2024年7月31日(水)
時代性、企業方針、上司や仲間、様々な出会いにより、歩む方向が左右されることがある。2度の大きな岐路に立ち、上司の強い勧めの結果、現在がある。形の見えない商品を売るからこそ、人間味あふれる企業ではないか?そこの一員となり刺激を受けながら成長したいと同社を志望。地元大阪で自宅通勤を希望し、一般職枠で入社した。
「実際に仕事をすると、事務職というイメージはなく保険代理店の事務支援をしながらの営業活動でしたが、社内業務に満たされていたので、外での仕事はそんなに積極的ではありませんでした。28歳で愛知県で働く夫と結婚する時に退職届を提出しました。その時に当社でIターン制度が導入され、上司から「制度を活用したら」と勧められ、考え抜いた結果、関西から東海エリアへ異動しました。当時は女性活躍推進の取り組みが始まり、女性の営業社員も増えてきている中で、女性が無理なく営業活動ができるかを模索するお役をいただきました」
通常、保険を販売する代理店は、商品等については営業社員、事務的なことは事務方が、担ってきた。その両方の業務経験者から指導を受けることは社員、ひいては代理店にとっても効率的でありメリットも多く営業推進の仕事は打ってつけだった。自身では営業スキルの弱さを実感しながらも、事務を経験してきた強みをどう活かせるかと思案し結果を出してきた。
第一子を授かった時に、再び岐路が訪れた。社内で産休・育休後に職場復帰するケースはあったが、勤務する名古屋自動車営業第二部ではまだその例はなくイメージも湧かず、「仕事を続けることはできない」と退職という結論に達した。その時、上司から「できないと決めて辞めるのはおかしい。できなかった時に判断すればいい」と諭された。
「周囲の方に恵まれてきました。次女の育休を終えた後も、時短勤務やサポートをしていただき、本格的に仕事に向き合うことができるようになったのは、10年ほど前からです。入社した時から与えられたことに責任を果たそう、社内の仲間、代理店さん、お客様のためになりたい、自分が担当した意味を見出したいと思い、それらが実践できる方法を考え続けてきました。ひたすら目の前のことをやっていたら、時が経っていたという感じです。色々な偶然の積み重ねに感謝しています」
3年前、半田支社に担当課長として赴任となり、昨年4月に現職に就いた。同社は一つ上のポジションの視点で仕事をすることを課しており、半田支社に赴任以来、「支社長ならどうするか?」と自問自答しながら仕事に向き合ってきた。支社長の椅子は着任時から既定路線ではと言われることもあったが、実際にその役職に就いた時から、リーダーとしての視点で物事を見ていく自身の変化に驚いたと言う。組織として最大限の結果を生み出すための対策を講じ、地域貢献を最大目標とした。それには一人ひとりが最高のパフォーマンスをし、目指す目標に向かっていくことが大切であり、社員を知り、コミュニケーションを図るために月1回は1対1での面談を実施している。同時にそれぞれが自分の歩幅でいかに成長できるか。それをサポートしていくのが使
命であり、『寄り添う』ことがごく自然に備わってきたと振り返る。
「一般的に描くリーダー像は、営業の第一線で戦い、リーダーシップを兼ね備えている人というイメージではないでしょうか?私は事務職の期間が長かったので、そういうリーダー像とは異なっていますが、一人ひとりの想いを大切にしたいと思い『寄り添う』ことが私にできることと考えるようになりました。当支社は女性が7割を占める職場で、そんな女性たちの悩みや言い分を、同性の私なら理解できる部分が多くあります。男性リーダーではスパッと言えることも、その気持ちが分かり過ぎるために戸惑ってしまうこともあります。そこが私の弱さだと思っていますが、役割として言わなければいけないことは言うように努力しています。『女性は感情の生き物』と言われることがありますが、感情を抑えて、言い方には気をつけていますが「今の言い方で良かったかしら」と常に悩んでいます。涙もろく、嬉しい時、楽しい時には自然に感情が前に出てしまいます。最近は、組織を育てることは子育てに似通っているかもと感じています。おかしな表現かもしれませんが、メンバー全員を愛おしいと感じるようになってきました」
