2025年10月2日(木)
1895年『鍛冶定』として名古屋市で創業した同社は、橋梁・鉄骨には、社事業を柱として発展してきた。半田市との関わりは1963年、当社の業の主力工場として半田工場の操業を開始したことによる。2012年には、橋梁を主軸とする同社にとって、『第二の創業地』とも言える半田市へ本社を移転した。地域への想いは強く、『半田市福祉文化会館』のネーミングライツに協力し、『瀧上工業雁宿ホール』となった。地域への想いは強く、『半田市福祉文化会館』のネーミングライツに協力し、『瀧上工業雁宿ホール』となった。(常滑・りんくうゲートブリッジには、「つくった会社は‥瀧上工業㈱」とユニークなメッセージが添えられ、同社のネーミングライツ1号となっている)。また、今年9月、創業130周年記念イベントとして、市民も対象にした記念講演会を『瀧上工業雁宿ホール』で開催した。
「不透明な時代、今後の方向性を照らす灯台の明かりのような役目を果たせればと、薬師寺の大谷徹奘師をお迎えし、「ステージチェンジと生き方」をテーマにお話いただきました。社員、家族、多くの市民の方々に参加いただき感謝しています。私は現職に就いて15年、経営の難しさ、環境の厳しさを年を追うごとに実感しています。まるで下りのエレベータに乗っているような状況の中、必死に走り続けなければ現状維持はできません。常にもがきながら、就任時から温めていた構想を一つずつ形にしてきました」
創業者、瀧上定治郎氏を祖父君にもち、家庭で会社の話題が出る際、若さ故、自身がイメージしている会社とのギャップを感じることもあった。そのため、後継者となった折には自分なりの会社経営をしていこうと考えた。大学卒業後に会社経営を金融面から見ることも大切であると、㈱三菱銀行(㈱現三菱UFJ銀行)に入行し、5年後の1990年同社に入社。48歳で現職となり、ガバナンスの再構築に取り組んだ。新規事業として太陽光発電による売電事業を開始し、事業基盤の強化を図り、新たにマニラ駐在所を設置し、不動産事業を再スタート。また、関連会社を完全子会社化し(現在7社)、長年に亘り培われてきた、ゆるぎない技術と技能を持つ『総合エンジニアリング企業』としての地位を確立した。
「業界には自社をアピールしないことを人徳とするような雰囲気があったように感じていました。もっと外に向けてアウトプットする必要があると前々から考えており、その一つがネーミングライツへの参加でした。 BtoB(企業間取引)形態の当社では、それをしたから橋が一本オーダーできるということはありませんが(笑)、何をしている会社であるかは認知されたのではないかと思っています。自分が勤めている会社がどういうことをしているか分かってもらえてないのは、社員も寂しい思いをすることでしょう。外へのアウトプットによって人材確保にも良い影響が出ているようです。今では社員の6~7割が知多半島出身者です。『橋梁事員ともっと喜びを分かち合える会社にしたい』という夢があり、ステークホルダーである社員は大切な人財です」
就任当初から書き続けてきた『社長日誌』は200号を超えた。会社の現状、自身の考え方、時にはお孫さんのことなどプライベートにも触れ、月1回グループ会社も含めたWeb上の掲示板に配信し続けている。「文章を書くのは好きかもしれない」と語るように、入社式・創立記念日・年末・年始・賞与時など年間20回に余る挨拶文等を、自分の言葉で伝えるために、締切に追われながら『想い』を綴る。
「給与・賞与明細は紙で配布し、そこにも私のメッセージを添えています。社長就任時には『社長賞』を設けていた時期もありましたが、今年から表面に現れる輝かしい業績を上げた社員だけでなく、縁の下の力持ち的存在の社員にスポットを当てました。清掃を頑張ってくれている、さりげない心遣いでみんなを元気にしてくれるなど、社員からの推薦、私目線での推薦者を幹部で検討し、この春には20名に寸志を贈り、一人ひとりの推薦理由を引用し、感謝の想いを綴った私の言葉を添えました。「こんな所まで見てくれていた」「頑張ってきたことが評価された」と驚きや喜びの声が上がっていると聞き、このことで働き方や日常生活の次へのエネルギーとなったら尚更嬉しいことです」
