田駅付近の連続立体交差への整備事業、半田駅東側地区の土地区画整理事業が進捗しています。これら基盤整備を含む、名鉄知多半田駅からJR半田駅、半田運河にかけての半田市中心市街地は、将来的な人口減少と高齢化等社会構造の変化にも対応可能な都市機能集約型の新たなまちづくりと、居住者・来街者の多様な潜在・顕在ニーズを引き出す消費市場機能の向上を目指した民間主導の取り組みが始まっています。昨年11月、街なかの拠点施設として半田市創造・連携・実践センター(通称:コココリン)がオープンし、「起業」「ビジネス」を志向する人々の多様な交流を図る環境づくりが進められました。また、知多半田駅前広場(東側ロータリー)の改修(2027年度)に向けた意見集約が始まり、半田運河界隈の社会実験など、中心市街地を構成する3エリアの個性を見出しつつ、本年3月にまとまる半田市中心市街地活性化基本計画(半田市)を官民一体となって推進してまいります。
 地域経済では、物価上昇と賃上げが続きます。課題は、名目賃金と実質賃金との差で、2021年夏以降、実質賃金が名目賃金を下回る状態が続いており、消費控えの要因の一つとなっています。価格転嫁が進み、継続的なインフレーションのもとでは、中堅・大企業の収益は増える一方、中小・小規模事業者は総じて価格転嫁が進まず、収益力の差が広がっています。持続的な賃上げには、同時に生産性・収益力を高める必要があり、商工会議所として、直接的・間接的支援を講じていくとともに、関係機関と連携し環境づくりに取り組んでまいります。
 本年、当所青年部は60周年、女性会は20周年をそれぞれ迎えます。地域経済を取り巻く多様な変化がもたらされる中、商工会議所活動における青年部・女性会の果たす役割、将来性は、ますます重要で、大きなものとなってまいります。節目の年を迎え、組織としての更なる発展を期待するとともに、会員それぞれの事業活動の発展に繋がることが出来ればと願うところです。
 新たな一年のはじまりにあたり、全ての会員の皆様に、日頃の事業活動に感謝を申し上げますとともに、会員の皆様と共に前進する半田商工会議所へのご支援、ご協力をお願い申し上げ、年頭の挨拶とさせていただきます。