まだまだ男性社会の業界であり、男性部下との同行時には、対面者が最初に名刺を差し出すのは男性部下、ということもよくあるようだ。「やっぱり!」「女性だから信用されていないのか」と思い悩むこともあったが、いつしか「女性支社長として覚えてもらいやすいのが利点」と前向きに捉えられるようになった。昨今でも女性だから頼りないと印象を持たれることもあるようだが、『頼りない』からスタートし、その力量を発揮すれば『なかなかやる!』と高評価に繋がり、それも女性ならではの利点と微笑む。
『事務職に精通』という強みを携えながら、時代性、企業方針、仲間たちとの出会いで道を拓いてきた。明日からも様々な経験を積み重ねながら、いくつもの強みを築き、新しい形のリーダーとして歩み続けるだろう。
●ちょっと一息●
長女の育休中に聴講した勝間和代氏の講演会で「仕事、育児、家事の全てを70%で頑張ったら合わせて210%。満
点の100%から考えれば十分な数字、自分を誉めてあげましょう」というお話を伺い、フッと楽になれました。それからは仕
事100%にして目は子どもを見るとかバランスを取りながら生活をし、全てに完璧さを求めることは止めました。共働きです
ので子どもが小さい頃は淋しい思いをさせたことがあったと思いますが、今では娘たちから「仕事辞めないでね」と言われ
ています。ずっと私が家にいると困るようです(笑)。
趣味はテニス、アウトドア(キャンプ)、お料理も好きです。子どもたちがお弁当持ちになって、家族4人分のお弁当を作
るようになりました。手際のよい私は30分もあればパパッと作れます。少し自慢です。私の好きな時間は家族で過ごすこ
と。今年のお盆休みも家族旅行を計画しています。私専用のビールサーバーからビールを飲む時間も好きです。嗜むほど
ですが(笑)。
1975年、神奈川県横浜市で生まれ、大阪府茨木市で育つ。99年同志社女子大学生活科学部卒業。同年、東京海上火災保険(株)大阪自動車営業第二部入社。2005年名古屋自動車営業第二部に異動。21年半田支社赴任。23年現職。半田ロータリークラブ所属。東海市在住。当所議員、金融部会副部会長。
2024年7月5日(金)
それは『エン転職』から始まった。2021年8月まちづくり業界の仲間から「半田市でこういう募集があるよ。応募してみたら?」と勧められた。半田市役所の副市長級ポジション、副業・テレワーク可能で、中心市街地を活性化させるための政策を立案、実行する仕事であった。まちづくりの第一人者の大学教授によると「行政側の人間として採用することで、市民がまちづくりに関わるためのハードルを下げた」と評価され、その取り組みは画期的だった。恐らく全国初めての試みあり、応募者は233人を数えた。
「就職超氷河期世代の僕は最終選考で緊張しすぎて暴言を吐いて、落ちる特技がありました(笑)。今回もどうせ受からないだろうから楽しくやろうと開き直ったら、幸いにも採用いただきました。僕は2015年に大分県竹田市が中心市街地活性化協議会を立ち上げた時に、民間側のタウンマネージャーとして関わりました。行政と地域の間に立ち、活動を支援する中間支援にこだわってきましたが、正論は言えてもアドバイザーである以上は権限もなく、ものを動かすのも難しい立場でした。地域にしっかりと入り込める現場で、まちづくりに関わりたいという想いを強く持っていました」
一貫して取り組んできたまちづくりは、小学4年生で母親から勧められた読売新聞社の『ヨミウリ・ジュニアプレス』の活動に端を発した。色々な人と出会い様々な活動に接し、アメリカに派遣された時にケンタッキー州で沈む夕日を見て「ここにいる瞬間にも、色々な生活がある」と目から鱗が落ちた。色々な人がいて様々な活動をしていることに価値があると社会づくりに心を寄せた。また、小学生の頃は戦争と平和について関心が強く、色々調べた沖縄への家族旅行では戦争の歴史に直に触れ、カルチャーショックを受け沖縄で仕事をしたいと、沖縄を研究できる大学に入学した。みんなで幸せに暮らしていく社会を作っていく仕事に就く決心をした。