橋梁は道路、海、川、谷などの障害物を超えて通路を提供し、人や物の移動を助け経済発展にも繋がり、まちとまち、人と人とを繋ぐ交流の架け橋となっている。そういうインフラ整備に関わる企業としての存在意識をもち『世の中に無くてはならない企業』としての自負心を持って欲しいと、社員に語りかける。現に同社は衣浦大橋、東海道新幹線六番町跨道橋、本州四国連絡橋の施工は、その時代においてのレガシーとして語り継がれ、人々の生活に利便性や心の豊かさを提供し、日本経済の発展に寄与してきた。
「中国の兵法書『孫子』の格言『巧遅は拙速に如かず』は長年私が心掛け、新入社員に向けて発している言葉です。日本人の特性かもしれませんが、うまくやろうとするが故に、迅速に物事を進めない傾向にあるように思います。私がせっかちで楽天的なせいかもしれませんが(笑)、『やってみなはれ』的な考え方をしていて、失敗したらやり直せばいいと思っているのですが、現状はなかなか難しいようです」
社歴を紐解くと、社長就任直後に半田に本社移転し、数年の内に温めていた構想を次々と形にし、その言葉を実践してきた。その柔らかな笑顔からは想像できない強靭な精神と実行力が宿っているようだ。創業130周年を迎え、社員と共に次代に向けたレガシー創出のための一歩を踏み出した。
●ちょっと一息●
仕事は一人だけでは出来ません。いかに協力・共鳴者を増やし、やる気を持って働ける組織作り、環境作りを行うことが私の使命と考えています。そのためには私の考え方や私の人となりを社員に知ってもらうことが大切です。『社長日誌』もその一つですが、かねてから組合幹部に「私との懇談会を企画してもらえないか」というお願いをしていたことが、昨年9月から開催の運びとなりました。私が勝手に『車座の会』と命名し、10名ほどの社員と2時間ほどお菓子やお茶を楽しみながら『互いの想いを語り合う会』として、全社員とその機会を持つ予定です。私自身は社員との距離感は近く、フルネームでは呼べないにしても、社員のことは分かっているつもりです。社員から見たらどうでしょうか?敷居が高いのでしょうか?色々な取り組みを通して、社内の風通しが良くなったという声も聞こえ、「そうであるなら、失敗してもいいからもっとチャレンジして欲しい」と期待しています。
趣味を聞かれる度に料理、日曜大工、家庭菜園と答えていますが、最近、草取りも仲間入りしました。朝の5時半くらいから自宅付近の草取りをし、熱が入ってしまい中央分離帯の草まで取ったり、会社でも思わず草むしりをして、社員から「やめて欲しい」と言われています(笑)。仕事柄でしょうか、綺麗になったまちを見るのは気持ちの良いものです。
1961年名古屋市生まれ、名古屋市在住。85年早稲田大学法学部卒業。同年㈱三菱銀行(現㈱三菱UFJ銀行)入行。90年同社入社。97年取締役営業本部営業部長。2006年取締役兼執行役員営業本部長兼名古屋支店長。07年取締役兼執行役員管理本部管掌兼企画管理室長。08年常務取締役企画管理室管掌兼生産本部管掌兼工事本部管掌。10年現職。当所議員。
2025年9月1日(月)
チャレンジと縁の下の力持ち。両者を絶妙にバランスを保ちながら歩んできた。幼少期から自然に自らの立ち位置を考えるようになり、ある時はチャレンジ精神を発揮しリーダーとして仲間を導き、ある時はリーダーを尊重し、縁の下の力持ちに徹した。チャレンジ精神を気質と捉えると、他方は常に『人のために』と行動してきたご両親の背中を見てきたことが起因するのではないかと分析する。
「メーカーは商品を売る。金融は自分自身を売り込む職種と先輩から言われ、自身の可能性に挑戦出来るかもしれないと㈱東海銀行(現㈱三菱UFJ銀行)に入行しました。尾西支店(現一宮支店)を皮切りに、ほぼ営業担当者として25年余。色々な仕事や多様な方々との出会いでは、いつも相手のことを第一に考え、接してきたつもりです。それは両親の姿がベースになっており、社会人になってからは、改めて私にそういう考え方を醸成してくれた両親に感謝する機会が増えています」
営業担当者は契約数や収益額などの目標達成が大きな指標となるが、相手の求めるものを提案し続け、その目標に達しないこともあった。だが数年後には、「柳川瀬さんだから取引したんだよ」という言葉と共に、更なる成果を上げたことも度々あった。お客様を好きになれば、本気になってその人、その企業のための提案ができると、自身の経験を語る。
ニーズを的確に判断するために、幾度もそこに足を運び、 face to faceで話を聞くことで、お客様のファンとなっていった。「スピード感を意識して取り組め」と上司から苦言を呈されることもあったようだが、『お客様本位の仕事』を、いつしか『柳川瀬スタイル』として確立していった。
「担当したお客様を好きになるタイプですが、人見知りである私は若い頃には、新規のお客様には毎回緊張しながら訪問していました。自分なりには頑張ってきたと感じています。ただ運は良かったと感謝しています。仲間や上司に恵まれ、色々な仕事に関わる機会もいただきました。営業として個人、法人(中小企業から大企業まで)を担当し、大企業に関わった時には日本・世界経済が動くような仕事をして日本経済新聞の一面を飾りたいと頑張りました。新聞に載った案件にいくつか関わりましたが、一面には届きませんでしたね。東京・名古屋で本部(市場営業部)の仕事に従事した際には、専門知識を学ぶことに苦労しましたが、営業担当者として培ってきた笑顔とface to faceを武器に、大企業担当者のサポート役として、お客様のお役に立てたと思っています。また、取引先の十数年に一度の設備投資案件や、大型のM&A案件が、自分の担当時に取引先で発生するなど、たまたまの巡り合わせに、本当に運が良かったと実感しています。ただ、どんなに良い提案をしたとしても自分の力だけでは成し遂げることはできません。タイミングと仲間に恵まれてこその結果です。大きな案件を成し遂げた時の仲間との打ち上げでは、毎回美味しいお酒を楽しく飲み明かしたことも良い思い出です」
従業員組合の専従者としても1年間勤務した。そこでは海外で働く組合員の労働実態を把握し、より良い条件下で仕事や生活が出来る環境作りに努めた。また、組合員の一体感の醸成のため、組合イベント開催も仕事の一つだった。ディズニーランドでのショーベースイベントを企画し、担当地区10,000人以上の組合員やその家族などに向けて、イベント開催のための案内や申込対応、チケットの発送・集計、当日の運営等、一連の業務を担った。当時はまだ紙媒体の時代、煩雑な作業であったが「一人でやらなければ」という使命感の下、365日休みもなく取り組んだ。イベント当日、楽しむ参加者の姿に、達成感で涙が出てきたと語る。激務は色々あったが、ベスト3に入る思い出深い仕事だったと振り返る。
「また、従業員組合で勤務していた際には、徹底的に『傾聴すること』を叩き込まれ、以後の仕事でそのスキルに救われることも多くありました。昨年4月に半田支店に支店長として着任、立場上多くの権限が与えられ、多くの部下と接することになりましたが、常に『傾聴』の大切さを痛感しています。今は60名の部下と共に働き、安心・安全に仕事が出来る職場の環境作りを日々進化させ、知多半島全域のお客様のお役に立てる仕事、半島を盛り上げていく地域貢献活動に力を入れています。MUFGグループとしても数年前から、地域貢献活動に力を入れて取り組んでいますが、半田支店はトップクラスの活動実績を誇っています。行員自ら、地域や社会の課題解決のために資する活動を企画し、賛同者を募り、当日はボランティアスタッフとして参加するスタイルが浸透し、現在では半田ユニット(半田・常滑・東海支店)として知多半島全支店メンバーで活動しています。最近では『半田運河発酵マルシェ』や『闇バイト加担防止イベント』等でのボランティア活動に取り組んできました」
支店長着任と同時に多くの公職にも対応し、毎日多忙な日々を送る。支店長として常に外に出て営業活動しているのが理想であり、外に出ることを自らの仕事と考えている。たまに支店内にいる時間が長い時には、[これで大丈夫かな?」と思うことがあると笑う。