「落ちる特技を発揮し(笑)目指した会社に就職できず、3年間はシステムエンジニアとして働き、その後1年間中小企業大学校で学びました。その大学校は当時、個人での受験はハードルが高く、校長先生に直談判に行きました。それが運命の出会いで、今も校長先生は僕の師匠です。中小企業診断士としての独立は2003年27歳の時です。その時、まちづくりを仕事にしようと思いましたが、「それは仕事にならないから考え直せ」と若造の僕は全く信用されませんでした。そこで、前職のIT企業での経験を活かし、HP作成やIT活用を支援するITコンサルタントという肩書きで先輩方の中に入っていきました。当時、彼らには苦手な新しい領域だったのです。徐々に自分のやりたい方向に持っていこうと試行錯誤して今につなげてきました」
独立して10年以内には中心市街地活性化法など国の施策がより本格化されると予測していたが、3年後の2006年に法改正が行われ、一気にまちづくりに関わる人が増えていった。だが若さ故に相手にされず「ダサいスーツを着て、オッサンぽくしていた」と笑う。30歳過ぎて全国各地に仕事に行くようになった時、ベテランコンサルタントから「大海(おおみ)君の話はいつ聞いても楽しいなあ」と言われ、ありのまま、感じたままで仕事をしていくことに自分の価値はあると気づいた。以来普段ではネクタイを絞めず、自分を理解してくれる人、感性を認めてくれる人の中で仕事をしようと決め、気が楽になったと言う。
「初めて半田に訪れたのは採用試験を受ける前、2022年の9月でした。駅前は特に特徴もなく駐車場ばかりで、正直に言えば区画整理がうまくいかなかった典型例のようでした。まちづくりが進まない理由の一つに老朽化した建物の林立が挙げられます。その点から見れば駐車場や空き地が多いのは、建物を壊すという手間が省け、いち早く手がけられる利点があります。また、各地でまちづくりが失敗してきたのは『活性化のエンジンがない』という故です。その対策として半田商工会議所、半田市観光協会、半田市が連携し、この5月にエンジンとも言える中心市街地活性化協議会を設立しました。中埜副会頭(中活協会長)に座長になっていただき幾度も会議を重ね、まちの方々にも助けられながら、通常2年ほどの期間を要する所、1年でここまで辿り着きました。ご理解・ご協力に深謝いたします。皆様の地域に対する情熱と危機感を感じています。僕の役割は、地域での幸せを作っていくための仕組みと仕掛けを作ることであり、素晴らしいものを拾い活かし、仲間を増やしていく『まちの再編集』だと思っています」
2022年12月の着任以来、名鉄知多半田駅前にベンチ設置、キッチンカー出店、ワークショップなど、『最大限の妄想(最大限の夢を語ることで、本来考えるより少し大きな物事が叶う)を描いて、事例に囚われず自分等で事例を作っていけば良い』と様々な仕掛けをしてきた。久世市長も言われるように、常に100点を目指すと動けなくなる、故に60点以上を目標に走りながら考え続けている。
「何かしたいと種を持った人が集まったワークショップでは、その種から発生したアイデアが対話の中で化学反応を起こして「一緒にやろうね」と動き始めています。今僕はそういう人たちを集めることに注力しています。『まちづくりは人づくり』であり、人は大切なものをつなぎ新たなものを創造します。その中で行政はその想いを、どう可視化していくか、支援や環境づくりをしていけるのかが必要です。大学時代から『踏み出す勇気、豊かさの探究』を心に記してきました。豊かさはその地域にとっての豊かさを求めていかないと間違った方向に走ってしまうでしょう。物事の見方、背中を押す、手を引っ張る、足は引っ張らない。そういう応援の意味合いからも大切にしている言葉です」