「お客様への訪問時に、会話の中で必ず出てくる歴代の支店長や担当者の名前があります。私もそのように取引先ですぐ名前が出てくる一人になりたいと思っています。歴代支店長や担当者が脈々と築き上げてくださったお客様や地域との強い信頼関係を維持、発展させると共に、1つでも多くの「柳川瀬さんだから、取引した」という最高の褒め言葉をいただけるよう、両親から学んだ『お客様本位』の『柳川瀬スタイル』でこれからも邁進し続けていきたいと思っています」
●ちょっと一息●
小学校から高校まではサッカー、大学ではまだ日本では目新しいスポーツ、ラクロス(棒の先に網のついたスティック(クロス)を使い、硬質ゴム製のボールをゴールまで運んで得点を競う団体球技である)を始めました。『まだこの辺りであまりやっていない。日本代表になれるかもしれない」という先輩の口説き文句に乗せられ(笑)、勉強そっちのけで楽しむほど熱中しました(笑)。体を動かすことや仲間と一緒に行動することが好きなんだと思います。今も毎週のようにゴルフに出かけ、汗を流し気持ちの良い時間を過ごしています。一緒にラウンド出来る仲間がいる幸せを感じています。ラウンド中に飲むビールも、いつも楽しみにしていますが、半田に来てからは日本酒を飲む機会も増え、お酒の美味しさ、奥深さを知りつつあります。まだまだ未熟ですが。
最近では、一年に1つずつ新しいことをやっていこうと思い、今年は『一人飲み』出来るお店の開拓に努めています。人見知りのため相当な覚悟を持ってお店の玄関の敷居を跨ぐことが、私の細やかな挑戦です。また、なぜか道を歩いていると人に道を尋ねられることが多いんですね。この間、東京に出張に行った時は一日に3度もそんなことがありました。尋ねられる回数が多いことも私の特技となりました。暇そうに見えるのでしょうか!?(笑)。
1976年滋賀県大津市生まれ、名古屋市在住。99年滋賀大学経済学部卒業。同年㈱東海銀行(現㈱三菱UFJ銀行入社。尾西支店、桑名支店、従業員組合、新宿支店/支店長代理、市場営業部/調査役、営業本部/上席調査役、名古屋営業本部/次長、名古屋営業部/副部長を経て、2024年現職。半田・常滑商工会議所常議員。当所地域力創造委員会副委員長、半田市中心市街地活性化協議会監事等。
2025年8月6日(水)
地域文化をどう残していくのか?デザインの有効活用を探り、そのために様々な挑戦をしてきた。車のデザイナーを目指し芸大に入ったが、卒業時は就職氷河期、フリーランスデザイナーとして社会人になった時、奇縁に導かれるように『地域』と巡り合い、情熱を注いできた。
「母校がある西春町は区画整理中で『大学と連携してまちに賑わいを!』という動きが始まりました。フラフラしている私に声がかかり(笑)、大学とまちとの連携事業の拠点責任者のようなお役をいただきました。当時の日本のものづくりは輸入商品に押されて売上が低迷していました。日本のものづくりの世界をもう少しクローズアップし、売れる流通の仕組みを考える必要があると思いました。それで仲間と流通会社(ショップ)と、人的ネットワークを組織するNPO法人を立ち上げました。その後『東京ミッドタウン』に出店することができ、そこではモノを売る大変さ、モノが売れるのにデザインと価格と品質のバランスの重要性を肌で感じました」
その経験を糧に、2008年に名古屋でデザイン会社RWを設立した。商品開発、製造、販路開拓など、領域に縛られず、地域にある資源を未来に繋げるために、伴走支援をしてきた。時には『地場産業とは?』と考え込んだ。そんな時、今年5月から東海三県下に根付く発酵の知恵と技を、展覧会や体験プログラムを通して味わい尽くす『発酵東海ツーリズム』のクリエイティブを同社で担当することになった。
「そこで半田市観光協会とのご縁をいただき、今、半田は変わっていこうとする気運が高まっていると感じています。かつて、アントレプレナーシップを持つ起業家をたくさん輩出し、そういうアイデンティティが残っているまちであり、地域のポテンシャルが高いと感じています。醸造業を地場産業の代表格とする半田は『発酵ツーリズム東海』を通じて、『世界でも稀な発酵の集積地』とインプットし、反転していく可能性を感じています。ただ、今年度から『半田赤レンガ建物』の指定管理者を務めている半田市観光協会から館長にと言われた時は『寝耳に水』で、今までとは対極の立場の主体側となると、客観的にモノが見えなくなってしまうのではという怖さもありました。会社経営の経験から、主体側の感覚が分からない訳ではありませんが、責任感をすごく感じています。そこで硬くなるより、私自身も楽しんで、地縁もない、よそ者だからこそ出来ることを取り組んで行こうと思っています」
半田は貴重な『地域の文脈』(*)と『文化資産』(資産や資源)を持っています。文化の語源はカルティヴェイト(耕す)。文化は耕やすことで新しい産業が生まれる可能性を持つ。この地の文化資産を活かした文化産業づくりを目指したいと抱負を述べる。
「赤レンガ建物のルーツはまさしくそういう在り方で、興ってきたと思っています。かって醸造文化産業が衰退し、危機感を抱いた時代のアントレプレナーが新しく挑戦したのがドイツビールであり、この建物を建築しました。醸造文化という元々の資産の上に新しくビールというタネを下ろして、この地域に新たなビール産業が誕生した歴史ある場所です。それを今に置き換えたらどうなるか?新しい文化産業が生まれることを信じています」
地域文化を紹介する企画展(*)を開催し、資源をネタに企業に活用してもらうための接点づくりを目指す。半田の盆踊り歌に「酒蔵、酢の蔵、木綿蔵」と歌われているように、かねて半田は醸造と繊維のまちであり、その原料となる米作りと綿花栽培が盛んだったことを窺い知ることが出来る。そういう土壌に恵まれた半田で、綿花と米の発酵で新しい綿花、米や酒米の誕生も想定され、耕し方によって今までとは全く異なったモノが生まれてくる可能性も持っていると注目する。
そして企画展に関連するフィールドワークを会期中に予定し、出展者に『こんなことやっているんだよ』というようなことを話してもらえれば造詣がより深くなり、生のビジネスの素材として企業側と文化資産の接点を具体的に促していけるのではと期待する。同時に月1回、氏が赤レンガ建物内で開催のデザインスクールで、資源の活用方法を学ぶことで、より動きやすい状況になるのではと実施への階段を示す。
「『発酵ツーリズム東海』のプレツアーを開催した時にアメリカのミシュラン2つ星レストランのシェフ、世界一のレストラン・コペンハーゲン『ノーマ』の発酵担当者が参加されました。彼らから「アメージング!この地区の発酵は素晴らしい」とお墨付きをいただき、世界的に見てもこの辺りの資産はすごい競争力があると思っています。住んでいる人当たり前と思っていることは、当たり前ではないことが多くあります。先ずは地場産業という一つの地域文脈を素材とし、そこで働く人、そこで新しいことを興す方達の力になり、寄り添っていきたいと思っています。
私自身は、食べることが何より好きで、酒も発酵も、そこに込めた人の探究心は、ほんとにすごいなと思っています。世界中にありとあらゆる素材を使ったさまざまな発酵がありその知恵、探求心、想像力の深さにはいつもやられています。好きな言葉は武者小路実篤の『この道より我を活かす道なし、この道を行く』です。館長としてのチャンスをいただき、自分が決めた道だからこそ、その道をどう素晴らしいものにするか。価値のある道にしたいと思っています」
たまたまのように巡り合った『地域』との関わりは、歩んでいく原動力となり、活力ともなった。
(*)道路や建物、その土地の地形や自然、歴史的背景や文化、人々の生活など、さまざまな要素が関わり合って、その土地独特の街並みやたたずまいが形成されている。都市計画や環境デザインでは、それを『地域の文脈』と表す。
(*)現在、『新美南吉の言葉と風景』開催中。
詳細は本誌16P掲載の半田市観光協会寄稿をご覧ください。
1975年三重県菰野町生まれ、名古屋市在住。
99年名古屋芸術大学美術学部デザイン科インダーストリアルデザインコース卒業。99~2001同大学同コース研究生(99年ブライトン大学(イギリス)交換留学)02年 N/N(エヌツー)設立(地域密着型デザイン事務所として運営)。05年流通会社の立
ち上げに参画。08年RW設立。15年株式会社RWへ組織変更。25年半田赤レンガ建物館長。
2025年6月6日(金)
モノづくりの世界に憧れ地元企業の同社に入社し、衣浦製作所・生産管理部門に配属された。1989年は『冬の時代』を乗り越えた建設業界では、今では想像もつかないような勢いでインフラ整備が進み、全国でビッグプロジェクトが立ち上がった年でもあった。