●ちょっと一息●
半田商業高校で「高校生目線で、まちとどう関わりたいか」をテーマに授業をし、その一環として5月にまち歩きをし、6月に模造紙にその提案を記載。それをクラシティに掲示しようと考えています。そういう風に皆さんが『実行したいこと』があれば、僕たちは応援できます。この秋にネットワークの形成、起業・創業の促進等を図ることを推進するため『半田市創造・連携・実践センター』を設置します。多くの皆さんのご利用をお待ちしています。
僕は今、東京都日野市に住みながら半田で月に10日ほど在住という生活をしています。家族は妻と中学2年生の息子で、僕が在宅している方が「手間がかかる」と思われて(笑)半田への出張、大いに喜ばれているようです。ここでの生活は快適ですが、目下の悩みは飲みに誘える人が少ないということです。工業用・医療用アルコール以外はなんでもいける口なんですが(笑)
1976年、佐賀県生まれ東京育ち、東京都日野市在住。98年明治学院大学国際学部国際学科(島嶼(とうしょ)社会研究)卒業。プログラマー、システムエンジニアを経て2001年中小企業大学校東京校中小企業診断士養成課程入校。翌年中小企業診断士 伊藤大海事務所代表(現・まちづくりLand for Next Generation)。国の支援機関等を通し、全国で中心市街地活性化の支援に関わる。15年~18年、大分県竹田市タウンマネージャー。22年現職。
2024年6月3日(月)
28歳で今は亡き無二の親友に請われて入社し、土木の仕事は同じ現場がなく、同じものを創っても条件はそれぞれ異なっており、工夫次第で勝者にも敗者にもなれる。その自由度の高さに魅力を感じたと振り返る。
「それまでとは畑違いの職種でしたが、『土木は経験工学』と言われているように、求められるものが明解なので、性に合っていると感じました。アウトドア派の僕は現場での夏の暑さ、冬の寒さも気にならなかったですね。当時は従業員が4・5人、創業者が病に倒れ廃業の話も出ましたが、代表のご指名を受け企業存続のため、法人成りし人事を見直すなど組織変革を図りました。厳しい判断をせざるを得ないこともあり、今思い出しても辛かったこともありました」
会社のために身を粉にして働いたのは、30歳で生死を彷徨ったことが一つの理由として挙げられる。原因も不確かで再起不能と宣告されたが、ある治療法と出会い奇跡的に回復した。その時、寝たきりになっても生きていたい。普段の生活がいかに貴重であったのか、普通に仕事をして普通の生活がしたいと渇望した。やっておけば良かったと思うことが多くあり、一歩踏み出すことの大切さが身に染みた。迷うのはそのことをやってみたいからと、以後『迷った時こそ、実行する!』と心に決めて、普通に仕事をするために、企業の健全化を図ろうと下請けから脱却し、伸ばしていく経営にシフトしていった。
「下請けが8割方だったので、新たな仕事を作っていきました。知り合いの方達に助けられながら、元請けとしての仕事はでこぼこしながら次第に増えていきました。15年ほど前、各市に直営店のリフォームショップを1店舗ずつ作りたいという募集に手を挙げ、お陰様で当社が『可能性が高い』とご縁をいただきました。期待される会社になることの必要性を実感しました」
「『LIXILリフォームショップ大進』として、新たな分野を広げ、東海南高校校舎改修工事に対し、卓越した技術と献身的な努力により優れた成績で工事を完成させた評価で、愛知県建設部より『平成28年度優良工事施工業者』として表彰された。品質・安全・利益をいかに高い次元でバランスをとるかが大切であり、競争しない仕事をしていくことが他社と闘う基礎条件と強調する。競争しないとは、選ばれる会社であり、「いい仕事をするから頼みたい」と思われるような企業を目指し尽力する日々が続く。だが想いが強すぎて動き出してしまうので、俯瞰して見ることを自身に課しているそうだ。