「その2年後、1991年の入社直後から橋梁工場の当製作所で、レインボーブリッジ、明石海峡大橋、名港トリトン、東京湾アクアラインなど、次から次へとビッグプロジェクトに関わりました。設計から架設まで5年以上かかる大規模な橋梁工事はジョイントベンチャー(JV)として取り組み、一丸となって地図に残るものを造り上げることは楽しく、達成感、やりがいもありました。また、他社の人と仲良くなって飲みに行くことも多く、仕事はみんなの力が集結してこそと体感し、社会人として恵まれたスタートを切りました」
1896年創業の同社(衣浦製作所は50周年)は国内で創業時の社名を守り続けている数少ない企業であり、社会の求める基幹施設づくりを仕事とし、使命としてきた。鉄道車両の製造販売を目的として設立し、その技術は産業輸送用機器、橋梁建設、建設機械、環境機器、ハイテク農業プラントへと裾野を広げてきた。氏は4年ほどの本社勤務(名古屋市)以外を、橋梁・輸送機器部門(高圧ガス等を運ぶタンクローリー、産業車両)の生産管理者として品質・コスト管理を担当し、仲間と共に経営効果を上げるために尽力してきた。
「現場での思い出や時代背景は印象深く残っています。東京湾アクアラインは衣浦製作所の岸壁で組み立て出荷し、本当に大変な作業でした。明石海峡大橋の建設中に阪神淡路大震災が発生し、対岸に避難していた人がテントで暮らしていた情景は今も瞼に浮かびます。豊田大橋建設も忘れられない現場です。建築家・黒川紀章氏が、恐竜が一歩踏み出したイメージのスケッチを描き『橋にして!』と始まったプロジェクトでした。橋は左右対称が基本形状と考えられている中で、バランスを欠きながらも美しく、橋全体が斜めに傾いたような構造は難解でやりがいのある仕事でした。衣浦大橋にも関わり、地元の橋は普段生活をしている中で利用する機会も多いので、思い入れも深くなります。今思い起こせば、どの現場も苦労の連続でしたが、自分の仕事が地図に残る、それだけでも大きな誇りになっています」
『橋は造ったら地域の人に絶対喜ばれる』若い頃に諸先輩方から言われた言葉であり、その使命感を身を持って実感した。いつの間にか橋を造るという仕事が好きになり、楽しみながら仕事に熱中した。その後、輸送機器部門にも関わり、橋にはない魅力に惹かれ、どの現場でも仕事に没頭し、やりがいを感じた。2019年貴重な経験と統率力を持って製造部長として三度目の衣浦製作所勤務となり、昨年7月現職に就いた。
「5年前に輸送機器部門の生産拠点を豊川製作所からここに移転・統合し、 “『運ぶ』と『架ける』、積み上げた比類なき実績”を強みとする衣浦製作所としてリニューアルしました。各部署で製造するものはそれぞれで、お客様も公共・民間と異なっていても、モノを作る精神に変わりはなく、 QCDS(品質、コスト、納期、安全)のレベルアップが重要です。どれも工事管理の大切な基本ですが、最も優先すべき指標は安全と品質、そしてお客様との信頼関係であり、それらの厳守が私の使命です。
今は直接現場に関わっていない寂しさを感じながら、ここで製作し色々な分野で活躍している製品全てに関わっていると、自分なりに解釈しています(笑)。当社のロゴ入りのタンク車がまちで走っているのを見ると嬉しくなり、今年2月に種子島宇宙センターでA3ロケットが打ち上げられ、当社で製造した『大型自走式キャリア』が、発射台までロケットを運ぶ姿がテレビで映し出された時も嬉しくなりました(笑)」
同社は今年、大型自走式キャリアの自動運転システムを開発した。運転技量が求められる狭い場所においても、高精度に自動走行できるシステムを実現し、超重量物を運ぶ企業で、それぞれの目的のために活用されることが期待されている。人手不足に悩む業界からも大きな期待が寄せられており、創業以来129年の時を経て培った技術は、産業の発展を支える物流と交通の分野にも活かされ、進化し続けている。
「モノづくりの世界に入って34年、常に当事者意識を持って仕事をしてきましたが、つくづく一人でやれる仕事は高が知れていると思い、課題を共有しチームとして闘ってきました。特に役職に就いてからはチームで闘う必要性を強く感じるようになりました。入社して5、6年経った頃、仕事には厳しく、社員一人ひとりに声を掛けてくれたのは当時の衣浦製作所長でした。私は、今そのように実践できているか?と問うことがあります。そうありたいイメージはありますが、まだまだですね」
●ちょっと一息●
アウトドア派で、子どもが独立しカミさんと愛犬と一緒に月に2回ほどキャンプに出かけています。自然の中で食べたり飲んだりするのが好きで楽しみです。家では料理はしないのですが、バーベキューはお手のもので、外ではよく働きます(笑)。カミさんにお付き合いしてもらえないと困りますからね(笑)。
子ども会の会長をしていた時に誘われて、お祭りにも関わるようになり山車を曳いています。楽しいですよ。子どもにお囃子や太鼓を教える役目も頂戴し、春祭りの時期は毎日忙しく、今夜(取材日:4月21日)も教えに出かけます。刈谷市生まれの私もすっかり阿久比町民になりました。
1968年愛知県刈谷市生まれ、阿久比町在住。91年岐阜大学工学部機械学科卒業。同年日本車輌製造㈱入社。衣浦製作所配属。茨城・大利根工場、衣浦製作所、本社、豊川製作所を経て、2019年衣浦製作所製造部長。24年現職。当所常議員
2025年5月2日(金)
木曽川沿いに位置する山間の町、岐阜県恵那郡坂下町(現中津川市)で、衣料品販売店の三男として生まれた。幼い頃から両親の仕入れに同行し、町の会館などで衣料品を販売する時は、ちょこんと座り手伝いをした。家業に励む両親の姿を見て、いずれは後継者の道を視野に入れながら、時には両親の想いを受け止めながら歩んできた。
「父から、興味ある経済の世界を知るためには、証券会社が良いだろうとアドバイスもあり、丸万証券㈱(現東海東京証券㈱)に入社し、本店(名古屋市)勤務になりました。田舎とは違い夜も明るい栄の街で『盆踊りみたい』と言われながら流行っていたディスコに通い、居酒屋に出没し(笑)、栄の夜を堪能しました。事務員として、与えられた仕事をこなす日々が5年ほど続き、その間、半田支店にも勤務しています」
半田支店時代はバブル全盛期、全社員がエネルギッシュに仕事に遊びに心血を注いだ。同支店には現社長の北川尚子氏を始め同社の要となる将来の役員が多く在籍していた。幼い頃、両親の人と接する姿や人との距離感を見て学ぶことが常だったように、北川社長らの行動や思考力に目を見張り、自然に学んでいった。そんな中で証券不況に伴い営業員の増員が図られ、氏も営業員に転属となった。
「どんなに頑張っても成績が上がらず苦戦していました。高知支店時代に上司から「全てやったと言っているが、これとこれを全てやったんだな?」と、具体例を示され、自身の行動を見つめ直し、休日も返上し、全てのお客様に会いに行きました。(好きなゴルフを楽しんだのも1 度だけでした)。結果的には成績に繋がりませんでしたが、『全店で顧客との接触率が一番多い』と評価していただきました。表面に現れる華やかな部分の成果だけでなく、日々の行動を評価してくださる人がいた、私を見ていてくれた人がいたことに救われました」
また、ある役員に「本社に戻って頑張りたいと、みんな言うんだよ。でも帰ってくると、その時覚えたことや頑張ったことを忘れて流されていくんだよね」と言われた。その一言は衝撃的で、その時の気持ちを忘れないためにも、お客様に会い続けようと誓った。『お客様のニーズに応えるためにお客様を知る』という営業活動の真髄にも触れたこの時代は、その後の仕事の仕方にも色濃く反映し、大きな転機となった。その誓いは次の春日井支店で、全店トップ営業員として表彰され形になり、今でもあの役員の言葉を心に深く刻み続けている。
「春日井支店で出会った方が株が好きで、『あんたはどんな銘柄がいいと思うか?』と聞かれ、株という生き物を扱いながら確かな返答をるために私も株に強くなろうと無我夢中で学び、お客様に育てられきました。その後、支店長の就任年齢は40歳からという制度変更の波に乗り、41歳で中津川支店長に赴任しました。知り合いも多い地元なので支店長というお役に躊躇したのですが、父から『嬉しい』と言われ、親孝行が出来たと私もその立場を嬉しく受け止めました。実は苦しい時代に家業を継ぐことが頭の中にありました。課長、第一課長と昇進し、充実した時間を過ごすようになった頃、父から『そのまま仕事を続けた方が良いだろう』と言われ、私も仕事の面白さ、やりがいを実感していたので、このまま働き続ける道を選びました。折しも大規模小売店舗立地法の運用が緩和され、田舎にも大型店の進出が進み、廃業に近い形で家業を畳みましたが、父の心の片隅に私に継いで欲しかったという想いがあったのかもしれません」