「若い頃は生き急いでいるとか、暴走列車と言われたこともあります(笑)。親しい方たちからは、「お前の唯一良い所は決断できる所」と言ってくれる人もいますが、何でも簡単に決めてしまうのでしょうね(笑)。ただ常に現状を変えようと、M&Aで建設会社2社、空調、メンテナンス等を業務内容とする1社を取得しました。僕は暇そうに見られてしまうことが多いのですが、結構やることはあります(笑)。変えたいという想いから、一時政治の世界にも、気づいたら走り出していました。政治は
まちの発展のためには本当に大事なものだと思いますが、社員への責任を考えたら、会社はもっと大事だったんですね」
現在は同社の顧問、前述3社の代表としての任に就く。経営の効率化や企業運営の無駄を省くために、ホールディングス化する流れがある中で、現体制の道を維持した。社員に頑張ってもらい、その中から社長に就く人の姿を見たい、人を育てていく喜びを体感したいと語る。その背景には氏も多くの人に育てられ、ある意味、次代の人材を育てることは『恩返し』なのかもしれない。半田青年会議所、名古屋の青経塾(青年経営者研究塾)、現在所属する半田ライオンズクラブなどで学びの場を積極的に求めてきた。
「人の話を聞くのが大好きです。食べること、飲むことが好きな僕は、食べ物に例えるなら『体のためには何でも食べよう』と言うのと同じで、貪欲にどんな分野の話を聞くようにしています。むしろ興味の持てないような分野の話を聞く時の方が得るものが多いように感じています。この間も市内のファッション講座に行ったのですが、学ぶことが多かったですね。学びも成長につながってくると思っていて、人間の成長は出会った人数×距離だと考えています。だから僕は距離は関係なく動くよう意識しています。そして忙しいから止めようと思いがちですが、却って忙しい方が時間を有益に使えるような気がしています」
今年、還暦を迎え『やることリスト』を新たに見直した。誘われて始めたマラソンは名古屋・大阪・京都・松阪などで走り、最終目標はニューヨークシティマラソン出場であり、ウルトラマラソンへのチャレンジも視野に入れている。そして今年4月から、学びたいと法政大学経済学部の通信制教育課程に入学した。大学生としての顔も持ち充足感を得ながら、さらに多忙を極めることになりそうだ。
「一度は終わった人生と思い、いただいた残りの人生を全力で過ごしているだけです。マラソンは自分の体力と時間配分を計算しながら走らないと完走はできません。仕事や人生もそれと同じで、闇雲に走り続けても素晴らしいゴールには辿り着けませ
ん。『失敗した時こそ学びがある』と思い、失敗を恐れず学び続ける人生でありたいと思っています。『迷った時こそ、実行!』です」
●ちょっと一息●
長年、半田国際交流協会に関わり、昨年末に松石会頭から会長を引き継ぎました。かつては姉妹都市(アメリカ・ミッドランド市、オーストラリア・ポートマッコーリ市、中国・徐州市)との交流が主事業でしたが、半田市に外国籍の方が5%近く在住する今は『多文化共生』をテーマに活動しています。外国の方も働きやすいまちづくりをすることは企業の発展につながっていきます。そのお手伝いができればと思っています。
地元、上半田地区の住吉ちんとろ祭委員会の事務局長を務めています。今年はキッチンカー、テント、テキ屋さんとそれぞれの良さを活かし、祭りの雰囲気を盛り上げていただきました。地域の方々から協賛をいただき開催している祭りなので、大人の都合だけでなく、子どもさんも楽しめる祭りになるようにしていきたいと考えています。
1964年半田市生まれ。83年半田工業高校(現・半田工科高校)機械科卒業。サラリーマン生活を経て、92年同社入社。98年代表取締役社長。2007年現職。半田国際交流協会会長。住吉ちんとろ祭委員会事務局長。その他要職多数。半田市在住。当所議員。
2024年4月30日(火)
海外勤務を志望し、内定をいくつかいただいた中から海外赴任のチャンスもある日本ハムに入社。大阪本社の輸入ブロイラー部に配属となった。
「何も教えてくれない上司から、配属そうそう500万円の利益を上げろと洗礼を浴びました。得意先は自分で探すものと言われ、商品を覚えることから始め、新規開拓のため、毎日毎日電話でアポイントをとり、ひとりで営業に駆け回る毎日でした。今も自戒の念を込めて、手元に当時の新規開拓ノートが5冊あります。あの時代はどうしたら話のきっかけをつかめるかを学んだ貴重な時間でした。何とかなるでしょうと考えていましたが、常に追い込まれていて、朝の4時から深夜まで平気で働き、休日も仕事をしていました。血の気も多かったのですが、真面目だったんですね(笑)」
配属先は商社機能を併せ持ち、電話での売り・買いが主業務で、何百万円という大金が動く一瞬を逃さないため、時には灰皿が飛び交い、戦場のような職場だったと苦笑する。入社した年の12月、同期の中で最初に利益260万円という結果を出し、博多の子会社から出
向の誘いがあった。『あの上司と離れられるなら行きます』と答えたと笑うが、今は亡きその上司には感謝していると、しみじみ振り返る。出向先は九州全土が管轄エリアで、体力に任せて1日1,000kmを走行し、熱血漢溢れる上司からさえ、その無謀さをたしなめられながら、他の商社と時には協力したり闘いを繰り広げた。当時は意義ある闘いさえも楽しみ、仕事に没頭した。そんな日々に別れを告げるように、27歳で結婚を機に地元に戻ることを決意した。
「上司から『肉屋の息子だったのか?辞めるのは早い!』と止められましたが、予定通り家業に入社しました。、数年前に狂牛病が流行り、リーマン・ショックを経て、当社の売り上げも踊り場に差し掛かり、父が還暦を迎えた34歳の時に現職に就き、不安定要素がフツフツと湧き上がってきました。その上、契約更新前にテナントで入店していたスーパーから撤退させられるという憂き目に遭い、その当時は強気でしたのでそのスーパーの隣に精肉店を出しました。その無謀さは日ハム時代の教えです(笑)」
それを契機に各地に出店し、今年3月末に刈谷ハイウェイオアシスへの出店が決まり、知多半島・三河地区に13店舗を構える。最初に出店した頃は知多牛が走りで、知多牛に倣って知多豚と命名し、それを二本柱として販売した。そのネーミングもポピュラーになり始め、新しいことをやりたいという意欲がフツフツと湧き上がり、南知多町の平山牧場と提携し、『従来の価格で、ワンランク上の味を提供する』新たな取り組みを始めた。今年の夏以降、コンスタントに『平山牛』として食卓に上る量産体制が整った。
「知多半島も若い農家の方が育ってきて楽しみが増えました。昨年地域ブランド『ちた健康豚』を手がける小栗畜産(半田市)から事業譲受し畜産業に参入し、獣医師免許を持つ牧場として(株)小栗ピッグファームを設立しました。また、取引のあったホルモン屋さんが次々に廃業していくため、自社でその作業をしようと昨年10月に豚肉の加工、脱骨や内臓処理を扱う加工センターを開設しました。これにより愛知県内で処理されている週8,000頭のうち、当社が500頭を手がけることになりました。同時に惣菜部門も強化しています」
外注に頼っていた分野を自社で賄い、『育てる・作る・売る』という、垂直統合型企業の体制が確立し、お肉の専門店石川屋からお客さまへの約束として掲げる「よい肉を毎日美味しく 食卓へ」をコンセプトにした『GOOD MEAT』という店舗への名称移行を視野に動き始めている。様々な試みや挑戦は自社に限らず、海外、社会、地域にも及んでいる。
「ミャンマーに、『OBRIGATION(恩・義理の意)CHITA』を設立しショッピングストアに食肉加工卸をし、同時にタイに牛肉を輸出しています。私自身、ミャンマーとの出会いは、日本JC(青年会議所)時代の先輩から、当社に研修生を受け入れてみないかという打診から始まったのですが、肌感が合うというか馴染みが深い国だなぁと感じています。海外の友人、JC、日ハム時代の友人と遊んでいると(笑)、自然に色々な情報が入ってきて、仕事と繋がることが多くあります。カラは重いですが、フットワークは軽く、楽しい方に流れていく習性があるようです(笑)」