支店長に就任した時、『時代の流れに抗うこともなく、流されながら生きてきて、この立ち位置にいる』と振り返ったと語るが、表には現れない『努力』の積み重ねが結実した結果であろう。2023年、4店目の支店長として、半田支店に戻ってきて2年余り。半田商工会議所、半田ロータリークラブの人々と接し、生の声を聞く機会も多く、経営者の抱える課題解決のお手伝いが支店長の仕事であると真摯に向き合う。証券会社は投資のイメージが強いようだが、余剰不動産の売買、遺産相続の整理、相続対策、介護施設の紹介などの社会課題にも取り組み、豊かな老後のプランビジョンを提供している。
「歴史に学んで現状を把握し、未来を創造するのが『投資』という考え方もあります。金融庁の統計では金融の勉強をしている人は全国で7%位と示され、日本人は概して投資に後ろ向きな方が多いように感じています。私はより良い将来のためにもリスクに負けず、お客様の心理にストレスをかけない投資方法などの金融勉強会の開催は必要なことだと思っています。金銭はモノとサービスに変えてこそ、その価値が上がるのではないかと、ついつい考えてしまいます。証券マンの性でしょうか?」
『証券マンは良き卸問屋であれ』経営の神様・松下幸之助氏がナショナル証券の代表を務めていた時の名言で、氏が好きな言葉である。卸問屋の使命はモノの本質を深く見極め、安い時に商品を仕入れ、安く消費者に提供することである。証券マンも然りで、両親もその精神を貫いた。
「幼少期の頃から家業を通じて人との出会いに恵まれ、モノと人、この両方を見続けてきたと感じています。人との出会いは私に様々なチャンスを与えてくれ、本質を見定める力を養っていただけたのではないかと思っています。半田商工会議所さんは、多くの方との出会いの場所を提供してくださり、私の成長を促していただいた場所でもあります。本当にありがたいことです」
●ちょっと一息●
ゴルフは今も楽しんでいますが、基本的には一人でやれることが好きで、一人で考える時間は必要だと思っています。サウナでボーっとしたり、今からは田舎の山のお守りで(笑)、タケノコ、蕨、ふきのとう、タラの芽、茗荷採りで忙しくなります。例年、自作の釜で採ってきたものをアク抜きして湯がいて、周りの人に配り歩いています。
社会人になった時はキラキラする都会に憧れていましたが、今では田舎が好きで落ち着きます。母が一人で住む中津川に週末に帰り、母の命令下であれこれやっています。畑を耕し、耕運機をかけたり、石垣を直したり、やるべきことは楽しみながらやりたいと思い、試行錯誤しながら一人の時間を存分に楽しんでいます。近所では「親孝行息子」と言われているようで、ちょっと気恥ずかしいのですが。
私はプライベートでは寡黙なんです。家族(妻、二男一女)の会話に入れなくて(今時の言葉が難しいこともありますが)、聞いているだけ。周りの皆さんは想像できないかもしれませんね(笑)。また、今年から「楽器が弾けるといいな」と思ってフォークギター教室に通い始め、「マリーゴールド」を練習中です。これも一人で出来ることで、私の心休まる時間です。
将来は地元に帰って、ゴルフ、山菜採りをしながら、金融の勉強を子どもたちに教えられるような場所が提供出来ないかなと考えています。きっと、いつまでも証券マン気質が抜けないでしょうから。
1969年坂下町(現岐阜県中津川市)生まれ、名古屋市在住。87年中津川商業高校卒業。同年丸万証券㈱(現東海東京証
券㈱)入社。本社配属。93年まで事務職。94年から営業員として2004年高知支店、春日井支店を経て、10年中津川支店長、春日井・岐阜支店長を経て、23年現職。当所議員。金融部会副部会長。(令和7年3月10日取材時現在)