また、子どもたちに肉の美味しさを知って欲しいと、提携先の知多半島の牧場で生産される『すき焼き肉』を毎年児童養護施設へ届けている。地産地消も同社の積極的な取り組みの一つである。
「将来的には、ここ半田からアメリカ・ヨーロッパ諸国に向けて牛肉の輸出が出来たら面白いと考えています。神戸牛や飛騨牛は観光とセットになっていることが多く、海外の飲食店でも味わうことが出来るでしょう。愛知県にはその機能を担う設備が整っていないので、輸出国は限られています。いずれ、あの知多牛を地元で食べたいということになれば、半田にも多くの方が訪れ観光資源の一つになってくるかも知れません。そんなことを夢見ています」
自らを慎重派と称し、勝算が見えた時しか動かないと笑うが、昭和6年(1931年)創業という歴史を紡ぎ、時流を読みながらの新たな快進撃はどこまでも続く。
●ちょっと一息●
JCから多くのことを学びました。当社の代表になった翌年、半田JCの理事長の大役を仰せつかりましたが、その年は半田JCを一般社団法人にするか公益社団法人にするかの方向性を決める重要な年であり、迷わず公益社団法人化を選択しました。理事経験はあったものの不慣れなことが多い中、我流で取り組んだことも多く、メンバーにご迷惑をおかけしながら豊富な人的ネットワークに助けられ、今の仕事に繋がっていることも多々あります。深く感謝 しています。
そのJCメンバーの先輩からの声掛けで前回に引き続き、昨年の『第九回はんだ山車まつり』の実行委員会の実行本部長を務めました。組織を立ち上げ、予算管理、祭りのテーマ『慶』を決め、当日は運営の責任者として関わらせていただきました。色々な方と出会え最高に楽しく幸せな時間を過ごさせていただきました。これもJCとの関わりがあったからでしょうね。
1973年半田市生まれ。半田高校を経て97年拓殖大学商学部卒業。同年日本ハム(株)入社、食肉事業本部輸入ブロイラー部配属。2000年(株)石川屋入社。07年4代目社長就任。半田市在住。当所議員。
2024年4月1日(月)
令和6年度に発足60周年を迎えた半田商工会議所青年部。周年という節目の年、鈴木靖隆前会長の言葉を借りれば『カリスマ会長』が誕生し、陣頭指揮する1年となる。今までの歩みを家業を通して振り返ると、自分らし
い仕事をすることを目標に、その時々のステージで大きな足跡を残した。強い意志と貪欲な挑戦で四半世紀。カリスマのごとく生花業界を牽引してきた。青年部(以下YEG)活動も然りで、その一生懸命さ、真摯な取り組みで一石を投じてきた。
「2009年、28歳で懇意にしている取引先のYEGメンバーからの紹介で入会し、積極的に出席してきました。諸先輩方からの学びや遊びの手ほどきを受け(笑)、若いからゆっくり育っていけばいいよと温かい言葉に支えられながら、YEGでの居場所を作っていただきました。経営者としての考え方、異業種の方々との出会いで人脈も広がり、入会は僕の人生にとってプラスになることばかりでした」
2013年、夢のメンバー!交流・事業委員長時代に、はんだふれあい産業まつりで『キッズチャレンジファクトリー』を企画した(現在も継続事業)。キッザニア(子どもたちが様々な職業にチャレンジし、楽しみながら社会のしくみを学ぶことができる職業・社会体験施設)が流行り始めた頃で、わずか3ヶ月という短い準備期間でカタチにし大成功を収めた。
「ペースが遅い怠け者の僕ですが、歴代会長や年上の同期メンバーたちの背中を追いかけて必死でした。雨の中、ごん鍋の振る舞い、
ステージイベント、協力して仲間や来場者と一つになったことは貴重な経験でした。そういう流れの中で一緒に汗をかいてきた仲間に僕としてどんな恩返しが出来るか、そんな責任感が芽生えてきました」
会長の要請を受けた時に、コロナ禍の中で会長を務めた先輩たちの英断に想いを馳せた。社業でさえ不透明な中でYEGの存続、仲
間たちのために立ち上がった姿に心を打たれ、42歳を迎えた今だから会長として仲間と向き合う時と決心した。
「YEG入会の最終メリットは、社業繁盛を目指せるという点に尽きるのではないでしょうか。そのためには学び合い教え合うことで自己研鑽と経営力の強化、会員150名、OB会や県内外YEGとのネットワークの活用、活動を社業に繋げる方法を追求する等さまざまなことが考えられます。こうして挙げたことは、僕がYEGに入会して学んだこと、気づかせていただいたことです。僕自身仲間との深い付き合いにより経営力が伸びました。失敗、迷い、衝突もある中、仲間の支援で勇気を得て今があります。60年の歴史を積み重ねてきた半田YEGでは、本当の成長が得られます」
この4月から60周年記念事業がスタートする。だから地域の方々に感謝したい、ありがとうを届けたいと公開事業を企画中。生花販売業という、エンドユーザーに近い距離感だからこその企画という会長色を出しながら、メンバーにも60周年事業を各自の社業繁盛のチャンスにしていただきたいと願う。スローガン『社業繁盛!咲き誇れ!~GROW UP HANDA YEG~』には、そんな想いが溢れるほど込められている。
「僕は支えてもらうタイプで、歴代会長のようなリーダーシップはありません。ただ、自信を持ってみんなのことを好きと言えます。60周年事業はメンバー全員で作り上げていかないと実施できません。皆さんのご協力をお願いします」
YEG仲間の支えもあって発展してきた社業だが、同時に、年の離れたお兄さん的な関係性の父君の姿勢から、仕事に対する真摯な態度を学び、自分しかできない仕事をする覚悟をもらった。時代性もあり父君は葬儀花と大型スーパーの置き花を主軸とし、葬儀業界の下請けとして電話を待ち、カラダを酷使する日々だった。その姿を見て父君
のできなかったことを自分が精一杯やろうと誓った。
「名古屋フラワー学院を出て上京し、最先端の店舗の門を叩きました。店先には芸能人や政治家が行き交うことが当たり前の店舗では、掃除する姿さえ正され、花を売ることは技術・サービスを売ることと教えられ、花をモノとして売っていたに過ぎなかったことを知らされました。業界誌に取り上げられている方々との出会いを通して、個性って何?自分はどうだろうかと考えるようになり、職人ではなくデザイナーを目指そうと考え始めました。地元で自分らしい店を持ちたいと帰郷したのは21歳の時でした」
葬儀花からの脱却を図り、ブライダル業界にアプローチした。門前払いされたこともあったが、挨拶には自作の花を持参し、ある時はブライダル情報誌の新郎役のモデルを務めた。そのセンスと一生懸命さが実り、大手結婚式場と契約を結んだ。名古屋生花小売商業協同組合の青年部会長職も務め、そのフィールドが広がり人と出会う度
に、商いとの向き合い方を自身に問いかけ、感動を超えていく感動を花に込めて届けたいと思うようになった。
「最近思うのは、その花が持っている素材の良さを活かし、引き算をしながら花を提供したいと思っています。以前は足し算、掛け算をしてきました(笑)。ビジネスマンよりアーティストの感性で生きる。父の背中が教えてくれました」
●ちょっと一息●
幸運にも色々な場面に恵まれ、中でも印象に残っているのは『ガーデニングワールドカップフラワショー2013㏌JAPAN、フラワーアレンジ部門」での銀賞(ハウステンボス開催)。2016年のG7伊勢志摩サミットではセントレアに到着した飛行機のタラップを彩る花、オバマ大統領に贈る花束を作らせていただくチャンスをいただき、貴重
な経験をさせていただきました。
また、YEGメンバーから起業家の発掘・育成並びに新事業創出を目的とし、今後の経済社会に存在意義と可能性の高い企業として勝ち残れるための『第21回ビジネスプランコンテスト』に温めていたプランを仲間と共に応募し、一次選考を通過することができました。
1981年半田市生まれ。2000年名古屋フラワー学院卒業後、上京。02年帰郷し自社入社。21年3代目代表取締役に就任。
09年青年部入会、地域委員会委員長、副会長、専務理事を経て24年会長。半田市在住。